五重奏曲 〜クインテット〜




 シュテインバッハ公爵家にようやく生まれた嫡男は、ヒロ・リーベンスヴェルトと名付けられた。
 リーベンスヴェルトとは『愛すべきもの』の意で、その名の通り両親にも領民にも天使のように愛されていた彼が、2歳になったある晩のこと。公爵家に賊が押し入り、ヒロを人質にして逃げた。ただちに軍隊が動員され、賊どもは一網打尽にされたのだが、塒(ねぐら)の壁板を引き剥がし床下までもぐってみても、首領の女房とヒロの2人だけは、煙となって消えうせたのか杳として行方が知れなかった。
 公爵は腹臣の執事サイトー(斎藤洋介さん)に、この世の果てを経巡ってでもヒロを探し出せと命じた。必ずやこの身に代えてと執事は答え、部下を連れて旅立った。以来すでに14年。今日は西へ明日は東へと執事たちは国内および近隣諸国をくまなく回り、公爵家嫡男ヒロ・リーベンスヴェルトを探し続けているのだった。


 その国の王家は『五色の御旗(みはた)』と呼ばれる、5つの家臣団に護られていた。
 五家のまず筆頭にくるのが、青地に銀色の獅子の旗を持つシュテインバッハ公爵家。続いては緋色地に金色の双頭の鷹の旗の、アレスフォルボア侯爵家。ピンクの地に宝刀とペンと薔薇の家紋はジュペール伯爵家。黄色地に石の塔と麦穂の紋はヘルムート子爵家。緑地に一角獣のシルエットはラルクハーレン男爵家であった。
 五色の御旗の各家にはそれぞれ歳の近い子息がおり、彼らはおのおのの家のシンボルカラーをもじったニックネームで呼ばれていた。
 アレスフォルボア侯爵家のルージュは剣の名手で、御前試合でも負けたことはない。いずれ家督を継ぐと同時に彼には、この国の軍事一切を預かる元帥の地位が約束されている。肩に届く亜麻色の髪を無造作にかきあげる彼の仕種に、胸をときめかす女たちは数え切れないほどだった。ルージュ、現在16歳。
 ジュペール伯爵家のロゼは15歳だが、亡き父に代わって既に爵位を継いでいた。学問に秀でているばかりか芸術全般についても造詣が深い彼は、王妃のサロンに集まる貴婦人たちの絶大なる人気を集めていた。
 ヘルムート子爵家は代々、いわば農林大臣の役目についてきた家柄だった。14歳になる嫡男のジョーヌは、この国の食料庫を預かる家にふさわしい穏やかで大らかな少年だった。家臣ばかりか領民にも慕われ、皆からは親しみをこめて『俺たちの若様』と呼ばれていた。
 ラルクハーレン男爵家のヴェエルはまだ11歳だが、体は大きく大人びていて、人づきあいも上手かった。建設大臣の家柄である男爵家嫡男にふさわしく、ヴェエルはものづくりが大好きであった。古い時計を分解してぜんまいを取り出し、見事なオモチャを作ったりしては大人たちを驚かせていた。


 さて公爵家執事サイトーは、諸国を流れあるいているジプシーたちの一団から、国境に近い鉱山の町に美しい少年がいるという噂を聞いて、急ぎその地に赴いた。ジプシー女(木の実ナナさん)の話によれば件(くだん)の少年は16歳で、幼い頃道端に捨てられていたのを市長に拾われて健やかに育ち、今では町でも知らぬ者のない人気者になっているという。サイトーは公爵夫人の若い頃の肖像画を彼女に見せた。彼女は目を丸くして、この絵の女性とその少年は生き写しであると証言した。

 鉱山の町に着くやサイトーは、少年の住まう市長の家を尋ねて事情を話した。市長はあわてて彼を少年のもとに案内した。少年は納屋に住んでいた。身なりは貧しく顔も汚れていたが、ジプシー女の証言通り、その面ざしはまさに公爵夫人と瓜二つであった。
 サイトーは嫌がる少年を押さえつけて、シャツの衿を引き裂いた。この少年が本当に公爵家の嫡男であるならば、家訓により生まれてすぐに左肩に家紋を彫られているはずであった。神よ、と瞑目したのちにサイトーは目を見開いた。少年の白い肩には鮮やかな家紋が、咆哮をあげる青獅子の姿がはっきりと刻みこまれていた。
「お探しいたしました若様…! よくぞ、よくぞご無事で…!」
 サイトーは額づいて涙を流した。市長や家族や近所の住人も、一斉に地にひれ伏した。少年は…いやシュテインバッハ公爵家嫡男ヒロ・リーベンスヴェルトは、大きな目をキョロキョロさせて、信じられないといった顔でつぶやいた。
「なに…。このおいらが…公爵家のあととり…?」

 慣れ親しんだこの鉱山の町を、ヒロは出ていきたくなかった。ずっとここにいさせてくれと市長に泣いて頼んだが、強大なる公爵家の権力の前に、そんな願いが聞き入れられるはずもなかった。サイトーの手によってヒロは豪華な衣装を着せられ、強引に馬車に乗せられてしまった。人気者だった彼を町中の人間が見送った。彼と仲のよかった少女は裸足で馬車を追ってきて、彼女の宝物の十字架を泣きながらヒロに手渡してくれた。ヒロは馬車の窓からいつまでも手を振って、ポロポロと涙をこぼした。


