夢盗賊の女


 眼前に広がる緑の森。
 小川のせせらぎが耳に心地良い。
 少女は、幸せを感じながら小川の流れに沿って歩いていた。その時、
───その夢、もらったわ───
 声が響くと同時に、ふいに足元が抜けた。
“落ちる”
 景色はいつの間にか切り立った崖になっていた。
 果てしなくつづく落下。悲鳴も空に吸い込まれて、聴こえない。
“ダレカ、タスケテ!”


「!」
                                ・・
 冷えた朝の空気の中、自分の荒い息遣いがやけに耳につく。やがて、それが〈夢〉だと知っ
た時、少女は深くため息をついた。
“何もない────怖い!!”
 何か恐ろしい夢を見たわけではなかった。いや、むしろ、それは良い夢であったはずだ。
あの〈声〉が聴こえるまでは。
 世界の全てがもろく崩れ去るような幻覚。自分の生までもが否定されたかのような錯覚。
「何もない」空間を果てしなく落ちつづけるうちに、生まれる前の、まだ自分が自分ではな
かった頃の〈夢〉を、見たような気がした。


          *         *         *


「? どうかしましたか?」
                         ミドリ         カラス 
 落ち着いた声音で青年が声をかけた相手は、不思議な碧の瞳をもった一羽の鴉だった。漆
黒の翼の中でより映える碧をきらめかせて、鴉は黒衣の青年を見つめている。しかし、青年
がもう一度口を開こうとする前に、鴉はふいと顔を背けた。
『いや、何でもない』
 いやに人間臭いその仕草に対し、青年はごく自然に「そうですか」と答え、中断していた
読書を再開した。


          *         *         *


 ぽん、と肩を叩かれて振り向くと、そこには友人の心配そうな顔があった。
「おはよう。──顔色悪いけど、大丈夫?」
                          タズ
 そして、周囲をちらりと見回すと、顔を近づけて小さく尋ねてくる。
       ・・
「もしかして。また、あの〈夢〉見た、の?」
 少女は、疲れた表情でコクリと頷いた。
「あのさ。一度、専門家の人とかに相談したほうが良いんじゃないかなァ。──お姉ちゃん
のお友達に聞いたんだけど、夢占いとかしてくれるお店があるのよ。何か大事なことが分か
るかも知れないし。ね?」
 見上げた友人の顔に、冗談めかした笑いは見当たらない。どうやら、本気で忠告してくれ
ているようだ。
「……うん、そうする……」
                ウツ
 ため息まじりに答えると、少女は虚ろな視線を机の上に落とした。



   1 虚無の〈夢〉

     ユメウ    ヤカタ 
    〈夢売りの館〉                                       
     ユメウラ
     夢占いたします。

