3


 西本春樹。
 K学院からの転入生。それに見合うだけの成績と家柄。すでに親しい友人が数人。絵に
描いたような優等生。
 “最近頭に浮かぶのは、こいつの事ばかりだ”
 まだ誰もいない教室で、冬真は窓辺に寄りかかって彼の隣の席を見つめた。
 机の中は空のはずだった。律気に全部持ち帰っているらしい。
 “何がこんなに気になるんだろう”
 自分と正反対だからだろうか。
 自分の喫煙を注意した少年。家族にも友人にも自分にも恵まれ、辛い事など無いような
顔をして、頑固に唇を結んでいる。彼の前には洋々とした輝ける未来とやらが広がってい
ることだろう。
 冬真は、先日仲間の一人に聞いた彼の転校の理由を思い出していた。
『冬真、ちょっと聞いたんだけどよォ』
『何だ』
『西本がさ、ウチに転校してきたのって、先輩を殴って病院送りにしたって……』
『誰に聞いた!?』
『に、西崎さんが、その人の知り合いだとかで……』
『お前、それ、誰にも話すなよ』
 “誰にも話すなよ、か。──口止めしてどうすんだ。脅迫でもするつも……、! 西崎
……!!”
   サトル
 西崎聡、彼もよく人の弱みにつけ込むようなことをするが、彼が強要するのは…──。
 春樹が西崎に強姦される場を想像して、冬真はその光景にひどくショックを受けた。気
に入らない優等生が堕としめられる──ザマァミロとでも言いたい気分だったが、それが
西崎であるのは許せなかった。
 “俺がやってやる”


 無理矢理抱いた春樹は、冬真の予想通りの反応を示した。他人に辱められたことなど無
かったのだろう、燃えるような目をして。
 彼の転校の理由は本当だったらしい。そのことを口に出すと抵抗が弱まる。悔しさに呻
く姿は、余計に冬真を煽り立てた。
 激情が去ってしまうと、ふいに外気の寒さが甦る。うすく汗の光る肌を見つめてこぼれ
た言葉。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
 気に入らない優等生──何かが変わってゆく予感がした。


          *         *         *


 雪が降っている。皆が活気づく年の暮れ、冬真は一人、部屋の窓から外を見ていた。
 今年の冬休みは、今まで以上に長く感じられる。冬は他の季節よりも時の流れが遅くな
るような気がして、冬真はどうしても好きになれない。自分の誕生日もやってくるから、
余計に嫌いだった。別に幾つ年をとろうと構わないけど。生きてるものの気配の無い冬景
色は、薄情な母親の言葉を思い出させる。
 ふと、春樹の顔が浮かんだ。あいつはきっと自分に会わなくて済んでほっとしているだ
ろう。そして、暖かい家庭で、毎日真面目にお勉強でもしているんだろうか。
「西本、春樹──」
 呟きが、静かな室内に浸み透っていった。


          *         *         *


「よお、西本。久しぶりだな」
 新学期、出会い頭そう声を掛けてやると、春樹は露骨に嫌な顔をした。予想通りのその
反応に、冬真は口端を歪めて嘲笑を浮かべたが、胸の奥には別の感情が広がっていた。そ
れが許せなくてよりひどく春樹を傷つけようとする自分と、それを必死になって止めよう
とする自分がいた。
 荒い息をつく春樹を抱きしめた時の、あの気持ち。あんなことしなけりゃよかった、早
くも小さな芽を膨らませている樹々に言葉を投げつける。この季節は冬よりも嫌いになっ
た。新しい生命が芽吹く季節。始まりの季節。
 “始まりどころか……”
 絶望だ、と思い、冬真は小さく笑いを漏らした。せつなげな笑いだった。春樹を抱きた
い──今までのようにではなく、もっと優しく。
 想いを告げたら、彼はどんな顔をするだろう。そんなのは、容易に想像がつく。受け入
れられるはずがない。
 “あいつは、ただの、気に入らない、優等生だ”
 冬真は、そう自分に言い聞かせた。



