<夢>の彼方


── written by 相川氷冴sama@Super Serfish Spice?
(高波修sama@湘南ソロモンFKO)



   プロローグ



〈夢売りの館〉
 夢占いたします。

 愛想のない文字で、そう書かれた看板が架かっている。看板の先にはこれまた愛想のない古ぼけた分厚い木の扉――小ぢんまりとした商店街の中の小さな路地にある、これまた小ぢんまりとした建物に取り付けられたその扉は、夢と現の境界を護るが如く、ただどっしりとしてそこに或った。
 ここは、悩める人、不幸な人、幸福な人、今の自分から抜け出したいと思っている人、男、女、若い人、年老いた人、そして時にはヒトではないモノまで、ありとあらゆるモノ達が訪れる夢と現の交叉点。夢占、夢売り、夢違え――貴方が望むものは何ですか。さあ、〈夢売りの館〉と名付けられたその建物に、一歩足を踏み入れてご覧なさい。きっと貴方の望む〈夢〉が、その中には或るでしょう。
 路地を吹き抜けていく風が、扉の前に佇む訪問者へと囁きかける。
 ここは〈夢売りの館〉。うたかたの〈夢〉の、集う場所――
 そして、ギイィと扉が鳴った。





   1 幸せの夢



「夢を買ってください! 幸せな〈夢〉を!!」
 その少女は、暖かな陽光をその身に纏い、風と共に軽やかに飛び込んできた。
 カラン、カラン……と、少し遅れて来客を告げる鐘が鳴る。
『ホォ……』
「おや、これは珍しい……」
 駆け込んできた少女を見た鴉と青年が、ほとんど同時に感嘆の声をあげる。
 おそらくまだ十代後半ぐらいであろう、その少女の纏う〈色〉が、最近では珍しいくらいに希望に溢れたものだったからだ。そこにいるだけで周囲の人間に思わず笑みを浮かべさせてしまうような、そんな微笑ましさを含んだ雰囲気を、彼女は全身から放っていた。
「ここは、ヒトが望んだ〈夢〉を与えてくれるような場所だって聞いてきました。でも、色々な人が欲しがるような幸せな〈夢〉って、きっとそれ自体供給される事が少ないのでしょう? だから、私の〈夢〉を買ってください! 私の、幸せいっぱいの〈夢〉を!! この〈夢〉でどこかの誰かが幸せになってくれるのなら、それだけで私も嬉しいから」
 口元で両の手を合わせ、そう言ってうふふ、と笑う少女。一目ではっと目を惹くような美人というわけではないが、その一挙手一投足が何故か人を惹きつけて止まない魅力がある。
 それは薄暗いこの部屋の中に、急に暖かい日溜まりが出現したかのようで……。
『…………フン。たかが人の子に。くだらぬ』
 まるで蠱にでもかかったかのように少女に目を奪われていた事に気付いた鴉が、まるでその事を恥じるかのように青年の背をはたきつつ肩に留まる。青年の方もその衝撃でようやく我に返ったのだろう。はっ、としてばつの悪い笑みを顔に出す。
「失礼。確かにここは〈夢売りの館〉。望む人にはちょっとした代償と引き替えに、特別に〈夢〉をあつらえさせて頂くこともありますが……この内情まで知っていらっしゃるとは珍しいですね。この事は、誰かに聞かれたのですか?」
 まさか、これが初対面ではないということはあり得ないでしょうしねえ……。
 己の記憶の中をひっくり返しながら、少女に向かって青年は尋ねる。これだけ強烈な印象を与える少女ならば、おそらく一度会ったら忘れる事などないに違いない。
 だが、どこをどう探しても記憶の中には彼女と会った覚えはないにもかかわらず、何故か彼女と、いつかどこかで会ったような気がしてならないのは……。
「ええ。父が昔、この〈館〉に救われた事がある、って話してくれた事があるんです。〈夢〉の売り買いをしてくれる、不思議な不思議な〈館〉の話。それで私もこの〈館〉の事がとっても気になっちゃって、今までずっと探していたの」
