*                  *                  *


 微かな水音に交じって聞こえてくる鳥の声に、メルーカは眠りの淵から引き上げられた。
とは言ってもそれは不快なものではない。むしろ、彼らの発する空気はメルーカの疲れた
身体を癒してくれるようだ。
 そっと寝返りを打ち、光の射し込む方向に目を向ける。肩に届く長さの黒髪を朝の陽光
に透かして、彼は小鳥たちに手を差し伸べていた。指先に何か餌でもつけているのだろう
か、二・三羽がしきりにつついているのが見える。彼は痛がる素振りも見せず、濃紺にも
見える黒い瞳を眩しげに細めただけで、鳥たちのなすがままになっていた。
 綺麗だ。
 純粋にそう思う。壮大な夕焼けを見るときのように、咲き乱れる花々に包まれたときの
ように。そういった、何の疑問も差し挟む余地のない、綺麗なもの。メルーカの目に見え
るようになった、光の泡のような、綺麗な空気が彼の周りに見える。罪に汚れてなんかい
ない。鳥たちもそれを感じて彼の周りにも来るのだろう、髪や眼、翼の色といった外見に
はとらわれずに。
 ふと、彼の腕に止まる小鳥をうらやましいと思った。僕もあの鳥たちのように……。
 その時、小鳥の一羽がこちらへと飛んできて、それを追って振り向いた彼と目が合った。
「メル、起きてたのか……」
 穏やかな彼の声。
「うん……。おはよう、エル」
 寝起きの少し掠れた声で朝の挨拶をすると、ああ、おはようと言う声がぶっきらぼうに
返ってきた。この、朝の挨拶をするという習慣が、彼──エレスにはどうも馴染めないら
しい。彼と一緒に旅をするようになってから、少しずつ改善されてきてはいるが、さわや
かな朝の挨拶をできるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 次のステップは、そうだな、ほんの少しの笑顔、いやそれよりも、おはようの後にぼく
の名前がつくようになるといい──。
「メル、どうかしたか?」
 知らないうちに頬が緩んでしまっていたらしい。怪訝な顔をされて、メルーカは慌てて
ごまかした。こういうときは話題を変えてしまうに限る。
「小鳥たち、よくなついてるね」
 最初から小鳥たちに目を向けていたかのように。自分の肩へと飛んできた小鳥を手に乗
せてエレスに差し出してやりながら、メルーカは何気ない素振りを装った。
「おまえの<水>の気配につられたんだろう」
 もしかしたら照れて反論するかも知れないと思っていってみた言葉は、しかし当然のこ
とだと言わんばかりのなんのてらいもない台詞で返されてしまった。それに加えて、小鳥
を受け渡す際に二人の指先が微かに触れて、尚更メルーカの動揺を誘う。
「水は癒しの象徴だ。こいつらも、おまえの側の方が安心するんだろうな」
 気づかずに独り言めいた呟きをもらすエレスの瞳に、言葉と裏腹な瞑い輝きがちらつく。
 不自然でない沈黙の後、ぽつりとエレスが口を開いた。
「メルーカ。村に帰りたいか……?」
 淡い水色の瞳がゆっくりと見開かれる。
 思ってもみなかった言葉にメルーカは困惑した。口を開きかけ、止めて、言葉を選ぼう
として……果たせず最初の衝撃のままに言葉を押し出してしまう。努めてできたのは、わ
ずかに目をそらし、目の奥を突き刺した熱い痛みを悟られないようにすることだけだった。
「それ……、どういう意味?」
「いや……、特に、意味は……」
 エレスもまたメルーカを見ないままだ。
 意味はない、と。なぜ最後まで言い切らないのか。意味はないと言うくらいなら、なぜ
今更そんなことを言うのか。尋ねたい言葉が渦を巻いて、メルーカの内からこみ上げてく
る。このままここにいたら溢れてきそうな気がして、メルーカはさらにエレスから顔を背
けるようにして立ち上がった。
「ぼく、顔洗ってくる」
 言うなり駆け出した。後ろでエレスの呼ぶ声が聞こえたが立ち止まろうとはしない。早
く泉に着きたかった。顔が濡れているのは泉の水で顔を洗ったせいだと、自分に言い聞か
せないといけないような気がしたのだ。けれど何度顔を洗ってみても、冷たい泉の水とは
違う温度の雫が頬を伝う。
「なんで……」
 何に対する問いかけか自分でもわからないままに、言葉だけが雫のようにこぼれ落ちた。


 一方取り残されたエレスは、不用意に発した言葉を後悔していた。
「無理矢理さらっておいて、何を今更……」
 おまえの側は安心する、そう言ったとき、ふと脳裏をよぎった言葉があった。
 ──メルーカ、おまえは?
 聞けるわけがない。生来の人懐こい性格のせいか、自分にも懐いてくれてはいるが、メ
                           オト
ルーカは好きでここにいるわけではないのだ。エレスの罪を浄すための、このあてのない
旅につきあわされているだけだ。だが、もしメルーカが帰りたいと言ったなら、そのまま
手放すことができるのか。答えはNOだ。エレスは何としてでもメルーカを手に入れなけ
ればいけないのだ。自分のため、親友のため、そしてあの光の女神のために。何としてで
も──けれど今はもう力ずくで犯すこともできない。それでは手に入らない、メルーカ自
身にそう言われたからでもなく、例えそれで手にすることができたとしても、もうエレス
にはできないだろう。大切にしたいと思うくらいには、エレスも既にメルーカに情を移し
てしまっている。
 手に入れることも、手放すこともできずに。
 ──また、くり返すのか。いつか壊すのか。また、この俺の手で。
 金の髪が舞う。水色の瞳、涙。優しい鳶色の瞳が憎悪に燃えるのを見た日。
 身を染める黒が、また濃さを増す。
 メルーカの涙を知らないまま、エレスはただこの旅が終わらなければいいと思った。終
わらせるための旅──けれど、何も変わらぬまま、終わらぬまま、続けばいい。何も手に
入れなくていい。だから、何も、失わぬまま。


                                  to be continued・・・




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