 嫡男が城に戻って3日後、ルージュは公爵じきじきの呼び出しを受けてシュテインバッハ家に赴いた。白と金の正礼装に身を包んだ彼が夫妻(夏八木勲さん・野際陽子さん)の前に祗候すると、公爵は喜びを隠しきれない声で言った。
「すでにそなたの耳にも届いていようが、ずっと行方知れずだった一人息子が、神のご加護によって無事この城に戻ってきた。今後はそなたからこの子に、いろいろなことを教えてやって欲しい。紹介しよう。我が公爵家嫡男、ヒロ・リーベンスヴェルトだ。」
 ルージュは顔を上げ、夫妻のかたわらの椅子に居心地悪そうに腰掛けている金髪の少年を見た。少年は不自然に首をひねり、こっちを見るなといわんばかりに顔をそむけていた。そのため表情は全くうかがえなかったが、白くなめらかな頬をした、華奢で小柄な少年であることは判った。
 普通なら愛想笑いのひとつもして初対面の挨拶をすべきところ、かくも失敬な態度のヒロに公爵は苦笑いするだけであった。14年ぶりに再会した愛(まな)息子に、おそらくは腫れ物に触るように接しているのだろう。それでもさすがに気が咎めるのか、公爵はかく言葉を続けた。
「そなたも父君を通していきさつは知っておろう。何ぶんにもこの子は数奇な運命に翻弄されて育った。何の罪もないのにと思うと、親としてまことに不憫でな。都での暮らしには徐々に徐々に、馴染んでゆけばよいと思っておる。ついてはそなたに…いやそなた『たち』にと申した方がよいか。何くれとなくこの子を引き回してやってほしいのだ。生まれ月こそ少し早いが、ヒロとそなたは同い歳でもある。どうか我が気持ちを汲んで、引き受けてくれぬかレオンハルト。」
「御意、閣下。謹んでお言葉通りに。」
 深く礼をしてルージュは答えた。公爵夫妻は安堵の笑顔になり、頼むぞと再度念を押して、侍女たちとともに部屋を出ていった。
 しん…と固い沈黙が空間を支配した。カツン、とルージュは歩み出た。ヒロの肩が怯えたように見えたのは錯覚だったかも知れない。そのままゆっくりとルージュは足を進めた。顔ばかりか体ごと背けようとするヒロに、
「ま、とにかくよろしくな、公爵家の若様。」
 手を差し出しつつルージュは言った。
「俺はアレスフォルボア侯爵家のレオンハルト・メルベイエ。呼び名はルージュだ。なんか俺がお前の面倒見ることになったみたいだから。まぁぼちぼちとやってこうぜ。」
 ヒロはルージュの手をチラリと見たが、フンと鼻を鳴らして横を向いた。その動きにつれて前髪がファサリと揺れ、一瞬ではあったが瞳が見えた。切れ長の二重瞼の端正さに、ルージュは少なからず驚いた。もっともルージュ自身、自分の容貌が人より劣るとは決して思っていなかったけれども、ヒロの美貌は自分とは全く質の違う、透明で硬質なものであった。この先時間をかけて磨き上げていったなら、こいつは宮中に出そうとどこに出そうと、人目を引きつけて離さない最高の貴公子になるかも知れない…。そんな思いを顔には出さず、ルージュは言葉を続けた。
「『五色の御旗』のことは聞いてんな? お前んちと、それからうちと、伯爵家に子爵家に男爵家。こいつらも全員俺が下に呼んであっから、今からここに集めて紹介したいんだけど。いいよな。」
 出来得る最高の穏やかさでルージュが尋ねているというのに、ヒロはかたくなに答えなかった。何て強情な奴だろうとルージュは思い、それならいいとばかり彼を無視してこの家の侍従を呼びつけた。恭しく腰を屈める女に、階下の3人をここへ呼べと命じてほどなく、彼らは―――ロゼ、ジョーヌ、ヴェエルの3人はその部屋にやって来た。
 順に紹介されてもヒロは、視線のひとつも合わさずにうつむき続けていた。強情にも程があるだろうといささか腹立ちを覚えたルージュであったが、怖いもの知らずのヴェエルはニコニコ笑って、
「俺より5こも年上なのに、なによコイツ。ちぃっけ〜!」
 ポン、とヒロの頭を叩いた。その手をヒロはいきなり逆手に掴み、肩を押さえてひねり上げた。
「いてぇーっ! なんだよ何なんだよこいつぅ! いていていて、離せよーっ!」
「馬鹿、やめろ! やめろって!」
 慌てて間を割こうとしたが、ヒロはその身に似合わぬ腕力でヴェエルを押さえつけていた。3人がかりで引き離すと、ヒロは空色の目でぎろりと彼らを睨みつけ、そのまま身を翻してドアの向こうに駆け込んでしまった。ルージュは舌打ちし溜息をついた。
「ッたく信じらんねぇな。野生児…つぅか野良猫みてぇじゃん。あいつ本当に公爵家のあととりなのかよ…。」
 ロゼは横からとりなし顔で、
「だけど子供の頃にさらわれたんだもの、しょうがないよ。坑夫たちと一緒に、ずっと鉱山で働いていたんだろう? 生活環境が激変したせいで、神経質になってるんだよ。」
「ま、気長に面倒みるしかねぇか。公爵じきじきに頼まれちまったからな。」
 もう1つ溜息をついたルージュにヴェエルは、
「でもなんか手ごわそうだよあいつ。大丈夫? ルージュ。」
 押さえつけられていた右手をぶらぶらさせながら言った。ヒロが姿を消したドアに、全員が目をやった。ルージュは答えた。
「大丈夫も何もあるかよ。ッたくとんでもねぇのが帰ってきやがって。この先、思いやられんな。」



 1週間が過ぎ10日が過ぎたが、ヒロは依然として誰とも口をきかなかった。狩りに遠乗りに舞踏会にとルージュは事あるごとに彼を誘ったけれども、そのたび仮病を使われて城の外には連れ出せなかった。こうなるとルージュの元々の性格―――彼は決しておっとりと気の長いたちではない―――が頭をもたげてきて、ひと月を経た頃にはルージュは、このままでは自分はいつかヒロを殴ってしまうだろうと予感し始めた。

 そんなある日、ジョーヌの城で子牛が生まれたという知らせが入った。見に行こう、とヒロを誘ったはものの、正直ルージュはどうせまた頭痛だ腹痛だのと仮病を使われるに違いないと思っていた。だが驚いたことに、ヒロはすんなりとその誘いに応じた。乗馬経験のないヒロは馬車に乗り、ルージュは騎乗して伴走した。お姫様と護衛の騎士じゃねんだからよ、とルージュは内心苦々しく思い、何をおいても馬だけは早急に叩き込んでやろうと決心した。

