<夢>の彼方




   4 夢の手枕



「わたし、学校でいじめられているんです――」
 あれから、数週間に一度くらいずつ、僕は彼女をこの遊歩道で見かけるようになった。彼女がいるのは決まって一限目が始まっているであろうこの時間。春、夏、秋と季節が移り変わるにつれて、彼女を包んでいるのはピンクの桜から新緑の葉桜となり、甘い甘い匂いを放つツツジとなり、ぽつんぽつんと白い花を付ける梅となり、やがて銀杏の黄色い葉っぱへと変わっていったが、その頬を伝う一筋の涙の跡と、彼女の笑顔で光が弾ける様は、いつになっても変わらなかった。
 そんな時、僕は黙ってこの日のためにきちんと畳んでおいたハンカチを差し出し、彼女は決まって照れたようにはにかみ、ありがとうございますと鈴の鳴るような声で言って微笑む。慌ただしい朝の、たったそれだけの一時の出会い。そんなささやかな儀式のような出会いを、いったいどの位僕らは続けていたのだろうか。
 彼女が何故こんな時間にここにいるのか、そして何故いつも泣きはらした痕があったのか、それが気にならなかったと言えば嘘になる。でも僕は、それを踏み込んで聞くのが怖かった。この奇蹟のような、彼女との出会い。初めにあった時の、天使のような印象そのまま、彼女はその笑顔で僕に幸福を運んでくれる。そう、彼女と出会った日はそれだけで、僕の一日はバラ色になったのだ。でも万が一、現実に踏み込んでしまったら、その奇蹟が何だか泡のように弾けて消えてしまうような気がして、僕はただ二言三言、お決まりの言葉をかけ合うだけのそんな儀式めいた奇妙な関係を彼女と続けていた。お互い、まるでそれが不文律であるかのように――。
 ぽつり――彼女が唐突にここに来る理由を僕に告げたのは、そんな奇妙な関係が更に続き、季節が秋から冬へと差し掛かろうかという、そんな時だった。
「何故なんでしょうね。わたしの方はみんなと仲良くしたいのに、みんなはわたしの事が嫌いみたいで……。小学校の頃からずっとずっとそうなんです。肉体的な暴力とかそんな直接的ないじめじゃないんだけど、村八分って言うの? 言葉や態度で傷付けられることはしょっちゅうで……。上履きを捨てられたり、持ち物やお金がなくなっていたりといったことも、時々……。それでわたし、どうしても耐えられなくなった時だけ、ここに来て思いっきり泣いていたんです。ここの植物たちに触れていると、なんだかとても心が洗われて慰められるような気がしたから――」
 でも、学校はサボってしまっているんですけどね。
 そう言ってエヘ、と笑う彼女の顔はいつものように明るく無邪気で、今聞かされたようなイジメの陰など、僕には微塵も見つけることができなかった。それはさながら見る者を暖かい気持ちにさせる、幸せいっぱいの明るい笑み――
 僕は今まで、彼女がそのような笑みができるのは、正真正銘彼女が幸せの中にいるからだと思っていた。だが、それは間違っていたことを、その時僕は悟っていた。そう、彼女のその笑顔の裏には、己の不幸な境遇にも負けない、強くて前向きで純粋な心があったのだ。
 ずきずきと、心がまるで大きな傷でも負ったかのように痛んでいる。彼女の笑顔の裏に隠された涙の意味――それを、知ってしまったから。
「その……僕にはなんて言ってあげたらいいか、いい言葉が全然見つからないんだけど、その、大丈夫なのかい?君は、そんな毎日を過ごしていて……」
「……ええ。小学校の頃はね、何でわたしばっかりって思ってやりきれず、惨めで悔しくて眠れない夜もあったんだけど、今はもう、大丈夫。良くも悪くもわたし、いじめられ慣れているから。だってそうでしょ。小中高と、キャリアだけは長いのよ、わたし」
 痛々しいことをさらりと言いながら、そう力強く笑う彼女の顔は、冗談ではなくとても輝いて僕には見えた。
 この笑顔を保つのに、彼女はいったいどれだけの涙を流して来たのだろうか。
 それを思って、胸が痛む。
