8


 チャイムの音に、いぶかしみながらドアを開けた冬真は、目を見開いて立ち尽くした。
そこには、春樹が立っていた。
「な、んで、お前……」
                           ココロモト 
 声が震えているのが自分でもわかる。瞬間、自分がひどく心許ない表情をしてしまった
だろうことに気づき、彼は慌てて表情を消した。冷たく言い放つ。
「帰れ。お前に用はない」
「嫌だ。君に用がなくても、俺にはあるんだ」
 しばらく玄関先でもみ合ったが、腕を掴まれた痛みに冬真が顔をしかめた隙に、春樹は
部屋へ入りドアを閉めてしまった。チェーンを下ろし、ロックをする音を聞き、冬真が動
きを止める。目の前には、春樹の目。彼の目が、真剣な眼差しが、自分を見つめている。
やがて、彼の唇が言葉を紡いだ。冬真が最も恐れていた言葉を。
「わかったんだ、自分の気持ちが。──君の、気持ちが」
 “言うな、言わないでくれ────!!”
「好きなんだ……。君が、好きだ……!!」
 とっさに何も言い返せなかった。ただ立ち尽くし、抱きしめられて、我に返る。つきは
なさなくては……!!
「離せ! 俺は、俺はお前なんか好きじゃない。優等生は家で勉強でもしてろ!!」
 力をこめて彼をつきとばし、彼に背を向ける。春樹は背中から冬真に抱きつき、二人は
一緒に床に転がった。
「やめろ、離せ!!」
                 ヤ 
「嫌だ。君だって嫌がる俺を無理矢理犯ったじゃないか。嫌だなんて、言わせない」
「やめっ、離せ……。嫌だ、やめ、アッッ」
 いくらもがいても春樹の腕の力は強くて抜け出すことができない。押しあてられた唇の
感触に、冬真はめまいを覚えた。泣き出したい気分だった。
  どうして、自分でなくてはならないのだろう。彼が惹かれる人間なんて、この世に五万
といていいはずなのに、何故自分なのか。自分こそは、彼を求めてはいけない人間なのに。
どんなに欲しくても恋焦がれても、彼の求めに応じることができないのに。
「好きだ。フユマ、愛してる……!」
 春樹の言葉が体じゅうを駆けぬけた。フユマ。そう、呼んだ。初めて、名前を。
「冬真、冬真……!」
「くっ……。や、め、っっ! ──は、なせ……」
 逆らわなくてはならない。抗わなくては。しかし、報われないはずの恋の成就の予感に
体は驚くほどに敏感になっていて、彼の動き一つ一つに過敏に反応してしまう。
 腰のラインをたどる手に、冬真は思わず声をあげ身をのけぞらせた。その声に、それま
でと違う響きが宿っていたのを、春樹は聞き逃さなかった。手を止め、自分に組み伏せら
れている少年を見下ろす。冬真は、歯をくいしばって、肩で荒く息をしている。微妙な、
沈黙。冬真はぎゅっと眼をつぶった。
 “もう、耐えられない……!!”
                 ・・
 やがて囁きと共に伸びてきた腕には確信があった。
「冬真……好きだよ……」
「あ、あ……は、るき……」
 震える吐息が漏れる。もうこれ以上自分の気持ちをごまかすことは出来ない。
 近いうちに訪れるだろう破滅の予感を感じながらも、冬真は愛しい男の腕に身を任せる
しかなかった。