 牛小屋は子爵家の下屋敷にあった。ルージュとヒロが到着した時、ジョーヌは下男に混じって敷き藁の交換をしている最中だった。
「へぇぇ…。生まれてすぐの牛ってこんななんだな。俺、初めて見た。」
 柵に手をかけルージュは興味深そうに言った。その脇をヒロはスルリとすりぬけるや、驚いているジョーヌの手から藁束をワサッと掴みとった。
「ちげーよ下手くそ。藁床はこうやって作ってやんの。貸してみ。」
 呆然と顔を見合わせるジョーヌとルージュを無視して、ヒロはてきぱきと作業を進めた。思わず下男たちが手を止めたほどに、堂に入った動きぶりであった。ジョーヌはルージュに囁いた。
「…聞いた? いま初めて口きいたよねコイツ。今まで『ん』とか『あ』だけだったのに、ちゃんと言葉しゃべれたんだぁ。」
「ああ。それにすげー手慣れてんじゃん。」
 2人の会話は耳に届いているだろうに、ヒロは知らん顔だった。下男たちを押しのけんばかりにして藁を整えてやると、出産後で攻撃的になっているはずの母牛にヒロは恐れげもなく手を伸ばした。
「頑張ったなー。よしよし偉いぞぉ。お前はもう、こいつらのかあちゃんなんだからな。大事にして可愛がって、立派な牛に育てるんだぞ。いいな?」
 母牛の首を撫でながら、ヒロは微笑みを浮かべていた。それはルージュが初めて見た、ヒロの笑顔に他ならなかった。さらりと額にかかる金髪の下、青空よりもなお深いサファイアの瞳には、しかしかすかな翳りが見て取れた。それを知ってルージュはふと思った。
(強情なんじゃなくてこいつ、ひょっとして寂しいんじゃねぇか…?)

 週末の晩、都を嵐が襲った。寝室で熟睡中のルージュを揺り起こしたのは、彼付きの侍女で乳母子(めのとご)のサヨリーヌであった。
「…ンだよ、寝こみ襲うならもっと早い時間に来いよ。」
 ブツブツ言う彼の裸の肩にガウンを着せかけながら、サヨリーヌは緊迫した声で言った。
「ただ今公爵家より、火急の、極秘のお使者様が参られました。若様が行方不明なのだそうです!」
 寝惚けまなこだったルージュは、それを聞くやベッドから飛び降りた。
「使者はどこだ。どこにいる。」
「控の間で若君をお待ちでございます。」
 手早く服を着てマントを羽織り、ルージュは小走りに控の間へ向かった。膝まづいていた公爵家侍従に彼は早口で命じた。
「俺は今からヒロを捜しに行く。お前は俺に伝えたと同じことを、すぐロゼとジョーヌとヴェエルに知らせろ。いいな。」
「御意、レオンハルト様。どうか当家若様のお身を、よろしくお願い申し上げます!」
「判ったから早く行け。ああもう頭なんて下げてねぇでいいからとっとと行け! サヨリーヌ! スガーリ呼べ。供はあいつだけでいい。急げ!」
 スガーリとは侯爵家直轄連隊の連隊長であり、かつ、ルージュの守り役でもある男の名である。ルージュは彼とともに馬を駆って、雷鳴轟く横なぐりの雨の中へ走り出た。
 馬上でルージュは考えた。ヒロは多分、まだそんなに遠くへは行っていまい。都の地理はほとんど知らないはずだからだ。そんな彼がこの嵐の中、向かうとしたらいったいどこだろう。そのとき闇と雨しぶきを突いて、こちらに駆けてくる蹄の音が聞こえた。
「ヒロがいなくなったんだって!?」
 駆け寄ってきたのはロゼだった。ああ、と答えルージュは眉を寄せた。
「あの馬鹿が…。何が気に食わなくてこういうふざけた真似しやがんだよ。」
 カッ、と空が金色にひび割れ、ロゼの横顔の輪郭を浮かび上がらせた。
「でも彼はどこに行ったんだろう。都に知り合いなんている訳がない。ルージュ、君にどこか心当たりはないの?」
「んなもん俺に聞くな! あいつの頭ん中なんて俺に判る訳…」
 言い返してルージュは言葉を切った。
「ひょっとして、ジョーヌんちの下屋敷…」
「ジョーヌの?」
「ああ。あいつが笑ったのはあの子牛を見た時だけなんだ。他に行きたいところなんて、あいつにある訳ないだろう。」
 母牛を見ていたヒロの笑顔が、ルージュの脳裏にありありと甦った。慈しむような悲しむような、切ないほど透明な笑顔だった。あいつはやはり寂しがっていたのだ。暖かい藁床に帰りたがっていたのだ。
「急ごうルージュ! この大雨だと川が危険だ!」
 ロゼは馬に鞭を入れた。2人のあとをスガーリは追った。子爵家の城は街はずれにあり、たどりつくまでには川を一つ越さなければならないのである。普段は穏やかなその川は、雨が降るとたちどころに増水して人間たちに牙を剥くのだ。そんなこともヒロは知るまい。彼らの頭上で稲妻がひらめき、地鳴りめいた轟音が続いた。