     4


 二年になっても彼と同じクラスというのは、運命の皮肉としか思えない。
「また同じクラスだね、よろしく西本。──桂木も、一緒だけど」
「何の因縁があるっていうんだ……!」
「このクラス、かなり運が悪いよ。ホラ、去年他のクラスにいた奴等も……」
 イイダ
 飯田の言うとおり、去年一年間で教師に「不良」のレッテルをはられた──つまり素行
のよろしくない生徒の中でも目立つ部類の人間がこのクラスに集まっている。当然、桂木
冬真もその中の一人だ。ただし、彼はなまじ成績が悪くないだけに、先生方も扱いに困っ
ているらしい。
「まあ、席が離れてるのがせめてもの救いだね。出席番号順だからさ」
 そう言われて春樹は頷いた。まさかその翌日に席換えが敢行されるとは知らずに。
「──よお、よろしく、西本委員長」
「…………!!」
 嘲笑うような目を向ける冬真に、春樹は拳を震わせた。


          *         *         *


 その日は西本春樹にとって最悪の日だった。
 駅までの道のりを歩きながらひとりごちる。
「ったく、朝っぱらから何て夢見の悪いことか」
 不機嫌の理由は、今朝がたの夢である。


 ──そこは、いつもと同じ教室だった。
 最近、教室は禁域となりつつある。隣席の桂木冬真のせいだった。春樹は彼にちょっと
した弱みを握られている。だからといって、あの行為を甘受するほどのことではないので
は、と思いついてしまったのが、そもそもの発端だった。
 “じゃあ、何で俺はあいつをつっぱねないんだ?”
 すっと浮かんだ理由は、しかし、否定されて然るべきものであった。
 “まさか、俺があいつとの関係を望んでいるのか? 俺が、あいつを好きだと言うのか?
 ……はっ、冗談!! 虫酸が走るぜ。奴も俺も男だ、どうこうなるわけがない”
 そう言えば、三時限目がもうすぐ終わろうというのに、今日はまだ彼の魔手が伸びてこ
ない。喜ぶべきことのはずではあったが、何故か気にかかり春樹は隣を盗み見て──、
「お、おい、大丈夫か?」
 冬真は眉をしかめ、頭を押さえていた。春樹の大声にクラス中の視線が集まる。
「どうした、桂木──二日酔いでもしたか」
「先生、お、僕、保健室に連れていきます」
 有無を言わせず春樹は冬真を保健室へ引きずっていった。
「──ちっ、ったく、お節介なヤローだ」
「頭痛いのか? 薬飲む?」
 保健室のベッドで横になりながらも文句をたれる冬真をのぞき込んで春樹はたずねた。
「いらねえよ。寝てりゃ治る」
「君って頭痛持ちだったの?」
「阿呆、ただの二日酔いだよ」
「桂木」
 春樹の声のトーンが下がった。前髪をかき上げるようにして額を押さえていた冬真が目
を上げると同時に、顔の両脇に腕をつく。
「桂木、俺は真っ剣に心配してたんだぞ!!」
 冬真はまず目をみはり、それから吹きだした。
「何がおかしい!」
「西本、おまえ大切なことを忘れてるぜ」
 口を開く前に唇を窒がれた。
「今日は上等なベッドがある。うちの奴らは保健室なんて使わねーから誰も来ない。いい
シチュエーションだ。おまけに羊さんのほうから喰われに来たか?」
 いつにも増して、皮肉げな口調。その中に、春樹は自嘲的な影を感じた。何とも言えな
い奇妙な感情が胸に沸き起こる。気がつくと春樹はその問いを口に出していた。
「桂木、君はどうして俺を抱こうとするの? 俺に手を出すのは何故?」
 “何を言ってるんだ、俺は……?”
                ・・
 冬真の顔に動揺が走った。春樹は確信した。
「もし君が俺を好きだと言うなら、俺は君に抱かれてもいい」
「な……っ。くっ、どうした心境の変化だよ、優等生の西本クン」
「今なら君のその態度も虚勢を張っているだけだとわかるよ。──桂木」
 そして重なる唇。唇が離れると、冬真は春樹をベッドに引き倒した。春樹は、待ってい
る。彼の言葉を。彼の身体を。
「本当に、いいんだな」
「俺のこと好きなら」
「ああ。一目惚れだ」


 初めて、冬真に抱かれたと思った。犯されるのではなく。彼の愛を感じた。唇に、胸に、
体じゅうに。彼の愛撫に奔弄され、淫らなよがり声をあげる自分の姿さえ美しいものに思
えた。彼が自分の中で果てる時、春樹もまた絶頂を迎え、意識は闇に飲み込まれた……。


