夢現鏡 ─ゆめうつつのかがみ─


   序章 空白の夢

 そこは、真っ白な空間だった。無機的な白さのつづく、白い部屋。そこには何一つ生き
ものの気配がしない。
「どうして……」
 少年はぽそりと呟きをもらした。
 空間にとけて消えてしまいそうなほどに白い肌。漆黒の髪も瞳も、血色のあまり良くな
い唇も、果てしない白の海に埋もれてしまう。
 少年の瞳には不思議な輝きが宿っていた。普通この年頃の少年の瞳にあるはずの活力に
                                     クラ
満ちた輝きではなく、狂気に走った者の妖光を放つ瞳でもなく。穏やかと言うには冥すぎ
る、けれども諦めているのではない──。
           ナガ    ト キ 
 そう。長すぎるほどに永い絶望の瞬間を積み重ねても、少年は諦めてはいなかった。い
つか、この“空白”の空間を抜け出せることを信じて。ただひたすら願って。
「どうして……、きみはそこにいるの?」
 少年はもう一度呟いた。否、問いかけた。
                   ・・
 その言葉の向かう先は……、一点の黒。太陽の光を受けて虹色にきらめく黒い翼を持つ、
鳥。
 ・
「外は晴れてるんだね。……暖かい?」
                           ・・・
 鳥は答えない。現実世界において、鳥が人間の呼びかけに答えることはありえない──
そんなことなど知らないかのように、少年は鳥に語りかけていた。
「いつになったら、きみとガラス越しでなく話せるんだろう。……すべて、ガラス越しだ。
僕は直接そのものに触れることはできないし、その人と話すこともできない。きっと、…
     ・・・                        ・・・・・・・
…。いや、いつか、いつかは。──ねぇ、君の目に僕は映ってる? 僕はここにいるよね?」
 めまぐるしく変わる口調。誰に聞かせるつもりもない一人言、悲嘆とそれを打ち消す希
望。そして、ずっと昔から心に巣食う───不安。
 狂った時間軸の中で暮らす少年には、大まかな季節の移り変わりしかわからない。定期
     オトナ          ・・
的に現れる人間達は、決して少年をここから解放してはくれない。
「…………」
 少年は軽くため息をついた。顔を上げると、窓越しに鳥と目が合った、気がした。木も
れ日を受けてうすみどり色に見えるその瞳に、少年は今朝方の〈夢〉を思い出した。
「そうだ、今朝ね、きみの〈夢〉を見たよ。僕は、きみと言葉を交わしているんだ。あれ
  ・・・・・・
は、いつの出来事なんだろう……?」
 呟きは、白い空気に融けて消えた。

     欲しいものは、ただ、永遠の安らぎ。
     自由など、いらない。愛なんて、知らない。
     もう、眠りたい。夢など見なくていいから。──絶望の〈夢〉など、いらないから。

     永遠に……────



   1 少年の〈夢〉

     ユメウ    ヤカタ
    〈夢売りの館〉
     ユメウラ
     夢占いたします。

 愛想のない文字でそう書かれた小さな看板の架かる扉。この扉は、夢と現実の境界線─
─。人々は、己の見た〈夢〉の指し示すものを知るべく、また己の望むものをもたらす
〈夢〉を得るべくこの扉をくぐる。恋に悩む少女達にとってはただの「夢占いの店」であっ
           メイアン             ヒトビト
ても、その扉の奥にある明闇の導きは永遠に人間達を魅きつけ続けるだろう。その店の名
は──────


         *         *         *


 〈夢売りの館〉の店内は、昼夜変わらずうす暗い。そこには、黒衣に身を包む中性的な
           ミドリ     シッコク カラス 
面立ちの青年と、見事な碧の瞳を持つ漆黒の鴉がいた。