 彼女の凄いところは、そのような境遇にあってもなお、ヒトを恨まずに生きていられること。人に幸せを届ける笑顔を、振りまくことができること。
 そんな彼女が、僕は今、とても眩しい。
「それに、どうせ高校三年生なんて今の時期、受験生が大半でほとんど授業なんてないも同然だから、最近ではあんまりその人達とも顔を合わせなくてすんでるし、あと数ヶ月もしたらこの人達ともたぶん一生お別れなんだなあ、とか思ったら、ちょっとやそっと村八分にされたくらいで泣き寝入りするのも馬鹿らしくなっちゃって。わたしね、例えイジメられても笑って受け流せるような、そんな強い人になろう……わたしが彼女達を好きでいれば、きっといつかは彼女達もわたしのことを好きになってくれるって思って、中学の頃からずっと頑張ってはきたんだけど――」
 ふっ、と彼女の顔に、一瞬暗い陰がよぎる。
「でもだめね。時々心の中がどうしても悔しさでいっぱいになって、耐えきれなくなっちゃうの。わたしは本当にみんなが大好きで仲良くしたいのに、なんでみんなはわたしが嫌いなんだろう、って小学校の時みたいに悲しくなる。なんでなんだろう。ほんとに。わたし、そんなに嫌われるタイプなのかなあ……」
 そう言ってうつむく彼女の顔は、珍しく、泣き笑いのような顔になっていた。
 なんで彼女みたいな掛け値無しのいい娘が、イジメの標的になってしまうのか、その理由は少し分かる。彼女はそう……少し目立ちすぎてしまうのだ。この強い、まっすぐな心を持ってるが故か、それとも生来の何かがあるのか、彼女はとにかく集団の中にいて、そこに馴染まず一人、目を惹いてしまうような、そんな輝きを纏っていた。
 だがそれは、個性を潰し均質性を何よりも大事にする今の学校――ひいては少女達の集団の中においては、明らかに諸刃の剣だった。それが良い方に働けば集団をまとめるリーダーやスター的な存在とも成り得るが、悪い方に働いた場合は異質なモノとして爪弾きにされ、集団という秩序を保つための生贄の山羊と成ってしまう危険を秘めた、諸刃の剣。
 そう、人は、自分と違う明らかに個性の強い存在をなかなか認めたがらない。その存在に自分の中にある何かを否定されたような気がして、ほとんど本能的に忌避をする。無意識のうちに彼らのようになりたくてもなれない自分にもどかしさを感じ、彼らを自分のように平凡な存在へと引き摺り落とそうとするか、それが駄目なら崇拝の対象とし――それでもなければ徹底して関わらないようにするのだ。自分の平穏を守るために。
 それは、学校だけでなく会社という組織の中にあっても全く同じだった。僕は今まで、徹底して波風を立てないよう、逆らわないよう、集団の中に溶け込んで行動するように務めてきた。それが、僕が幼少期のいじめ経験から学んだ処世術だ。だから、僕には彼女のこの強さが、とても目に眩しく映る。時に、嫉妬すら覚えてしまうほどに……。
 おそらく、彼女のことをいじめている人間達も、その根底には僕と同じような嫉妬心を抱えているのだ。子供の頃は概して、それすら分からず行動していることが多いのだけど。
 そう、僕がどもりながらも何とか告げると、彼女はとても驚いたように目を見開き、何かを思い出すかのように遠くの方へと目をやった。
「そんな事――全然考えたこともなかったわ。わたしはいつも自分の気持ちだけで精一杯で、彼女達の心の中に何があるのかなんて全然見えていなかった……ううん、見ようとはしていなかったから。そうか。そういう事もあるんですね。わたしが彼女達を嫉妬させる何かを持っているなんて、にわかには信じられないけど、そう考えれば少し勇気が湧いてくるわ。ありがとう、お兄さん。さすが長く生きている人は言うことが少し違うわね!」
「長く――って、たった六年しか違ってないんだから」
 あんまり年寄り扱いするなよなあ……。
 うふふ、と笑う彼女の微笑みが僕には直視できないほど眩しくて、少しおどけたように僕は照れた言葉を吐いた。気を抜くと相好がこれ以上なく緩んできてしまいそうだ。