 そう言って真剣な眼差しでじっと青年を見上げる少女。その瞳に青年はまたしても既視感を覚える。だがそれも一瞬のこと、少女の視線はすぐに青年から、青年の肩にとまる鴉へと移動する。
「うわぁ。これが例の鴉さんね。すご〜い! とっても不思議で、キレイな色の羽をしてる……」
『人間ごときが、気安く我に触れるな!』
「えぇぇ〜!? いいでしょ、別に。減るものじゃないんだから」
 グワァッ、と大声を上げて威嚇した鴉に、ぷうぅ、と音を立てて少女が膨れる。
 なんだか見ている青年の方が思わず微笑んでしまいそうな、くるくると変わるストレートな感情表現。その表情の豊かさを見ているだけで、彼女がとても幸せな日々を送っているのだろうと云うことははっきりと見て取れる。
「まあまあ。彼≠ヘ、人に触れられるのがとても嫌いなのですよ。無理に触ろうとすると、突かれて大怪我をすることになりますから気をつけてください」
 くくく……っと笑い混じりに青年が茶化す。
『我をそこいらの鴉どもと一緒にするな。貴様は由緒正しき〈夢魔〉たる我を愚弄するか!』
「はいはい。そう思うのであれば、触らせてあげるぐらいしてあげたって良いではありませんか。私はね、貴方の態度があまりにも大人げないから敢えて苦言を呈しているのですよ」
『………………。フン、勝手にしろ』
 その瞬間、ぱっと少女の顔に花が咲いた。それは見る者を幸せにする、そんな笑み。彼女を包む暖かい空気が、青年の心も暖かく包み込む。その暖かさは彼女が、とても穏やかで暖かく、素晴らしい人々に囲まれ、愛されて生きていることを感じさせるものだった。
「それで、どのような〈夢〉をお売り頂けるのですか?」
 この少女ならば、とても質の良い〈夢〉を提供してくれるに違いない。希望に満ちた、最高級の良い〈夢〉を、彼女はきっと……。
 そう確信しつつ、嬉々としてむくれる鴉の羽を撫でる少女へと青年は尋ねる。
「もしかしたらお父様に聞かれているかもしれませんが、〈夢〉と言えどそれは確かに貴方の一部。それを提供されると云うことは、その幸福な刻を自ら手放してしまう事となりますが、本当にそれでも宜しいのですね?」
「ええ。もちろん! だって、私は今、とても幸せだもの。夢の中の幸せぐらい、少しお裾分けしたって何でもないわ。それに、私がこうやって売った〈夢〉で、父のように救われる人間だっているのでしょう? そう考えるだけで、私は胸がとっても暖かくなって、もっともっと幸せになるの」
 少し脅かすかのような青年の言葉にも、怖じ気づくことなくにっこりと笑って答える少女。その言葉には少しの嘘も偽りもない――。
 やはり、どこかで会っているのだろうか……?
 その笑顔が、声が、仕草が、妙に頭に引っかかる。だがそれも一瞬のこと、青年のその疑念は、すぐに儚く消えていく。
「それでしたら是非に、こちらからもお願いいたします。それでは合意も取れたようですので、お売り頂けるという〈夢〉の内容をお聞かせください」
『せいぜい我の羽根のような、綺麗な〈夢〉であれば良いがな』
 ようやく少女の腕を抜け出ることができた鴉が、止まり木の上に降り立ちながら、半ば悔し紛れの言葉を投げる。
 だが、少女の方はその言葉にも全く動じず、逆ににっこりと、不敵とも思える笑みを鴉の方に投げかけ、口を開く。
「そんな心配はいらないわ。だって、これは今まで私が見た中で、一番ステキな〈夢〉ですもの。きっとあなたの羽根にも負けないくらい、キレイに輝くモノになるわ! うん、私が保証する」
 そして少女は、きらきらとした光を周囲に振りまきながら、喜びに満ちた幸せな〈夢〉を、青年と鴉に向かい語り出したのだった――。





