村のはずれまで来ると、市場はもう、森の木々の向こうに隠れてしまう。そこでやっと
メルーカは、自分をさらった腕の主──力の強さからして男だ──を見ようと首をひねっ
た。だが進行方向に半ば背を向ける形で抱えられているため、男の顔を見ることはできな
                             サジン ハラ
かった。メルーカの視界に入ったのは、風に巻き上げられた赤い砂塵を孕んだ青空と、大
きな黒い翼だけ。
 ──黒?
 見慣れないその色彩に、メルーカは首を傾げた。翼が生えているところを見ると、自分
を含めた村の人々と同じく、精霊を祖に持つと伝えられる種族なのだろう。巨鳥族ではな
いことは、自分を抱くこの腕からも明らかだ。けれど、黒い翼を持つ人は、メルーカは今
までに見たことがなかった。少なくともメルーカ達が暮らす村にはいない。
 ──黒って……、この人はどんな精霊の守護を受けているのかな? 今朝の風もこの人
の仕業? <風>の子なのかな?
 抱えられたまま空を飛び続けるメルーカの心に、いくつかの疑問が浮かぶ。
 どこに連れていかれるんだろう? ぼくに何か用なのかな?
 最初の恐慌が嘘のように、メルーカは冷静だった。
 村を囲んだ森が途切れる頃、ようやく男はメルーカを抱えたまま地面に降り立った。投
げ出すように乱暴に手を離されて、久しぶりの大地に脚をもつれさせよろけそうになる。
「おまえ、<水>の子供だな」
 低く押し殺した声は、けれど良く響く鐘の音のようにメルーカの心を打った。さみしそ
うな声をしている、なんとなく思う。
 振り向いてメルーカは、そこに立つ男の容姿に目を奪われた。
      クラ
 短い髪も、瞑い瞳も、背に負う翼も、──すべて黒。
「オレが怖いか?」
「え。────ううん、綺麗だと思って」
「綺麗? 罪の色に染まったこの身体がか? <祝福の子>の言葉とも思えないな」
 メルーカと共に自らも嘲笑うように、男は顔を歪めた。やはりどこかさみしそうな顔を
した人だ、メルーカは思った。
「でも、どうしてぼくが<水>の子だってわかったの? この外見だけじゃ、<水>の子
か<光>の子かわからないのに」
「一目見た瞬間わかったさ。おまえこそが、俺の求めていた<祝福を受けし水の子供>だ
と」
 ずっと探していた。熱っぽく囁かれて、羞恥より歓喜より先に困惑する。
「俺の罪を消してくれる、祝福の子……」
 黒曜の瞳がきらめいた次の瞬間、メルーカは男の胸に抱き込まれていた。驚愕に動けな
いまま、唇を塞がれる。
「ん……っ、や、なっ!?」
 首を振ってもがく。やっとのことで逃れたメルーカが目にした眼差しは、熱い憎悪にも
似た思いを感じさせて。反射的に後ずさろうとした脚が、問いかけたかった心とかみ合わ
ずにバランスを崩し、メルーカは地面にへたりこんだ。立ち上がれないまま、戸惑いの視
線を男に向ける。
「おまえを手に入れる」
 自らに言い聞かせるように宣言して、男はメルーカの肩を地に倒した。その手が服の中
に侵入して初めて、メルーカは己の置かれた状況を正しく悟り、暴れ始める。赤茶の土の
上に曝される、淡い木漏れ日にも似た白い肌。少年とも少女ともつかぬ、幼い身体。
「やっ……、なんで!? やだ……っ!」
 精一杯の力で抵抗すると、また唇を塞がれた。逃げられないよう顎を押さえられ、貪る
ように口づけられる。──そう、奪うようにではない。求めるように、すがるように、全
身で何かを叫んでいる。乱暴な行為とはうらはらに、彼の心が悲鳴を上げているのが感じ
られた。
 ──なにがそんなに、かなしいの? どうして……さみしいの?
