「エルランド……っ!」
 この世の終わりを見たかのような顔でマハールがやって来た時、エルランドは驚くほど
冷静な心で、自分の罪が露見したのだろうと思った。しかしその諦念は、次に続いた言葉
に打ち消される。
「エルランド、ああ、俺はどうすればいいんだろう……!」
「──、マハール? 一体何があったんだ?」
 縋ってきた身体を受け止めて、訝しげに眉を寄せる。陽隠れの刻の一件を知ったのなら
ば、フレルを堕とした張本人である自分のもとへ助けを求めに来たりはしないだろう。し
かし、フレルのこと以外で彼がこれほど取り乱すとも思えなかった。
 重ねて名前を呼ぶと、鳶色の瞳を揺らしてマハールが顔を上げた。涙ぐんで赤くなった
その目は、女神を手放すことを告げたときと同じようでいて、まったく違う。彼の泣き顔
をエルランドは数えるほどしか見たことがなかったが、今までに見たどんな表情よりもそ
の絶望は深く、悲しみは重く彼を捕らえ押し潰そうとしていた。
「──────────フレルが…………、帰って、来たんだ……………………」
「! ──フレル、が?」
 一瞬はっと息を飲み、次いで驚きの言葉を昇らせた。この期に及んで親友を欺く言葉を
口にできる自分を、冷静に眺めるもう一人の自分がいる。
「ああ。神殿には、上がらないと。神のものにはならないと────“なれない”と言っ
て部屋に閉じこもっているって聞いて、会いに行ったんだ」
「──会えたのか?」
 問いかけるとマハールは小さく首を振った。
「いや、会えなかった。彼女の部屋の扉越しに話をしただけだ。会いたくないんじゃない、
今の自分には会う資格がないんだって、泣きながら言われたら……無理に扉をこじ開ける
ことなんて、とてもじゃないけどできなかったよ」
「一体……何があったんだ?」
 彼女の口から一体何を聞いたのか。尋ねられマハールが再び首を振る。
「何も。──何も教えてはくれなかったよ。ただ、自分はもう神のもとには行けない、け
れど俺のもとに来る気もないと。ただそれだけを言われた。──エルランド、君は何か聞
いていないか? 陽隠れの刻、あの時君も神殿で警備にあたっていたんだろう?」
「ああ、だが…………残念だが、何も、聞いていない」
「そうか……」
 呟いてエルランドの腕を放し、後ずさろうとしてバランスを崩す。手を伸ばして支える
と、マハールは焦点の合っていない瞳でエルランドを見た。
「エルランド、俺は今ほど自分の無力さを悔やんだことはないよ。誰よりも大切なフレル
が何かに苦しんでいるのに、俺には何もしてやれることがないんだ。そばにいることすら
できないんだ……」
「マハール……」
 立ち枯れた樹木のように曇る瞳の色に、今さらのように自らの犯した罪の重さを知る。
自分には、傷心のマハールにかけてやれる言葉などありはしない。
「すまない、エルランド。いきなりこんな話をして。──どうして良いかわからなくて、
君に……いや、誰かに、ただ縋りたかったんだ」
 疲れた笑みを浮かべて、振り切る言葉を口にする。その目はもちろん笑っているはずも
なく。
 何も言えずに立ち尽くすエルランドに別れを告げ、マハールは静かに踵を返した。


 その夜、エルランドは夢を見た。
 陽隠れの刻を彷彿とさせる瞑い空の下、白い羽が舞っている。
 渦を巻くように舞う羽の中心には、白い翼を広げて息絶える一羽の鳥。
 滴る赤い雫を遡るともう一羽。刃物で切り裂かれた喉元を掴まれ力なく垂れ下がってい
る。
 その首を掴んでいるのは。
 神官の、純白の衣装を血に染めた、それはまさしくエルランド自身の姿だった。


「──────!!」
 息をつめて飛び起き、大きく目を瞠ったままわずかずつ息を吐き出す。鼓動が落ち着き
を取り戻しても、胸騒ぎのような違和感は、汗で張りつく衣服のようにエルランドの身体
を覆っている。
 喉の渇きを覚え、水を取りに立ち上がったエルランドは、通りかかった鏡の前でふと足
を止めた。
 横を向いて、目に止まったその光景に、我が目を疑う。
 鏡に映し出された髪と瞳の色とが、記憶にある自分のものと変わっていたのだ。
 部屋の暗さのせいだけではなく、髪も瞳も、確かにその鮮やかさを失っている。何も知
らぬ者から見たらまだ十分な美しさを持ち、輝きが色褪せたことなど思いも寄らないだろ
うが、──何年も見続けた己の姿の変化を、見過ごすはずもなかった。
 しばし呆然としていたエルランドだったが、やがてふとあることに思い至る。
 彼が気づくのを待っていたかのように胸騒ぎは力を増し、背中の痺れるような痛みも増
したように思えた。
 意を決し、目を閉じる。
 音を立てて翼を広げ、鏡に映るその姿を見た時。
 陽隠れの刻の空が、エルランドを襲った。