 扉の外に人影を感じて、青年と鴉はじき開かれるだろう扉に目を向けた。しかし扉が開
く気配はない。どうやら店内に入るのをためらっているようだ。
「? どなたでしょうか」
 扉の外の人影に問いかけるように青年は口を開いた。実際は隣の鴉に向けて問いかけた
わけでもない、つまりは一人言だったのだが、鴉は相変わらずのそっけない態度で応じた
だけだった。
『さあな。用があるなら入ってくるだろう』
 しばらくの沈黙の後。決心したように扉が開いた。そこに立っていたのは一人の少年、
十代後半くらいだろうか。青年を睨みつけるように見据えて、
「ここで、〈夢〉を売ってくれるって聞きました」
 おもむろに口を開く。青年は穏やかな口調で肯定の言葉を返した。
 パタン。後ろ手に扉を閉めて、少年は思い詰めた表情で言をつなぐ。
「本当に? 本当にどんな〈夢〉でも?」
「……ええ。あなたはどのような〈夢〉が見たいのですか?」
「オレが見たいんじゃない。オレの……オレの友人に、安らぎの〈夢〉を、見せてやりた
いんです。せめて夢の
中でくらい……幸せでいてほしい……」
『放っておいてもどうせ死ぬだろう。そうすれば何の苦しみも感じることなく眠れるぞ』
 突然のその〈声〉に少年はびくりと肩を揺らした。だが直ぐに鴉の姿を瞳に捉えて、警
戒も露に問いかける。
「お前……、何者だ?」
『さあな。我はただお前の心を覗いたまでよ。お前がその友人とやらに与えたがっている、
お前の〈夢〉をな』
 鴉の見下した口調に少年は頬を赤らめた。一瞬現れた、自責の表情。純粋に友人を想う
気持ちと、自分の心の底に確かに潜む願望──鴉に指摘された〈夢〉。
     誰かとずっと一緒にいたいと思うのは、まちがったことなのだろうか?
 そんな言葉が……誰かの叫びが、聴こえた気がした。
「そのお友達の方は、今はどちらに?」
 労りの気持ちを込めて、青年はそっと問いかけた。
「病院に。──あいつは、生まれた時から体が弱くて、ずっと病院を出たり入ったりなん
だ。こないだまた大きな発作起こして入院して……、今度こそダメかもって……。生きて
欲しい、ずっとずっと生きてて欲しい!! でもこんな、自分のしたいことも満足にでき
ないような状態で、ベッドから離れられないまま「生きてるだけ」でも、それでも「生き
てる」って言えるのか? 苦しいだけで、ただ「生かされてる」だけで……!? ──だ
からせめて、……「最後」なら、あいつのしたいことを、あいつが好きなことをしてる
〈夢〉を、見せてやりたい。あいつがオレといることを望んでくれたら嬉しいけど、そん
なのいいよ。あいつに、〈自由〉を、あげたいんだ……」
 話しているうちに昂ぶった気持ちを抑えるように、少年は殊更ゆっくりと、言葉を選ぶ
ように区切りながら話                              
を終えた。そして顔を上げ、青年を真っすぐに見据える。青年の穏やかな瞳の奥にある─
      ユ メ 
─深く暗い〈狂気〉を見つめて。未来永劫瞬き続ける星のような〈真実〉を見つけて。
『──お前の〈望み〉、我らが叶えてやろう』
「あなたの祈りのために。あなたが心から想っている人に、彼の望むものを……」
             オゴソ 
 鴉の言葉を受けて、青年は厳かに告げた。


         *         *         *


                     トラ
 青年は〈夢〉を見ていた。──否、〈夢〉に捉われていた。
 それは青年を支配する〈夢〉。ある少年の記憶。
     私の望むものは……────
 《彼》の叫びは見えない壁に遮られて聴こえない。夢現の壁に阻まれて、届かない。


『哀れな奴よ……』
 誰もいない部屋で鴉はひとり呟く。碧の双眸に映るのは、青年を捕えて放さない〈夢〉。
彼を苛み、蝕み続ける一人の少年。
 真っ白な部屋。誰もいない空間。どこまでも続く。
『……あれもまた、哀れな〈夢〉のなれのはて、ということか……』
 鴉の声なき呟きは、うす暗い部屋にゆっくりと漂い、溶ける。
『哀れな奴よ……』



