カーラの村を訪れた次の日にはすでに、メルーカはマーレを始めとした村の子供達と仲
良くなっていた。
 朝早くからの出迎えに呼ばれて森に姿を消し、陽が傾くまで帰らないことも多い。始め
こそエレスを一人残していくのを躊躇う素振りを見せていたが、すぐにメルーカもマーレ
たちの来訪を楽しみにするようになった。
 その結果、エレスは一人で過ごす時間が増えた。散策に出かけた先で出会った村人と話
をすることもあるが、部屋の中や森の片隅で、一人静かな時を過ごすことのほうが多い。
 エレスは今までの旅路を振り返っていた。今までの、自分の生き方を。そして直接には
知らない、自分と出会う前のメルーカの暮らしに思いを馳せた。
 メルーカが言うには、この村は、メルーカの故郷・サン=ヴィータの村に似ているらし
い。メルーカを攫ったあの日、あの朝のわずかな時間の光景しか知らないエレスにも、そ
う言われてみるとどことなく雰囲気が似ているように思えた。何か神聖なものに護られて
いる気配がするのだ。
 もしかすると、過去にこの村に<祝福の水の子>が現れたことがあるのかも知れない。
そう思ってから、エレスはそれはありえないだろうと思い直した。この村は赤耳族の村だ。
精霊の子孫とも神の民とも謳われるエレスたちの種族とは関わりがない。神の民は皆、透
ける陽差しのような淡い色の肌を持つ。対する赤耳族の、まるで乾いた血痕のような肌の
色。あんな肌を持つ種族は、大陸中探しても彼らしかいないはずだった。古くより、殺戮
と略奪を繰り返し、他種族の血を浴び続けた証拠だと言われている彼らの身体。神の民の
ように翼を持つ者がいるという話も、何か精霊の加護を得ているような話も聞いたことが
ない。
 ではこの符合は何だ。エレスは自問した。他の種族に崇められ尊ばれる神の民と、忌ま
れ恐れられる赤耳族。正反対のようでありながら、両者はともに、その特異性から強い選
民思想を持つものが多い。傲慢で、閉鎖的で、……そして臆病なのだとエレスは思った。
血の色をしたこの大地のように、神々の、精霊の祝福から見放されているのかも知れない。
 ──そして繰り返すのか。同じ罪を、また。
 メルーカの笑顔が脳裏に浮かんだ。我に返り、瞬きをして、エレスは小さく息をついた。
メルーカのおかげで前向きな思考が身についてきたと思っていたが、どうやらそういうわ
けでもないらしい。エレスが思い詰める前に、メルーカが声をかけて瞑い思考を中断させ
てくれていたのだ。メルーカという存在が与える影響の大きさを、エレスは改めて思い知
った。
『大切なもの、きっと見つかると思うよ』
『答えはお主が自分で見つけるものじゃ』
 メルーカの言葉が、カーラの村の長老の言葉が思い出される。続いてディンナの村長を
思い出し、エレスは思わず顔をしかめた。
 エルカント。こんなところでその名を聞くことになろうとは。エレスの中で、村長の銀
月の髪が太陽の色に変わっていく。漆黒に近い闇色の瞳は鮮やかな青へ。──それは、長
の隣にいたアーディという名の女性とほぼ同じ色彩だった。
 と、その時、かすかに茂みが動く気配を感じた。振り向くと同時に剣に手をかける。驚
いて立ち竦んだ人を認め、エレスは息を吐き出し緊張を解いた。眉が寄るのは致し方ない、
タイミングが悪すぎだ。
「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
「いや……、こちらこそ済まない」
 ぶっきらぼうに謝罪の言葉を呟くと、アーディは穏やかな笑みを浮かべた。


「この村には慣れました?」
「……ああ、そうだな。想像していたのとは少々違うが、まあ、こんなものだろう」
 エレス自身、未だに反応を決めかねているのだ。肩すかしを食らったような戸惑いは否
定できない。隠さずそう告げるとアーディは小さく笑い声を洩らした。
「噂は成長していきます。各地に残る伝説も、ある部分だけが誇張されて広まったものが