   2 夢見草の少女



 僕が彼女をはじめて見たのは、早咲きの桜の花びらの舞う、ある晴れた春の日の朝だった。
 道の両側からピンクの花びらでいっぱいの桜の枝がせり出し、桜でできたプロムナードの如きその道に、花びらに包まれて彼女はいた。僕がいつも時間を気にしながらセコセコとした足取りで通る道で、制服姿の彼女は立ち止まり、はらはらと空から落ちる桜を見、そして宙に張り出したその枝の隙間から見える空を眩しそうに眺めていた。
 近所の高校にでも通っている娘なのかな――。
 その時は、そう思った。だが、九時始業の会社に通う僕が遅刻ギリギリで一分一秒とデッドヒートを繰り広げている時間にこんな場所にいたら、いくらなんでも学校には完全に遅刻してしまう――一瞬の後、そう思い直す。
 その証拠に、もうすぐ一年も経とうとしている僕の通勤経験の中で、この道で朝に女子高生と会ったのは片手で数えるほどしかない。それは完全に僕の通勤時間が、彼女達の通学時間と時間帯を異にしていることを示していた。
 そろそろ、高校は春休みになるんだっけ?
 そう思いながら、僕は彼女の横を通り過ぎる。なにせこちとら我が身の遅刻がかかっているのだ。少しぐらい疑問に思うことがあったとしても、そんな事にかかずりあっている暇など存在するわけがない。
 そう、存在するわけはなかったのだが――
「え……!?」
 通り抜け様、花びらに包まれた彼女の頬に光ったモノに、僕はドキリとして思わず足を止めていた。後ろ姿からは幸福そうに桜の花びらと戯れているかのような印象を受けた彼女に、全くそぐわないその表情。僕は自分の見間違いかと思い、反射的に彼女の方に顔を向ける。
 その、瞬間――
 僕は今度こそ、心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃をその胸の裡に覚えていた。
 振り返ろうとした僕の気配に、一瞬早く気付いたのだろう。彼女は頬に付いた涙の筋を拭いながら、あろうことか僕に向かって微笑みかけていたのだ。風に舞うピンクの花びらと暖かな朝の光に包まれて、それはまるで天使のよう――
 そう、彼女は決して目を見張るほどの美人というわけではないものの、涙混じりのその微笑みは、その空間に光を溢れさせ、見る者を惹きつけて止まない輝きを確かに放っていた。
 はかなげで、今にも折れそうなほどの危うさを秘め、でも君は、そうして笑っていられるだけの強さを持っている……。
 それはまるで、見る者を幸福にする一枚の絵。僕は思わず彼女に見とれ、そしてかけるべき言葉が見つからないまま、ただポケットにあった少し皺の付いたハンカチを差し出す。そうして彼女の細く長く綺麗な指が、そのハンカチをそっと受け取るのを呆けたように見ているしかなかった。圧倒的な美に触れた人が為す術もなくその美の前に立ちつくすしかないように、彼女という存在が作り出したこの奇跡的な絵を、僕はただ、何も考えられずに見ているしかなかった。
 時間も忘れるほどに、ただただ、呆けたように――

