ヘルメスの町のほぼ中心部に、エレスは宿を取っていた。くすんだ色の石壁、そう、土
ではなく石だ、町でも有数の上宿なのだとメルーカにさえすぐにわかる。
「ここ……?」
 メルーカは戸口の前で呆然と立ち尽くした。もっと寂れた安宿を思い浮かべていた。こ
れではもしかすると……メルーカの住まいよりも上等かも知れない。
「置いて行くぞ」
 急かされて、エレスを追って宿に入る。小走りに追いついて、メルーカは小声で囁いた。
「ねぇエル、あなたって……、路銀はどうなってるの?」
「おまえが心配することはない」
「だって……っ」
「フ、まさか盗んだとか思ってるんじゃないだろうな。──もともと蓄えはある。旅をし
ながら請けた仕事の報酬もあるし、それに実を言えばこの宿は仕事の報酬代わりだ」
「仕事って……?」
 まだ心配そうに見上げるメルーカに、エレスはため息をついて寝台に腰を下ろした。
「殺しとか盗みとか、そういうのはしてないから心配するな。──だいたい、罪を浄すた
めに旅をしてるのに、さらに罪を重ねてどうするんだ」
「うん……、うん、そうだよね。──よかったぁ」
                                       ウサン
「フッ、バカなヤツだな。──仕事を請けるのも、金のためより情報のためだ。まあ胡散
                  サマヨ
臭いのも色々とあるが、ただ当てもなく彷徨うよりよほどいい情報が得られるからな」
 <祝福の子>の伝説も精霊の子孫の村の存在も、そうして知ったのだとエレスは言った。
それで初めてメルーカは、ゼルフィの親方たちがサン=ヴィータの村の特殊性をひた隠し
にしていたことを知る。
「精霊の子は……、そんなに、珍しいものなの?」
                               ・・
「精霊の子それ自体はさほど珍しいものじゃないさ。だが村人全員がそうってことは、純
血種ってことだろう。そうなると、──ここらへんでは珍しいな」
「他にも、あるんだ。ぼくらの村みたいなとこが」
「……あるには、ある。だがおまえらの村のような平和なところじゃないな」
 黒い瞳が鈍く光を返したのを見て、メルーカは彼がそこの出身であることを感じた。あ
の翼、あれは確かに精霊の子と呼ばれる人々のものだ。そしておそらく、彼はそこでも身
分ある家の生まれだったのではないかとメルーカは考える。路銀のことといい、乱暴な口
調の中に時折交じる言葉といい、どこか人を引きつける雰囲気といい……。けれどそれを
       タメラ                アリカ アバ
彼に問うことは躊躇われた。きっとそれは、彼の罪の在処を暴くことになる。彼に罪を自
覚させ罰を与えるのは自分の役目ではない、決してない。もう十分に罪を知り尽くすほど
に罪に向き合い罰を受けている彼の、その罪を浄し、彼を癒すことが自分の役目であり、
メルーカ自身が望むことなのだ。
 だからメルーカは、違う質問をした。
「この町の人には、羽はないの?」
「あるヤツもいるし、ないヤツもいるだろう。羽はあっても飛べないヤツもな」
「そうなんだ……。ぼく、本当に何も知らないんだね……」
「十数年間、ずっとあの村の中だけで過ごしてきたんだ、仕方ないだろう」
「うん……。ぼく、もっといろんなこと知らなくちゃ。ぼくのこと、あなたのこと、精霊
の子やそれにまつわるいくつもの伝説。──あなたと旅をしていれば、ぼく、いろいろと
知ることができるね。すごい物知りになれるよ!」
 ふっと笑って、エレスは神妙な顔になった。
「──ところで、おまえの呼び名だが、“メルーカ”ってのはさすがにまずいな。たいて
いの大きな街には旧き言葉の知識を持つヤツがいる、小さな町や村でもおそらく。そこか
らおまえの秘密を知られると困る」
「そう、だね。──“メル”は、だめ? 村で親しい人達はぼくのことをそう呼んでたけ
ど」
「<祝福>か、まあそれくらいなら大丈夫だろう。俺もずっと“エレス”と名乗り続けて
                     タズ   ハバカ
きたが、何も言われたことはないからな。……尋ねるのが憚られただけかも知れないが」
「だから! エレスじゃダメだってば!」
 メルーカに睨まれ、エレスは苦笑して寝台の上に身体を投げ出した。
「わかった。おまえの好きに呼んでいいから」
「それでもダメだよ。ぼくを連れて旅をするのなら、今からあなたは“エル”だからね。
約束してよ」
 寝台に駆け寄り、エレスの隣に腰を下ろす。手をついてエレスを見下ろして、メルーカ
は返事を待った。透き通る空の色の瞳が、真っ直ぐにエレスを射抜く。
 懐かしい、良く知る瞳に似たその色が眩しくて、エレスは耐えられず目を閉じた。瞼の
裏に焼き付く、鮮やかな、風のない日の空の色──。
「……エル? どうしたの、やっぱりどこか痛いの?」
 光溢れる女神の残像が記憶とずれた。心配そうな声に目を開けると、女神の姿がすうっ
と薄れ、女神より淡い金の髪を肩口で切り揃えたメルーカの姿が捉えられた。
「────メルーカ……。──いや、メルだったな」
「エル……?」
「なんでもない」
 拒絶の意志を感じ、メルーカは心を残しながらも追求を諦めた。
 今一瞬感じた光の残像。あれがきっと、エレスの罪。
「明日、必要な物を揃えたら早々にここを発つ。少しは手加減してやるが、旅は体力勝負
だからな、早めに寝ておけ」
「……うん、わかった。────おやすみなさい」
 エレスからの返事はなかった。やわらかい寝台に潜り込み、ほのかに花の香りがする枕
に頬を埋めて、メルーカはさっき言えなかった言葉を呟いていた。
「──今すぐじゃなくていいから、いつか、話してね……?」


                                  to be continued・・・




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