天使の涙 〜夢売りの館 番外編〜


     ユメウ    ヤカタ 
    <夢売りの館>
     ユメウラ
     夢占いたします。


 愛想のない文字で、そう書かれた看板が架かっている。小ぢんまりとした商店街の中の
小さな路地にある、これまた小ぢんまりとした建物が、この<夢売りの館>だった。
                                    カラス 
 この小さな家の住人は、黒衣に身を包んだ青年が一人と見事な漆黒の翼を持つ鴉が一羽。
夢占いが主な仕事ではあるが、その他<夢>に関わる相談事も引き受けている。そして、
ごくわずかな者のみが知る、彼らにしかできない仕事も──。
 これは、そんな彼らを訪ねてきた、ある一人の天使の物語である。



   1  夢見る少女


 カチ、とドアノブが回る音がした。青年と鴉は自然に意識を扉へと向ける。一瞬の、躊
躇うような空隙の後、扉を押し開いて入ってきたのは一人の少女だった。
 無造作に切り落とされた髪は、もともと短かった髪が伸びてしまったようにも、長い髪
を自分で切ってしまったようにも見える。不揃いなその毛先が、どこか野を走る獣を思わ
せた。
「ようこそ。夢占いをお望みですか?」
 穏やかに声をかけた青年に、少女は切羽詰まった眼差しを向けた。
「あのっ……、<夢売りの館>って、ここですよね。──<夢>を、売ってくれるって、
本当ですか?」
 最初から<夢売り>の話を持ち出してくるとは、穏やかではない。隠しているわけでは
ないが、そう広まっている話でもないはずだ。青年はすっと笑みを落とした。
「どこでそれを……?」
「学校で……、前に、そんな話を聞いて。──本当に、見たい<夢>を売ってくれるんで
すか。<夢>を、買うこともあるって本当ですか?」
『娘、一度に多くのものを<望む>な。騒がしくてかなわん』
 たたみかける少女の脳裏に、直接声が響いた。驚いて辺りを見回して、青年の横の止ま
り木で休む鴉と目が合った。
「今の……、この、カラス……?」
『────我はカラスではない』
「ふふ、今のあなたの姿は、人の目にはカラスとしかうつりませんよ。──お嬢さん、こ
こ、<夢売りの館>では、確かに<夢>の売買をしています。あなたが<夢>を売りたい
のでしたらすぐにご要望にお応えできますが、<夢>を買いたいということでしたら、望
む<夢>が手に入るまで、少々お待ちいただかないといけません。……あなたはどちらを
お望みですか?」
 静かに問いかけた青年を、少女は宣誓台に上がった代表選手のような瞳で見上げた。
「<夢>を、買ってください。──これからあたしが見る、すべての<夢>を」


『おかしな者もいるものだ』
「ええ……、何か、とても強い決意をしているようでしたね。──それが何かは、感じ取
れませんでしたが……。<夢>を貯めておいて、どうするつもりなのでしょう」
 少女の申し出は、実に奇妙なものだった。
 <夢>を買って欲しい、それだけならばまだわかる。けれど少女は、その<夢>を誰に
も売らないでほしいと言ったのだ。自分がいつかその夢を取りに来るまで、ここで預かっ
ていてほしいと。貯金ならぬ貯夢ということだ。
 挑むようにすがるように告げて、少女は最初の<夢>を青年に託した。幼少時の回想の
ようなその夢を聞き終え、青年は鴉の口元に左手を差し出す。鴉がくちばしの間から落と
した碧緑の玉、それを持って少女は館を後にした。
「明日、また来ます」
 安堵と悲哀と、諦念と決意のまじった微笑みだった。