多い。──赤耳族も、一部には噂通りの人たちもいますが、特に他の種族と変わりはあり
ません」
「そのようだな」
 相槌を打つと、アーディも大きく頷いた。明るい金の髪が光を反射(かえ)す。エレス
は以前から気になっていたことを尋ねてみることにした。
「つかぬ事を訊くが、──君は、この村の生まれなのか」
 エレスの問いに、アーディは微笑みを返した。潜む想いを読みとろうと、エレスの表情
が真剣味を増す。
「いえ、私はおそらく赤耳族とは血縁はありません。赤子の頃、森の入り口に置き捨てら
れていたのを、エルカントが見つけたんだそうです」
 親代わりでもあるのだと語るその口調からは、村長への思慕が感じられた。
「私の他にも、赤耳族の血の流れていない者はいます。それに、──マーレをご覧になっ
たでしょう、混血児も多いのです」
「赤耳族は排他的だと聞く。この村は、他種族を受け入れるのか」
「私たちに害をなすものでなければ。もっとも、悪意を持つ者は、村まで辿り着くことは
できませんが」
 白き光の導き、と彼らの言う、森の中の道標。道を外れれば、仕掛けられた罠に命を奪
われる。受け入れる、という表現は適切ではなかったと、エレスは驚きを収めた。
「物騒だな」
「正当防衛です。──奪われるかなしみを知る者は、少ない方が良い」
 奪われるかなしみ。
 言葉は剣となり、エレスの胸を突いた。鮮やかな金の髪がフレルを思い出させるせいか、
それともその確かな口調か。
「エル。あなたなら、光の神の声を聞くことができるはず。恐れずに、己の内なる声に耳
を傾けてください」
 目を瞠るエレスを、アーディの藍色の瞳が見つめ返した。
「誰が、何を望んでいるのか、見極めることと、一歩を踏み出すことがあなたには必要で
す」
「アーディ、君は……!?」
 立ち去ろうとするアーディの腕を、エレスは掴んだ。
「アーディ、待ってくれ。もうひとつ答えてくれ。この村の民はなぜ古き言葉の名を持っ
ているんだ。赤耳族の村だろう、なぜ翼持つ民のような、……っ!?」
 たたみかけるエレスがふいに言葉を途切れさせる。
「これが答えです」
 アーディは静かに微笑んだ。その背には、いくらか小さくはあるが確かに羽が、神の子
とも精霊の子孫とも言われる民の血を引く証である翼があった。淡い緑のその羽の色は、
木洩れ日の中に佇む彼女によく似合っていた。
「そんな……ことが……」
「私だけではありません。この村に住む者の多くは、こうして翼を持っています。飛ぶこ
とはできないので見せることは滅多にありませんが。──自ら狩られる理由を増やす必要
はないでしょう」
「赤耳族との、混血……?」
 神の民と、赤耳族と、そしてその他の多くの種族と。交わりながら、外見的な性質を多
く継いだ子供は忌まれ、手放される。語り継がれる伝説の中の、その強すぎる力が故に。
今では純粋な血統を保っている一族でさえ、精霊と心通わせ神の声を聞くことのできる者
はそう多くないと言うのに。噂は誇張され、成長していくのだ。
 呆然と呟いたエレスを見つめ、アーディは翼を収めた。
「これ以上、私からあなたに言えることはありません。本来なら、これも、私ではなく長
が告げるべきことです。そのための名ですから」
 エルカント。
「光を……────神の名を謳う者、か」
 エレスの脳裏に二人の男の姿が浮かんだ。
「やはりご存じなのですね」
「……知り合いに同じ名を持つ者がいる」
「お知り合い? あなた自身ではなくて?」
「俺じゃない。────俺の、親父だ」
 小さく早口で告げて、エレスは眉をひそめた。
「もうやめないか、名前の話は。あまり良い思い出がない」
 顔を背けたエレスに、アーディの表情がわずかに咎めるものになる。
「でも、あなたはその名を──封じられた元の名を取り戻すために旅をしているのでしょ
う?」
「名前はどうでもいい。今では、姿ももう。ただ俺は犯した罪を浄(おと)したいだけだ。
──だが、結果として罪を浄せば、名も姿も元に戻ることになるな」
