「────え?」
 何を言われたかわからずに、エルランドは隣を振り返った。
「俺、彼女と婚約することにしたよ。──彼女が18になるまでに召令を受けなければの
話だけど」
 穏やかな眼差しで、マハールは同じ台詞を繰り返す。今度は正しく耳に入ってきたその
言葉の意味を、エルランドの頭は受け入れを拒もうとしていた。しかしその容赦ない侵入
に、喉の奥、重く何かが沈み込むような痛みを覚える。
「そうか……。それは良かったな」
 ぽつり呟くように、エルランドが祝いの言葉を口にする。日頃から喜怒哀楽を大きく出
す性質でないのが幸いした。エルランドの表情に気づかず、マハールは困ったように照れ
笑いを浮かべる。
「まだ決まったわけじゃないんだよ。フレルはきっと大丈夫だって言うけど、期待しすぎ
ると後がつらいからね。……あんまり、喜びすぎないようにしてるんだ」
 そう言いつつも抑えきれない喜びを無理に押し込めるように、頬に手を当てる。
「ところでさ。昨日のサイオン先生のお話ってなんだったんだ? やっぱり、神殿の話?」
「ああ。──────神官に、なろうかと思って」
 マハールの問いに頷いて、エルランドは髪を掻き上げた。鮮やかな金髪から光がこぼれ
る。そのまま髪を押さえるように手を当てて息をついた後に、付け足すように口を開いた。
トビ
鳶色の瞳が見開かれ、ゆっくりと瞬くのを腕の影から流し見て、小さく息をもらすように
エルランドが笑う。
「なんだ、そんなに意外そうな顔をして」
「え……っ、うん、────びっくりした。驚いたよ。君は神官にはならないんじゃない
かと思ってたから」
「俺もそう思ってたけどな」
            クラ
 苦笑する碧緑の瞳に宿る瞑い光。ほんの一刹那の違和感。気づきながら何も言わなかっ
たことを、マハールは後に悔やむことになる。
「俺は、教師になろうと思うんだ。フレルと、結婚することができてもできなくても」
「そうか、似合いそうだな。神官も、似合うと思うが。──おまえたちは、二人とも神に
仕える道を選ぶのかと思ったが、違ったんだな」
「そう? ──なんか、ちょうど逆だね」
 フレルとマハール。と、エルランド。
 神殿の内と外とが逆転するだけで、その構図は変わらない。
 そう、変わらない、はずだった。


 フレルの18才の誕生日当日、彼女の家ではささやかな誕生パーティが催された。
 マハールとエルランド、そして彼女の女友達を数人招いたその場で、二人は婚約を発表
する。晩餐と団欒の後、マハールをフレルの家に残して帰宅した彼らすべてが、二人の事
実上の結婚を信じて疑わなかった。
 フレルが、まさしく光の女神に選ばれた。
 それをエルランドが知ったのは、彼女の誕生日の3日後のことだった。
「──なん、だって……?」
 呆然と呟いたエルランドに、マハールは諦念にも似た光を浮かべた瞳をわずかに伏せる。
「フレルに、召令があった。──彼女は、お召しに従って神殿に行くと言ったよ」
『マハール、聞いて。──────神殿から、召令があったの』
 泣き笑いの表情で、女神は言った。夜半に一人、マハールの家を訪ねて。何事かと驚く
彼と両親の前で、透明な涙を流しながら、けれど毅然と告げた彼女は、光の女神の名にふ
さわしく美しかった。
 目の前にその光景が浮かぶようだとエルランドは思う。
 気貴く美しい光の女神。涙を流す瞳はそれでも輝きを失わず、天高く神のおわす処の色
をしていて。夜闇に浮かび上がるような金髪が、彼女の華奢な肩を覆っていたのだろう。
 愛おしき光の女神。フレル──輝き満ちるもの。
「どうして……」
 低い呟きが漏れた。顔を上げた親友の胸ぐらを掴む。
 驚いて見開かれた鳶色の瞳は、物言わぬ木々のようにすべてを受け入れる色で。
「どうして……っ、なんで、彼女を自分のものにしなかったんだ! 婚約するって、あん
なに嬉しそうに……っ」
 奔放な女神はこの大地のような男の腕に安らぐのだと。マハールがフレルを守るなら、
自分は女神のいない、光の射さない神殿に行こうと思ったのに。
 それで、諦められると思ったのに。
「俺はきっと、どこかで予感していたんだ。彼女が神に選ばれないはずはない、彼女は必
ず神のもとへ嫁ぐと」
「だけどっ、」
 何故、先に手に入れなかったのか。光の神が彼女に触れられないように、汚してしまわ
なかったのか。
 言わない言葉を察して、マハールは穏やかな笑みを浮かべた。睨みつける碧緑の瞳を見
返して、ゆっくり首を振る。
「できないよ。俺にはできない。──できなかったよ…………」
 そこで初めて、鳶色の瞳が涙に歪んだ。
 すべてを包む大地のような、物言わぬ木々のような男は、ただそれだけを告げると、静
かに樹液のように涙をこぼした。


