Voice 3 〜Remain〜わざわざかけ声までかけて、身体を起こしたときだった。 ふいに鋭い振動音が鼓膜を揺らした。携帯への着信を知らせるその振動に、不二は慌てて座り込み、バッグの中に手を突っ込んだ。 「はい、不二です」 一瞬捉えた液晶画面は、公衆電話からの着信を告げていた。 これで違う相手だったらずいぶん驚かせてしまうだろう、それくらい、焦った声になった。不二周助が動揺する様は、おそらくテニス部部長・手塚国光の笑顔と同じくらいの希少価値がある。 「青学テニス部の手塚です。──周助か……?」 先刻と寸分違わない落ち着いた低い声が、今度は最初から下の名前を呼んだ。 「手塚……?」 電話が鳴った瞬間、手塚からだと確信していたにも関わらず、不二は驚いた声を上げていた。膝立ちの身体がすとんと落ちる。 「どうしたの、何か言い忘れたことでもあった?」 「いや。特に用はないんだが、──お前の声が、聞きたくなった」 不二は思わず言葉を失った。絶句した気配を感じ、手塚が訝しげに声をかける。 「不二? どうした?」 「どうしたって……、手塚こそどうしたの……」 途方に暮れた声が呟いて、自らを落ち着かせるようにため息をついた。 「びっくりしたなぁ……。手塚って、ときどきすごく無謀なことするよね」 くすくすと笑う様子は、いつもの不二周助だ。手塚は返す言葉に迷って沈黙した。 「手塚?」 「──無謀とは何だ、失礼な奴だな」 手塚のむっとした顔を思い浮かべ、不二がまた小さく笑う。 「じゃあ横暴。手塚って僕のこと困らせるの得意だよね」 「どっちがだ」 「僕は確信犯だもの。君の方が性質(たち)が悪いよ。──困ったな……」 「不二?」 「もっとしゃべって。君の声が聞きたい」 手塚は思わず顔から離した受話器を凝視した。 「ねえ、手塚」 「──俺が何で電話したか、わかってるか?」 「うん。でも僕は、自分が話すよりも君の声を聞いていたいな」 眉間の皺を深くして、手塚が大きくため息をついた。 「誰が横暴だって……?」 「手塚」 「自分を棚に上げるな」 「手塚だよ。──さっきはあんなにあっさり電話切って人のことがっかりさせておいて、今度はそんなこと言うんだ……?」 滅多にない拗ねた口調に、手塚がまた、言葉を探して黙り込む。気配を察し、不二が笑いの息を洩らした。 「冗談だよ。ちょっと仕返しに困らせてみただけ」 「仕返し?」 「うん。さっき電話取るとき、あんまり急いだから床に膝ぶつけたんだよね」 「それは俺のせいじゃないだろう」 「せっかく脱力した身体に喝入れて起き上がったのにさ。またしばらく動けないよ」 「電話で話をするのに動き回る必要があるのか?」 声音を変えない手塚の切り返しに、一瞬の間をおいて、不二が吹き出した。 「やっぱり手塚って無謀……」 手塚の耳を、受話器を通した笑い声がくすぐる。 「テレカ一枚使い切るまでつき合ってくれるつもりなの? 明日も早いのに、宿題もあるのに。──これでもし明日僕が遅刻したら、君のせいだからグラウンド10周はナシね」 「例外は認めないぞ」 「認めさせるよ。手塚のせいで寝るのが遅くなったので、遅刻しました、って」 「……人聞きの悪いことを言うな」 冗談にしても性質が悪い。手塚が思わず顔をしかめる。 「冗談だってば。そんなこと言わないから安心してよ」 「当たり前だ」 憮然として手塚が返し、不二がまた笑った。 今日はいつにも増して、こんなやりとりばかりしている気がする。それだから、こんなちょっとした声のやりとりだけで、相手の表情がわかるようになってしまうのか。 「手塚こそいいの? 外出てきたんでしょう? お家の方、そろそろ心配してるんじゃないのかな」 「──ああ、そうだな」 会話の終わりを提案して、しかし不二はそのまま黙り込んだ。頷いた手塚も、同じように沈黙を守る。 「手塚。──ありがとう」 口を開いたのは不二だった。 「電話かけ直してくれてありがとう。君の声が聞けて嬉しかった。──ヘンだね、毎日顔合わせてるのに」 やわらかな声が、ため息とも笑いともつかない息にまじってかすかに震える。 「いや、俺もお前の声を聞きたいと思った」 不二が息を飲む音が、電話越し、手塚の耳にかすかに届いた。その後に、今度は聞かせることを意識した長いため息が続く。 「まいったなぁ……。やっぱり君には敵わないや」 「不二?」 「惚れ直しちゃったよ」 「……何を言っている」 笑い声を立てて、不二はもう一度ありがとうと口にした。 「さあ、そろそろホントに帰らないと。万が一にも君が遅刻したら、僕の罪は重大だ。それとも仲良く10周走る?」 「けっこうだ。──そろそろ切るぞ」 にべもなく断り、一拍おいて手塚の口調が変わる。うん、と不二が小さく頷いた。 「じゃあ……、おやすみ、また明日」 「うん、おやすみ、また明日」 同じ言葉を交わして、ほとんど同じタイミングで通話を切ったのを、握った受話器になぜか感じた。 聞こえないのを承知でもう一度呟く。すると、耳に残る声が同じように呟いた気がして、知らず頬に笑みをが浮かんでいた。 fin. |