第四章 ── 【灰色の枷】


「エル!」
 名を呼ばれ、振り返ると、一人の少女が金髪をなびかせて駆け寄ってきた。急停止しよ
うとして果たせず、走ってきた勢いのままにつんのめる。エルランドの手が少女の肩を抱
きとめた。
「フレル。おまえは運動神経ないんだから、あんまり走るな」
 溜め息交じりに告げたエルランドに、少女──フレルが頬を膨らませる。
「ひどーい! そんな言い方ってないわ! ……本当のことにしても、あんまりよ」
 ぷいっと後ろを向くと、身体の動きに合わせて髪が揺れる。目の覚めるような鮮やかな
金の髪。降り注ぐ陽光よりも眩く、印象的だ。
 エルランドは小さく苦笑して、少女の名を呼んだ。
「フレル、悪かった、謝るから機嫌直せ。──それより、何か用があったんじゃないのか?」
 後半の台詞に、そうよ!と叫んでフレルが振り返る。空よりも鮮やかな瞳がきらめいた。
「そうよ! エル、掲示板見た? こないだの神学の試験、結果が張り出されてるの! 
またエルが一番よっ!?」
 まるで自分のことのように喜ぶフレルにエルランドが再び苦笑する。
「すごいわ、エル! きっとあなたはハイランド中で一番よ!」
「────それはすごいな。じゃあ俺たちは、そんなすごい友人を持ったことを誇りにす
べきかな?」
 それとも少しはねたむべきかな、と声は続いた。素早く振り向いたフレルが、今度はそっ
ちに飛びつく。
「マハールっ! ねぇ見た? 掲示板! エルってばすごいのよ!?」
「見たよ。ついでに数学の結果も張り出されてた。──3点差で負けちゃったよ」
 そう言いながら、マハールは少しも悔しそうな様子ではない。
「エルランド、きっとまた君が一番だ。おめでとう」
「──まだ2教科しか出てないだろう」
「そうよマハール、あなたが一番かも知れないのに!」
「フレル、君はどっちの味方をしてるの」
 マハールの問いに、フレルは胸を張って答えた。
「そんなの決まってるわ! 私は二人の味方よっ!」


 大陸最大の都市、ハイラント。古くから栄えるこの街は、大陸随一と言われる地下水脈
によって支えられている。そう、この大陸において、川や湖のような地上に見える水では
なく地下水脈によって生活を支えられている街は他に類を見ない。そして、基本的に同族
が寄り集まって作られる他の街と比較して、複数の種族が永年的に共存しているのも、ま
たこの街の特長であった。
 しかし、その中には厳然とした種族による身分格差が存在する。多少の例外はあるにし
ても、貴族と呼ばれる最上流階級に位置するのは、神の民とも精霊の子孫とも伝えられる、
有翼の民である。
 貴き尊き民によって作られた、高貴なる地。──それが“ハイラント”の由来である。


「そうだ、エル、さっきサイオン先生が君を探していたよ。ついに神殿からのお召しかな?」
 ふと思い出したように、マハールが口を開いた。しかし実際のところは頼まれて自分を
探しに来たのだろう、相変わらずのお人好しだとエルランドは内心肩をすくめる。
 神殿、の言葉にフレルが反応した。
「神殿? エル、神官になるの!? ──すごいわ、素敵だわ! 白い衣装に金の髪が映
えてとっても綺麗よ! ああ、きっとあなたの瞳は台座に置かれた緑柱石のように輝くん
だわ!!」
 一人盛り上がるフレルに、残る二人は顔を見合わせ肩をすくめた。
「フレル、君に容姿を褒められても、エルもどういう反応を返すべきか困ってしまうと思
うよ」
「まったくだな。俺を褒める前に、まず自分を褒めるべきだと思うぞ。──<光の神子>
殿?」
「どうして? 綺麗なものを綺麗って言ってどうしていけないの? 私はエルの木漏れ日
色の髪も若葉の瞳も綺麗だと思うし大好きだからそう言うだけよ。マハールの大地のよう
に思慮深い瞳も夕焼け色の髪も素敵だわ。だから私っ」
「わかったわかった。おまえがどれだけマハールを好きかは嫌って程わかったから、少し
落ち着け」
「エルのことも好きよ!」
「ああ、わかったから。──だ、そうだぞ、マハール。しっかりつかまえとけよ」
 顔を赤らめたマハールに先に帰るように告げて、エルランドは身を翻した。また明日ね、
と叫ぶフレルに片手を挙げて答える。しばらく歩き、建物の角を曲がる瞬間、碧緑の瞳が
二人の姿を捉えた。幸せそうに笑い合う二人に一瞬だけ眉がひそめられ、すぐに視線がそ
らされる。
 ぐっと目を瞑り唇を噛んで。次に目を開けたときには、もう何事もなかったかのような
顔で、エルランドは再び歩き出した。