 それでも珍しく沈み込んでいた彼女にほんの少し勇気を与えられたことが嬉しくて、僕の心は綿毛のように宙を舞う。冬の寒風が吹きすさび、はらはらと枯葉舞う秋の空。だけどその瞬間、心の中は妙に暖かくなっていた。その日、二回目の大遅刻をかました僕はだが、そのペナルティを完全に吹き飛ばす大切な何かを、その時確かに見つけていた。そしてそれは、彼女もたぶん同じだったのだと――思う。僕の言葉に、彼女の笑顔がより一層幸せそうに弾けたから。それは僕の幻想というわけではないのだと、確信する。

 そして、彼女が高校を卒業し、大学生になったことをきっかけに、僕たちは正式に付き合い始めた――。





   5 〈死神〉と〈夢魔〉



『既に……遅かったか』
 青年にやはりと思われるのはしゃくだったが、彼女の事が気になって思わず後を追っていた鴉は、眼下に広がる惨状を見て独り、深い溜息をついた。
 鴉がとまった街路樹の前方、そこそこ車通りの多いその交叉点を右往左往する人間達。そこには信号機にぶつかり強く前方がひしゃげたトラックに、キラキラと地面に散乱するガラスやプラスチックの破片、そして、それらを徐々に飲み込んでいく赤い赤い液体があった。
「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!!」
「運転手の方は生きてるぞ! これならなんとか助けられそうだ。そっちはどうだ!?」
「だめだ。強く頭を打っているようで、意識がない。それに、この出血の量じゃ――」
「くそぉ! 救急車はまだか、救急車は!? はやくしないと――」
 などと云った言葉が、下々のざわめきの中から聞こえてくる。それらの言葉を総合すると、状況はどうやら横断歩道を渡っていたその女性に、信号無視したトラックが突っ込んで来たということのようだった。暴走車のまだ年若い運転手の方はなんとか一命は取り止めそうではあるが、トラックにはねられたその女性は、誰がどう見ても助かりそうにないぐらいに酷い状態――そう、まさに今こうして見ている瞬間にも、死神に魂を摘まれてしまってもおかしくないような、そんな状態だった。
『――その娘は我のエモノだ。手を引いてもらおうか』
 その光景を見た瞬間、鴉は自分でも訳の分からない衝動に駆られ、眼下に向かい思わず声を大にして叫ぶ。
『フン、〈夢魔〉ごときがナマ言ってンじゃないよ。その娘はあたいがずっと前から唾を付けてたんだ。アンタなんかに譲れるわけないだろ』
 果たしてその鴉の声に応え、彼女の側にいつの間にか佇んでいた黒猫が、目を細めてミャーと鳴く。おそらく性別は雌なのだろう、毛並みのとても綺麗なその猫は、樹の上にいる鴉をしっかと見据え、フーッと尻尾を逆立てて威嚇する。
『悪いけどね。この娘の生命の量は、天命でしっかりと決まってンのサ。それはお天道さんでも覆せない理よ。もしアンタがそれを承知で、なおあたいに歯向かおうと言うのなら――』
 覚悟はできてるンだろうねえ――。
 ラン――と鴉を見つめる黒猫の瞳が輝いた。その強い力の籠もった視線を浴びて、ぞわぞわと毛が逆立ち、血が凍り付くのを感じる鴉。
『勘違いするな。我は何も〈死神〉に逆らおうなどとは言ってはおらぬ。ただ、そう。我の見立てではまだその娘に、今生での時間が僅かなりとも残されているはずだ。それが例えほんの僅かな時間であろうとも、それはその娘の時間だろう。それを摘み取る権利は、貴様には無いはずだと、我は言っているのだ』
『……フン、本当にナマイキな〈夢魔〉だこと。ああ、そうさ。確かにあと少しだけ、この娘の時間は残っている。でも、それもこの砂時計の砂が、全て落ちきるまでのほんの少しの時間サ。そう、そんな短い時間があったって、所詮は何も出来はしない。違うかい? そう、違いなんかしないのサ。だったらいっそのこと、少しでも苦しまないですむように、ひと思いにあの世に送ってやるってのが、せめてもの人情ってモンじゃないのかい』