 3人は街はずれの川にたどりついた。向こう岸で松明を振っている人影は、ジョーヌと、それにヴェエルであった。
「いたかー!?」
 ルージュは怒鳴った。叫び返すヴェエルの声が聞こえた。
「まだ見つかんなーい! すっごい増水してるから、渡るとき気をつけないと危ないよー!」
 橋の下に渦巻く濁流は、太い橋げたを薙ぎ倒さんとばかりに轟々と荒れ狂っていた。ハッとルージュは目をこらした。視力のいい彼には判った。いま、川べりで何かが動いた。白紫の稲光に照らし出されたそれは、
「―――ヒロ!」
 ビクリ、と影は振り返った。濡れ鼠のヒロがそこにいた。雨と泥で、あるいは涙でくしゃくしゃの顔でヒロは叫んだ。
「来んなぁーっ! もう放っといてくれよぉーっ!」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!」
 ルージュは怒鳴り、マントを脱いでロゼの手に押しつけると身を踊らせて馬を下りた。ヒロがいるのは今にも波にさらわれそうな細い堤の上だった。ルージュは駆け寄ろうとしたが、
「来んじゃねぇって言ってんだろ! それ以上近づいたら、おいらこっから飛び込むかんな!」
「何考えてんだよ…。」
 ゆっくりと歩み寄りながらルージュは言った。
「お前な、いつまでたっても誰ともろくに話もしねぇで、ウジウジぐじぐじ女みてぇによ。な。言ってみろよ、いったい何が不満なんだよ。お前がこの都に戻ってくんのを、どれだけの人間が待ってたと思うんだよ。公爵も、それからお前のお袋も―――」
「嘘だ!」
 ヒロは嗚咽混じりに叫んだ。
「あいつらが待ってたのは公爵家のあととりで、おいらじゃなくたっていいんだよ! みんなしてよってたかって、若様若様若様若様…! そんなのおいらじゃねぇよ! もうなんもかんも嫌なんだ! おいらはあの街に帰る! あの街に帰りてぇんだよ!」
 ぶるぶると首をうち振って、ヒロは興奮しきっていた。とにかくなだめなければまずいと、ルージュは口調を変えて言った。
「な、落ち着け。判った。話は聞いてやっから。だからとにかくこっち来い。な? こんな川に落ちたらお前、冗談ともかく命がねぇぞ?」
 ルージュは両腕を差しのべて1歩近づいたが、
「来んなーっ!」
 後ずさったヒロの足が、ズルッと草を滑った。はじかれるようにルージュは走った。その手がヒロの手首を掴んだ時、濡れた草は無情にもルージュの体重を払いのけた。支える間もあらばこそ、2人はひとかたまりに濁流の中に落ちた。
「ルージュ!!」
「若君ーっ!!」
 ロゼたち4人は堤を走った。泥の川の中に2人の顔が浮き沈むのが見えた。泳ぎの得意なルージュではあったが、片手にヒロを抱えている上に流れがあまりに速すぎた。ルージュは何度も水を飲み、水底に引きずりこまれそうになった。
 ロゼは流れの先を見た。川はじきに大きく蛇行し深い淵にさしかかる。そこまで流されたらいかなルージュでも、この激流を泳ぎきれるはずはなかった。ロゼは口元に手を当てて叫んだ。
「ジョーヌ! ヴェエル! ダイオウカズラの蔓を切れ! ロープを作ってルージュに投げるんだ! 早く!」
「判った!!」
 ジョーヌは堤に生い茂っている蔓草にとりつき、バリバリと根から引き抜いた。ヴェエルはその先端に太い鏑矢(かぶらや)を結びつけ、2人引きの剛弓を力いっぱい引き絞った。
「南無三、届いてくれーっ! ルージュ! これに掴まってーっ!」
 ヒュルルル――ッと風を切り、鏑矢はルージュの目の前に落ちた。半ば沈みかけながらルージュは、利き腕にしっかりと蔓を絡ませた。
「よーしっ! 引っ張れーっ!」
 男たちは渾身の力で踏ん張り、ヒロとルージュを堤に引き上げることに成功した。ルージュはしばし四つん這いのまま激しく咳込んだ。
「大丈夫かルージュ。泥水だ、苦しいだろうけど吐いた方がいいよ。」
「ああ。」
 ルージュはロゼの言う通りに、自分の喉にぐいっと指を突き立てて吐いた。かたわらでヒロは引きずり上げられた姿勢のまま、泥人形のように動かなかった。
「ね、まさかコイツ死んじゃったんじゃ…。」
 おずおずと言うジョーヌにルージュは、
「いや、息はしてる。こいつもたんまり水飲んでんだろ。ちっと吐かしてやんねぇとな。」
 そう言うと手の甲で口元をぬぐい、ヒロの腕を掴んで半身を起こさせた。けほっ、けほっとヒロは力弱く咳込んだ。
「ッたく手間かけさせやがって。苦しいのは一瞬だ、ちっと我慢しろよ。」
 ルージュはヒロを前屈みにさせると、半開きの口をさらに指で押しあけて、そのままグィと喉まで突っ込んだ。ぐうっと硬直した背中を、
「ロゼ! そっちの肩押さえろ! ああもう暴れんじゃねぇよっ! 胃にあるうちに吐いちまわなかったら、お前病気になっても知ん… ―――いていていて、いてぇっ! このタコ噛みつくんじゃねぇっ!」
 ピシャッとヒロの頭を叩き、ルージュはその細首を押さえこんだ。
「吐けこの野郎っ! 腹ン中にあるもの全部吐いちまぇっ! そうすりゃすっきりすんだよ、おらぁ!」
 口じゅう滅茶苦茶にかき回されて、ヒロは数回嘔吐を繰り返した。やがてひゅうひゅう喉を鳴らすだけになった体を、
「もういいな。あ? もう吐くもんはねぇな? ねぇかって聞いてんだよこの大馬鹿野郎!」
 首根っこをつかんだまま揺さぶると、ヒロは細かくうなずいた。ルージュはロゼからマントを受け取り、ヒロの肩にバサッと掛けて片腕を担ぎ上げた。それから傍らにひざまずいているスガーリをかえり見、
「大至急、公爵に伝えろ。馬鹿息子は無事見つかった。明日の朝には俺が必ず連れて帰る。それだけでいい。頼んだぞ。」
「御意、若君。」
 スガーリは馬にまたがり、走っていった。また雷鳴が轟いて、雨脚は当分衰えそうになかった。どこか休める場所を探しヒロの手当てをしなくてはならない。そこでヴェエルが声を上げた。
「そういえばこの奥に確か古い薪小屋があるよ。荒れてはいるけど雨はしのげると思う。とにかくそこ行こうよ。」
 草の径をヴェエルに先導されて歩き、彼らはその小屋にたどりついた。屋根も壁もボロボロではあったが、かろうじて雨晒しはまぬがれた。ヴェエルは戸口で立ち止まり、
「俺さ、薬草探してくるわ。そいつに胃薬、飲ました方がいいっしょ。濡れついでにひとっ走り行ってくるよ。…ほら一緒に来て、ジョーヌ。」
「え? なに、俺も行くの? そんなのお前ひとりで十分… いていていていて! 判ったよ判ったよ、行くから引っぱるな!」
 2人はあとさきに林の中に入っていった。ルージュは手早く火をおこし、濡れた上着を脱いだ。ロゼは懐紙や短刀を整えて薬草を絞る準備をした。ブラウスも脱いで上半身裸になったルージュは、
「なぁロゼ。お前もそれ脱いだ方がいんじゃねぇの。下までぐっしょりだろ。乾かさないと具合悪くなんぞ。」
「ん… いや、俺はいいよ。それより彼をさ、ちゃんと面倒見てやって。」
「こいつか…。」
 ルージュのマントにくるまれて、ヒロは壊れた石像のように床に転がったままでいた。激流に揉まれ胃を裏返され、体力を根底まで使い果たしてしまったらしい。呼んでもつついても、眉をかすかに歪めるだけでほとんど反応しなかった。ルージュはやれやれと溜息をつき、ヒロを再び抱え起こした。
「ッたく、男を裸にしたって楽しくも何ともねぇつうの…。」
 ブツブツ言いつつボタンをはずしても、ヒロは正体なく無抵抗であった。衿を広げブラウスを脱がせた時、ルージュはヒロの後ろ肩に、くっきりと染めつけられた青獅子の家紋を認めた。
「本物か…。」
 クスッ、とルージュは笑った。


