「──フレル。俺だよ、マハールだ。…………何も言わなくていいから、せめて君の姿を
見せてくれないか……」
「ごめんなさい、マハール。私はあなたには会えないの、ごめんなさい……」
 フレルはもう泣いてはいなかった。けれど、断固としてマハールに会おうとはせず、ま
た神殿に上がることをやめた理由を言おうともしなかった。
 頑なに口を閉ざす彼女の誇りを思うと、すべてを知ってしまったと言うこともできず、
マハールはただ為す術もなく立ち尽くすばかりだ。一番大切にしていた少女と一番頼りに
していた親友とを同時に失い、まるで暗闇の中に放り出されたように思える。
「エル……」
 一人、夕焼けを見上げて思うのは、もう二度と会うことはないであろう、親友だった男。
 エル。いつからそう呼ばなくなってしまったのだろう。いつから、彼はどんな想いで自
分たちのことを見ていたのだろうか。
「エル……エレス……」
 己の口から吐き出された呪いの言葉。純白の翼を戒める鈍色の鎖。
 許せない、という想いは変わらない。けれど、そう思う一方で、そこまで彼を追いつめ
てしまった自分を、その不甲斐なさを悔やむ自分がいる。
「エルランド……。────フレル、助けてくれ。神よ、光の神よ……助けてください。
フレルを、エルランドを、……醜い心を持ってしまった俺を……」
 広げられた翼は夕焼けに溶け、朱く染まる大地の色をした髪と共に景色の中に同化して
いる。
 年に似合わぬ思慮深さを備えた瞳は今、重い苦悩を背負わされ、暗く、陰鬱に沈んでい
た。


                    *                  *                  *


 マハールに別れを告げ、エルランド──エレスはハイラントの街を出た。行くあてはな
い。行きたい場所もなければ、したいこともなかった。会いたい人には、もう会えない。
 わずかな路銀を、と思い持ってきた装身具はかなりの値がついてしまい、飢えて死ぬこ
ともできそうになかった。ならばいっそ、盗賊にでも襲われれば良いものを、中途半端に
身体に染みついた剣技がそれも許してくれない。
 償う道を探して生きろということか。
 それとも、
 ただひたすらこの鎖を引きずって生きろということか。
 髪や瞳の色は日に日に濃さを増し、1月ほどで、ほとんど真っ黒になった。翼は、街を
出た時から開いていない。ハイラントでは最多数最有力の種族であっても、一歩外に出れ
ば有翼の民は珍しく、特に精霊の子孫と呼ばれる彼らの美しい羽は高値で取り引きされる
ことをエレスは知っていた。もっとも、今の自分の──おそらく髪や瞳と同様漆黒に染まっ
たこの羽を、欲する者がいるとも思えなかったが。
 それでも、そんな絶望の中で旅を続けるエレスが自らの命を絶とうとしなかったのは、
彼の中に染みついた、ハイラントの信仰の強さ故である。
 二人の人生を狂わせて、二人をこの手にかけたも同然の自分が、さらに自らを殺める罪
を犯すことは許されない。
 あるいは、何かエレスの意識を超えた呼びかけに、導かれたのかも知れない。
 絶望の沼を這いずっても、食い込む鎖に身がちぎれても、どこかにある何かを求めて、
エレスはただ歩き続けた。


