第五章 ── 【夢色の恋】


「エル……?」
 メルーカが目を覚ましたとき、空はうっすらと白み始めていた。どこか遠くで小鳥のさ
えずりが聞こえ、まだ何も起こらず平和だった日の目覚めを思い起こさせる。
 エレスは気の幹に背を預けて座り、軽く握った手を見つめていた。その瞳は瞑く凪いで
虚ろで、出会ったときよりももっと深いところにいるように見えた。
「エル……、────ぃたっ、」
 手をついて起きあがろうとして、髪を引っ張られる痛みに顔をしかめる。下を見ると、
長い髪の先を自分の手足で踏んづけていた。
 メルーカの小さな叫びに気づいてエレスが顔を上げる。
「メル……、起きたのか」
「う、うん。……おはよう、エル」
 逡巡の後、ぼそりと呟かれた挨拶に、メルーカはほっと胸を撫で下ろした。
「メルーカ……、調子はどうだ……?」
「え? ──うん、大丈夫だよ、……?」
 首を傾げつつ答えると、エレスはそうかと返して俯いた。その様子に、メルーカは言い
しれぬ不安と戸惑いを感じ、眉をひそめる。
 メルーカ、と、エレスは今そう呼んだ。メルーカの身体を気遣う優しい言葉はいつもと
変わらないのに、たったそれだけで、二人の間に距離が出来てしまったように思う。──
そう、ちょうど、触れるか触れないか、薄皮一枚ほどの、けれど果てしない距離が。どん
なに近づいても触れられない空のように。
「あっ……、エル、手は!? 大丈夫なの!?」
 がばっと顔を上げたメルーカに目を瞠って、エレスは苦笑を浮かべながら両手を差し出
した。
「ほら、この通りだ。外傷はない、気にするな」
「うん……、でも、ごめんね、痛かったでしょう……?」
「おまえが謝ることじゃない」
 頭を撫でようと伸ばしかけた手がぴたりと止まった。エレスの瞳に一瞬瞑い影がよぎり、
手が握りしめられる。
「起きたなら、顔を洗って、メシにするか?」
「うん……。──ぼく、丸一日寝てたんだね。ごめんね、一日無駄にしちゃった」
「謝らなくていいと言っただろう。お前のせいじゃない」
「うん、ありがとう」
 向けられた微笑みの儚さに、エレスは目を眇めた。
 髪が伸びたせいもあるのか、幼さの抜けかけた頬が隠れてやわらかい眼差しが強調され、
表情や仕草のひとつひとつが以前よりたおやかになったように感じられる。触れたら壊れ
てしまいそうと言っては言い過ぎかも知れないが、良くも悪くもメルーカのことを神聖視
しすぎていると、エレスは自覚していた。
 メルーカ──<水の祝福を受けし者>
 エレスの背負う罪を癒してくれる人。エレスの罪を──想いを、赦してくれる人。
 ──赦されるのだろうか。
 メルーカはまだ知らないのだ、エレスの犯した罪を。エレスが最愛の人たちに対してど
れほどの仕打ちをしたか。
 メルーカは、何も、知らないのだ。
 いや、きっとメルーカは、知ってもなおエレスをゆるすだろう。事実を知ったからといっ
て、手のひらを返すようなことはしない。それくらいにはエレスはメルーカを理解してい
るし、信用もしている。
 だが、自分は、メルーカにゆるされ愛される資格があるのか。愛しい人をこの手で汚し
てしまった自分は、いつかまた、今度はメルーカを……。
 それを思うと、メルーカに触れることの出来ない今の状況は、つらくはあるが良かった
のかも知れないとさえ思う。
「エル……?」
 呼びかけに、はっとして顔を上げると、メルーカの顔が間近にあった。
「──どうした?」
 問いかけは、喉の渇きをエレスに教えた。何か言いたげに瞬く大きな瞳を見返すことが
出来ずに目を伏せる。きゅっと握られた小さな手が、メルーカの緊張を表していた。
「メル、どうした?」
 重ねて問うと、メルーカの顔に安堵が浮かんだ。
「ううん、何でもない。……エルが、何か考え事してるみたいだったから」
「ああ、……悪かったな」
 立ち上がり、メルーカを促し泉へと足を向ける。水面に手を触れるとき、メルーカは一
度躊躇ってエレスを見上げた。視線で促され、おそるおそる、再び手を伸ばす。そんなメ
ルーカ以上の緊張を抱えながら、エレスは小さな背中を見つめていた。だが、二人の緊張
を嘲笑うかのように、何事もなく泉はメルーカの手を受け入れる。
