「迂回した場合の日数からして、そろそろ森を抜ける頃なんだが……」
 固く乾燥させたパンをかじりながらエレスが呟く。
 カーラの街で出会った赤耳族の女将に教わった目印に、二人は3回出会っていた。黒い
森の中、忽然と現れる9本の白い木。3本目と4本目の間を右へ。3回繰り返し、結局エ
レスたちは現在、最初の進行方向から左に向けて、進んでいることになる。
「道に迷ったというわけでもないだろうが、……一度引き返すか?」
 そう言いつつ、エレスはあまり引き返すつもりはなさそうだった。声をかけられ、メルー
カが顔を上げる。
「うーん……たぶん合ってると思うよ。それに、引き返せないし」
 引き返せない。
 メルーカの言い方を、エレスは聞きとがめた。
「ええと……、あのね、最初は気のせいかと思ってたんだけど、そうじゃないみたい。こ
の森の中の道、一方通行になってるんだ。前にぼく、道を外れたところはイヤな感じがす
るって言ったよね。この道、ぼくたちが今まで通ってきた道だけど、後ろの方は、もう、
そんな感じだ。引き返しちゃいけないって、後戻りはできないって言ってる」
 動き始めた運命には、後戻りは許されない。
 目指す場所へ、あるべきところへ辿り着くまで。
 どこか遠くを見るような眼差しで、メルーカはエレスに告げた。その様子は、エレスの
記憶の中、ハイラントの街で、神の言葉を告げる光の女神の姿とだぶる。メルーカの、長
く伸びた髪の金のきらめきが、その言葉により強い力を与えているように思えた。
「引き返せない……。──光の託宣か」
 あまり長い髪は、旅の道行きには不便である。目覚めにより、地に着くほどに伸びた髪
を、メルーカは自分のナイフで肩のあたりで切りそろえた。初めて会った頃の長さだ。だ
が翌朝目覚めると、メルーカの髪は背の中ほどまで伸びていた。もう一度同じことを繰り
返し、メルーカは肩をすくめて髪を切るのを諦めた。
 フレルとちょうど同じくらいの長さだ、エレスは思ったが口には出さなかった。
「メル、」
「うん。なぁに、エル?」
 フレルとの共通点を見出すたびに、エレスの中で、二人の差異はいっそう大きくなって
いく。確実にメルーカに惹かれていく自分を、エレスは自覚していた。定められた川の流
れのように、星々の巡りのように。
 しかしそれはゆるされないことだ。鈍色の鎖に縛られた胸が、また痛みを訴える。
 ゆるされない想い──日々増していく愛おしさ。
 メルーカはゆるすかも知れない。いつか思ったことを、エレスはまた思った。メルーカ
はゆるすかも知れない。フレルや、マハールでさえも、エレスの過去の過ちを、そして現
在の想いをゆるすかも知れない。けれど誰がゆるしたとしても、エレスはゆるされないの
だ。罪を犯した自分自身を、エレスは忘れることはできない。
 身体の奥底でかすかな音がして、髪が、翼が、きしりと痛んだ。
「──エル?」
 再び呼ばれ、はっとする。自分から呼びかけたのを忘れていた。瞑く光った黒曜の瞳に、
メルーカがもの言いたげに瞳を揺らし、かすか開いた唇が、ぎゅっと噛みしめられた。


                    *                  *                  *


 それは唐突に、二人の前に現れた。
「エル、見て! あれ……っ!」
 前方の光を指差し、メルーカが振り返る。
 光。それは、森が途切れたことを意味する。急いで走り出そうとするメルーカを、エレ
スは制した。
「メル、待て。カーラの村とは限らない。例えそうだとして、俺たちが歓迎される保証が
どこにある」
 エレスの言い分はもっともだった。メルーカはしゅんとして、おとなしくエレスの後ろ
についた。
 木洩れ陽とは違う大量の陽差しがいっぺんに襲いかかり、その衝撃に二人は反射的に目
を眇めた。うす暗い森の中に慣れた目が、許容量を超えた明るさに悲鳴をあげる。何度か
の瞬きの後、メルーカはぽかんとした顔になった。
「あれ? ここ……、なんか……」
 ぼくの村に似てる。
 森の中、木々に護られて。ここからではまだ民家は見えなかったが、小径の向こうから
伝わってくる雰囲気は、小さいながらも豊かな集落のそれだ。
「エル……、どうする、行く?」
 エレスを見上げ、メルーカが尋ねた。見下ろして、エレスが小さく頷きを返す。何か危
険が待ち受けているなら、メルーカが感じ取っているはずだった。だがメルーカにそんな
素振りはない。自ら飛び込んで行こうとしたほどだ。用心するに越したことはないが、心
配は無用のようだ。
「このまま突っ立っていても話は進まないからな。後ろに戻れないなら道はひとつだ、先
へ進もう。ただ、気は抜くなよ」
「うん」
 しばらく歩くと、人の声が聞こえてきた。数人が集まって話をしている気配がする。
「村に近づいてきたみたいだね」
 期待を抑えきれない様子で、メルーカが呟いた。逸る心を抑え、エレスは殊更ゆっくり
と足を運ぶ。過剰な期待は、失望につながる。──いつの間にか、そんな考えが身に付い
てしまった。幼い頃から、そう多くのものを望む性質ではなかった。望む前に、与えられ
てしまっていたせいもある。学業や剣術なども、血の滲むような努力をして身につけた覚
えはエレスにはなかった。それだけに、初めて心から望んだものを手に入れられなかった
事実は、犯した罪と同じくらいに重く、エレスにのしかかっている。
「エル……?」
 答えないエレスの背に、メルーカが再び声をかけた。この旅の間、ずっと見つめ続けて
きた背中だ。その思考までは読めなくとも、大まかな感情の動きは感じ取ることができる。
 緊張してるんだ、メルーカは思った。
 いよいよ森を抜けたのだ。この先に待つのは、伝説の、カーラの村。凶暴さで名を知ら
れ、夜盗のような生活をする赤耳族が、なぜか定住の集落を作り、他の民と同じように暮
らしていると言われる村だ。エレスが集めた情報からどんな手がかりを得てこの村を目指
すことを決めたのか、ここに何があるのかは知らないが、メルーカは確かにこの村が自分
たちを呼んでいるのを感じていた。カーラの街でも感じた、森の奥へと誘う声、それはこ
の村に待つ何かの声だったのではないかと、メルーカは思った。今、村への入り口を前に
して、メルーカたちを引き寄せる何かの力は、確実に大きくなっている。
 それだけに、エレスの過度の緊張は、メルーカには不可解なものだった。メルーカの中
には、この先に待ち受けるものが絶望であると考え身構える習慣はない。
「……エル? あのさ、ちょっと待って」
 三度呼びかけて立ち止まる。足を止め振り返ったエレスに、メルーカは自らの胸を押さ
えて息をついた。
「なんか、緊張して来ちゃった。──ちょっと深呼吸させて」
 手をつけて、大きく呼吸を繰り返す。その場で2・3度飛び跳ねて、メルーカはエレス
に微笑みを向けた。
「うん、大丈夫。お待たせしました」
 エレスは面食らった様子でメルーカを見つめていた。おどけた言い方に小さく笑うと、
肩の力が抜けるのを感じる。エレスにとっては、それは深呼吸よりも効果的だ。メルーカ
に気を遣わせてしまったと、エレスの笑みはかすかな苦笑に変わった。
「──行くぞ」
 礼の言葉は口に出さず、何事もなかったかのように身を返して歩き出すエレスの後ろ姿
は、常の調子を取り戻していた。




                                  to be continued・・・




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