第二章 ── 【青の道行き】

「行くぞ」
 メルーカが衣服を直したのを見届けると、エレスはそのまま歩き始めてしまう。
「えっ、ちょっと待ってよ、村はあっちだよ」
 メルーカは、エレスの進行方向とは正反対を指差した。
「知ってる。村には戻らない、このまま行く」
「ぼく、なんの支度もしてない」
 朝の市場でさらわれたまま、メルーカの持つものといったら今着ている服とわずかなお
金だけなのだ。とてもではないが、旅に出かけられる状態ではない。
「わかってる。──村に戻ったら騒ぎが大きくなるだろう」
 不愉快そうに眉を寄せて、エレスがため息混じりに呟いた。そうか、──みんな心配し
てるだろうな。どんどん遠ざかっていったマルスとウェニー、二人の顔を思い浮かべて、
メルーカは悲しくなり、少し涙ぐんだ。長老の、かさかさの大きな手で頭を撫でてもらう
ことも、しばらくないのだ。
「おまえなら、どこに行ってもすぐ皆に受け入れられるさ」
 最初の雪のかけらのように、ぽとりと言葉が落ちてきた。驚いて顔を上げたがエレスの
姿はそこにはない。視線を動かすと、近くの木に近寄り、その枝に手を伸ばしているエレ
スが見えた。
「エル……?」
 もしかして、なぐさめてくれてる?
「アミの木だな」
 エレスは枝先を手の長さほどのところで手折り、メルーカを振り返った。
「旅立つ友に捧げる木だ。──その道行きに、幸多からん」
 近づいたエレスに枝を差し出され、メルーカは二・三度瞬きをし、素直に枝を受け取っ
た。エレスと枝とを見比べるように水色の瞳が動き、少年らしい好奇心の光が宿る。
「ありがとう。──あなたの住んでたところでは枝を送るんだね。ぼくたちの村では、ア
ミの木の実で腕輪を作ってあげるんだ」
「そうか。──じゃあ行くぞ」
「あ、待って!」
 声をあげたメルーカに、まだ何かあるのかとエレスが振り返る。メルーカは、先ほどエ
レスが枝を折ったアミの木に近づくと、幹を抱きしめ囁いた。
「ありがとう、ぼくの旅を見守ってくれるんだね。──あのね、もう少しだけ、枝をもら
える? ぼくと一緒に旅をする人のために」
 そして手を伸ばし枝先を折ると、エレスに向かって差し出した。
「はい、エル、これはあなたの分。──あなたの道行きに、幸多からん」
 エレスは呆然と目を瞠ったあと、苦笑しながら枝を受け取った。
「おまえ、自分を誘拐したヤツの旅を祝ってどうするんだ」
「ぼくが自分で選んだんだよ、あなたとともに行くって。それに、あなたの旅の幸不幸は、
ぼくのそれと同じだもの」
 ね、と首を傾げるメルーカに、エレスは再び苦笑を漏らした。さっきよりあたたかい。
笑うと優しい顔になるんだ、メルーカは小さな発見を喜んだ。
「さて、──今度こそ本当に行くぞ」
「うん! でも、エル、ぼく本当に今のこのカッコだけなんだけど」
「服や必要なものは買いそろえればいい」
「どこで?」
 そういえば、エレスの格好も、長旅をしていたにしては──メルーカをずっと探してい
た、というのなら、かなりの距離を、もしかすると大陸中を旅したのかも知れない──ず
いぶん軽装である。
「ヘルメスの町だ。規模は小さいが、商人が集まるからな。たいていのものは揃えられる」
 俺の荷物もそこに置いてある、とエレスは言った。きっと各地で宿を取っては近隣の村
や町を探し回ったのだろう、手慣れた様子が感じられる。
「ヘルメスの町……」
 知っている地名にメルーカは驚いた。メルーカの住む村サン=ヴィータから一番近い町
だ。ゼルフィの親方がいつも商いに出かける町でもある。各地から集まる人や物があふれ
た、小さいけれど活気のある町だとゼルフィも言っていた。その町に、これから行くのだ。
「ぼく、村から出るのって初めてだよ。少し楽しみだな」
 はずんだ調子で期待を口にしたら、エレスはまたあの温かい笑みを向けてくれた。だが
言葉は相変わらずだ。
「単純なヤツだな」
「だって、村の皆と別れて旅をすることが変えられないなら、少しでもその旅を楽しむよ
うにした方がいいでしょう? 『あなたに無理矢理連れていかれて、知らない町を転々と
する』って思うのと、『自分でついてくことにして、今まで行ったことのなかった町に行
ける』って思うのと、どっちの方がいい? どっちの方が楽しい? ──ね、楽しい方が
いいでしょう?」
 至極まじめな顔で言って、メルーカは破顔した。その微笑みに、エレスは眩しそうに目
を細める。
 この強さは……こいつ自身の性質なのか、それとも<祝福の子>だからこうなのか。あ
の日からすべてを後悔と絶望と贖罪の中に置いてきた俺には眩しすぎる。闇の中に沈めた、
あの笑顔のように。
 痛みをこらえるような表情をしたエレスに、素早く気づいたメルーカが手を伸ばした。
「エル? ……どこかけがしてるの?」
「────いや、平気だ」
「でも、」
 大丈夫だ、重ねて言われ、メルーカは名残惜しそうに手を胸元に引き寄せた。まただ、
またさみしそうな顔をしている。どうしたらこの顔をさせずにすむのだろう、あのあたた
かい笑顔をまた見られるのだろう。──どうしたら、彼の罪を癒すことができるのだろう。
 メルーカは、この短時間にずいぶんとエレスに情を移している自分を自覚した。理由や
理屈はどうでもいい、とにかく気になるのだ。自分より少なくとも5つは年上だと思われ
るエレスの、けれどどこか幼い子供のような風情が──あの、さみしそうな表情が、自分
の手を求めているのがわかる。助けてと、泣いている姿が浮かぶ、鎖に戒められたまま。
救ってあげたい、自分が<祝福の子>なら、彼を救う力を持っているのなら、かなしみの
淵に沈む彼を解き放ってあげたかった。
                     オト
「エル。ぼくは約束するよ、必ずあなたの罪を浄してあげる。必ず……、あなたを嘆きの
夜の果てから希望の朝へと連れていく。だから……」
 強い言葉でメルーカは誓った。エレスを真っ直ぐに見つめて。そして少し、視線を揺ら
す。おどけたように首を傾げる姿は、一瞬前の気高さとはあまりにもかけ離れすぎていて、
年齢以上の幼ささえ感じさせた。
「だから、ぼくのこと守ってね? ぼく、生まれてから今まで、一度も村から出たことな
いし、ケンカもしたことないんだ。旅に出たらきっとあなたの足手まといになっちゃうけ
ど、ぼくのこと守ってね」
「──ああ、俺の旅は、おまえがいないと話にならないからな」



                                  to be continued・・・




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