   2 純白の〈夢〉

 少年は白い部屋にいた。目の前のベッドには、少年が生まれてからずっと時を共有して
きた友人がいる。彼は、少年の姿を認めると、白い手を伸ばして微笑んだ。
「来てくれたんだ。ありがとう」
 優しい笑顔。昔から少しも変わらない。何も言えなくて、少年はただうなずいた。
「最近ずいぶん調子いいんだ。だから外に出たくってさ。──また海で泳ぎたいなーとか、
お前ん家の庭で花火もいいなーとか。あれ、何か夏のことばっかだな、何でだろ。あ、一
度だけ雪合戦したよな、あの後やっぱ熱出してすごく怒られたけどな」
 おどけた口調に思わず吹き出す。少年の表情がなごんだのを見て、彼は手招きをした。
「ん? 何」
                 ワ ケ 
「あのさ。……最近おれの調子が良い理由、知りたい?」
 ギクリとした。〈夢売りの館〉の青年が言った、彼の〈望む〉ものは……
「聞きたい?」
 少年の心を見透かすようなタイミングで彼は尋ねる。
 ……答えられなかった。肯くことも、否定することもできずに硬直する少年を、彼はし
ばらくの間じっと見つめていたが、やがてふっと諦めのような微笑みを浮かべて口を開い
た。
「イヤか?──でも、おれが言いたい。聞いてくれるよな?」
「……ああ」
「ありがとう。──最近さ、よく昔の夢見るんだ。おまえと遊ぶ夢。さっき、遊びてーと
か言っただろ? それも、そのせいなんだけど。
 昔っからさ、よくおまえと遊んで、遊びすぎてムチャすっと寝込むハメになるだろ? 
そうすると、いつもおまえと遊ぶこと考えるんだ。あれやった、これやった、じゃなくて、
今度はあれやろう、これやろう、って。こんな風に寝てる場合じゃないって思うんだ。お
まえが見舞いに来てくれると、やっぱ嬉しいんだけど、それ以上に悔しくてさ。何でおれ
ばっかり!?って思ったことも一度や二度じゃない。でも……」
 言葉を切って、彼は手を伸ばす。少年は、その手を自分の手の中に収めた。
「最近は、昔の夢ばっかなんだ。あー、こんなことやったっけなぁ……って思って、でも
気持ちは何か穏やかでさ。今、おまえが来てくれて、すごく嬉しい。今までと同じにおま
えがここに居てくれるのが嬉しいよ」
「オレ……」
「そういえば、一度だけ違う夢見たよ」
 少年の言葉を遮るように、彼はまた口を開いた。
「誰かが、おれの夢を叶えてやるって言うんだ。おれに、したいことさせてくれるって。
おれ、おまえといたいって答えた。今までしてたみたいに、ずっとおまえと一緒にバカやっ
て楽しく過ごしたいって。それから、なんか調子いいんだよ」
 嬉しいのか哀しいのかよくわからない曖昧な笑い方。彼は知っているのだろうか。自分
の未来を夢に見ることがなくなった理由を? 無意識に答えた問いかけの主を?
 少年は、少し呆れたような声を作って、言った。
「バッカだなあ。せっかく夢叶えてくれるってんなら、もっと違うこと頼めよ。何でオレ
と遊びたいなんて答えたのさ。そんなのいつでもやってるし、これからもいつでもできる
じゃないか……」
「あはは、言うと思った。でも本当に気がついたらそう答えてたんだよ。それに……、お
れ、そう答えたこと、後悔なんかしてないよ」
 真顔で言われ、少年は動揺を隠せずに視線をそらした。彼が、じっと自分を見つめてい
るのがわかる。
“その、言葉の、意味、は……?”
 喉の奥に引っ掛かった言葉。沈黙が流れる。
 ふいに、少年の手を握る彼の力が強くなった。思わずそちらに目をやると、
「あぁ、おれって力無いなー」
 唐突に呟く。
「ん? 何?」
「手ェひらいて」
 手のひらを重ね合わせる。彼の方が、一回りほど小さい。色も白くて、パジャマの袖か
らのぞく腕も、少年のより細い。
「昔はおれの方が大きかったはずなのになー。────おれ、病院ってキライだよ。何と
もなくても、ただここに居るだけで、だんだん具合が悪くなってく気がする。それなのに、
おまえはいつも元気いっぱいで、そんな病院の空気をおっぱらってしまうんだ。……だか
らかな、おまえといたいのって」
 重ねた指を少しずらして、少年の指の間に入れるように握りしめる。一瞬ためらって、
しかし少年は自分も指を曲げて二人の手を強く組み合わせた。
 彼の顔に満足気な笑みが浮かぶ。
「ああ、そうだ。──これ、あげる」
                   ヒ スイ
 そう言って彼が見せたものは、濃い深い翡翠色の羽だった。少年はこれと似た色を、ど
こかで見た気がした。
「あの夢見た朝、起きたら、あった。幸せの鳥の羽かな?なんて」
「お前が持ってろよ。お前のだろ? 御守りか何かなんじゃないのか?」
「だから、おまえが持ってた方がいいって、おれが思うからおまえに渡すの」
「だって……!」
「おまえに持っててほしい。って、おれが言っても、ダメか?」
「……」
 結局、少年は羽を受け取った。
 少年が帰る時、彼はまた「来てくれて、ありがとう」と言った。
「──オレも、きっと、お前といたい、って、答えるよ」
 ドアに手をかけながら呟いて、少し振り向くと、彼は驚いたような顔をしていた。それ
から、本当に嬉しそうな顔で笑って、「ありがとう」と言った。
 それが、彼らに口にできた、せいいっぱいの言葉だった。
 部屋の片隅にある鏡の中には、同じように白い部屋が広がっている。