「──ったく、何て夢だ」
 本日すでに数十回目の台詞である。彼の感触が、自分の声が頭から離れない。そんな自
分に不機嫌になりながらしぶしぶ登校した春樹だったが、教室にはいつも先に来ているは
ずの冬真の姿が見られなかった。担任から桂木冬真の欠席の旨を聞き、何故かしら安堵の
ため息をついた自分に気づいて春樹はさらに不機嫌になった。そして、そんな落ち着かな
い気分のまま、春樹は冬真のいないその日一日を過ごしたのである。



     5


 二年になっても、冬真と春樹の関係は続いた。冬真は全く節操というものがなく、授業
中でも仕掛けてくる。
 だから、学期が変わり席換えによって彼の隣席から開放された時、春樹は言葉では表せ
ないほど安堵した。──結局、何一つ変わることがないことを知っていても。
 今回、春樹は廊下から二列目の前から五番目、冬真は一番窓側の前から三番目だ。春樹
の席からは冬真の席がよく見える。春樹は、自分が授業中にしばしば彼を見ていることに
気づいていない。彼は、よく授業をサボったし、来ていても寝ていることも多かった。遅
刻もしょっちゅうだ、学校には春樹より先に来ているくせに。
 ぼんやりと窓の外を見つめる後ろ姿、たらたらとくだらない演説をぶつ教師を眺める冷
めた目つき、時々見せる、真剣な表情──。そういえば彼は最近窓の外を見ていることが
多くなったと春樹は思った。
 彼は、良くも悪くも皆に認められている。素行はよろしくないが、成績は、悪くない。
勉強は別に嫌いではないらしい。大事なところでやるべきことをきちんとやる。彼は、彼
の周りに集まる人間達とは明らかに違った。
「──また、アイツラ来てるよ」
 昼休み、春樹の前の席の飯田が振り向いてそう言った。大げさに眉をしかめている。
 春樹は、何の関心もない風に「そうだね」と答えた。
 アイツラ、と言うのは例によって冬真の仲間達である。見ると、冬真の周りを五人の男
たちが囲んでいた。その内二人は三年生──その一人に、春樹は見覚えがあった。あの時、
春樹を呼び出した中の一人だ。
 冬真は、ツメエリのボタンを全てはずして、その下のシャツのボタンまで半分近くはず
している。長い脚を机の上に邪魔そうに投げ出して、浅めに椅子に座っていた。
「──冬真、お前たまにはやらせろよ」
「やだね」
「なんだよ、コイツは良くてオレはダメか?」
「オレのは口止め料だよ。なぁ冬真」
 冬真は同意を求めた男──西崎──を鼻で笑うと、髪をかき上げるように手を持ち上げ、
その指の隙間から西崎を見据えて口を開いた。
「西崎さん、俺あんたとやった覚えなんかないけど?」
「これからやるんだよ」
 そう言って西崎は顔を寄せてきた。ふいと顔を背けた冬真の顎を掴んで上向かせる。い
ささか不機嫌になった西崎は、顔を間近に寄せ、冬真の目を見据えながら周りの四人に聞
こえるくらいの声で囁いた。
「こっちはお前のおかげでエモノを逃したんだ。あの、おカタイお姫さんをね」
「それで、俺に代わりになれって?」
 答えずに、西崎は冬真の唇を窒いだ。今度は、冬真は逆らわなかった。
 がさついた大きな手が、はだけた胸元から侵入してくる。冬真は、抵抗もせず応じもせ
ず、ただされるがままになっている。
 その周りでは、四人が好色そうな眼差しを冬真に向けていた。
 それを見て春樹は衝撃を受けた。何とも言えない、胸がムカムカするような感覚だった。
「──もう止めろよ、教室だぜ」
 しつこく胸をまさぐる西崎を冬真は押し返した。その瞳には、何の感慨も現れてはいな
かった。
 時計を見て教室を出ていく西崎達に、飯田は嫌悪と侮蔑の入り混じった眼差しを向けた。
冬真は、何事もなかったかのように窓の外を眺めている。
 春樹は、なぜか無性に腹が立って、同時になぜか悔しかった。



NEXT PAGE



Natural Novel    CONTENTS    TOP