「ねぇマハール、エルは神官になりたくないの?」
 エルランドの姿が見えなくなると、フレルは少し真面目な顔になってそう尋ねた。
「どうして?」
「だって、──なんかそんな気がするんだもの」
 そんな気がする、ただそれだけと普通なら笑い飛ばして終わるところだが、彼女の勘の
良さには定評がある。マハール自身も、何となくエルランドの態度が積極的でないのが気
になっていたところだったので、フレルの言葉によって、その予感は確信に近いものになっ
た。
「どうだろう。<光>の子はたいていが神官になるけれど、ならなければいけないわけじゃ
ないからね。逆に<光>の子でなくても、能力が認められれば神官になれるし。──彼な
らどんな職業にだって就くことができるよ」
「そうね。何にもしないで遊んで暮らすことも、彼ならできるわきっと。──なんかあり
えそうでヤだわ。だいたいエルってば暗いのよ、友達もあんまり作らないし。その方が私
たちはエルといられていいけど。──でもっ! 明るく社交的になれとは言わないけど、
少しは“暗くない”人になった方がいいと思うわ! あんなに明るい名前と外見なのに、
もったいないっ!」
「名前や外見は、関係ないと思うよ」
 苦笑交じりに、マハールが呟いた。
「いいのっ! ──ねぇ、マハールは、何になりたいの? 神官? それとも、」
「俺は、定められてるからじゃないけど、教師になりたいな。未来を担う子供たちが正し
き道を歩めるように、良き友と巡り会えるように、輝かしい未来を掴めるように。その手
助けをしたいんだ。人にものを教えるのも、好きだしね」
「素敵だわ、マハール先生ね! きっと皆に好かれるわ。教え方もとっても上手だもの」
 マハールの右腕を抱きしめて、フレルが顔を覗き込む。ありがとう、と微笑んで、マハー
ルはフレルを促し歩き始めた。
「──私は、マハール先生の奥さんになりたいな」
                                       トビ
 数歩歩いたところでぽつりと漏れた呟きに、マハールが驚いて立ち止まる。優しげな鳶
色の瞳が大きく見開かれた。
「フレル!? ──だって、君、神殿は? <光の神子>として神殿に上がって、神の花
嫁になるんじゃないの!?」
 数年に一度、<光>の守護を受けて生まれてきた少女の中から数名が選ばれ、神に嫁ぐ
ことになっている。神、とはもちろん光の神、光の精霊のことだ。いと高きところに住ま
う、輝ける光の神、その加護を得、街の永き繁栄を護るために、古より続く慣習である。
前回、神の花嫁が選ばれたのは5年前、今年こそ新たな少女が選ばれると、どこかから噂
が流れ広まっている。
 闇を払い切り開く朝陽のような、見事な金の髪。神の住まう場所すら見抜けるかと思え
るほどの、高く澄んだ、砂塵に侵されない、風のない日の空の色をした瞳。フレルならば、
いずれ必ず神殿からのお召しがあると、誰もが信じて疑わずにいた。だからこその<光の
神子>の呼び名なのだ。
「だって、私もうすぐ18になるわ。──もしかしたら、皆の言うとおりにはならないか
も知れないじゃない」
 神の花嫁となる少女は、その年に15になった少女から成人前までの、穢れなき光の娘
の中から選ばれる。<光>の守護を受けて生まれた少女ならば必ず一度は憧れる<光の神
子>、神の花嫁。いずれ神のもとへ嫁ぐであろうフレルのために、マハールは彼女に一切
手を触れていない。他の友人たちにすると同様、手をつないだり、せいぜい頬に親愛のキ
スを贈る程度である。光の子に対してはそれが当然だと思えるくらいには、この街の、特
に貴族階級は信心深く、さらにマハールは真面目な青年だった。
「フレル。──だけど、まだわからないじゃないか」
 誰よりも愛しい一人の少女。自分だけのものにしたくないと言ったら嘘になる。けれど
彼女はいずれ神に嫁ぐであろう聖なるおとめなのだ。迂闊な言動は、したくはないし、す
るべきではない。
「この街のため、街の人のために、神に仕えるのは誇らしく素晴らしいことだって思うわ。
だけど……、マハール、あなたと共に生きていくことができたら、それはどんなに素晴ら
しいだろうって思うのよ」
 そう言って微笑むフレルの髪を、沈みゆく太陽が朱く照らす。赤金に縁取られたフレル
は、いつにも増して神々しく美しく、マハールは言葉をなくしてただ光の女神を見つめて
いた。
「ねぇ、マハール、お願いがあるの。もし、このまま神殿からの召令がないまま私が18
になったら、──私と、婚約してくれる?」
 それは、いつもの無邪気なお願いではなかった。マハールは一瞬躊躇った後、そっと手
を伸ばす。細い身体を抱きしめて、眩い金の髪に頬を押しつけた。
「フレル……。君の18の誕生日までにはまだ間があるよ。それまで俺は、サイオン先生
や神官の姿を見かけるたびにびくびくして過ごさないといけないのかい……?」
 泣き笑いの表情で、マハールは呟いた。大地に似た赤茶けた髪を、夕陽が朱く染める。
「大丈夫よ。──大丈夫な気がするの。ねぇマハール、私の直感を信じてくれるでしょう
……?」
「ああ……、信じるよ」
 フレルの肩に手を置いて身体を離し、鳶色の瞳が眩しそうに2つの空色の輝きを見つめ
た。
「フレル……。このまま、何もなく君の18の誕生日を迎えることができたら、──俺と、
結婚しよう」
「ええ、マハール……」
 その日、彼らは初めて、唇を触れ合うことで互いの想いを告げ合った。

                                  to be continued・・・




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