   3 夢を映す鏡

 真っ白な部屋の中で、少年は〈夢〉を見ていた。
 本当は───、それが夢なのかどうかは分からないのだけれど。もう、自分がいつ「起
きて」いて、いつ「寝て」いるのかなんて、全く分からないから。寝ても醒めても風景は
変わらない。白い部屋、ベッド、白いパジャマよりもっと白い自分の肌の色────白、
白、白。気が狂う。
「ああ、そうか。〈きみ〉がいたね。きれいなくろい羽、みどりの瞳の〈きみ〉が」
 一方的に語りかけるだけでも、その黒い鳥は少年の唯一の友人だ。
                             ・・・・・
「きみに触れられるかどうかが大切なんだけど、僕はもう自分がここにいるのかどうかも
分からなくなっちゃったから、ゴメンね、僕にも分からないよ。でもね、」
 言葉を切ると少年はベッドから降り、大きな鏡の前へとゆっくり歩いていく。それは、
いつだったか忘れてしまったが、少年が誰かにねだって持ってきてもらったものだ。
「一応、この鏡に映ってるから。僕の、姿。──これが、たぶん、きみの目に見える僕だ
よ」
 風が吹いたら消えてしまいそうな存在感の無さ。白い背景に溶けてしまいそうだ。不健
康そうな白い肌、艶のない黒髪、少しかさついた唇。でも目は違う。その瞳だけは。
     “焦がれる瞳”────《何》を?
「きみは? ここに来たら、この鏡に映るのかなぁ……。どんな姿で?」
 鳥は答えない。ただ、そのみどり色の瞳で少年を見つめている。


         *         *         *


 うす暗い店内で、鴉は青年を見ていた。鴉は知っている、青年が先程から奥の鏡を気に
していることを。
                       ・・・・・
 館を訪れる客たちに変わらぬ応対をしながらも、別のところの青年は、鏡とそこに映る
《姿》を警戒しつづけ
ている。そう、警戒だ。…………《自分》を恐れる必要が、いったいどこにあるのだろう
──?
『哀れな奴よ……』
 碧の瞳に浮かぶ光は、軽蔑か──憐憫か。




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