 わずかな煌めきと共に、黒猫の前に小さく、だが中身の詰まった砂時計が現れる。そこからこぼれ落ちる砂は、彼女の最期の生命の滴。きらきら、と七色の光輪を纏いながら流れ落ちていくそれは、確かに残りあと一分もないように鴉には見えた。
『おおかた、最期の最期までこの娘の精気を喰らおうって魂胆なんだろう。本当、浅ましいさね。フン、だからアンタはそんな――小汚い鴉の姿にしかなれないのサ』
『……我は、この姿を気に入ってる。薄汚い〈死神〉の貴様なぞには分からないだろうが、な』
 低く、威圧するような声で、脅すように言い放つ鴉。彼はそのまま、バサバサと羽を鳴らすと、倒れ伏した彼女の前に勢いよく降り立つ。
『その時間が果たして短いのか長いのかは、この娘が決めることだ。ほら見るが良い、〈死神〉。現にこの娘には、未だこの世に伝え残したい事があるようだ』
 まるでそう、静かに告げた鴉の言葉に導かれるように、死んだように動かなかった少女の身体がわずかに身じろぎをし、降り立った鴉の方へとその顔を向ける。
 そしてその瞬間、彼女の濁った瞳が焦点を結び、その視線が真っ直ぐに鴉を捕らえていた。
「ああ、鴉さん……あなたが、わたしを天国へと連れに来たのね……」
 そう言ってうっすらと微笑む彼女。力なく、その腕が鴉の方に伸ばされる。
 残念ながらそれは間違っている、とは思いながらも、彼女に対して敢えて何も言わずに置く鴉。そう、最期の時ぐらい、彼女の幻想を壊さずにおいてやるのも悪くはない。
「ふふ……不思議ね。わたしの体はこんななのに、全然、痛くなんかないわ。ねえ、これは、わたしの魂が、もう半分ぐらいこの身体から抜けて行っているせいなのかしら……」
 ぴちょん――
 震えながら鴉の方へと差し出された彼女の手から、赤い血の滴が珠となってこぼれ落ちる。
「可笑しいわよね。いきなりこんな事になって、本当はもっと絶望してなきゃいけないはずなのに……そう、こんな所で突然、大好きなあの人と別れることになったんですもの。これから、二人で幸せになろうと決めたその時に……」
 そう呟く彼女の声はもはやあるか無きかのものだった。黒猫の目の前に浮かんでいる砂時計から、どんどんどんどんと残りの砂がこぼれていく。
「でもね、鴉さん。わたし、今、この一瞬で夢を見たの。彼が、慎ましいながらも愛に溢れた家庭を持って、奥さんや子供と、幸せそうに暮らしている〈夢〉。その相手は残念ながらわたしじゃなかったけど、あの人がああやって笑っていられるなら、わたしはとっても幸せよ。だから……」
 そこで一瞬――ほんの一瞬だけ彼女は何かに迷うかのように言い淀んだ。だが、ぎゅっと迷いを吹っ切るかのように目を瞑ると、瞳に強い色を湛えさせて鴉に言葉を投げかける。
「さっきと同じように、この〈夢〉を買ってください。わたしが最期にこの世に残す、とても幸福なこの〈夢〉を――。この〈夢〉がいつか彼に届くように、そしていつか誰かを、幸福にできるように。この〈夢〉を買ってください」
 そのまま、鴉の返事も待たず気を失っていた一瞬で見たという〈夢〉を語りはじめる彼女。それは彼女にふさわしい、透明感に満ちた幸福な――〈夢〉。それを子細漏らさず鴉の元に伝えていく。
 そして、その〈夢〉を語り終えた時、彼女の言葉は永久に潰えた。後にとても純度の高い真っ透明の紅水晶と、その薄紅色の煌めきだけを残し……。
『やれやれ、あたいも甘くなったモンだ。その娘が語り終わるまで寿命を待ってやるなんてサ』
 その煌めきを見ながら、黒猫がやれやれと首を振る。黒猫の前には既に全ての砂の落ちた砂時計――いや、違う。よく見るとたった一粒だけが、上部の口にしがみつくように残っていた。それはまるで刻が止まったかのように、微動だにせず、そこにある。
『オイ、鴉! 覚えておきな。こんなサービスはこれっきりだ。もう二度とはないからな。そうサ。アンタはせいぜい、その娘の〈夢〉とやらを大事にしてやンな。それはこの娘が正真正銘、生命を賭して紡いだ〈夢〉だからね。そう、もしもそれを無駄になんかしたら――』
 このあたいが承知しないよ!