 自嘲に唇を歪めたエレスを睨み、アーディは唇を噛みしめた。穏やかな彼女が初めて見
せる激しい感情だ。
「エルカントは一目見て、あなたを光の子だと言ったわ。──どうして運命から目を逸ら
すの? 目の前の真実を見ようとせず、頑なに目を瞑るの? わざと遠回りして、結果が
出るのを遅ら、──っ!」
 向けられた鋭い眼光に射竦められて、アーディは言葉を途切らせた。
 一瞬の怯えを見て、エレスが握った右拳をゆっくりと開く。
「──すまない」
 低く呟かれた言葉は感情の伴わない形式的なものだ。しばらくして、エレスはもう一度
同じ言葉を、今度は心を込めて口にした。
「……おそれているのね」
 アーディの言葉には、明らかな哀れみが感じられた。
「この旅が終わるのを。終わりの時が来るのを、結論が出てしまうのを。──逃れられな
いのに」
「そうだな。あの白い道と同じだ」
 後戻りすることは許されない。在るべき場所へ、辿り着くまで。
「終わりに待つのが、悪いことだとは限らないのに?」
「ああ……、そうだな。だが俺は……、俺は、万が一が怖いんだ」
 もし。
 例えば、罪を浄す方法を見つけたとして、それがメルーカの命を代償とするものだった
ら。
 例えば、罪を浄す前に、何らかの形でメルーカを失ったら。
 例えば、無事罪を浄せたのだからと、約束通りメルーカが村へ帰ることを望んだら。
 マハールとフレルの存在がすでにこの世から失われている可能性もあることに、エレス
はようやく思い至った。もし万が一、フレルが新たな命を宿していたら、そしてあの日の
出来事を誰にも話していないのなら、疑いをかけられるのはマハール以外にない。彼らが
婚約までした恋人同士だったことは周知の事実だ。もしそうならば、ふたりは厳しく裁か
れているはずだった。
 なぜその事に今まで思い至らなかったのかという思いとともに、もしそうなったらと想
像した際の自分の感情に、エレスはすっと目を細めた。黒い鉛の瞳に瞑い光が疾走る。
 マハールとフレルを失ったら。
 それはそれでショックだが、メルーカを失うことに比べれば、その衝撃はわずかなもの
だ。
 エレスはそう思ったのだ。
 思って、エレスは自嘲した。ほら、こんなにも自分は罪深い。あんなにも大切に思って
いた人たちを、自らの手で不幸にしておきながら、別のものが大切になった今は、彼らが
どうなってもいいとさえ思っている。彼らのために、彼らに償うために罪を浄す方法を探
し始めたというのに。
「──それだけ、あの子が大切なんですね」
 そよ風の気配に、エレスは我に返った。アーディの声は、穏やかさを取り戻していた。
「あの子が、ただ<祝福の水の子>であるというだけでは、そこまで執着したりはしない
でしょう」
「………………ああ」
 長い沈黙の末、エレスは小さく頷いた。我が子を褒める親の手のような優しさで、風が
エレスの頬を撫でる。
「ひとつだけ、私から助言を。風の音を──神の声を<聴く者>から、あなたへ」
 アーディは静かに言を継いだ。
「かすかな声にも耳を澄ませて。あなたなら聞くことができるはずよ。あの子の、そして
あなた自身の心の声を、真の望みを。闇を抜けた先、光の地に辿り着くための鍵を」
「! ──アーディ、」
                           ・・・
「メル=アカはもう選んでいるわ。決めるのはあなたよ、<エレス>。──いえ、今は
<エル>なのね」
 目を瞠るエレスを置いて、アーディは茂みの向こうに姿を消した。そよぐ風に、エレス
は今しがたの台詞を反芻する。
『闇を抜けた先、光の地に辿り着くための鍵』
『決めるのはあなたよ、<エレス>』
「声を、聴く者、……か」
 小さな呟きが風に溶けた。


                                  to be continued・・・






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