          *         *         *


 春樹は、やはり根が正直なのだろう、前からストレートな奴だとは思っていたけれど愛
情表現もストレートなので冬真は困ってしまう。冬真のほうは彼に少し触れるだけでもと
んでもなく緊張してしまうというのに。
 “何をこんなに緊張してるんだろう、俺は”
 その答えはすぐに出た。彼に、春樹に嫌われたくなかったからだ。一度手にいれてしまっ
たら、もう手放せない。手放したくない。もっと深く彼が欲しい。──だから、嫌だった
のだ。だから、恐れていたのだ。彼を手に入れることを。彼に愛されることを。彼が自分
を憎むように、わざと酷いことをしたのに。仲間の前で犯してプライドを傷つけたのに。
──運命は、変えられなかったのかも知れない。
 “でも、今なら……、今ならまだ間に合うかも知れない”
 自分がどんなに辛くとも。彼が辛い思いをするよりずっといい。
「好きだよ、冬真」
 そう囁く声に、問いかけた。「いつから? 俺のどこが?」と。
「俺がおまえにしたことを忘れたのか? 憎かったんじゃないのか?」
「うん……、そうだね。でも、きっと、最初からどこかで君に惹かれてたんじゃないかっ
て、今なら思うよ」
 胸に痛みが走る。それは、発作のときとは違う痛みだった。
「──なあ、春樹。ストックホルム症候群って、知ってるか?」
「えっと、誘拐された被害者が犯人を好きになるっていうのだよね。それがどう……、!
 冬真!?」
 春樹は冬真の言わんとしていることを理解した。だが彼が何故そんなことを言うのかが
分からなかった。お互いの存在を、たった今確かめ合ったばかりではないか。だから春樹
は叫んだ。彼を失いたくなかったから。
「ちがうよ! 錯覚なんかじゃない!」
「錯覚だ。おまえは俺を好きじゃない、俺もおまえを好きじゃない!!」
 胸が痛かった。発作のほうがまだマシだと思った。最後はほとんど悲鳴だった。
「好きだよ! だから君に触れたいんだ。冬真、君だって」
「ちがう!」
「ちがわない! 君は俺を好きだからあんなに反応したんだ。俺は君も俺を好きだとわかっ
たから君を抱いたんだ」
 腕を掴んで真っ直ぐに自分を見つめる瞳。なんて素直な──愛しい瞳。
「俺は、冬真のことが好きだよ。冬真は、俺のこと嫌い? ──嫌いじゃ、ないだろう、
俺の……」
 ゆっくりと唇が重なる。頬を涙が伝わって落ちた。春樹を抱きしめて、冬真はそっと耳
もとで囁いた。
「ああ……、好きだよ、春樹……」
 裸で抱き合ったまま、春樹は学校の話をした(当然彼に関する騒動は除いて)。自分の
いない間のことを、冬真は黙って聞いていた。ちゃんとした会話を交わすのはこれが初め
てだということに気づいて笑い合ったりもする。と、ふいに春樹が笑いをおさめて真剣な
瞳で見つめてきた。
「好きだよ、冬真。愛してる」
 胸の奥が、ジンと痺れた。
「しばらく、ここにいていい?」
「家は、どうするんだ?」
「かまわないよ。冬真と一緒にいられるのなら」



     9


「──っっ! ゲフッ、はっ、っぐ」
  洗面台にすがるようにして、冬真は血を吐いていた。幸い春樹は買い物にでかけている。
彼はまだ知らない。冬真の命が残り僅かなことを。
 ここしばらくは、自分でも驚くほど快調だった。春樹のせいだろうか。愛する者と一緒
                             カッケツ
にいるという精神的作用からか、彼が来てからの一週間、一度も喀血がなかったのだ。だ
から安心していたのに。反動のように、命が喉もとを上がって来る。冬真の命が、少しず
つ吐き出されてゆく。
「ただいま。──? 冬真?」
「!──来、来るな!」
「なっ、どうしたの、冬真!?」
「平気だ。すぐおさまる」
 そう言いながらもなお冬真は血を吐き続ける。春樹は蒼ざめて立ち尽くしていたが、はっ
と我に返ると、冬真の背を擦り始めた。冬真の名を呼びながら。
 やがて発作がおさまると、冬真は大きくため息をついた。それは発作がおさまった安心
からか、それとも春樹に知られたことによる落胆からだろうか。
「冬真、いつから……?」
 春樹の問いに、同じように堅い声で答える。
「五年近く前から。放っておくしか、手はない」
「そんなことないよ。俺の知り合いに、腕のいい人がいる。そこへ行けば……」
「もう無理だ。中学の時から、こんなカンジだよ。時々発作が起こる。でも、それだけだ。
医者も匙を投げたよ。病名が、判らないんだ。親も、稼げるようになるまで生きられない
と知って、俺を見放した」
「そんな……。あ、まさか、冬真……」
 春樹の双眸が涙に潤んで揺れる。
「俺が、君を好きにならないように? それで、俺に、あんなコトを……」
「もう、いいよ。今はお前がそばにいる。お前が来てから、調子がいいんだ」
「じゃあ、ずっと傍にいるよ。いつまでも、冬真の傍にいる」
「ばか、休みはもうすぐ終わるだろう。おまえはちゃんと学校に行け」
「やだ。冬真が行かないなら俺も行かない」
「春樹!」
「嫌だ!! もし俺のいない間にまた発作が起きたらどうすんだよ!? もし、もしも、
俺のいないうちに……!!」
「そんな事しないから。お前を、一人にはしない」
「冬真っ!!」
 なおも言い募ろうとする春樹を、冬真はそっと抱きしめた。
「大丈夫。なんか、お前といれば治るような気がするんだ。だから……」
「だから、俺が、ずっと傍にいるよ。冬真……」