 翌朝は見事な快晴であった。木々の枝から滴る水晶の滴を、鳥たちは翼でしぶかせて飛び立った。光の矢のまぶしさにヒロは目を覚ました。どこだここ…と薄目をあけ、五感が戻ってくると同時に、
「ぶぶーっ! …にげっ! にげーっ! なんだよコレぇ!」
 舌の上に甦った薬草の味に、彼は思わず飛び起きて滅茶苦茶に口元をぬぐった。舌がひんまがるとはこれを言うのだろう、苦くて青臭くて耐えられるものではなかった。犬のように垂らした舌を手の甲になすりつけ、ようやくえぐみが薄らいだところでようやく、ヒロは自分が下着一枚の裸でいるのに気がついた。あれっ…と彼は辺りを見回し、すぐ隣に横たわっている少年の、亜麻色の髪に目を止めた。ルージュであった。
 なんでこいつがここにと思った瞬間、ヒロは夕べの出来事を思い出した。嵐にまぎれて抜け出した公爵邸、足をすべらせ飲み込まれた濁流。助け上げてくれた誰かの腕。吐かされ担がれ運ばれて、どろどろした草の汁を鼻をつままれて飲まされた。それから体が冷えないようにと、誰かが添い寝してくれて―――
 ポリポリポリ、とヒロは頭を掻いた。今こうして横にルージュがいるということは、あの心地よいぬくもりは彼の体温だったに違いない。室内には他にも、壁にもたれて眠っているジョーヌとヴェエルが、少し奥に敷かれたマントの上には丸くなっているロゼがいた。鳥の声がひどくかしましく、何だか笑っているように聞こえた。ヒロはそっと起き上がり、半乾きのルージュのマントを引きずって外に出た。
 雨に蒸された緑の匂いが、たちまちヒロの鼻孔に広がった。彼は思わず深呼吸し、足の向くまま小径を進んだ。やがて木立ちの壁が途切れ、眼下一面に都の街並みが見渡せる場所に出た。うわぁ…とヒロは目を見張った。夕べの雨に洗われた屋根が朝日を受けてキラキラと輝き、細い煙を上げている家では朝餉の支度が始まっているのだろう。川も畑も丘も森も、この世に在(あ)る喜びを謳歌しているかのようであった。綺麗だ、何て綺麗な国なんだとヒロは初めて思った。
 その時いきなり背後から、
「この野郎! てめぇまた逃げようったってそうはいかねぇぞ!」
 躍りかかってきたルージュにものすごい力で羽交い締めにされた。ずるずると後ろへ引きずられながら、ヒロはぶんぶん首を振った。
「おま、痛ぇ痛ぇ痛ぇ、離せ! 離せっつの、もう逃げねぇから!」
「んなもん信用できっか! ろくなことしねえからよこのタコはよ!」
「逃げねぇよ! だから離せよっ! 痛ぇっつの!」
 全身を振ってヒロは、ようやくルージュの腕をほどいた。彼同様下着姿のルージュは、炎を吹きそうな目でヒロを睨みつけていた。ヒロは視線をそらしかけたが、
「お前にはその、礼…言わなきゃだよな。」
 ぼそりと言ってマントを引き上げ、顎を埋めるようにして、
「ありがとう。助けてくれて。それと… ごめん。面倒、かけました。」
 あとの方は消え入りそうな声だったが、ヒロはぺこりと頭を下げた。ふーっとルージュは息を吐いた。
「なんで逃げようなんてしたんだよ。しかもあんな嵐の中を。おかげで俺ら大変な目に合ったんだからな。ほんとに悪いと思ってるんだったら、訳言えよ訳。逃げようとした訳を。」
「ん…。」
 ヒロは口籠ったが、ルージュの目が自分を射たまま緩まないのを知ると、観念したかの如く語り始めた。
「おいらがさ、鉱山の町の市長に拾われて、ずっとそこで育ったってのは聞いてんだろ。」
「ああ、親父に聞いた。親父はずっとお前のこと気にしてたからな。14年前にお前をさらった奴らを、軍隊使って追っかけたのは俺の親父だから。」
「え、そうだったのか?」
「たりめーだろ。この国の軍隊は全部うちが取り仕切ってんだ。―――んで?」
「んで、…だから、昔のことは全部その市長に聞いたんだけど、おいらの母ちゃんはね、道端でおいらを抱きかかえて死んでたんだって。ぼろぼろの服着てガリガリに痩せて、どっかで売ったらしくて髪の毛なんか丸坊主だったって。なのにおいらは痩せてもなくて、すげぇ元気だったんだって。つまりおいらの母ちゃんは、自分はそんな苦しい思いをしても、おいらにはひもじい思いをさしてなかったんだよ。おいらのことを命がけで、守ってくれたんだ。だから、市長はこう言った。『どんな理由があったのかは判らないけど、お前はただのみなしごじゃない。そんな風に母親に愛されていたんだ。だから誇りを持ちなさい。お前は、みんなに愛される運命なんだ。』 って…。」
 遠い目になったヒロの横顔は、名工の手に刻まれた石膏像さながらの端麗さであった。すっと伸びた鼻梁を眺めながらルージュは、以前父から聞かされた、ヒロがさらわれた時の話を思い出した。