   2 雪催い


 最初の言葉通り、少女は毎日やってきた。そして毎日<夢>を語り、鴉の生んだ緑の玉
を持って帰っていく。日に日に寒さを増す外気に比例するように、少女の肌は白く──蒼
白く、透き通っていくようだった。
「あなたは……、毎日のように夢を見るのですね」
 青年の問いに、少女は自嘲めいた笑みを閃かせる。
「ええ。毎日、必ずと言っていいほど夢を見るわ。いくつもいくつも」
「珍しいことだと思いますよ。最近は、人々は疲れすぎていて、夢を見る間もなく眠りの
深淵に落ちてしまいますから」
「そう……。あたしの眠りは、遠浅の海なんです」
 一般に、人が夢を見るのは浅い眠りの時だという。夢の中で誰かに呼ばれて目が覚めた
りするのもこのためだ。外的刺激が夢の内容を左右することも少なくない。夢は、意識と
無意識の狭間にある、現実と非現実の狭間にあるのだ。
 眠りの深淵、と眠りを水に例えた青年に合わせ、少女は自らの眠りのパターンを遠浅の
海と言った。普通、海は波打ち際から徐々に深さを増し、あるところですっと一気に深く
なる。人の眠りのパターンも同様である。けれど遠浅の海は、なかなか深くならない。い
つまでもどこまでも、なだらかな傾斜が続く。それはすなわち<夢>から解放される、意
識を──心の関与を離れて身体を休める瞬間が、なかなか訪れないということだ。
『おまえは……眠ることに飽いているのだな』
 哀れむような鴉の言葉を、少女は首を振って否定した。
「飽きてはいないわ。──夢を見ることを止めようかと思ったことも何度かあったけど、
今はそうは思わない。むしろ、もっとたくさんの<夢>を見て、たくさん……、<夢>を、
集めたいの」
 誰のために、と問う言葉を、青年は躊躇った。
 初めて会ったときと同じ、何かを心に決めた少女の毅い眼差しが、それを躊躇わせた。
「また来ます」
 そう言って扉を開けた少女の、不揃いな後ろ髪と淡い色のコートが鮮やかに目に焼きつ
いた。


 次の日、少女は現れなかった。初めてのことだ。少女の気配を扉の外に感じる瞬間を待
ちながら、青年はいつの間にか少女の来訪をひどく楽しみにしていた自分に気づく。
『ふん……。まったく、おまえの甘さには付き合いきれんな』
 突き放した言い方をしながら、鴉は何かを感じ取っているようだった。


 かち、とドアノブの回る音がした。開いた扉から現れた少女を見て、青年が思わず息を
飲む。いつにも増して蒼白く、そしてどこか黒ずんだ顔色をしている。
「昨日はごめんなさい。ちょっと……抜けられなくて」
 そう言って少女は力なく微笑んだ。
「また……、<夢>を、買ってください」
「────ええ……」
 いつものように、古びた机を挟んで向かい合わせに座る。横の止まり木では、鴉が羽づ
くろいをしながら二人の様子を見つめている。
「──お花畑にいるんです。一面のキレイなお花畑」
 青年は微かに瞠目し、ちらりと鴉を見やった。広げた漆黒の翼の間から、鴉は青年と少
女を見比べる。
「あたしは白いワンピースを着て、そのお花畑の中を歩いているの。裸足なんだけど、土
が付いても足は汚れなくて、柔らかな感触が気持ちよくて……。しばらく歩いてると、ど
こからか水の流れる音が聞こえてくるの。さらさらと、小川のせせらぎのような音よ。い
つの間にか小川はすぐ目の前に横たわっていて、──あたしはそこで初めて立ち止まる。
この川を、渡ってもいいものか。ためらうあたしの上に雪が降ってくるの。大きなぼたん
雪。それはだんだん羽の形になって──、やがて透き通る翡翠色の羽がお花畑を埋め尽く
して、立ち尽くすあたしを埋め尽くして……」
 青年の目を見つめて、少女は満足げに笑った。
「あたしは泣いていたわ。幸せだと感じた。──今まで見た<夢>の中で、一番幸せだっ
たわ」
 息をつめる青年の前で、少女はもう一度笑った。すっと立ち上がり、鴉の目を見つめ、
再び青年に視線を戻す。
「今まで気づかなかった。あなたたちって、瞳の色がお揃いなのね。キレイな碧色」
 そしてきびすを返した少女を、青年は思わず呼び止めていた。
「待ってください! ──あなたは、ご自分の見る<夢>の意味を、わかって……」
「知らないわ。ただあたしは<夢>を見る。過去の夢未来の夢、叶った夢、叶わない夢。
ただ見るだけじゃもったいないでしょ。あたしの夢なんかでも、何かの役に立つなら残し
ておきたかったの」
 扉が閉まる前に、少女の姿は外の景色に消えていた。表へ走り出た青年が空を見上げる
と、今にも雪が降りそうな、灰色の雲が天を覆っていた。
『花畑……か。滑稽だ』
 呟いて鴉が羽ばたいた。天窓に向けて飛び立ち、ぶつかる直前に姿が見えなくなる。
 羽音に青年が振り向くと、止まり木に一羽の黒い鴉が止まり、羽を休めていた。


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