 その、黒猫の最後の言葉と共に、砂時計の最後の粒が止めていた時を動かしてこぼれ落ちる。その瞬間、彼女の身体からふわりと光の珠が抜け落ち、帯を残しながら黒猫の持つ砂時計へと吸い込まれていくのが見えた。
 耳の中に戻ってくる、ざわざわとした野次馬達のざわめき。
 ふ、と群衆の一人が、倒れ伏す少女の近くへといつの間にか現れていた、二匹の獣に気付く。
「シッシッ!近づくんじゃない!この薄汚いカラスめ!!」
 腕を振って追い払われる動作に、鴉は彼女の残したクリスタルを口にくわえると、バサバサと宙へ飛び立った。
『薄汚いだってよ。ハハッ、やっぱり、誰が見てもそう見えるンさね。まあでも、アンタにゃそれがお似合いかもね。浅ましい〈夢魔〉の薄汚い姿――ってね』
 口の減らない〈死神〉が、鴉の眼下でミャォーンと鳴く。ハハッ、いい気味だ、と嘲りの感情ありありのその言葉に、鴉は思わず大事な紅水晶を銜えているのも忘れて叫び返しそうになるが――
「お前もだ! 黒猫ッ!! まったく、鴉に黒猫とは、縁起でもない……」
 その黒猫もすぐに人間に追い払われたのを見て、溜飲を下げる。
『クカカッ――』
 人間達から見れば、自分も黒猫も、どうやら似たようなモノらしい。
 だんだんと近づいてくる救急車の音を遙か下方に聞きながら、鴉は勢いを付けて宙を舞う。その嘴には一点の曇りも傷もない、ほのかに赤い色に染まった綺麗な綺麗な紅水晶――。
 それは最期の最期まで、自分よりも他人の――愛する人の幸せを祈っていた少女の〈夢〉。本来ならば決して語られるはずのなかったその〈夢〉が、〈死神〉と〈夢魔〉の気まぐれという幾重にも重なった偶然を経て、ここにある。
 この〈夢〉の結晶を見たら、あの〈夢使い〉の青年はいったいどのような表情を浮かべるのだろうか――。
 その様子を想像し、鴉は独り、ほくそ笑む。あやつがあっさりと諦めてしまったあの少女の運命を、この我が少し揺り動かしたと、あやつが知ったら――。
 これは、少しは〈死神〉にも感謝をせねばなるまいな。
 結晶となった〈夢〉の放つ精気の心地好さにうっとりとしながら、鴉はつい、と風に乗る。そして、米粒のように小さくなった人間達へと別れを告げ、鴉は〈夢使い〉の青年の待つ、現と虚の狭間の空間へと、その羽を向けたのであった。



   6 夢見草の夢の跡



 さようなら――。
 彼女のそんな声が聞こえたような気がした。日に日に遠くなる想い出。夢の中の彼女は、いつも幸せそうに笑っていた。それは見る者を暖かくさせる天使の笑顔。その笑顔は僕だけでなく、誰に対しても平等に向けられる。
 僕はできることならその笑顔を独り占めしたかったが、でもそれは決して果たせないことを知っていた。だがそれでも僕は少しでも――そう、ほんの少しでも彼女を自分の手元へと繋ぎ止めておきたくて、その当時まだ大学生だった彼女に、結婚を申し込んだのだ。
 まだ十代の君には、結婚なんて考えるのは早すぎたのかもしれない。だが、十代の心が移ろいやすいことを、僕はよく知っている。それが刺激や誘惑の多い、大学生ともなればなおさらだ。僕は僕の知らないところで彼女が他の男に奪われたりしないように、彼女との間に特別な絆を欲した。それだけ、僕は彼女に心を奪われていた。
 そう、あの頃、僕には彼女こそが、この世界の全てだったのだ。
 ずきり――。
 心が、割れるように痛む。もう二度と、彼女に会うことが出来ない。その事実が、僕の胸を張り裂けんばかりの痛みで満たし、いつまでも変わらぬ苦悶に満ちた無間地獄へと、僕を引き込み苦しめる。
 それは毎夜毎夜、決まって見る君の夢。楽しく輝いていた君との日々が、まるでフラッシュバックであるかのように、夢の中で刻を止め、僕の脳裏に訪れる。 
 彼女が不慮の事故でその生命を散らせてからの数ヶ月、僕は眠りに落ちると決まってそんな、幸せな追憶の日々を夢見ていた。