 手配中の窃盗団の一味が、手傷を負って逃げ込んだのはあろうことか公爵家の庭園であった。賊は中庭づたいに巧みに邸内に侵入し、侍女を7人斬り殺して、東の棟の一番奥のヒロの部屋に行き着いた。ベッドで眠っていたヒロを賊は横抱きにかかえあげ、泣き叫ぶ喉に短剣を突きつけて盾とし、馬を奪って逃走した。抵抗のすべを持たない幼子を人質にした、残忍卑劣なやり方であった。
 10日後、陸軍の大隊によって取り押さえられる寸前、首領の女房はヒロを再度人質にし、一族を見捨ててただ1人逃走した。我が身ひとつを守るために何と非道なことをするのか、極悪の魔女だと皆は罵ったけれども、今ルージュには彼女の真意が判る気がした。ヒロを連れて逃げた首領の女房は、
「…多分、お前のことが可愛かったんだろうな。」
 突然のひとことに、ヒロはきょとんと目を見開いた。半裸の体はどこからどう見ても間違いなく男のものであるのに、この表情の可憐さは少女といっても通るであろう。空と同じ色の瞳が、何の紗幕も介さずにルージュを見ている。強い警戒心さえ取り払ってしまえばこのヒロは、実は底なしに人なつこい少年なのかも知れない。そんなことを思いながらルージュは続けた。
「お前のその…何だ、“母ちゃん”か。母ちゃんはお前を、自分が逃げるための人質にしようとしたんじゃなくて、お前を絶対に手放したくなくて、それで連れて逃げたんだろうな。だってそうじゃなかったら、お前にだけ食わせて自分が飢え死ぬわけねぇだろ。お前が可愛いくて可愛くてたまんなくて、放したくなかったんじゃねぇのきっと。うん、多分そうだな。市長っていうのもそのへんのことが、何となく判ったんだろきっと。」
 ルージュは手元に伸びていた草の葉をちぎり、指先に挟んでくるくる回した。ヒロはルージュの方を見たままで、まばたき1つしなかった。なに見てんだよ、と言いかけてルージュは驚いた。ヒロの両目には、今にも溢れそうな涙がこんもりと盛り上がっていた。冗談じゃないとルージュは慌てた。最初は無言攻撃で無視し続けといて、逃げ出したあげく人の手に噛みついて、今度はうるうるしてんのかよ…。
「だけど、な。」
 軽く咳払いしてからルージュは言った。
「公爵夫人…お前の本当の母親も、お前のことすっごく心配してたんだぞ。毎年毎年お前の誕生日になると大聖堂に1人で籠って、一晩中祈ってた。お前の無事に願かけて、ぜってー肉は食わなかったし、公爵も王宮での会食以外、酒は1滴も飲まなかったんだからな。」
「え…」
 ヒロは絶句した。信じられないという表情だった。彼にしてみればお高いばかりの公爵夫妻が、そのように自分を案じてくれていたとは思ってもみなかったに違いない。
「―――あー! いたいたっ、ルージュ!」
 そんな空気を破ったのはヴェエルの大声だった。ジョーヌも後ろに立っていた。よぉ、とルージュが言うのにかぶせて、
「ロゼが大変だよぉ! 濡れた服のまんま寝ちゃったもんだから熱出しちゃって、こんなガチガチいって震えてんのー!」
「うっそ、やべぇのはあっちかよっ!」
 ルージュは、続いてヒロは走り始めた。呼びにきた自分たちを置き去りにしていった2人を、ジョーヌとヴェエルは一瞬顔を見合わせたあとで、苦笑いしながら追いかけた。


 ロゼのことはジョーヌとヴェエルに任せ、ルージュはヒロを公爵家に送り届けた。公爵夫人は現国王の姪で、深窓の貴婦人らしく滅多なことで感情を見せたりはしないのだが、この朝はヒロの姿を見るなり泣きながら階段を駆けおりてきた。一斉に平伏する侍従たちの前で、彼女は息子を抱きしめた。
「よく、無事で戻ってくれました…! けれどもどうか約束しておくれ。もう2度と、黙ってどこかへ行ったりしないでおくれ。再びそなたを失うかと思うと、この母は生きた心地がしないのです…!」
 ヒロは一瞬とまどったが、先程ルージュに聞かされた話を思い出し、ようやく素直な心を口にすることができた。
「うん。判った。もうこんなことはしません。夕べは本当に、心配かけてすいませんでした。」
「ヒロ…!」
 夫人の頬を新たな涙が伝った。父公爵の目にも光るものがあった。妻と息子の抱擁を見守りながら彼は、うるんだ声でルージュに言った。
「これもみな、そなたのお陰であろうな。感謝するぞレオンハルト。心から感謝する。」
「いいえ、勿体のうございます閣下。今日のところは私はこれで失礼いたします。いずれまた改めてご挨拶に。」
 ルージュは公爵に一礼すると、バサリとマントを翻して城を出た。水入らずの場に長居は無用であった。

 一方、ジョーヌとヴェエルに送られて館に帰りついたロゼは、女官長ヒナツェリアの指示ですぐさまベッドに横たえられた。急ぎ呼ばれた医者は、雨に打たれたせいで風邪の気(ふうじゃのけ)が取りついただけだと診断し、
「お体の暖まるものを召し上がって、2〜3日安静になすっていれば問題ございませんでしょう。あとはこのお薬湯を、お休みになる前に飲ませてさしあげて下さい。」
「判りました。どうもありがとうございました。」
 丁重に医者を見送ったあと、ヒナツェリアは客間で待っていた2人に事の次第を尋ねた。ジョーヌは昨日から今朝にかけての出来事を、かいつまんで彼女に話した。ロゼの機転がなかったらヒロもルージュも危なかったと聞いて、さすがは我が君であるとヒナツェリアは誇らしく思った。

 午後の陽が傾き出す頃、ジュペール伯爵家に一騎の使者がやって来た。バラバラと駆け寄った門番たちは、その馬の腹当てを見てパッと道をあけた。青い布に縫いとられた紋は銀色の獅子、シュテインバッハ公爵家の従騎士だった。出迎えた侍従長に使者は、今から公爵家嫡男が伯爵の御見舞いに参る由を告げた。伯爵家侍従たちは恐縮し、大急ぎで準備を始めた。何せ相手はこの国で王家の次に身分の高い公爵家、客間はもちろん控の間や廊下に至るまで、失礼があってはならじと浄め終え整え終わったところに、二騎の先触れに先導されて小型の馬車が到着した。降り立った華奢な肢体の少年は、真っ白な羽根飾りの付いた帽子を作法通り左脇に抱え、名乗った。
「シュテインバッハ公爵家の、ヒロ・リーベンスヴェルトです。ジュペール伯爵のお見舞いに伺いました。」

 薬のせいでうつらうつらしていたロゼは、聞きなれたヒナツェリアの声と、聞いたことのあるハスキーボイスが言い争いつつ近づいてくるのを聞いた。
「いいじゃねぇかよ顔見るくらいよぉ。まだあいつに礼言ってねんだよ。こいつ置いたらすぐ帰っから、んな、かてぇこと言うなよぉひなっつぅ。」
「ヒナツェリアでございます! 伯爵は今伏せっておるところでございます。お見舞いのお品は私どもにお預け下さいませ、後日必ず伯爵よりお礼の使者を…」
「ンなこと言って自分で飲む気だろぉ! たっけぇんだぞコレ!! おいらそんなクチグルマにゃダマされねーかんなっ!」
「く…くくくく口車とは! それはあまりにあまりなお言葉にて、聞き捨てなりませぬ若様!」
 ただならぬ気配にロゼは身を起こし、部屋の入口でつかみあいになりかかっている2人を見て、
「何やってるのそんなところで…。」
 鼻声の呆れ声でつぶやいた。


