6

 席換えによって席が離れてからも、冬真は今までと全く変わることなく春樹に受け入れ
を強要してきた。けれど、辱めを受けながら、春樹は彼が時折見せる動揺と、それに伴う
自分の変化を感じ始めていた。
 “あの夢を見てからだ”
 英文を耳を素通りさせながら、春樹は考える。二年になってしばらく経ったときだった。
あの夢を見たのは。
『気に入らねぇな、優等生』
 そう言って酷く責めたてたかと思うと、ふいに優しく包むように抱きしめ、また冷たく
つきはなす。
 最初、なんてひどいヤツだ、と思った。西崎たちに輪姦されそうになったのを助けたの
は確かに彼だったが、それを逆手にとって自分を辱めたのも彼なのだ。自分がもう二度と
揉め事を起こすわけにはいかないことを承知で、体を強要して自由を奪った男は、少しず
つ、春樹の内で変化していった。本人たちも気づかないほどに、ゆっくりと、密かに。
 西崎の口づけを無表情に受ける彼を見て、自分は衝撃を受けた。あれは、なんだったの
だろう。
 “あいつはどうして俺を抱こうとするのだろう?”
 許せないと思っていた頃から何度も心に昇っていた疑問。他にも方法はいろいろあるは
ずなのに。そういえば、夢の中でも訊いたと思った。
『もし君が俺を好きだと言うのなら、俺は君に抱かれてもいい』
 “なぜそんな事を訊いた? なぜ俺はそんな事を言ったのだろう? そして、あのとき、
桂木は……”
 自分で自分がわからない。彼の本心が掴めない。
 けれど。このままにしておくわけにはいかないと、心の何処かが告げたので。
 突然鳴り響いたチャイムにぎくりと肩を震わせてしまってからも、春樹はまたぼんやり
と考えていた。
 “訊いて、みようか……、桂木に”


          *         *         *


 委員会を終えて教室に戻ると、誰もいないと思っていた教室には桂木冬真の姿があった。
 彼は机に腰掛けてまた窓の外を見ていたが、人の気配にゆっくりとドアを振り向いた。
春樹の姿を認め、軽く目を見開いた後、
「よォ、精が出るな、西本委員長」
 人を馬鹿にしたように口を歪めて笑った。彼の斜に構えた応対にも随分慣れてしまった
自分に気づく。
「こんな時間に、何をしてるんだい?」
 時計は五時半を指している。一人で過ごすには、二時間はあまりにも長い。
「……別に。何もしてねえよ」
 冬真は何気なく視線を窓に戻しながら、ドアの前に佇む春樹に声を掛けた。
「いつまでそこにつったってんだよ。荷物取りに来たんだろ?」
「あ、──うん」
 それでも春樹が教室内に入るのをためらっていると、
「別に襲わねえから安心しろよ」
「べっ別にっ、そんなんじゃ」
「早くしねぇと気が変わるかも知れないぜ」
 見透かされた悔しさに頬を染める春樹を見て、冬真は軽く鼻で笑った。
 ファイルを鞄にしまい、それを持って教室を出ようとして、春樹は思い出したように顔
を上げた。
 “訊いて、みようか”
 口を開き、閉じる。を三回繰り返して。
 春樹は覚悟を決めた。数歩近づいて、窓の外を眺めやる冬真に声を掛けようとしたとき、
「なんだよ?」
 冬真が振り向いてしまった。知らず、顔に血がのぼる。
「あのさっ! え……っと」
 “な、なんて言えばいいんだよ?”
 君は俺のことを好きなのか。なんて、いきなり訊くわけにはいかない。
 春樹は言葉を探して口ごもる。その姿を見ていた冬真の顔に一瞬くらい影が走り、そし
てそれを打ち消すように、残酷な笑みが現れた。
 気づいて春樹が顔を上げる。冬真は一層濃い笑みを浮かべて、歪めた唇から言葉を放っ
た。
「──そんなに、俺に抱いて欲しいの?」
「な……っ」
 突き放した口調に自分への蔑みを感じ、春樹は怒りに震えた。
「抱いて欲しいんなら、抱いてやってもいいぜ。──どういう風に? みんなの前で、ト
イレの個室で、それとも、今ここで?」
 そう言って見下した目をして近づいてくる冬真の頬を、春樹は力任せにひっぱたいた。
小気味よい音が、放課後の教室に響く。
「ふざけるな!! お前なんか、とっくの昔っから、大っ嫌いだ!!」
 後には冬真ひとりが残された。傷ついた瞳をしていたのは、歯をくいしばって涙を堪え
ているように見えたのは、自分の気のせいだろうか。
「グ、フッ。ッ、ゲフッ」
 それは突然襲いかかってくる。口元を手で押さえ、血を吐きながら、冬真はそれでも彼
のことを考えていた。
 発作がおさまると、机の上に寝そべり、彼は懺悔をする罪人のように、重く、つぶやい
た。
「嫌ってくれ。俺を……、好きには、ならないで……。どうか、俺を、憎んで、嫌いになっ
てくれ……。お願いだから……俺を……嫌って……」
 閉じた目から、涙が一筋流れた。