 夢の中の彼女は、いつも幸せそうに笑っていた。その笑顔の裏側にはその何百倍もの悲しみが隠れていたが、それを乗り越えてきた強さが彼女の笑顔を他の人の何千倍も輝かせた。それは見る者を暖かい気持ちにさせ、ほんのりと幸せな気分にさせる、そんな素敵な天使の笑顔だったのだ。
 追憶の中でその笑顔に触れた僕は、決まって全身をとても大きな喜びでいっぱいに満たして目を覚ます。そしてその次の瞬間、もう彼女がこの世には存在しないという事実を否応なしに思い出して、地獄の底へと叩きつけられることになるのだ。そう、それは、夢の中が幸せであればあるほど、容赦のない強さで僕を撲つ――。
「……オイッ! ちゃんと俺の話を聞いているのか!? まったく、いつもいつもボーッとしやがって! 最近たるんでるぞキサマ! 仕事やる気がないなら辞めちまえ!!」
 突然、耳元で鳴り響いた怒号に、僕はビクッとして椅子から浮き上がった。見ると、鬼のような顔をした上司が、僕の机の横に仁王立ちし、僕を真下に睨み付けていた。怒りで赤く、紅潮したその顔と目が合った。その瞬間、僕はまた、仕事中に夢見に落ちてしまった事を悟って青くなる。
「また、怒られてるぜ。あいつも昔は優秀なヤツだったのになあ……」
「まあ結婚を考えていた彼女をあんな形でいきなり亡くしてしまったら、こうやってショックのあまり仕事に身が入らなくなってしまうのも分かるんですけどね。噂じゃ、プロポーズにOKを貰った直後の事故だったって話じゃないですか」
「それにしたって変わりすぎだろう。あれからもう三ヶ月も経っているんだから、あんなにうすらぼんやりとして一日中、中空を見つめられてても困るんだよ。まったく、仕事にすらなりゃしない」
 湯水の如く降り注ぐ上司の叱責の向こうから、そんなひそひそ声が聞こえてくる。またあいつか、と蔑む声だ。憐れみと同情、そして何より多くの蔑みを含んだ視線が身体のそこかしこに突き刺さってくるのを感じる。だがそれらを感じても、僕には何も言い返すことはできなかった。
 そこそこ優秀だったらしい僕も、快活に働いていた僕も、今では全て遠い過去のような話だ。悲しみのあまり胸に大きな空洞が空いてしまっている僕は、今ではそんな蔑みと憐れみの籠もった視線を向けられる、典型的なダメ社員へと落ちぶれてしまっていた。
「……とにかく、いい加減にしないとクビだからな、クビ! ったく、過去にばっかり囚われてすっかり腑抜けになりやがって。間抜けな顔を晒してないで、少しは自分で頭を働かせて考えろってんだ。情けない」
 新人の頃は僕に目をかけてくれていた上司の、吐き捨てるようなその言葉が胸に深く突き刺さる。おそらく悪態か何かだったのだろうそれはだが、その瞬間何よりも鋭いキリとなって僕の心を刺し貫く。
 いつから僕は、「考える」という行為を忘れていたのだろう……。
 過去に囚われ、今はもういない彼女の面影に囚われ、僕はいつしか自ら考えるという行為なしに、毎日をただ漫然として過ごすようになっていた。それはさながら壊れたCDプレイヤーのような状態――思考は全て過去へと向かい、同じところを反復し続ける。外界の出来事にはこのように何か刺激のあった時に、条件反射のように反応するだけ。そんな、半分死人のような姿が、今の僕の姿だったのだ。
「もう! もっとしっかりしてくださいよ。先輩の実力は、まだまだこんなモノじゃないはずなんですから。こんなモノだと思われてしまうと、私も悲しいじゃないですか!」
 記憶の中の彼女が、そう僕を叱責する。そうだね。全くその通り。
 ――いや、違う、これは現実だ。
 僕はまた、過去へとずぶずぶ沈んでいこうとする自分の心にブレーキをかけ、僕の目の前でぷん、と口を膨らませている彼女へと向き直る。少しぼんやりと掠れる視界の向こう、そう言って僕を叱責してくれている彼女へ。