「よーお! ロゼ!」
 ヒロはぱっと片手を上げ、戸口にヒナツェリアを置き去りにしてずかずかと寝室に入り込んできた。白い絹のタイツになめし革の靴、公爵家にしか許されない禁色のロイヤルブルーの上着、衿と袖口には豪華な手織りのレースをあしらい、胸元には卵大のスターサファイアのブローチといういでたちは、どこからどう見ても立派な大貴族の嫡男であった。よくよく考えればそれもそのはず、2歳で賊にさらわれるまでは、ヒロはあの公爵家の城で大勢の侍従侍女にかしずかれて育ったのである。おのずからなる侵し難き気品が備わっていて当然だ…などと考えているロゼのベッドの脇に、ヒロはそばにあった椅子をズルズルと引き寄せて座った。
「ンだよ、心配した割にゃあそんなに顔色悪くねぇじゃんか。よかったな。軟弱なんだよお前はちょっとよ。もう少し体とか鍛えー? あ、それでこれね、うちの親が見舞いにって。何かおいらにはよく判んねぇけど、とっておきのビンテージなんだってさ。多分買ったら超たけぇんだろな。伯爵はお目が高いからお笑いになるかも知れないけどって…。でも別に見て笑えるもんじゃねぇよな。ま、つまんなかったら捨てて。」
「冗談じゃない、極上のワインだ。ありがたく頂戴するよ。父君にはよろしく伝えて。いずれお礼に伺うけどね。」
「いいよいいよ伺わねぇで。メンドっちぃ、んなの気にすんな。そういやお前っててっきり伯爵の息子なのかと思ったら、自分がもう伯爵なんだってな。『ジュペール伯爵』かぁ。なんかかっけー響きぃ。」
 平民言葉丸出しのヒロに逆の意味で圧倒され、戸口に呆然と立ち尽くしていたヒナツェリアに、ロゼは急ぎ茶の支度をするよう命じた。かしこまりましたと腰を屈める彼女をヒロは顧みて、
「あ、どうかおかまいなく。」
 丁寧に言ったのにヒナツェリアはじろりと眼鏡越しに睨みつけてきた。彼女が去っていったあとでヒロはロゼに言った。
「なんかおいら嫌われちったかな、あのひなっつぅに。相性悪いのかも知んねぇな。」
 ロゼはクスッと笑い、
「いやそうはないよ多分。」
「そっかぁ? なんかああいうおっかねー女って、おいらも苦手なんだけどさ。お前は平気か? ああいうのに見張られてて。」
「見張られて、っていう感覚も別にないよ。彼女はうちの女官長だけどね、ああ見えてあの眼鏡外すとけっこう美人なんだ。」
「うそ! マジ? 確かにムネはそれなりあったけどよ…。美人て、マジで?」
「ほんとほんと。」
「ふーん…。」
 詠嘆の調子でヒロは言い、やがて翡翠のワゴンを押してヒナツェリアが再びその部屋にやって来ると、鳥のように首を曲げて彼女の様子をじぃーっと見つめた。本当に穴のあきそうな見られ方なので、さすがのヒナツェリアも心地悪くなったかちらりとヒロの顔を見た。それを好機にヒロは彼女を笑わせるべく、舌を出したりモンキーフェイスをしたり、寄り目になってヒロちゃんですをして見せたりしたが、ヒナツェリアは一途にムッとした表情を崩さなかった。しばし笑いを噛み殺して2人を眺めていたロゼは、女官長のこめかみに青筋が立ち始めたのを見ると、そのへんが限度だとヒロに合図した。共犯者の笑みでヒロは椅子に座り直した。憮然とした顔でヒナツェリアは出ていった。
「あ、うんめーコレ!!」
 ベネチアン・ガラスのカップに注がれたマスカット風味のお茶を、ヒロは嬉しそうにすすった。ロゼは気になっていたことを聞いてみた。
「で、君の方はどうだったの。父君、公爵閣下には何か言われた?」
「何か? うんにゃあ? 別に何も? もう帰ったらもう、とぉにかくすっげ腹減ってて! 朝っぱらからメシ3杯食ったね。うん。お前らに飲まされたあの薬草、あれ効くなー! 消化剤なんだろあれ。滅茶苦茶消化したな。うん。」
「そう…。本当に君には甘いんだね、みんな。」
「いや甘くはねぇって。だってここに来るにしてもな? やれ使者がどうのお衣装がどうの、それとお前んち着いたらこういう風に名乗れの、いやまぁうるせぇうるせぇ。何だっけおいらの名前。なんかバカ長ぇの。ヒロ・ハーゲンダッツじゃねぇ…えっと…」
「リーベンスヴェルト。」
「ピンポン!」
 ヒロはポンと膝を叩き、指でスチャッとロゼを差した。
「お前アタマいいのな。おいらが覚えきんねぇのに、もう覚えてんだ。」
「当たり前だろう。公爵家のあととりの名前を知らない貴族なんていないよ。ヒロ・リーベンスヴェルト・フォン・シュテインバッハ。君の誕生と同時に全貴族が覚えた。」
 大きな目をヒロはくるりと動かし、ロゼの方に顔を突き出して聞いた。
「…な。うちんちってさ、そんなすげぇの。」
 聞かれたロゼの方が驚いて、
「まさか、君本当に知らないの? 公爵家は『五色の御旗』の筆頭なんだよ?」
「いやそれはもう聞いたけどよ。何か、国王の次に身分が高ぇんだって。」
「ああそうだよ。現王家の御血筋にもしご不幸があったら、公爵家からお世継ぎを差し出すんだ。そのために君の家には内親王が必ずご降家になって、血の絆を薄めないよう万全の注意がされているっていうのに、当の本人の君が何を言ってるんだよ。呑気だなぁ。」
「ふーん。…な〜んかさぁ…。」
 袖口のレースをいじっていたヒロは、さも嫌そうに眉をしかめ、こう言い切った。
「めんどくせぇ。大したことじゃねぇじゃんか、そんなのよぉ。」
 思わず、ロゼはヒロを見た。別の世界からのおとずれ人を見るような気がした。シュテインバッハ公爵の名にはこの国の全貴族を無条件に平伏させる力があるというのに、その高貴さも栄誉も伝統も、ヒロにとっては『大したことではない』というのか。絶句しているロゼのもとにその時、みたびヒナツェリアがやってきて言った。
「ご談笑中のところ失礼申し上げます。ただ今、アレスフォルボア侯爵家の若君がお見えになった由にございます。」
「ルージュが?」
 ロゼが聞き返すのにかぶせてヒロは、
「なーん、あいつも見舞いに来たのかぁ。茶もあるしちょうどいいな。すぐ来いって言ってこい、ひなっつぅ。」
「は…」
 ヒナツェリアは顔を伏せた。身分的にいってヒロの命令は絶対であり、謹んで聞かなくてはならないものなのだが、彼女の主はこの世に1人しかいないのである。ロゼは今度もクスリと笑って、ヒナツェリアに告げた。
「そうだね。構わない、すぐここにご案内して。」
「かしこまりました。」
「わりーな。」
 口を挟んでくる客人を無視し、彼女は玄関へ急いだ。