          *         *         *


 教室を飛び出した勢いのまま、春樹は自宅まで走って帰った。部屋に飛び込み、扉にも
たれかかる。
「なんて奴だ……!!」
 彼は何処まで自分を堕としめれば気が済むのだろう。憤りのあまり、呼吸さえままなら
ない。
 “大っ嫌いだ、あんな奴……!!”
 そう、最初っから、印象は最悪だったはずだ。それなのに、自分は何を考えていたのだ
ろう。
 自分を無理矢理押さえ付ける腕を思い出す。自分を傷つける言葉を放つ唇を思い出す。
けれど、あの夢を思い出し、そっと抱きしめた腕を思い出すと、憤りはすっと消えていっ
た。その代わりに、何か説明の着かないいらいらした気分になってくる。
 “もう、終わりにしたい。やめたい、こんなこと。そのためにも、きちんと桂木に話さ
なくては”
 けれど、翌日冬真は学校に来なかった。


 その次の日、春樹が登校すると掲示板の所に人垣ができていた。近づくと、それは桂木
冬真の停学処分の通告だった。
「タバコなんて、あいつ前からやってたじゃん。何で今更……」
 そんな声が聞こえた。春樹は頬が強ばるのを感じた。
 くるりと背を向けて、教室へと向かう。木立ちの影で西崎がうす笑いを浮かべていたが、
春樹はそれに気づかなかった。
             オオタ 
 放課後、春樹は生徒指導の太田教諭を訪ねた。もちろん冬真のことでだ。
「お、西本か。どうした?」
「桂木のことです。彼の処分の理由──本当は何なんですか?  先生、答えてください。
僕はクラス委員としてそれを聞く権利があると思います」
 しばらくの沈黙の後、教諭は重い口を開いた。
「ある生徒が桂木に脅迫されている、という通達があってな」
「きょ…う、はく?」
              ・・
 ドキリとした。桂木が……、誰を?
 結局、春樹はそれ以上を聞き出すことは出来なかった。



     7


 桂木冬真が一ケ月の停学処分を受けたのは、十一月初頭のことだった。謹慎が解けても
彼は学校に来ず、そして終業式がやってきた。
 校門をくぐったとき、春樹は夢を見ているのかと思った。一ケ月前の、夢を。あの時と
同じように掲示板の前の人ごみをかきわける。けれどもそこにあったのは、桂木冬真の、
無期停学処分通告、だった。


