2:鍵 獣の息吹に似た、生温かい空気が男の頬を撫でた。 「そんなに苛々しなくても、目的のものはちゃんとありますよ」 『本当だろうな?』 「豊穣の祭の時期、妖精界から『鍵』が現れる。その場所が此処であることは調査済みです」 いぶかしむ響きにそう答え、彼は森の中を進む。なんの標もない場所を、迷うことなく歩きつづける。目に見えるものを頼りにするものには、到底出来ない芸当だった。 ここは魔の森。迷いの森とも呼ばれ、踏み込んだものを惑わせる場所。最もそれは『目に見える』範囲でのことだった。 「森の惑わしにかからぬこと、そして『鍵』の抹殺。どちらも、この私にかかれば難しからぬこと」 歌うように言ってから、青年が立ち止まった。不敵な笑みを浮かべたままで、背後の存在に語りかける。 「それとも……信用できませんか?あなたがたと契約を結んだ、我々の事が。それならばこの話は終わりです」 『そのことは、わかっている』 だが、とソレは思う。 これから青年が抹殺しようとしているものは、彼と同じ種族ではなかったか。 彼のように耳のとがった、『森の民』。その一員であるはずの青年が、何故自分たちと手を組むのか。それが理解できなかった。 「……幻とかじゃぁないわよね?」 その緊張を破ったのは、薄絹を纏うエルフの女性だった。緊張感のない言葉だが、驚いている事はシルエラと変わりない。緑の瞳は見開かれ、ぶらつかせていた両足も動きを止めている。 彼女はすっくと立ち上がり、シルエラに近づいてきた。反射的にシルエラの体がこわばって、半歩だけ後ろに下がる。それと同時に、レイピアの柄に置かれていた手が動いた。 かすかな軌跡を宙に残して、よく手入れされた刃が空気を裂く。 その一連の動作はシルエラの体に染み付いたもので、悪意も敵意も示してはいない。鞘を離れた剣の軌跡も、目前の女性に向けられたものではなかった。 だが、その一動作の間に。彼女と女性との間には、一人の青年が立ちふさがっている。その事に少なからず驚いた。 「傷はつけてほしくないな。いちおう守り役だからね」 目を細め、素手でかるがると刃を受け止めた青年が、やわらかく笑った。シルエラのほうも、はっとして剣を納める。彼女の長い耳が、眉同様にしょんぼりと下がった。 「……失礼した。申し訳ない」 そうして深く頭を下げてから、彼女は二人をまじまじと見つめる。 「貴殿らは、何者だ?なにゆえこの森におられる?この『迷いの森』に」 知らぬわけでも、気付かぬわけでもあるまい。この異常さに。 「そうおっしゃるあなたは、どうやってこの結界へ?」 ――結界? 聞きなれない言葉を耳にして、シルエラが首を傾げる。それはあくまで心の中の動作のつもりではあったが、思っていることは相手に知れたらしい。 「もしかして、知らずに入ってきたの?あなた」 声音には、あきれたような響きがある。 「月の光が綺麗だと、思って。気がついたらここへ」 そこまで言って、彼女は思い出した。月の光に誘われるようにして歩き、ふと気付いた『異変』。見間違いかもしれないと思い、そうであることを願いつつ再び天を仰ぐ。 (やっぱり、おかしい) 「月が無いなんて……妙だ。水面には確かに映っているのに」 不思議がる彼女を見た二人は、顔を見合わせた。やがて女性が笑みを浮かべ、守り役だと名乗った『人間の』青年も、肩をすくめる。 「それはね、今夜だけ。見えないだけで月はちゃんとあるし、結界の張られた湖の周囲だけの話。湖に近づく前には、ちゃんと空に見えていたでしょう?月明かりだって確かにあるし」 その言葉に、シルエラはうなずく。 「フツウは誰も入れないはず、なんだが。……君に流れる森の血のせいかな?エルフにはあまり効かない類のものだからね」 苦笑しながら青年は言った。よくは解らないもののシルエラは相槌を打つ。 楽しげにそれを見ていた女性が、ふいに言った。 「そうだ。私はフェルエマというの。そっちは私の護衛のティスカ。あなたは?」 自己紹介をされ、シルエラはあることに思い当たった。 「『ティスカ・フォレンシー』殿と仰いますか?」 「……昔はそう名乗ってたな」 そう答えた青年へと、片膝をついて礼をとる。 「私は、シルヴァリオン国近衛騎士団の騎士、シルエラ・ハレットと申します。我等が長、騎士団長より書簡を承り参上いたしました」 シルエラは懐から一通の封筒を出し、青年に示した。 ティスカという青年が封筒を開いていく間に、あとの二人は少しばかり話をする。なぜ森に居たのか、そして『結界』とは何なのか、そういった事と同時に、とりとめのない話もした。 この場所の『結界』は特別なもので、彼女等の住む常世の国『妖精界』に短い期間だけ繋がっているらしい。その間、妖精界とこの世界を繋ぐ門を守るとともに、森に繁栄をもたらす――それが、彼女たちの役割なのだそうだ。 (ティスカどのは、人間に見えるが) 人は、妖精界に住む事は出来ない。そう聞いた事があった。 そんなとき――。 不意に起こった強い風が、湖に波紋を生んだ。梢が揺れ、はらはらと落ちる葉がある。湖面の月は姿を歪め、ついにははっきり映らなくなった。 