信長の神髄 3


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3/31加筆更新


信長の真に偉大なところは手本となる先生が身近にいないにも関わらず、柔軟な発想によりソフトの開発を行えたところだと思います。


経済的に豊かになる事とは富が集まることであり、富とは商品の販売が達成したとき初めて発生するものだという事をとしっかりと分かっていたように思われます。
この経済の原則を理解し、そのための施策を実行したために信長の領国は金山以上の富を生み出したわけです。有名な楽市楽座がこれです。この経済の真理を信長以外の戦国大名が理解していたのかは非常に疑問です。


信長以外の戦国大名達にとって商業とは貴重品を手に入れる事ぐらいにしか理解していなかったような気がします。大内氏にしても明との貿易を一手に引き受け莫大な利益を生み出したようですが、これにしても貿易で仕入れた商品の売り惜しみの結果、価値以上の値段で相手に売りつけることが出来たからに他なりません。


岐阜に居を移したときすでに城下町の開発を始めました。これは兵農分離を進める一環でした。このとき信長の部下達は武士として日本で初めて土地から解放されたのです。


この事は当時としては発想もなかったであろう常備軍の創設を意味します。半農状態から解放された彼らにはもはや農繁期はありませんでした。ですから一年中戦い続けることが可能になったわけです。長期戦が可能になった信長軍の前には敵はありませんでした。なぜなら相手の兵は全て農民でしたので農閑期にしか戦闘をすることが出来なかったからです。


ですから三方が原の戦いて家康を打ち負かした武田信玄が上洛を目指したという説はまずあり得ないことだと思います。信玄はそれほど愚か者ではなかったはずです。彼は家康が尊敬する先輩として領土を接する相手と地道に戦うことしかなかったように思います。


常備軍の創設と平行して道路の拡充に務めました。領国を短時間で移動できるように幅が広い整備された道路を造ったのです。これも日本人にはなかった発想ではないのかと思います。


私にはまるでローマが現れたような印象を受けます。後年、天下人となった家康はあえて川に橋を架けないような政策を執りましたがベクトルの向きが違いすぎるように思えます。西南戦争の時、九州にはろくな街道がないといわれましたが、もし信長の領土になっていれば400年前にスーパーハイウェイが九州にも出現していたはずです。


信長以外の大名も天下人をあるいは夢見たことかも知れません。しかし、彼らはそれを実現するにはどうしたらいいか分かっていなかったと思います。当然どのような行動、施策を執ったらいいのか雲をつかむようなものだったのでしょう。