 大きく安堵の息をつき、水を掬って口に含むメルーカを見ながら、エレスはひとつの提
案を口にすべきか否か、迷っていた。
 それは、今までのメルーカの好意を無にする提案だった。だが、これからのメルーカを
思うならば、そうすべきだとエレスは思った。エレス自身の旅は──生きる目的は、永遠
に終わりを見ずに、いや光を見ることなく潰えてしまうけれども。
 メルーカの他にも<祝福の水の子>が存在するのならば話は別だ。どこか冷静に考えな
がら、しかしエレスはその考えを即座に否定する。
 今のエレスには、メルーカ以外の<祝福の水の子>など考えられなかった。たとえ存在
したとしても、これほどまでには心惹かれることはないだろう。静かな湖面のように、鮮
やかな風のない日の澄んだ空を映す瞳。今は地に着くほどに伸びた、滝のように流れる蜜
色の髪。いつでも真っ直ぐエレスを見つめて、迷いのない言葉を口にする。エレスは何も
話していないのに、エレスのすべてを知っているかのように、エレスのすべてをゆるすか
のように。
「────エル?」
 再び思考の淵に沈みかけたエレスを、やわらかな声が掬いあげた。
「どうしたの? ……やっぱり、どこか具合悪い?」
 手を伸ばして頬に触れることが出来ないから、その分も補うように覗き込む。夜空より
も深い瞑い瞳の中に、何かを探すように。
「メルーカ。──おまえは村に帰れ」
「……え?」
 エレスを見上げる水色の瞳は、エレスの言葉を弾いて瞬いた。
「今から引き返せば、2・3日でカーラの街に戻れるはずだ。そこまでは送っていこう。
だが、そこから先は、……悪いが一人で帰ってくれ」
「そんな……っ」
 即座に返された言葉は、メルーカが意図して発したものではなかった。
「そんなっ、ちょっと待ってよエル! 何でいきなりそんな話になるの? ぼくを村に帰
して、そしたらエルはどうするのさ!」
「俺の旅は、また振り出しだな。──何か別の方法を探すか、あるいは他にも……」
「他にも……? 他にも、ぼくみたいな人がいるかも知れないって……? あなた覚えて
ないの? ぼくに会って、『やっと見つけた』って、──やっと、って、会ったばかりの
ぼくが聞いてもわかるくらい必死で苦労してやっと見つけたのに、『他にも』……?」
 エレスを見上げる湖面がさざ波立ち、透明な雫が溢れ出した。
「エルは、それでいいの……?」
「メル……」
「もし、ぼくじゃなくて誰かあなたの罪を浄せる人がいて、あなたはそれでいいの? ─
─ぼくはいやだ。ぼくはあなたじゃなきゃ、エルじゃなきゃやだよ。あなただからぼくは
一緒に行こうって思ったんだ。あなただから、ぼくがその罪を癒せるのならって、思った
のに。……やだよ、……ぼくじゃない人が、あなたを……っ」
 ぱたぱたと落ちる雫が、光を放って地面に吸い込まれていく。胸を打つ言葉よりも、そ
の涙の美しさに見とれ、エレスはしばし言葉を失った。
「ぼくは……、あなたと一緒にいたいんだ」
 やがて、まだ少し涙の名残を感じさせる声で、メルーカが呟いた。顔を上げて真っ直ぐ
にエレスを見上げる瞳は、滅多に見られることのない、雨上がりの空の鮮やかさで。
「エル。ぼくはあなたと一緒にいたい。あなたがぼくを嫌いになったのなら、ぼくが邪魔
なら、おとなしく帰るよ。でも、そうじゃないなら、──触れてくれなくてもいい、守っ
てくれなくてもいい、あなたの側で声を聞きたい、あなたを見ていたい」
 ねえ、いいでしょう?
 すがるように見上げながら、メルーカはエレスが肯定の返事を返すことを信じて疑わな
いようだった。
「ああ……」
 触れられなくても側にいたい。それはこっちの台詞だ。
 さっきまでの思い詰めた思考が嘘のように、気の抜けたような晴れやかさでエレスは思
う。
「メルーカ、──メル、もう少し、俺の旅につき合ってくれるか?」
「うんっ!」
 メルーカの満面の笑みを、久しぶりに見たとエレスは思った。




                                  to be continued・・・




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