『承』 月森朝香、髪を切る。哲哉のショックはいかほどか?

 金曜日はバスケット部は定休日である。朝香は沙夜里に誘われ仕方なしにグラウンドへ
やって来た。
 一週間前までは毎日親しんできたグラウンドが、今は朝香を拒んでいるように見える。
哲哉とも話をしていない。隣のクラスがこんなにも遠いものだなんて今まで知らなかった。
 はあ……。洋二や沙夜里に気づかれないように小さくため息をつくと、なんだかいたた
まれない気持ちになったので、朝香は二人に別れを告げて先に帰ることにした。校門を出
ようとした時、自分を呼ぶ声に振り向くと、一馬が駆けてくるところだった。
「あっさかちゃーん!! おーい!」
「一馬先輩」
「今帰り? 一緒に帰らない?」
「ええ、いいですけど」
「俺も一応三年だからさ、少しは勉強なるものをしておかないと、とか思ってね」
「あれ、一馬先輩、どこか推薦決まってるんじゃないんですか?」
「ええ!? 決まってないよ、そんなの。決まってたら今ごろ浮かれて遊びほうけてるっ
て。それより朝香ちゃん俺のこと名前で呼んでくれるんだ。うれしいなーっと」
 るんるんっ、と口ずさむ一馬を見て、朝香は内心申し訳なく思った。一馬を名前で呼ぶ
のは、ただ単に哲哉の呼び方が移っただけなのだ。哲哉は滅多に人を名字で呼ばないから。
 そんな朝香に気づきもせず、一馬は浮かれ調子で続けた。
「俺さぁ、前から朝香ちゃんと話してみたかったんだよね。テツの野郎が毎日朝香朝香っ
て言うもんだからさ。こーんなガキ大将のテツの彼女ってどんな子だろうと思って。去年
の二学期あたりから挨拶はしてたけどさ、話はしたことなかっただろ? いい子そうだな
あ、話したいなあ、て、ずっと思ってた」
「あっあのっ……、あたし、哲哉と付き合ってなんか……!」
「うん、テツにもそう言われた。──なんか今、藤井と付き合ってるみたいだしな」
 付き合ってなんかない。確かにそうだけど。哲哉がそう言ったと聞くと、やっぱりちょ
っとショックだ。夕香と付き合っている、という事実より。自分はただの幼なじみでしか
ないと思い知らされるようで。
 一馬はふと考え込むような表情をした。
「──で、朝香ちゃんは、テツのことが好きなの?」
「え?……ええっ、ち、違いますよ!」
 ぶんぶんっ、と音がしそうなほど大きくかぶりを振る。長いポニーテールが揺れた。
「そっか、違うんだ。……じゃあさ、俺と付き合わない?」
「え?」
 真剣な、一馬のまなざし。
「俺、前から朝香ちゃんのこと好きだったんだ。テツと付き合ってんだと思ってたから黙っ
てたけど。他に好きな奴がいないんなら、俺と付き合ってほしい」
「か、ずま、先輩……?」
「本気だよ。今じゃなくてもいいから、考えておいてくれないかな」
 じゃあねっ、と明るく言うと、一馬は角を曲がって走っていってしまった。残された朝
香は、ぽかんとして、しばらくその場に立ちつくしていた。


 皆の驚愕の視線の中、朝香は廊下を歩いてゆく。
「おはようございます。一馬先輩」
「あ、朝香ちゃん……? その、髪……?」
 今は肩のあたりで揺れる髪を見つめ、一馬は尋ねた。
「暑いし、いい加減ジャマだし。──それで、昨日のことですけど、……あたしで良けれ
ば……」
「ホ……ホントにっ? ぃやったあ──っ!」
「か、一馬先輩っ」
 一馬の大声に、周りの視線が一斉に集まる。頬を染めて顔を見合わせた後、二人は同時
に笑い出した。
“この人なら、きっと好きになれる……”
 教室の扉を開けると、沙夜里達が先に来ていた。いつも通りに声をかける。
「おはよう、沙夜里、洋二くん」
「おはよ……、あっ朝香ぁっ!?」
「ちょっ……その髪……!!」
 思わず立ち上がって叫ぶ二人に、朝香は小さく笑いかけた。
「エヘ、切っちゃった」
「そうか。……まあ、桜木先輩も、いい人だしな……」
「洋二くん、知ってたの?」
「ん……まあ、な」
「朝香、どうして? ──いいの、哲哉くんのこと?」
「…………うん」
 何となくしんみりとした沈黙を掻き消すように、洋二は朝香の頭に手を置いた。
「朝香。──その髪、似合うよ」
 黙って肯定してくれる、その掌が嬉しかった。


         *         *         *


「おまたせ」
 そう言うと哲哉は夕香の目の前にしゃがみこんだ。嘘を付くことのできないその表情は、
何かとても気にかかることがあると告げている。哲哉がそれを口にしないのは、夕香への
思いやりか、それとも本人もその気持ちに気づいていないのか……と夕香は考え、きっと
後者だと思った。
 ここしばらく哲哉は少し元気がない。周りはほとんど気づいてないし、本人も自覚はし
てないだろうけど。
 いつもと同じに遊んで部活して、……でも、時々ふっとさみしそうなカオをするのだ。
 ──原因は、わかってる。
「? 夕香、どうした?」
「ううん、何でもない。──帰ろっか」


 なんか、ヘンだ。
 最近、ずっと思いつづけている。でも、理由がわからなくて。──いや、ホントはわかっ
てるような気もするんだけど。
 夕香を家まで送った帰り道、哲哉はいつもの疑問がまたのぼってきているのを感じた。
 夕香と付き合い始めて一ケ月。彼女のほうからの告白だった。サラサラの長い髪の、学
年一の美少女。たいてい、そういったモテる子は高飛車な態度の子が多いのだけど、そん
なこともなくて。話しやすい。けれど、哲哉は違和感を捨て去ることはできなかった。
 朝香がいないからだ。
 今までにもケンカして二、三日口をきかなかったことはあったけれど、それとは全く違
う。何しろケンカなんてしていないから。
 何というのか……、朝香が自分のことを気にしていないのだ。
 そりゃあ、彼氏ができれば幼なじみよりもそっちのほうが気になって当然なのだろうけ
ど、それが何となく淋しい。いつもの四人じゃないのがこころもとない、なんて。
 これが、違和感、だ。普段と同じことをしていても、自分じゃないようで……。
 そんなことを考えていたら、二人に会ってしまった。
「はぁ……」
 ついにため息が出た。
 あのとき。朝香は、自分を見て少し驚いたような顔をした。でも、それだけだった。
 ただのクラスメートに会ってさえ、もう少しマシな対応をするだろう、彼女なら。なの
に……、なら、自分は彼女にとって、ただのクラスメート以下なのか?
 いつもなら、こんなときは朝香に相談していたけれど。今回ばかりは、それができない。
「何でだよ……。なんなんだよ……!?」
 何でオレを見てくれないんだよ。─────え?
 突然閃いた言葉。自分にさえ分からなかった全ての謎を解くカギ。でも。
「だって……、朝香は、幼なじみで……」
 昔から、何だって話してきた。どんなことでも、一番最初に打ち明けるのは朝香にだっ
た。それから洋二、で、沙夜里。いつでも──一番は朝香。
「明日は……夕香に、ちゃんと言おう。そうしたら、朝香に」



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