 小さな看板の架かった扉を開くと、そこには薄暗い空間が広がっていた。
「どんな〈夢〉を、……!?」
                        ミハ
 言葉を最後まで続けることが出来ずに、青年は目を瞠った。それは常日頃表情の少ない青
年にしては珍しい行動だったのだが、少女には知る由もない。青年が瞠目したのにはそれな
りの理由があった。それは、数年前に出会った少年の“気”と、全く同じものだったのだ。
「夢が、見られないんです。夢を、見ることができないんです」
 少女の言葉を、青年は間髪入れず否定した。
「それは違いますね。あなたは夢を見ているはずです。わかっているでしょう、ひたすら暗
黒の続く夢──虚無の〈夢〉を」
『〈夢盗族〉に、やられたな』
 突然割り込んできたその声に、少女は怯えたように辺りを見回した。青年の脇にある止ま
り木の──艶やかな漆黒の鴉と目が合う。鴉は、宝石のような碧色の瞳をしていた。
『娘。〈虚無〉を視る前に、どんな夢を見た? 最後の〈夢〉は何だ?』
 頭の中に直接注ぎ込まれるような声。少女は、あの日見た夢を回想した。
     その夢、もらったわ───
「や、イヤァァッ!!」
 墜落感が蘇り、少女は悲鳴を上げて座り込んだ。
「大丈夫です。落ち着いて」
 青年の手が静かに頬に触れた。あまり抑揚の感じられないその言葉、高くもなく低くもな
い不思議なトーンのその声。魂の根源に触れたような、安心感……。
 やがて少女は語り始めた。以前は穏やかな夢を見ることが多かったこと、普段もどちらか
というと快活な性格で、傲慢でない程度の自信は持っていたはずであること。それがその虚
無の〈夢〉を見るようになってからは、常に何かに追われているような強迫観念に囚われ、
自信もなく、全てが不安であること。活力がなくなり、生きている実感を持てないこと。そ
して、死の誘惑を感じ始めたこと。
 語り終わり、少女が出ていった後、青年は背後の鴉を振り返った。鴉は何も言わない。た
め息をつく気にもなれず、青年は誰にともなしに呟いた。
「〈夢盗族〉──あの時の、女性でしょうか……」
 〈夢盗族〉……その名の通り、夢を盗む盗賊のことだ。彼等の〈仕事〉は人間の生命に関
            ム マ       タ チ 
わる分、無数に存在する〈夢魔〉より性質が悪い。
                       ・・・     ワレ
『さあな。どうでも良いが、あの娘、早くしないと手遅れになるぞ。我は人間の女一人、廃
                    ・・・
人になろうと死のうと構わないが。……お前は、困るのだろう?』
 嘲笑うような、哀れむような碧の眼差しに潜む《過去》の影に、青年はある少年の姿を思
                        ・・・・・・・
い描いた。顔立ちも何も思い出せない、けれどきっと一番最初の記憶であるだろう少年……。
 彼は、誰だろう?──私は、誰だろう?
 心の深淵に澱のように沈んでいる狂気にも似た幻想。──それは、もしかしたら悲しみで
すらあったかも知れない。《彼》の、嘆き、かも知れない。《彼》の《夢》なのかも、知れ
ない……。
 ふっと黙り込んだ青年を見上げ、鴉は侮蔑も露に呟いた。
        ・・・・
『お前はだんだん人間臭くなっていくな』
 投げやりにも聞こえるその台詞に、青年は我に返り冷ややかな碧の瞳を見返した。
「それは……、当然でしょう。私も人間ですからね」
 無感動な声音からは、青年の心の内を読み取ることは鴉にも出来なかった。


