─M─

      シーン
     音楽界への彼女のデビューは、決して“鳴り物入り”なんかではなく、ごく自然に、季節
    が移り変わるかのようだった。そして徐々に暑さが増すように、いつの間にかシーンは“真
    夏”を迎えていた──


     彼女、M……は、詩も曲も自分で作ったけれど、それにこだわるわけでもなく、誰の作っ
    た詩でも曲でも構わず歌った。それを無節操だと非難するヤツも当然いたけれど、僕は一度
    としてそう感じたことはなかった。誰が作ったものだろうが、彼女が歌うなら、それは彼女
    の歌なのだ。
     M……が非難されるのにはもう一つ理由があった。誰彼構わずとも言うべき、奔放な恋の
    数々。一度に複数を手玉に取ることはなくとも、次々と相手が変わり、その周期の短さは周
    囲の信用に傷を付けるには十分だった。
     歌い、愛し、曲を書き、そして歌う。その詩はあきらかに“本物”で、だからこそ皆の心
          エグ
    を掴み取り、抉り、時には甘美な痛みさえ覚えるほどで、僕はそれが時々無性に悲しかった。


           *         *         *


    「ねぇ、マグロって知ってる?」
     落ち着いた照明の中で、チキンの香草焼きにナイフを入れながら、M……はふいに口を開
    いた。
    「マグロ? って、あの、中トロとかの?」
     なんでそこで「中トロ」が出てくるのかと言えば、僕がマグロの中では中トロが一番好き
    だという、ただそれだけの理由だ。赤身では面白くない、でも大トロは必要以上に飾り立て
    た、けばけばしい熟女気取りのようなうっとおしさで。M……、そういえば、君が刺身なら
    ちょうど中トロだ。僕はさしずめ、付け合わせの海草といったところか。
     ──だけど、なぜ、マグロ?
     当然顔にも出ていたらしく、彼女はいつもの、少し得意気に見える笑みを浮かべた。
    「マグロってさ、年がら年中ずーっと海ン中泳いでるんだって」
    「へえ……。寝るときはどうするの?」
    「寝ながら泳ぐんでしょ」
    「寝ながら泳ぐの? 泳げるの?」
    「泳げんじゃないの? 人間だって、寝ながら歩く人いるじゃない。寝ながら食べる人だっ
    ているでしょ」
    「そ、そういうものなのかな……」
    「そう」
     決めつけて、チキンを一口放り込む。よく噛んで飲み込んで。口を開いた。もう一度新し
    い話題を始めるような言い方だった。
    「マグロってさ、泳ぐのやめると死んじゃうんだって」
    「……そうなの?」
    「だってさ」
     なぜ食事中に泳ぐだの死ぬだのの話をしているのかも、チキンを食べながらなぜマグロな
    のかもわからない。でもM……は、関係ないことは話さないはず。あれほどよく歌を歌うの
    に、そうでないときのM……は、彼女が歌を歌う意外で口を開くことは、意外なほどに少な
    かった。つまり、この会話は、僕か彼女に関係がある話と思っていいのだろうけれど。
    「こないだね、裕一さんに言われたのよ。「キミは寝言ならぬ寝歌を歌うんだね」って」
    「……寝ながら歌ってたのかい?」
     呆れた。なんて“らしい”んだ。
    「そっ。しかも、『しゃぼん玉』だったんだってさ。ふふっ」
    「しゃぼんだま、か」
    「その時に聞いたのよ、マグロの話。泳いでいないと死んでしまう魚なら知っているけど、
    歌っていないと死んでしまう人間だったのかい、キミは?って。ええ、そうよ、って、答え
    といたわ」
     僕はその言葉に対するうまい台詞を見つけられず、彼女もそれきり口を開かずに、ただ二
    人静かに食事をした。
     レストランを出ると、灰色がかった空に、満月だけが浮かんでいた。それを見るなり彼女
    は歌を歌い出す。
       つっきがー、出った出った──……
     月の歌なんていくらでもあるのになんで『炭坑節』なんだと思いつつ、僕は、彼女の台詞
    を思い返していた。