 ふっと力を抜いたメルーカに気づいて、男が手を止めた。
「……さみしいの? あなたの瞳は……、その色は、あなたの心の色……?」
 透き通る水面のような眼差しに見つめられ、男の肩がびくりと揺れる。
「俺に同情しようっていうのか。──ハッ、ご立派なガキだな、<祝福の子>にはぴった
りだ。だがわかってるのか? 俺がおまえを手に入れるっていうのは……、おまえを抱─
─おまえを、犯すってことだぜ」
 言い直された、強い言葉。おぼろげにしかわからないけれど、なぜか知っているその恐
怖。記憶とは別のところで、身体が逃げようとする。けれど逃げてはいけない、メルーカ
は確信にも似た自分の呼びかけを感じていた。さみしそうだと感じたこの人の、さみしさ
を癒すことができたら……。
「なんで……ぼくなの? 村には他にも<水>の子はいるのに、あの時も市場にはぼく以
外の<水>の子もいたのに、どうしてぼくだったの? ──あなたは、ぼくに何をしたい
の? 何をして欲しいの?」
 責める口調では決してなく、メルーカは疑問を口にした。男は瞑い眼差しのままメルー
カを見つめ、やがて静かに小さく息を吐いた。
「さっきも言った──一目見て、おまえだとわかったと。俺の罪を浄化する、<祝福の水
の子>、俺がずっと探し求めていたもの」
『メルーカ、お前の名は特別な意味を持っておる。お前の名は、旧き尊き言葉で<水の祝
福を受けし者>という意味がある。お前と、お前の愛する者たちが、常に汚れなき水の神
の加護を受けられるように、この村に水の神の加護があるようにと、儂が付けた名前じゃ』
 しわだらけの手でメルーカの頭を撫でてくれる、長老の言葉が思い出される。<水>の
子供たちの中でも、特別な名前……。
「あなたにとって、ぼくは、ただの<水>の子じゃないんだね。特別なんだ……」
「俺だけじゃないさ。おまえは特別な存在だ。──だから俺はおまえを手に入れる」
「手に入れる、て……」
「おまえを抱く。抱いて、俺のものにする」
「でもぼくは、」
「おまえが本当に<祝福の水の子>なら、俺を受け入れられるだろう」
「──え?」
 男の言葉の意味がわからずに、メルーカは眉をひそめた。その反応に男もまた、いぶか
しげな表情をする。
「まさか、おまえ、知らないのか……? <祝福の水の子>の伝説を、自分の身体の秘密
を!?」
 メルーカは困惑した。伝説? 身体の秘密? この身体に、いったい何の秘密があると
いうのか。
「<祝福の子>は、人の犯した罪を浄化すると伝えられている。清らかな水の気配が、汚
  オト
れを浄すと。伝説によれば、<祝福の子>と他の<水>の子との違いは、男でも女でもな
い──男でも女でもある、その身体。祝福を与えるその相手によって姿を変える、未分化
の身体だ」
「でも、ぼくっ、」
「俺が確かめてやる」
 下肢を探られて、羞恥に顔が赤くなる。今まで他人に触れられたことのないその場所─
─そこが他人とどう違うかなんて、考えたこともなかった。未知への恐怖に、メルーカは
身体をひねった。
 男はメルーカの抵抗を押さえて脚を割り、メルーカの秘密を曝け出す。そこに見たのは、
伝えられたとおりの……少年でも少女でもない、少年と少女の証が不思議に混在するその
場所。けれど少女の扉は固く閉ざされていて、メルーカが本当に今まで何も知らされず、
ただ<水>の守護を受けた少年として育てられたことを窺わせた。
 村の長老の、メルーカへの思いやりか、村を護るための打算か。──まあ、俺には関わ
りのないことだ。
 必ず手に入れる。そう決めたのだから。
 意志を持った手の動きに、メルーカは恐怖を覚えた。身体を奪われる恐怖、それだけで
    ・・・・・・・・・・・
はなく。彼に奪わせてはいけない。メルーカは叫んだ。
「ゃだ……イヤだ、放して!」
「決めたんだ。──俺はおまえを手に入れる」
 自分を映していない、瞑い瞳。その目に見つめられるのはとてもつらくて、首を振って
必死に訴える。
「やだっ、イヤだ……だめだよ! こんなっ……こんな力ずくでぼくの身体を奪ったって、
ぼくを手に入れることなんかできない……っ!!」
 雷に打たれたように、男の動きが止まった。風のない日の空の色をした瞳に射抜かれ、
息を詰める。どこか見覚えのある、その眼差し──力で奪ったとしても、手に入れること
は出来ない────。
「ッ……!!」
 黒い瞳が揺らぎ、喉の奥から嗚咽に似た声が漏れる。思わず差し出されたメルーカの手
を振り払って、男は叫んだ。
「それでも……っ、俺はおまえを手に入れないと……罪を……っ!」
 その瞬間。メルーカは両腕を伸ばし、男の頭を抱きしめていた。何かを考える前に身体
が動いていた。
「話を聞かせて。──あなたがぼくにしようとしたことは許されないけれど、こんなに悲
しんでいる、こんなにさみしそうなあなたを放っておくことなんてできないよ……」





                                  to be continued・・・




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