 その日僕は、初めて会社を遅刻した。





   3 逆夢



 小屋の中に暖かい光を満たしたまま、ぱたり、と音を立てて彼女は去っていった。
『……オイ、今のは――』
「ええ、分かっています。不吉な……〈死〉の影が一瞬ちらりと見えましたね」
 青年の手元に残ったのは、鮮烈な透明感のある蘇芳色の中に、純白の煌めきを散りばめたサンストーン。つい今し方、彼女の紡いだ輝きに満ちた〈夢〉の、これが結晶だった。
 キラリ、キラリと光を映して〈夢〉が光る。
 こんなにも美しい、混じりっ気なしの幸福な〈夢〉。これほどまでに純な心を持った人間は、今の世の中とても稀であるというのに……。
「美人……薄命ですか……」
 どこか諦め混じりの残念そうな口調で、青年が呟く。
 長年、このような商売を続けていると、その言葉が如何に真実を表しているか、青年には痛いほどよく分かっていた。
 これは、決して容姿の問題ではない。彼女のように、キレイでまっすぐな心を持った人間ほど、何故かこの世界から早逝する――それは、ある種決められた理であるのかもしれなかった。この汚れきった世界に似合わぬ純なココロが、この世の汚濁に染まることを良しとしないのか。或いは神という存在が、純白なココロに染みが付く前に、自らの手元にその魂を呼び戻しているからなのか。いずれにせよ、純な美しい魂を持つ者ほど、この世に長くはとどまらない。
『我らにとっても不幸であることに、な』
 そう、純な〈心〉、綺麗な〈夢〉――そんな希望に満ちた幸福な〈夢〉に含まれる精気こそが、彼ら〈夢魔〉たちにとっても最高級のご馳走だった。中には〈悪夢〉や、それが産み出す絶望する心のエネルギーを大好物とする悪食な者もいるにはいるが、やはり良質な心が産み出す〈感情〉こそが、彼らにとっても心地好い。
 だが、最近の世相故か、そのような真に純な〈夢〉を見る人々は、だんだんと数を減らしてきているのは確かだった。最近では、快活そうに見えても皆どこかに諦めを――膿んだ心を抱えている。
「彼女はそういう意味で、とても希有な存在だったのですがねえ……」
 それだけに、彼女にまとわりつく強烈な死の影が、とても残念でならなかった。
 だが、これもまた、逃れ得ぬ運命であるのなら――
 そう、過去、人の運命に干渉しようと望む人々の〈夢〉が、その代償としていかなる結末をもたらしてきたかを知る青年には、その運命を知ったところでどうすることもできなかった。だから今も彼女が出て行くのを、ただ黙ってみていたのだ。あとほんの少しの彼女の幸せを、最期の最期であるその瞬間まで壊したくはなくて、青年はただただ彼女を、彼女の後ろ姿を見送った。
『しかし、今回は随分と諦めが早いのだな。あれほどの上玉、なかなかおらぬというのに』
 目をギョロリとさせた鴉が、青年の感傷を混ぜっ返す。
「ええ。それは。おかげさまで。抗ってもどうにもならない事には、労力を使うだけ無駄になりますからね」
 全てをあるがままに受け容れる。そんな悟りの境地が最近分かってきましたよ。
 目だけで、青年は鴉に笑いかける。
「それよりも――」
 ふ、と青年の顔が、悪戯を思いついた子供のようにニンマリと綻んだ。
「あなたこそ、今回は珍しく、随分と彼女に御執心のようではありませんか。そんなに彼女が気になるのならば、すぐにでも追いかけて危険を知らせてあげればいいではないですか? あなたの力があれば、彼女を〈死〉から救うことも決してできなくはないでしょう?」
『――フン、執心などしてはおらぬわ。我はただ、いつもはヒトのように揺れる貴様が、今回はやけに物わかりが良いのが気になっただけだ』
 だが、そう言う鴉の声は、心なしか随分と動揺しているかのように青年には感じられた。その証拠に、彼が一度に口にする言葉の数が、普段よりも明らかに多い。
 本当にそうですか、という面持ちで笑いを含んだまま視線を向ける青年と、しばし睨み合う鴉。
 やがてぷい、と先に視線を逸らしたのは――果たして鴉の方だった。
『貴様と話していても気分が悪い。少し外の空気を吸いに行く』
 そう捨て台詞を残し、宙にかき消えるようにバサバサと飛び立つ鴉。
 これは……逃げましたね。
 クツクツと笑いが込み上げてきて止まらない。この指摘を彼にしたらまたいつもの如く怒るのだろうか、などと思いながら、青年はそんな、いつになく人間くさい鴉の姿を見送っていた。





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