 その噂を耳にしたのは、ほんの偶然であった。
 各地で名を変え形を変え、けれど途絶えることなく語り継がれる大陸の伝説。
 まだこの地に豊かな水があった頃の、楽園の物語。そこに暮らす精霊と、心清き者たち。
精霊の子孫、神の民。
 久方ぶりに聞くその単語に、エレスの意識は2つ隣のテーブルに向けられた。
 話しているのは、二人連れのうちの一人。テーブルの上の酒瓶から、かなりの酒を飲ん
でいるとわかる。しかしその口調は淀みなく、眼に宿る光も泥酔者の濁ったものではなく
                       ・・・・
て、──その様子はどこか、「そんな気がする」と断言するフレルを思わせた。
「湖に消えたあの女は、やっぱり水の精霊だったんだ。そうだ、伝説の水の子だったんだ。
俺は、今度こそ、あいつのためにまっとうに生きる決心をしたのに、……一瞬、魔が差し
                      ユル
ちまって……。ああ、俺のメル=アカ、俺の罪を赦し、浄化して、俺をおまえのいる楽園
へ連れていってくれ……」
 がたん! 音を立てて立ち上がり、引き寄せられるように男たちのもとへ歩み寄る。突
                       ウロン 
然近づいてきた見知らぬ男に気づき、聞き手の男が胡乱げな眼差しを向けた。
「すまないが……、今の話を、詳しく聞かせてくれないか」
「今の話? ああ、こいつのよた話さ。逃げた女と伝説を混同してるだけだよ。確かにあ
の女は銀の髪に青い瞳で、湖のほとりで出会ったりしたら精霊と勘違いしてもおかしくな
いような見てくれだったが、その実言葉もろくにしゃべれない気違い女だったんだ。それ
をこいつは、」
「ちがう! あいつは欲にまみれた俺を救ってくれる女神だったんだ!」
 酔った男がエレスに説明する男の言葉を遮りテーブルを叩く。睨みつける眼光は相変わ
らず鋭く、エレスは奇妙な胸騒ぎに似た予感を覚えた。
「──あの女に喰われて、こいつも気が触れちまったんだ。ずっとこんな調子さ。正気に
見えるかも知れねぇが、もう1月近く、同じことしかしゃべらねぇ。あの女のこと、水の
子の伝説のこと、──それだけさ」
 一瞬だけ、哀れみの視線を酔った男に向け、エレスにだけ聞こえる声で男が囁く。
「その、伝説というのは?」
「こいつの婆さんだかが住んでた村に伝わるっていう、ただの言い伝えさ。──昔、この
大陸に水がたくさんあった頃、精霊との間にできた子供には羽があったって話は、聞いた
ことがあるか?」
「ああ、」
「俺は見たことないが、今でもいるらしいな、羽の生えたヤツらが。──で、なんでも、
その中でも水の精霊の血を引く者は、人々の罪を浄化し幸福を与えるとか何とか……」
「<水>の精霊の血を引く者……? ──さっきの、あの男が言ってたメル=アカという
のは、その女の名前なのか?」
 メル=アカ──<水の祝福を受けし者>
 手足が冷えていくような、頭の後ろが灼けるような。五感が冴えるような鈍るような、
目眩に包まれながら、言葉を紡ぐ。警鐘にも似たその感覚は、しかしエレスを引き止める
のではなく、さらに前へと突き動かした。
                             ・・・・
「いや、その伝説に出てくる水の精霊の子孫の名前らしい。俺もまた聞きだから詳しいこ
とは知らん」
「そうか……。──もう一つだけ聞きたい。その伝説の伝わる村がどこにあるか、知って
いるか?」
「ああ? 確か、西の方とか言ってたが……」
「そうか。──感謝する」
 短く礼を述べ、小さな金貨を置いて踵を返すと、エレスは出口に向かって歩き始める。
エレスの背を見送りテーブルに視線を戻した男が、慌てて立ち上がった。
「おっおい! あんた! ──こ、こんなのもらえねぇよぉっ!」
「いや、俺にはそれだけ価値のある情報だった。──感謝する」
 扉に手をかけて振り返り、同じ謝辞を繰り返すと、エレスは黄昏の街並みへと足を踏み
出した。


 <水>の精霊の血を引く者──<水>の子の伝説は、エレスに一抹の希望を与えた。
 どこに伝わるとも知れない、真偽の程も確かでないそんな噂を信じたくなるくらいには、
あてのない旅に疲れていたのかも知れなかった。
 生きる目的となる何かを──たとえかりそめでも幻でも──求めていたのかも知れない。
 <祝福の水の子>を探すことを、エレスは決意する。
 自らのためではなく、この手で幸せを壊してしまった親友マハールと、最愛の少女フレ
ルのために。
 しかし、伝説を追い旅を続けるうちに、日を追うごとに、それはエレスの中で意味合い
を変えていく。
 求めて、求めて、求め続けて、
 身を戒める罪色の鎖を引きずり歩き続けて。
 いつしかエレスは、ただ誰かに愛されたい、救われたい一心で、旅をするようになって
いた。

                                  to be continued・・・




Natural Novel    CONTENTS    TOP

感想、リクエストetc.は こ・ち・ら