「災難でしたね。あの課長、いつもガミガミガミガミうるさいから。でも、これでちょびっとは、目が覚めたんじゃありません?」
 そう言って隣の席からにっこりと微笑みかけるその女の子は、僕がトレーナーを務めてきた、後輩の女の子だった。笑うとえくぼがちょっと可愛い、良くも悪くも今風の明るい女の子。今のところ、ただ一人の僕の部下。
 その彼女が、少し下方から、僕の方を心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですか? また、目がとても赤くなってますよ。ちゃんと夜、眠れてるんですか」
「……ん、ああ。大丈夫。最近はちゃんと眠れているから……」
 彼女の問いかけに生返事を返しながら、僕はぼんやりと考える。彼女を喪った当初は悲しみのあまり夜眠れないなどという事もあったが、最近はそんなことは全然ない。ただ、眠りに落ちるたび、毎夜見る彼女の想い出が、僕をとても切なく、そして悲しくさせるだけ。
「……夢を、見るんだ」
 そう、唐突にぽつりと呟いた僕の言葉を、彼女は一瞬いぶかしげに聞き、それからすぐに合点がいったかのような表情をして言葉を返す。
「またあの〈夢〉なんですか? んもう、だから眠りが浅くて寝不足になるんじゃありません? そんなに辛い夢だったら、いっそのこと相談しに行ってみたらどうですか? ほら、例の、前に話した〈夢売りの館〉っていう――」
 前に彼女から聞いたその話は、僕も覚えていた。〈夢〉を占うだけでなく、辛い〈夢〉を望みの〈夢〉へと売買してくれるという、にわかには信じられない噂のあるその館。前にその話を聞いた時は、確かまだ彼女が事故で亡くなった直後。その頃僕は、毎夜毎夜とてつもない悪夢に悩まされており、耐えきれずそれを話した時に、どこまで本当だかは分からないけれど……と前置きして彼女が話してくれたのがその館のことだった。そう言えば、その話を聞いたその時は、僕はどうしたのだったか……。
 ずきり――鈍く頭の奥が痛む。
 確か、藁にもすがる思いで行ってみようかと思った覚えはある。だが、その辺りの記憶がとても曖昧だった。いつの間にかあれほど苦しんだ〈悪夢〉も、その後ぴたりとなりを潜め、今ではどんな夢だったかも思い出せないほどになっていたから、僕は今の今までその話をすっかり忘れていた――。
 だが、そんなことは今はいい。とにかく彼女は、僕が毎夜見るこの〈夢〉を、その館でいっそのこと手放してしまったらどうかと勧めているのだ。そんな彼女にどうせ眉唾だし面倒くさいと条件反射的に言おうとした僕だったが――。
 過去にばかり囚われて、自分で頭を使って考えることをしなくなりやがって……。
 胸の奥に、さっき課長に言われた言葉が蘇る。その痛みに心がふと、ほんの少し浮き上がった。そう、確かにこのままではいけないのだ。僕が、この先もしっかりと生きていくためには、このまま、過去に囚われ続けて生きていては……。
 ずきずきと、再び頭の痛みが襲ってくる。
 それはまるで何かを、僕に思い出させようとでもしているような、あるいは逆に僕に何も考えさせないようにさせているような、そんな痛み。
 その瞬間、最近の僕には珍しく、僕はなんとなく言ってみようという気持ちになっていた。そう、何にせよ、今のこの辛さから逃げ出したい。そんな想いが、僕の中で強く激しく膨れあがる。
 そしてその日、僕は仕事が終わったと同時に、彼女の勧めてくれたその館へと足を向けていた。そこで何が僕を待ち構えているか、少しも考えることなしに。もしかしたら何かを変えられるかもしれない、そう、儚い希望を持って、僕はその館へと足を向けた――。





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