まだ夜の明け切らぬうちに、メルーカは目を覚ました。なんだか、胸の奥がざわざわし
ている。嫌な予感というのとは、少し違う。
 上体を起こすと、少し離れたところでエレスが眠っていた。ほっと息をついて、毛布を
引き上げようと下を向く。
「……え?」
 メルーカは、視界に入る金色の髪を一房つまみ上げた。軽く引っ張ってみる。
「いたっ」
 痛い、と、自分が感じるということは。
「これって……、ぼくの……?」
 呆然と呟いた。
 メルーカの髪は、背の中ほどまでに、伸びていた。たった一晩で。
「どうしよう……。──エル、エル!」
 メルーカは、エレスに駆け寄りその身を揺さぶった。
「エル、どうしよう!」
「どうした……、メル!?」
 眉をしかめて目を開いたエレスは、メルーカの姿を見るなり黒い瞳をカッと見開いた。
「さっきね、起きたらこんなになっちゃってたの」
 途方に暮れて答えるメルーカを見つめ、エレスは厳しい顔つきになった。
「メルーカ、──他に、どこか身体に異変はないか?」
 久しぶりにメルーカと呼ばれ、どきりとした。こんなときに思い出してしまう。自分は、
    オト
彼の罪を浄すために、この旅に同行しているのだということを。そのやるせなさに、自分
の想いを思い知らされる。エレスの背負う罪や、自分の宿命や、そんなこととは関係なし
に、ただ、彼と共にいたいのに。
「別に、なにも。──ただ、なんだか胸の奥がざわざわしてる気がする……」
 そうか、と返事をし、エレスはしばし黙り込んだ。考え深げに目を伏せるエレスの隣に
座り込んで、メルーカは、一晩で倍ほどの長さになった自分の髪を弄ぶ。
 胸の奥で、何かが。──胸の奥? いや、違う、もっと……首すじ? 頭?
「なんか、まだ髪の毛が伸びてるような感じ」
 眉をひそめ、メルーカが呟いた。心が落ち着かないのは、そのせいだろうか。
「髪が? ──そうか、じゃあ、……ユムの方は、もう大丈夫か?」
 気遣うように声をひそめてエレスが尋ねた。
 忘れていたわけではなかったが、思わぬ言葉にメルーカが動揺する。
 昨日、目の前のこの人の、この手が自分に触れたのだ。ひどく辛そうな顔をしていたの
を覚えている。自分のせいで彼にそんな表情をさせてしまったことが悲しくて、けれど、
この手なら信じられると、全てを委ねていいと──委ねたいと、思う自分もいて。
「えっ、う、うん……。だいじょうぶ」
 そうか、と再び返して、エレスは立ち上がった。
「泉に行くか?」
「うん、──え? でも、荷物は?」
 いつもは、荷物の見張りが必要だからと交互に行っていたのに。
「構わない」
 エレスは短い言葉しか言わなかったけれど、メルーカの身を案じているのだということ
はすぐにわかった。嬉しいけれど、素直に喜べない。
 できることなら、望まれて、触れられたかった。
 それは、口に出すべきことではないと、メルーカは知っていた。だから何も言わず、た
だ2人は静かに歩くだけだ。
 冷たい水の湧き出る泉は、いつにも増して清澄な空気に包まれていた。陽差しがなくと
もきらきらと光の欠片が舞う様が、ざわついた心を鎮めてくれるようで、メルーカはかす
かに笑みを浮かべた。まだ薄暗い空が、紫のグラデーションを経て少しずつ白んでゆき、
メルーカの瞳に近い色合いになっていく。顔を洗ったエレスに続いてメルーカが指先を浸
したとき、耳の奥、水の震える音が聞こえた気がした。思わず手を引いて、自分の指と泉
とを見比べる。
「──? なんだろう、今の」
「どうした?」
「うん……なんか、水が、鳴ったような気が……」
「水が、鳴った?」
「うん……」
 得心のいかない顔で、メルーカが再び水に手をつける。今度はエレスにもわかった。水
が、大気が、メルーカの指先が水面に触れた瞬間、わんと鳴ったのだ。
 その時、木々の間から太陽が顔を出し、朝陽がメルーカを照らした。
「あ……っ!?」
 メルーカが眼を瞠り、身体を震わせる。途端、音を立ててメルーカの背に純白の翼が開
いた。金色の髪が宙に舞い、ふわりと落ちる。
 エレスは黙ったまま目を見開いた。今のは……、意識して羽を出そうとしたのではない、
何かメルーカの意志とは違う力が、メルーカに、羽を出させたのだ。
「メル……?」
 精霊の子と呼ばれる彼ら有翼の種族は、普段はその羽を身の内にしまっている。空を飛