「ンだよお前も来てたのかよ。」
 ヒロの顔を見たルージュは開口一番にそう言った。それだけ遠慮のないやりとりが、ヒロとルージュの間にはすでに平気になっているのである。ルージュは略正装のオレンジ色の上着を着、片手には大きな花束を持っていた。ヒロは早速それに目をとめ、
「うっわ、すげえ花束じゃんかぁ。いい匂いすんなこれぇ! ありがとなー。」
「いやお前にじゃねぇっつの。ほら。大したモンじゃねぇけど伯爵様好みだろ。」
 ルージュはヒロを押しのけて花束をロゼのベッドに置いた。ロゼはすぐに手に取って、深々と香りを吸い込んだ。
「ありがとう。ジャスミンは大好きなんだ。」
「へー、これがジャスミンてのかぁ。おいらチューリップぐらいしか判んねぇやあ。んでもすぐ生けてやんねぇと可哀相だよな。ほらよこせ。いいからよこせよ。しおれちったら大変だろぉ? えーっと花瓶はこれでいいな。おいジュペール伯爵、台所どこだお前んち。」
 東国からの献上品である古伊万里の花器を右手に、ジャスミンを左手に抱えたヒロが今しも部屋を出ようとした時、ルージュのためのティーセットを持ってちょうどヒナツェリアがやって来た。出会い頭にぶつかりかけたはずみでヒロは花瓶を取り落とし、あわや粉々になる寸前に、ヒナツェリアははっしとそれを膝に抱き止め、へたへたと床に座り込んだ。
「おお、ナイスひなっつ! んじゃついでに生けてこいよ。ほら花。こっちはおいらがやっといてやっから。はい選手交代〜。」
 彼女の手に花束を押しつけ、代わりにワゴンを押してヒロはベッドの脇に戻った。何も言わずに出ていったヒナツェリアの心中を思うとおかしくて、ルージュとロゼは顔を見合わせて笑った。
「ところでこいつの呼び名どうするよ。」
 とりあえず笑いがおさまったところでルージュは言った。呼び名?と問い返したヒロに、
「ほら、俺らって一応、家の色で名前、呼び合ってんじゃん。別にそれが決まりって訳じゃねぇけど、まぁ通例つぅか慣習つうかな。んで、その流れで行きゃお前は『ブルー』なんだけど。」
「ブルー? ブルぅぅ? ヤだよおいらそんなのぉ。ヒロでいいよヒロでぇ。これ以上いろんな名前つけられたんじゃ、おいらマジ覚えきんねって。またハーゲンダッツになっちまうぜ?」
 ロゼはぷっと吹き出して、
「いいんじゃないの、彼はもう『ヒロ』だけで。」
「ンだよ珍しいな。格式にはうるさいジュペール伯爵が。」
「いや、考えてみれば今さらブルーって呼ぶのもあれだよ。やっと馴染んだことだし、ヒロのままでいこう。」
「ん、それでいこう。それに決定。おいらはヒロね。ヒロちゃんです♪」
「何やってんだよ一人で。ほんっと訳判んねーなお前。どういう性格してんの。」
「いやこれがおいらよ? 好感度抜群。CM王。」
「時代がちげーだろ。好感度上げようと思うんならな、お前、もっと社交界出てかねぇとまずいぞ?」
「そう、実はそれよ。」
 ヒロは急に顔をしかめた。
「来月のさぁ、聖ローマ祭のちょっと前にね、おいらのお披露目式やるんだって。」
「あ、そっか! お前さらわれてたから、お披露目式やってねーんだ!」
「うん。だからそれまでに何が何でも一通りの作法は覚えろって、うちの親がそう言うんだよ。だけどなぁ。そんなんおいらにゃ無理だっつーの。なぁお前らもそう思うだろ?」
「馬鹿、無理だっつーのじゃねぇよ。公爵家の嫡男がお披露目しねぇ訳いかねぇだろよ。」
「えー…。やっぱそうかぁ?」
 ヒロは天井を仰ぎ、
「ヤだよぉ〜。ユーウツだよぉ〜。おいらそんなんやりたくねぇよぉ〜。まぁた逃げ出そっかなぁー。また嵐になんねぇかなぁ…。」
「こんなこと言ってるよルージュ、君が公爵からご指導を任された相手は。」
 口調に笑いを含んでロゼは言った。ルージュはチラリと彼を見、続いてヒロを見た。え? とヒロは見返してきた。ルージュは浅い溜息をついた。
「しょうがねぇ。じゃあ俺らで特別授業してやるよ。」
「ええっ!? な、何で!?」
 意外な進展にヒロは目を剥いた。彼にしてみれば単に愚痴めいたことを言ってみただけで、ルージュとロゼが笑ってくれればそれでよかったのだが、
「何でじゃねぇだろ。面倒臭ぇけど放っとけっかよ。会話と作法と踊りと、あとは乗馬な乗馬。それだけとりあえず覚えときゃ、何とかカッコは付くだろ。よし決まった。お前、明日っから特訓な。俺と、このロゼと、ジョーヌとヴェエルにも協力さして、万全の教育体制で臨んでやっからありがたく思えよ。」
「え〜ぇぇぇ〜…。おいらそんなつもりで言ったんじゃねぇのにぃぃ…」
「ンだよその嫌そうな顔はよ。せっかく教えてやろうっつってんのに、てめ、何かモンクあんのか?」
「だってよぉー…。えー…。マジぃぃ?」
 ヒロはしばらくぶつぶつと抵抗していたが、ルージュは聞く耳を持たなかった。最後にはヒロも降参して、よろしくお願いしますと2人に頭を下げた。
 こうして翌日から、厳しいカリキュラムに基づく『お披露目特訓』が、公爵家の城で始まることになったのである。

その2に続く
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