ティスカが手紙から視線を上げる。シルエラは身構え、ある一点を見つめて剣へと利き腕を伸ばした。そして残ったフェルエマはといえば、泰然とした様子で木々の方をむいている。 彼らの見つめる先は、どれも同じ場所である。 何かが、近づく気配。 「下がっていてくださいますね、『フェルエマ様』?」 彼女を庇うようにしてティスカが立つ。その手は腰に下げていた長剣へと伸びていた。彼の隣りに立つシルエラは、その時になって彼が剣を携えている事に気付く。大きさからして目立つはずだが、不思議とそれを感じさせないでいた。青年は、横に立つシルエラへと声をかける。 「シルエラ・ハレット。君が剣を抜く必要は無い」 迷うことなく彼女は答える。 「敵を前に戦わぬ事は、わたくしの信条に――我が誓いに背きますゆえ」 近づく『何か』が敵である事を、シルエラは信じて疑わない。こういった勘を外した事は無かった。 梢の騒ぐ音に耳を澄まし、次第に近づく『何か』に集中する。風の起こすざわめきは次第に増していったが、ある一点を越えると逆に静まっていく。 近づく『何か』の気配は、変わらない。奇妙な息苦しさを覚える。 (殺気――!) 柄を握る手に汗が滲んだ。 次第にその濃度を増してゆく殺気と、圧迫感。目には映らないその重圧が、音という音を押しつぶしたようにも思えた。もとから静寂に満ちていた湖一帯が、ひどく狭く息苦しく思えてくる。 ザザザザザザザザザザッ…… 木々を掻き分け、何かが近づいてくる。枝葉を掻き分ける音は、その何者かが凄まじい速さで近づいてくる事を示している。 来る、と思った瞬間、その音が止んだ。 ――ザッ!! その瞬間、襲い掛かってきたのは黒い影のかたまり。そのシルエットだけを認識し、シルエラは渾身の力を込めて迎え撃たんとする。木々の間をかけ、飛び掛ってきた相手の動きがひどく断片的に映る。 相手に比べて己の動作が、ひどく緩慢に思えた。 「く……っっ!」 ずしりとした衝撃。剣が折れてしまうのではないか、と思うほどのものだ。 それを支えてからわかった。その巨体は、見たことの無い獣に見える。黒く厚い毛皮に覆われた、禍々しい獣。間近に見える乱杭歯をガチガチとならし、獰猛な唸りをあげる。 あまりの力に退く事も出来ない。このまま力で押し切られる、と思った途端に腕にかかる負荷が減った。目前で、ティスカという青年が剣を振るったのだ。彼の、白い刃の軌跡が視界にやきつく。見事な一撃だった。 それから遅れて、シルエラに喰らいかかろうとしていた首が、支えを失って地面に落ちた。思わず前のめりになりそうなところを、踏みとどまる。 「ティスカ・フォレス。シルヴァリオンを出て、『秋』の妖精騎士になったのか」 涼しげな声の主は、黒い怪物と同じ方向からあらわれる。 淡い、新緑色の髪だった。一目見て異種族と知れる容姿。体つきはその場にいる女性たちと良く似ている。二人同様に華奢であり、動いた拍子に長い耳も見えていた。ただ、女性ではなく男のようである。 (エルフ?) シルエラがエルフの男性を見るのは、これがはじめてのことだった。 「あなたは……!!」 フェルエマの、驚愕した声が漏れる。エルフの男は素早い動きで、彼女へと近づこうとしていた。彼女を庇うようにして、ティスカが立ちふさがる。 「この『剣』を、知らない訳じゃないだろう!」 示すように翳された彼の剣は、その声に呼応してか強い光を放った。剣の刃の部分は、半ば透明になっている。まるで澄んだ水のような刃に、向こう側まで透けて見える。 「その言葉、そのまま返して差し上げましょう」 自信ありげに呟き、男が腰の剣を抜いて軽々と掲げた。その剣の長さも、拵えも、ティスカのものに良く似ていた。 ――ただひとつ、刃の部分を除いては。 禍々しい漆黒に染まる刀身。それを見たフェルエマとティスカが息を飲む。 「『穢れ無き妖精の剣』を……私のこれで穢してくれよう。忌々しき、妖精界と共に」 目を細め、その男は剣で軽く宙を薙ぐ。斬撃の軌跡から滲み出るようにして、様々な形状の『黒いもの』が次々と現れた。大きなもの、小さなもの……見る見るうちにそれは増えていく。ティスカとシルエラはそれらに剣を振るうが、きりがない。ティスカの『妖精の剣』の光り輝く刃を以ってしても、すべてを一時に倒す事は出来そうに無かった。 戦いを見ているフェルエマが、悲痛な声で叫ぶ。 「『妖精界』を穢すことは……森を、破壊する事よ。解っているの!?」 言われた男は眉一つ、動かさない。 「それこそ私の望むところ。主君の命となれば、なおのことだ」 そう言った彼の胸元に、シルエラは見覚えのある紋章を見つける。シルヴァリオンのものではない、近隣の――『軍事国家』である大帝国の紋章だった。 「あれは『鋼の国』メティオールの紋章」 ひやりとしたものが、彼女の背に落ちる。 (騎士、なのか) 自分と同じように、主君に忠誠を誓うもの。 驚愕とともに、苛立ちにも似た感情が彼女を支配した。 |
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