「──先生!!」
 ノックもせずに生徒指導室へ飛び込む。そこには、いつもゆったりと構えている太田教
諭が難しい顔をしている横に、春樹達のクラス担任である谷口教諭の姿があった。
「先生、何ですか、あれは!? どうして桂木が退学にならなくちゃいけないんですか、
ちゃんと納得できるように説明してください!」
「退学じゃなくてだね」
「同じです!」
 叫んだ春樹に、谷口教諭は機嫌を悪くしたらしい、神経質そうな眉をひそめて言い訳を
するように呟いた。
「西本、何で君が桂木なんかをかばうんだ。君だって彼に……」
「谷口先生!!」
 太田教諭が強く囁く。彼の、らしくない慌てようが気になった。
『君だって、彼に……』?
「な、んですか? 俺が……」
「……いや、桂木が、他の生徒を脅迫していると前に言っただろう。それで……」
              ヨド
 前回より更に言いにくそうに淀む台詞を、谷口教諭が勝ち誇ったような口調で引取った。
「西本、君が桂木に脅されて体を強要されていると教えてくれた生徒がいたんだよ」
 春樹は凍ったように立ちつくし、目を大きく見開いた。声が喉の奥でひくついた。
「な……そ、の、生徒は? 誰が……」
 ミサキ 
「岬だよ」
「っ! 取り消してください! 嘘です、桂木は脅迫なんかしてません!!」
 “アイツラだ……!”
 西崎たちだ。そう確信した。前回も、今回も。岬の言葉が思い出される。
『あんな奴等、皆いなくなればいいんだ! 僕は丸きりの嘘は言ってない、ちょっと人が
変わっただけ──脅してたのは桂木じゃなくて西崎で、脅されてたのは僕自身だったって
だけじゃないか!』
「しかし君、岬がそんな嘘をわざわざ私に言いに来るわけがないだろう」
「違う! 西崎たちだ。彼を脅してたのは桂木じゃない、西崎です!」
「君のことは?」
 ぐっと詰まる春樹に、谷口教諭は陰湿な目を向けた。彼はどうしても冬真を退学にした
いらしい。
「ここに転校してきた理由でも知られたんじゃないのか? それで脅されているんだろう
──君は頑張れば東大も狙えるんだ。桂木なんかはいないほうが君のためでもあるだろう」
 その言葉に、春樹の中で何かが音を立てて切れた。呻くような低い声が漏れる。
「……それが、処分の本当の理由ですか」
「そうだ」
「取り消せ!取り消してください、今のは桂木に対しても俺に対しても失礼だ!」
「なぜだね、本当のことを言ったまでだろう」
「ちがう!!」
 本当のこと──なのに、何をムキになって否定しているのだろう? 沸騰したような頭
の片隅に、そんな言葉が浮かんで、すぐに消えた。
「違わないだろう。見た人もいるんだ。君は桂木に強姦されたんだろう!?」
「谷口先生!」
「ちがう!! あれは──あれは合意の上です、自分が望んだんです!! だから、だか
ら桂木の処分を取り消してください!!」
「────」
 沈黙の中に春樹の荒い息遣いが響く。教諭たちは激昂した春樹を驚いたように見つめて
いたが、一番驚いたのは春樹だった。
 “自分が、望んだ──?”
 気がつくと、春樹は自分の席に座っていた。いつ生徒指導室を出たのかなんて、全く覚
えていなかった。
 春樹の意識を呼び戻したのは、皆が立ち上がる時の椅子の音だった。見ると、谷口教諭
が教壇に立っている。
            イチベツ
 慌てて立ち上がる春樹を一瞥すると、彼は汚らしいものでも見たかのように目を背けた。


 学校にいる間も家に帰ってからも、春樹はただ一つのことを考え続けていた。
『自分が望んだんです!!』
『──もし君が俺を好きだと言うのなら、俺は君に抱かれてもいい』
 “俺、俺は……”
 気づいてしまった、自分の気持ち。いつからだ!?  嫌いだったはずなのに、憎んでさ
えいたはずなのに。
 けれど。気づいてしまったら、もう後戻りは出来ない。
 “俺は、桂木が、好き、なんだ──。でも、桂木は? 俺のこと……”
 最後に会ったときには「嫌いだ」と言ってひっぱたいてしまった相手を思い浮かべる。
『おまえは俺のものだ』
『気に入らねぇな、優等生』
『早く服着たほうがいいぞ。もう寒いからな』
『そんなに、俺に抱いてほしいの?』
 彼の放ったたくさんの言葉が春樹の中を駆けめぐった。あの日の夢を思い出す。彼は─
─何と言った?
 “桂木──、もう、一ケ月、会ってない”
 抱きしめたかった、彼のからだを。確かめたかった、彼のこころを。
 今しかないと思った。今じゃないと言えない。今この時を逃したら、取り返しのつかな
いことになる。何の根拠もなくそう思い、春樹は彼に会うために部屋を出た。



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