「──だれ?」
「マハール、……俺だ」
「エルランド!? どうしたんだ、こんな朝早くに……」
 朝焼け前、まだ空が白み始めたばかりの、しかもテラスからの訪問者にマハールはひど
く驚き、それでも快く部屋の中へと招き入れようとしてくれた。それを断り、エルランド
は緊張した面持ちで口を開く。
「マハール、おまえに……言わなくてはならないことがある」
 挑むような眼差しに、マハールも表情を堅くして次の言葉を持った。
「これを……見てくれ」
 言って、ばさりと音を立てて翼を現す。マハールが大きく目を見開いた。
 フレルと並び称される<光>の子エルランドの純白の翼は今、まるで灰をかぶったかの
ような色に変わっていた。陽隠れの刻の空を思わせるような、瞑く重い色だ。
「エ……ル、ランド……? その……姿は、一体……」
 目を瞠り絶句していたマハールが、ようやく言葉を押し出した。その問いには答えず、
エルランドは最初の罪を告白する。
「あの日、──陽隠れの刻、フレルの護りについていたのは、──俺だ」
「なっ、ん……だって?」
「陽隠れの刻、俺はフレルの護りを命じられた。あの日一日、俺は彼女と共にいたんだ」
「なん……、そんな、君は知らないって……。──はっ、まさか、彼女が神殿から帰って
きた理由を何か知っているのか!?」
 伸ばされた手を避けて後ずさる。空しく宙を掻いた手は、そのまま置き去りにされた。
「エル……?」
「あの日、俺はずっと彼女と一緒だった。久しぶりに、いろんな話をしたよ。おまえの話
にもなった。──彼女の、白い翼が、綺麗だった」
 マハールの顔を見ることはせず、斜め下に視線を逸らしたまま呟くように告げるエルラ
ンドを、マハールは食い入るように見つめている。視線が痛い。次のこの言葉を告げたら、
彼は一体どんな眼で自分を見るのだろう。
 痛みを堪えるように目を閉じて、エルランドはひとつ深呼吸をした。
 どうせ変わらぬ過去ならば。いずれ知られる運命ならば。
 せめて自分の口から告げて、せめてもの謝罪を。
「──その白い翼を、俺は地に堕としたんだ」
 低い声が漏れる。目を開けたエルランドの視界に飛び込んできたマハールは、何を言わ
れたのか分かっていないような表情をしていた。
「神のもとへなど行けないように、──彼女を、汚した」
「────ッ、」
 喉を鳴らして後ずさるマハールを、エルランドは冷静に見つめていた。いや、恐慌が過
ぎて麻痺してしまっていたのかも知れない。
「なっ……、う……────君、が……? フレル……彼女を……」
 エルランドが静かに首肯した瞬間、見開かれた鳶色の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「マハー……」
 想わず声をかけようとして、踏みとどまる。伸ばしかけた手を戻し、無言で見つめるエ
ルランドの前で、マハールは幾すじかの涙を流した。
「エルランド……、君が……どうして……。君も、彼女を、……大切に想っていたんじゃ
ないのか……?」
 予期せぬ言葉に表情を堅くしたエルランドに、顔を上げたマハールが再び同じ問いをし
た。どうして、君が。
「フレルは……おまえを想って何も言わないんだろう。──俺は、おまえを想うから、言
いに来た。何も言わずに姿を消すのは……、おまえに、悪いと思った」
 エルランドは、マハールの問いには答えなかった。否、答えられなかった。なぜ──ずっ
と抑えてきた想いを、あの時だけ抑えられなかったのか。どうしてフレルやマハールの気
持ちを思えなかったのか。今となってはもう思い出せない、思い出しても、意味がない。
 わかっているのは、ただ一つの事実。
 自分は、光の女神を汚し、親友の幸せを壊した罪人だということ。
「すまなかった。謝って済むことじゃないのはわかってるが……、おまえにも、彼女にも、
……悪いことをしたと、思っている」
 身体が軋む錯覚。不当に汚されたフレルの代わりに色を変えた背の双翼が、罪の色を濃
くしていく。身体を戒める鎖となる。
「すまなかった。────もう、二度と会うこともないだろう……」
 目を閉じまたひとすじ涙を流したマハールに、エルランドは別れを告げた。踵を返した
その背中を、マハールの声が低く呼び止める。
「エル……」
 彼に、その名を呼ばれたのは久しぶりだった。思わず振り返ったエルランドは、そこに
自らの罪が招いた結果を目の当たりにする。
「許せない、許せないよ……。どうしてフレルを……」
 見開かれた鳶色の瞳は、静かに、しかし深く瞑く、悲しみと憎しみとを湛えて輝いてい
た。
「エル──<光り輝く者>、罪を犯した君に、その名は相応しくない。フレルに二度と会
わないと誓うなら、餞別に新しい名を与えよう……」
 さらに目を見開いて、マハールが叫んだ。
 切り倒される樹木の断末魔のように。裂ける大地の咆吼のように。
「光の女神を貶めた罪人よ、罪に汚れ翼の輝きを失いし者よ、──エレス、俺は君を許さ
ない!!」

                                  to be continued・・・




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