                    *                  *                  *


 ヒガク  トキ
 陽隠れの刻。一年のうちに何日かある、太陽の消える日をこの街ではそう呼んでいる。
光の神が眠りにつき力を蓄えている間、人々も家の中に籠もり、静かに時を過ごす。そし
て新しく生まれ変わった陽光の下、再び動き出すのだ。
「──ふふっ、なんだか久しぶりね、こうしてエルと話すのって」
 無邪気に微笑むフレルの方を見ないまま、エルランドは簡潔に肯定の返事をする。
 生まれ変わった光の神に嫁ぐため、フレルは召令のあった翌日から神殿内の一室を与え
られて暮らしていた。<光の神子>としてすでに神殿に上がっている少女たちとは別だ。
フレルはまだ、神子ではない。神子になる者として、選ばれただけだ。
 陽隠れの刻、それは光の神の加護がわずか弱まる時とも言われている。常より警護を固
められた神殿に、エルランドも神官を目指す者の一人として上がっていた。
 エルランドが任されたのは、新しく<光の神子>となる少女、すなわちフレルの護りで
ある。見習いに過ぎない彼がそのような大任を任されたのは、彼がフレルに害をなさない
友人であると認められていることの他に、彼の成績と家柄とが影響していた。
 どれも要らないものばかりだ、エルランドは思う。他人にどんなに羨ましがられようが、
本人が要らないと言ったら要らないのだ。生まれ落ちた家の格式も、学業の成績も。フレ
ルと並び称されるほどに顕著な<光>の子の証である金の髪も碧の瞳も、眩い純白の翼で
さえも。
「この街の人って、どうしてみんな翼を使わないのかしら」
 エルランドの思考を読みとったかのようなタイミングで、フレルが口を開いた。
「この街に住む人すべてが翼を持っているわけじゃないのは知っているけど、どうせある
なら使えばいいのに。──ねぇ。一生に何度かの儀式の為だけの羽なんて、ほんとにただ
の飾りだわ」
 <光>の神を特に崇めるこの街に根づく、一部の<光>の子の特権意識を暗に否定する。
「フレル、おまえそれ俺以外の前で言うなよ。<光の神子>にあるまじき発言だ」
「構わないわ。だってエルが護ってくれるんでしょ?」
「内輪揉めに巻き込まれるのはごめんだ」
 顔をしかめると、フレルはしれっとした顔で手遅れだと言ってのけた。
「エルの評判はものすごいもの。神殿の中でも、みんなの注目の的よ。あなたほど美しく
優秀な神官は、そうそう現れないだろうって」
「──知るか」
 あからさまに不機嫌な顔をしたエルランドを笑って、フレルは自らの翼を表した。それ
だけで、部屋が明るくなったように思える。風に煽られ金の髪が舞い、ゆっくりと背に落
ちる。エルランドはわずかに目を瞠り、黙ってその様を見つめていた。
「私、自分の髪も瞳も、翼の色も好きよ。エルのも大好き。──でも、<光>の子じゃな
くたって、綺麗な髪や瞳や、翼を持っている人はたくさんいるわ」
 不特定多数を口にしながら、その心が想うのはただ一人。
 暁色のその身に優しく力強い大地の恵みを受けた、──<地>の子、マハール。
「──そうだな」
 低く答え、目を閉じる。再び目を開けたとき、部屋は夜のように暗くなっていた。ほの
かな灯りに、フレルの姿が浮かび上がる。
 窓の外に目をやると、雲一つないはずの真昼の空は、一面重い鉛のような灰色をしてい
た。嫌な色だ、心の奥底を探られているようで気持ちが悪い。