ぶときなどに自分の意志で出し入れするのだ。危険回避のために反射的に羽が現れること
もあるが、それも、無意識の意識がさせるものである。けれど、今のは明らかに、メルー
カの意志ではない。
 どうしたのかと声をかけようとしたエレスを遮るタイミングで、メルーカが声を上げた。
「えっ? ──うそ…………っ?」
 メルーカはさらに目を見開いて、胸に両手をあて、怯えたように自分の身体を見下ろし
ている。
「なんで……っ」
 身震いして一度身体を丸めたメルーカが、背を反らせて天を仰いだ。
「ん……ッ!!」
 ばさっ
 水飛沫のように光を散らして、メルーカの背に再び翼が開いた。純白の双翼に重なるよ
うに、きらめく。
「水晶、の、翼……?」
 呆然と、エレスが呟いた。
 息を乱したメルーカの背に現れた第二の翼、朝日を浴びて一段と輝くそれは、色がなく、
透明で、まるで精巧なガラス細工のようだった。
 翼の間を流れ落ちる金の髪は、いつの間にかさらに伸びていて、今では腰に届くまでに
なり、毛先がわずかに地面に触れている。
「え、水晶……?」
 エレスの呟きに、メルーカは羽を動かしてみた。今までと何ら変わりなく、違和感なく
動く。ただ、視界に入るのは見慣れた白い羽だけではなくて、そのすぐ後ろにもう一つ、
確かに透明な、水晶のような羽があった。
 おそるおそる、手を伸ばす。手触りは……確かに羽だ。けれど、どこか現実味がなく、
本当に触れているのか、それとも触れているような気になっているだけなのかはわからな
                           マト
い。メルーカにわかるのは、その羽が、きらきらと光の泡を纏う“きれいなもの”だとい
うことだけだ。
 目覚めたのか……。吐息にわずかに言葉を乗せ、エレスが目を細める。
「メル、大丈夫か?」
「うん……。ねぇエル、これって、ぼくの羽、だよね……?」
「少なくとも俺のじゃないのは確かだな。──立てるか?」
「えっと……ごめん、立てない。──びっくりしちゃって。手を貸してくれる?」
 地面にへたり込んでいるメルーカに、エレスが手を伸ばす。メルーカの手がエレスの手
の中に収まったかに見えたとき、
「────ッ!」
     ハ
 たきぎの爆ぜるような音に、2人は反射的に手を引いた。
「何? 今の?」
「つっ……。メルーカ、おまえは何ともないか?」
「え?」
 見ると、エレスは痛みをこらえるように眉をひそめている。
「エル……?」
「メル、じっとしてろ」
 メルーカを制して、エレスは自分の方からメルーカに手を伸ばす。メルーカに触れた瞬
間、音を立てて火花が散り、エレスの指先に鋭い痛みが走った。それと同時にメルーカの
纏う光の雫が輝きを増す。
「そういうことか……」
 低く、エレスが呟いた。
「え……?」
 顔を上げたメルーカは、目にしたエレスの表情に思わず言葉を失った。
 そこにいたのは、メルーカの見慣れたエレスではなかった。初めて会ったときと同じ、
クラ       ニビイロ                       サマヨ
瞑い目をした男。鈍色の絶望の鎖に戒められた、罪の証をその身に刻んだ彷徨える魂。
「神の祝福を受けし水の子、メルーカ。聖なる存在であるおまえに、罪に汚れた俺が触れ
ることは叶わない──フッ、そういうことか」
 低く押し殺した声がメルーカの心を打つ。
 自嘲に歪められた唇、瞑い瞳。
「エル……」
 細い声が、すがるようにエレスの名を呼んだ。
 メルーカの声を振り切るように、祈りを捧げるように、エレスが目を閉じ天を仰ぐ。
 エレスの声なき叫びが、泉を、森を、メルーカの心を揺らした。

 これが報いか。
 これが、俺に与えられた罰なのか。

 陽差しが突然色を変えたように、メルーカには思えた。
 または、なんの前触れもなく、太陽が姿を消したかのように。
 長い金の髪が灰闇に沈む。
 憧憬、欲望、信頼、恐怖、裏切、後悔、──憎悪。
 様々な想念が渦を巻いて襲いかかる。意識が薄れていくのを感じながら、メルーカはエ
レスに向けて、手を差し伸べた。
                                  to be continued・・・




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