       M……は、歌うのやめると死んじゃうんだって。


           *         *         *


     M……は、歌を歌えれば、それがどんな歌だろうと構わないらしい。そして歌う場所も、
    どこかのライブハウスだろうがアリーナだろうがスタジオだろうが、道端だろうが関係ない
    と言っていた。彼女は大抵なにかを口ずさんでいる。TVの歌番組でだって、他の人が歌っ
    ているときは必ず一緒にその曲を歌っている。
     そんな彼女にふさわしい、こんなエピソードがある。デビューのキッカケともなったエピ
    ソードだ。
     スカウトマンが声をかけたとき、彼女は新宿駅東口にあるパティオで、植え込みの縁に腰
    掛けて数人の客を相手に歌を歌っていた。その時の曲は、『おお、シャンゼリゼ』だったと
    いう。
     ナンパから始まる恋もある、と、唆すような曲を新宿東口で歌う女の子に声をかける気持
    ちとはどのようなものであるか、僕にはちょっと想像がつかない。とにかく、彼女は数ヶ月
    のレッスンの後にデビューする。20才、という年齢は、天才少女ボーカリストとしてもて
    はやされるものではもうなく、かといって遅すぎるわけでもなく、とっても不安定な、あや
    ふやな位置だ。大人でもない、子供でもない──そういうのとも、また違う。大人だけれど、
    弱くない。子供だけれど、もう泣かない。
     そしてあやふやなまま、彼女はもうすぐ21才の自分と別れを告げる。


           *         *         *


       NO MUSIC,NO LIFE!!

     歌い捨てるようにマイクから顔を離し、彼女は息を整えるために目をつぶる。そして次に
    目を開くと、そこにはもう、落ち着いたというよりは物静かな雰囲気を纏う女性がいるだけ
    だ。いつものことではあるけれど、鮮やかなまでの変わり身のはやさというか……、我に返っ
    たというか。わざと“そう”しているのか無意識に“そう”なのか。──絶対後者だ。そう
    思って僕は溜め息をついた。なんで溜め息をつくのかは自分でもよくわかっていない。
     お疲れさまでしたー、という声で我に返ると、もう周囲はバタバタと片づけを始めている。
    彼女の姿を探して廊下へ出ると、そこにはある人気ロックバンドのギタリストがいた。
    「M……、話を聞いてくれ」
    「話なんかないわ。貴方は私だけを愛してくれると言った。私も貴方だけを愛していたわ。
    でも、もう終わりね」
    「M……」
    「レイジ、」
     きっと顔を上げたM……とレイジの視線が合うのと、彼の頬がクラッカーのように鳴るの
    とが同時だった。
    「大っキライよ。さようなら」
     そのまま振り返ることなく歩き去る。僕は、敢えて声をかけずに彼女が自分からこちらに
    来るのを待った。片手に彼女のケータイを持って。
     彼女はやがて僕に気づき、僕の右手に持たれたケータイに目をやった。唇を開き、……閉
    じる。小さく溜め息をついて、僕の右肩に額をあずけた。
    「……なぐさめて」
     右手を彼女の背に回そうとして手の中のものに気づき、でもそれを握りしめたまま、2度
    背を撫でた。
    「さあ、行こう」


     ソファベッドに並んで座った状態で、彼女は僕の胸でしばらく泣いた。そして泣き疲れた
    子供のように眠った。
     彼女の愛し方は、一途で、痛い。まるで彼女の書く詩のように。そして幸せに長く続くこ
    とがない。ひとつの恋を失うたびに泣きながら、けれどそうしなくては生きていけないかの
    ように、また誰かとの恋に身を落とすのだ。
     そんな彼女と僕との間に、恋愛感情や肉体関係がただの一度も、気配すら見せなかったの
    は、今にして思うと不思議なことだった──と、あとになって俳優の美園裕一氏がそっとも
    らしてくれた──が、僕にとって、僕らにとっては、不思議でもなんでもない、当たり前の
    ことだった。なにがどう“当たり前”なのかと聞かれてもおそらく答えられないけれど、諦
    めていたのでもなく、対象外だったのでもなく、けれど当たり前のように、僕たち二人は友
    人だった。仲間、同士、だったのかも知れない。それとも僕は彼女の守護者か。……、ああ、
    ガーディアン、それが一番しっくりくる。彼女を本当に守ることが出来たかどうかは、今も
    まだわからないけれど。

       人は愛がないと生きていけない生き物なのよ。


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