「何度見ても嫌な空ね」
 フレルも何か感じるのだろう、わずかに眉をひそめ、寒そうに腕を抱える。しなやかな
象牙色の細い腕を辿って、視線を上に向けると金糸のまとわりつく白い肩があり、その向
こうには未だしまわれていない純白の翼があった。歴代の<光の神子>の中でも1・2を
争う美しさと称えられる少女が、今、目の前にいる。
 彼女は、まだ、<光の神子>ではないのだ。
 もはや親友の許嫁ではなくなった少女は、まだ、神のものにもなってはいない。
 それは、危険な思考だった。そしてそれだけに、ひどく魅力的な思考だった。
 太陽を飲み込んだ灰色の空からざわざわと降ってくる何者かの気配さえ、もう、気には
ならない。
 ・・・・・
 今しかない。
 今なら、彼女を自分のものにすることができる。いや、今しかできない。
 幼い頃から密かに想い続けてきた、愛おしい光の女神を。
 今なら、手に入れることができるのだ。
「ねぇ、エル。──エル?」
 振り向いて、フレルは目を瞠り、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「エル、どうしたの? 大丈夫? 顔色が悪いわ」
 エルランドの額に手を当て首を傾げたフレルの背中で、金の髪がさらりと揺れた。
「!? ──────エ、ル?」
 手首を掴まれ驚きに瞠られた瞳は、風に舞う赤土に邪魔されない、澄み渡る空の色。
 薄く紅を引いた唇が、何かを声にしようと動いた。
 その唇を塞ぎ、細い身体を押し倒す。毛足の長い絨毯は二人分の体重と衝撃を吸収して
余りあるやわらかさで、罪人になろうとしているエルランドにさえ、温もりと優しさを伝
えた。
 頭の隅で、はっきりと痛いほどに自覚しながら、神に背く行為をしようとしている自分
がいる。──いや、もともと神なんてものはどうでも良かった。信じてもいない神を裏切っ
たところで、良心の痛みを感じたりはしない。
 今、自分は、誰よりも大切に想う少女と、誰よりもわかりあえていたはずの親友とを、
裏切ろうとしているのだ。
 エルランドの身体に組み敷かれ、少女は状況を把握しきれないのだろう、開きかけた唇
をそのままにただ目を見開いていた。
 誰よりも大切な、愛しい少女。大切に守りたい。けれど、たとえ壊れてもいい、手に入
れたい、自分のものにしたい。
 その2つの感情が、同等のものなのか相反するものなのかさえ、わからなかった。ただ、
彼女を自分のものにしたい、神にもマハールにも渡したくない、自分だけのものにしたい。
それだけだった。
 薄絹の裂ける音が、静寂を貫く。
 泣いて逃れようとするフレルでさえ、どうでもいいかのように思えた。神のもとへは行
けず、愛する男の腕にも戻れずに、彼女が何を想うかさえ、考えられなかった。
 ──ただ、一度でいいから、手に入れたかったのだ。
 自分が心から望むものを、手に入れたかったのだ。
「やっ……だ、いゃ……っ、エル……!」
 涙をこぼす空色の瞳と、乱れた金の髪の美しさを良く覚えている。嗄れた鳴き声と肌の
やわらかさを覚えている。
「フレル……ッ」
 少女の名を呼びながら、エルランドもまた、涙を流していた。



                                  to be continued・・・




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