          *         *         *


 年配の夫婦や親子連れに交じって若い男女もちらほらと見える広い公園の中、ひときわ人
目を引く存在があった。繁華街の雑踏の中でさえ彼女の姿は目立ったであろう。ショッキン
グピンクの地に様々な色を配したぴったりとしたシャツ、濃黒のジーンズには何処の国のも
のか分からない言語らしきものがちりばめられていた。もともと茶色いらしい髪を、ピンク・
オレンジ・グリーンといった色に染め、右耳の上高くに結い上げている。まともな格好を
させたらたいそうな美人であろう彼女のその容貌に、周囲の人間は奇異の目を隠せずにいた
が、彼女はそんなことすらどうでも良いかのように、緑に囲まれたレモン色のベンチに寄り
かかっていた。楽しそうに何か口ずさんでいるが、その内容は全く不明である。
 ふいに音楽が止まった。奇抜な装いの女に向かって一つの人影が近づいてきたからである。
 それは、そのことを知る者はおそらく公園内には一人もいなかっただろうが、あの〈夢売
りの館〉の占者である青年だった。女と対照的に、青年はいつもと同じく全身に黒の服をま
とっている。
「あら、お久しぶりね」
「やはり……、あなたでしたか」
「あらぁ、9年ぶりの再会だってのに、なかなかひどい言い草じゃなぁい、それ? 『やは
り』って、何がどう『やはり』なのか、具体的に聞きたいわぁ」
「9年……ですか、あれから」
「さぁ、9年かも知れないし、3年くらいかも知れないけど。もしかしたら90年かもね。
あたしには人間の時の流れなんてカンケーないけど。でも人間達のカッコがあまり変わって
ないから、せいぜい10年ね」
 ・・・・
「あなたはそうでしょうが、私には人と同じ時間が流れていますので」
 関係ない、どうでもいい、というような台詞を最近よく耳にすると思いながら、青年は鴉
に返した答えと同じようなことを口にした。
「あら、そうなの? 知らなかったわ」
 青年が答えるや否や、女は悪びれた風もなく言い返してくる。無邪気なだけに余計に台詞
の意味が見えてしまって、青年は動揺を隠すかのような答え方をした。
「ええ、そうですよ」
「ふうん。それにしては、あんた、全然変わってないわね。前に会ったのが3年前くらいな
らそれほど違和感ないかも知れないけど、10年以上経ってるんだとしたら、あんたのその
・・・・・
変わらなさは異常だわね。もっとも、あんたの周りの人間にそれを気付かせないようにする
ことも、あんたになら出来るだろうけど」
 言いながら豊満な胸を押し付けるように身をすり寄せてきた女を制すと、青年は一歩下がっ
てからおもむろに口を開いた。
「一ケ月ほど前に、ある少女から〈夢〉を〈奪い〉ましたね。彼女の〈夢〉をどうしました
か?」
「ええー? 知らないわぁ。〈夢〉ったって、いっぱい〈食べた〉からどれかわかんないも
の」
「──今ここで、あなたの中から〈夢〉を引きずり出すことも出来るんですよ」
「…っ。わ、わかったわよ。女の子の〈夢〉は一つしか食べてないわ。でももう無理よ。だっ
てあたしがあの子の〈夢〉を食べたのは、ちょうど50日前だもの。あと10日であの子の魂は
死ぬわ」
「それでは今すぐその〈夢〉を返していただきます」
「イ・ヤ、よ。だってあんただってわかってるでしょ。最近じゃあたしたちが食べられるよ
   ユ メ 
うな〈希望〉を持ってる人間なんてそういないのよ。喰らわないと生きてけないのは、あん
ただって一緒でしょう」
                              ・・・
 一時の狼狽が嘘のように傲慢な態度で女は青年を見据えた。全く道理的な女の言葉に、青
年は口をつぐんで思案する素振りを見せた。
 〈夢盗族〉の喰らう〈夢〉は、一般に「希望」と称される「夢」である。個人的な「欲望」
ではない。ここのところ人々の見る〈夢〉の示すものの傾向が変わってきているのは、〈夢
使い〉である青年にも分かっていることではあった。けれど、だからといって〈夢盗族〉の
正当化が許されるわけではない。なぜなら、人間は〈夢〉を見ないことには生きていけない
のだ。その〈夢〉を喰われては、──夢すなわち望みを持てなければ、人間は“人間”では
なくなってしまうだろう。「人間は欲深い生きものだ。けれど何も欲しない人間はそれはも
はや人間ではない」と、そう言ったのは……誰だったか?
     何もいらない。みんな消えてしまえ!!
「!」
 突然頭に響いた甲高い少年の悲鳴に青年はびくりと肩を揺らした。目の前の女は獲物を狙
う猛禽の目で青年を見ている。〈夢盗族〉の目だ。鴉も時々こんな目をする。けれど、人の
〈夢〉を操り悪戯を仕掛ける〈夢魔〉だが、鴉は少なくとも青年と出会ってからは〈夢魔〉
らしい悪事を働くことはなかった。普段の、鴉の眼。包み込む碧。老成し達観しきったよう
な、すべてをあきらめたような、じっと見守る──。
 青年は、ふっと笑みをもらした。〈夢盗族〉の女の目から光が消える。
「私の〈夢〉を狙っても無駄ですよ。誰にも、私の《夢》をひもとくことは出来ません。
 彼女の〈夢〉は返していただきます。今晩、彼女の〈虚夢〉の中で会いましょう」
 そう言うと、青年は女に背を向けて歩き出した。女はしばらく青年の黒い後ろ姿を眺めて
いたが、やがて唇から音楽を紡ぎながら歩き始める。
 けれども、真昼の公園から青年や女が出ていくのを見た者は一人としていなかった。



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