短いお話にこそ、真実がある


小説の真髄は短編にこそある。
物語の原則は引き算である。
今回は、私tokuの身の程をわきまえない「物語論」です


私の持論、すべての表現物の原則は引き算にある

物語を構成していく上で、時間経過とともにアイディアは膨れ上がり、あれも入れたい、登場人物にああ言わせたい、こう言わせたい、こんなテーマも語りたいという経験。ホームページ上で小説なりにタッチしたことのある人なら、経験があるのでは?と思いますがいかが
 例えば、映画。プロデューサーが企画を持ち出し、脚本家がシナリオを書き、監督がスタッフ、キャストをコントロールして一本の映画を作ります。
 さて、次に尺の長さが問題になります。
 人間がスクリーンに集中できる時間は、平均して1,2時間といったところらしい。
 もしも製作者の思い入れの結果として、尺の長さが、予定時間を越えるものだとしたら、果たしてそれはそのまま上映されるものでしょうか?
 興行の原則として、答えはノーでしょう。客が集中できないものを、マーケットに出すわけにはいかないから・・・
 そこで製作者は考えます。
 どうすれば、この映画を公開できる形に出来るのか?
 前編、後編に分けるという手段を除いては、各シーンを見直し、フィルムをカットし、再編集する以外に方法はないでしょう。TVシリーズにするという手段もありますが、これでは制作費がペイすることは難しい。(低予算映画は別にして)
 ここであーでもない、こーでもないと議論が重ねられ、一本の映画(興行の成り立つ)が完成されていきます。

 では次に小説の場合はどうなのでしょう?
 私の場合を例にして見ましょう。
 まずアイディアが私の頭に閃きます。
 次に一旦出だしだけでも書き始めます。
 詰まったところ、資料で解決できる部分は、資料集めにてフォロー。
 次に脳内で登場人物の相関図を構築。
 後は、勢いに任せて、カクベシ!カクベシ!
 ・・・しかし、こういうことしていくと整理がつかなくなります。
 そこで、私としては、色々と出てくるアイディアを整理し、使うものと使わないものに分けていきます。
 何でもかんでも、使えばいいというものではないので。
 あ、この時エンディングだけは抑えておいたほうがいいですね。そうすると、使う必然性のないアイディアの見切りがつけやすくなります。
 ここで使う必然性のないアイディアと書きましたが、作る側から言うとそういう風に割り切ることはできません。あくまでも、結果論としての表現です。
 学術的なもの、専門的なことを別にすれば、人の目に触れるものはシンプルなのに越したことはなく、その方が相手にいい印象を与えることが多いのでは、と思います。私自身の製作スタイルから言うと、思いついたアイディアのおよそ半分で済ませたほうがお話はまとまりやすいようです。全部は出してません。

 以上が、私tokuが物語を作る時の個人的なスタンスです。まぁ、所詮は素人物書きに過ぎない私のスタイルなので、あまり参考にならないかもしれませんが、
 「物語は引き算」という持論の意味が、少しはご理解いただけたのではないのかと。

 一方で物語のもともとの原型は、「口伝」だったはず。  伝えられる物語の量には限界があり、多くの物語は「短編」が多かったはず。長編が物語の主流におさまったのは、おそらく文字の発明、紙の発明と印刷機の発達(グーテンベルクからか?)と無縁ではないと思います。
 数ページ、あるいは数行の表現で、作者作り出す物語のすべてを語る短編小説の数々。ここにこそ、物語の真髄があるのではないだろうかと私は考えます。もちろん、同じ小説でも、短編と長編では表現の狙いがまるで異なるため、一緒くたにはできないことは百も承知です。でも、限られたスペースでどのような表現をなすのかという部分においては、「いい映画作り」と会い通じるものがあるのでは?
 上記のような理由で、私はやたらと長い映画を乱発したり、「ディレクターズカット」を乱発リリースする監督はあまり好きではありません。それが、販売会社のマーケティングの一翼を担っているのはわかってますけどね。さて、この場合の監督とは誰でしょう?(^_^.)

 ちなみに私の好きな短編をひとつ挙げなさいといわれれば、まよわず挙げるのが山田正紀さんの「ゆきのなかのふたり」 です。機会があれば、一読されることをおすすめします。

今回、説得力ないよなぁー・・・

コーナー見出し
サイトマップ
トップページ