          *         *         *


「──ああ、雪が降ってる。どうりで寒いはずだ」
 窓から外を覗いて春樹が声を上げた。振り向いて手招きしている。
「おいでよ、冬真。キレイだよ」
 寒々しい、うす灰色の景色。嫌いだった光景。今は、もう死のイメージは浮かばない。
「そうだ。前から思ってたんだけどさ、「冬真」って名前、もしかして」
「冬生まれだから」
「やっぱり。いつ?」
「十二月二十二日」
「あれ、その日って冬至じゃなかったっけ?」
「そうなのか?」
「年によって違うけど、その近くの日だよ。──へぇ、真冬に生まれたから冬真なのか」
「春樹は?」
「ご想像どおり、四月生まれだよ。四月八日、おシャカ様と一緒なんだ」
 おどけて笑う。冬真もつられて笑ってしまった。外に目を戻して呟く。
「前は……、冬は嫌いだったんだ。生き物が、いないから」
「そんなことないよ。冬真がいるじゃないか。冬真が生まれた、冬真の季節だろう?」
「じゃあ、春はおまえの季節?」
           ・・
「そうだね。──あれ、前はって、じゃあ今は?」
「おまえがいるから。そういえば、おまえのことが気になり始めたのも去年の冬だったな。
……なんだよ?」
 びっくり目の春樹に気づいて、冬真は口をとがらせた。
「いや……、なんか、驚いた。冬真がそんなこと言うなんて」
「悪かったな。どうせガラじゃねえよ」
「悪くないって。──嬉しいよ。ありがとう、冬真」
                                   ・・・・
 赤くなって顔を背けると、そっと抱き寄せられた。あれ?と思って、春樹を見上げる。
「あれ、おまえ……背ぇ伸びたか?」
「ん? あ、そうかな。俺、冬真より低かったっけ? まあいいや。こうやって冬真抱い
ててサマになるし」
「な……っ!」
 なんだか軽くあしらわれてる気がする。いつもと逆だなあ、とぼんやり考えたりして。
春樹と過ごす冬休みはとても楽しくて、これが永遠に続けば良いと思ってしまう。叶わな
いとわかっているのに。
 “ずっと……、春樹と生きたい”





        初めての、恋。かなうはずはなかった。かなうべきではなかった。

        「冬真、君が好きだ」
        かなってしまった、最初で最後の恋。

        ──春樹、好きだ、愛してる。
        絶対に言わないと誓った台詞。夢の中でなら、心の中でなら、
        ……もう、数えられないほどたくさん唱えたこの台詞。
        今、目の前に彼がいる。そして、彼の告げた言葉は……。

        今なら死んでもいいと思った。そう、今こそ死にたいと。
        体が震えている。それとも、震えているのは彼のほうだろうか……?
        甘く苦しいときめきの中で、冬真は彼に愛を告げた。





     10


 冬休みが終わり、春樹は学校へ行き始めた。彼は嫌だと言い続けていたが、冬真が「言
うこと聞かねぇ奴は嫌いだ」と言って黙らせた。
 冬真の具合は、あまり良くない。一回あたりの吐血の量がだんだん増してきている。
 “そろそろ、かな……”
 春樹の温もりの残るベッドの中で、冬真はそう思った。


 久しぶりに学校に来てみないか。
 そう太田教諭から電話があり、冬真は春樹と共に登校した。退学になったはずだったの
が、何故か停学で済んでいた。
 春樹に訊いても何も言おうとしないので太田教諭に尋ねると、彼は終業式のときの春樹
の激昂ぶりを話してくれた。そして、西崎たちが退学になったことも。
 登校してみると、春樹のことは結構な噂になっていた。それほどの大声だったらしい。
好奇心に満ちた目で見られ、冬真は少なからず自己嫌悪に陥ったが、春樹は気にしてない
と言って笑いながら口づけてくれた。


          *         *         *


 “何か嫌な予感がする。何なのだろう、この落ち着かない感じは”
 今は体育・持久走の時間である。無理をしない程度の運動は必要なので、冬真も見学せ
ずにやっていた。
 気がつくと、目が彼を追っている。彼を見つめている。惚れた弱みってヤツかな、など
と春樹が一人で照れた時、ふいに、冬真の体が大きく揺らいだ。
「──! 冬真っ」
 倒れる冬真をぎりぎりのところで抱き止めて、春樹はひたすら冬真の名前を叫び続けた。
「き、救急車だ!!」
 誰かが叫んだ。冬真は意識を失っていた。



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