『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第3楽章 主題2 】

 薄暗い石の塔の部屋に、ぽっ…と蝋燭が灯された。陰気に揺らめく炎は、部屋に集まった5人の男たちの顔を照らし出した。
「俺はもう我慢ならん。たとえルイダ将軍と争うことになっても、俺はレオンハルトを殺す。」
 中央の1人はそう言ってドンとテーブルを叩いた。
「この前公爵夫人を殺した時、あれほどのチャンスをみすみす潰すくらいなら、俺がエフゲイアと組む理由は何もなくなるんだ。ルイダの奴、あんなガキをどこまで過大評価すれば気が済む。何がまだ機は熟していないだ! もう十分すぎるだろうが!」
 徐々に激昂してくる男を、
「まぁまぁルワーノ様。あのルイダは将軍とはいえ元々は平民の出。ルワーノ様のように高貴なお方のお心など判らんのでございますよ。」
 隣に座った男が如才なくなだめた。
 ルワーノは―――ルージュの腹違いの兄で侯爵の長子、ルワーノ・クレアノフ・フォン・アレスフォルボアは、それでも虫がおさまらないらしく、苛々とテーブルを指ではじきながら言った。
「腰抜け将軍の言うがままに、時を待ってすでに1年になる。こんな状況に俺は飽き飽きした。レオンハルトを殺せば次の司令官は俺だ。この国の軍隊の中枢が全て、エフゲイアの傘下に入るんだ。こんな好条件を大公が歓迎しないはずはない。ルイダはさしずめ俺の権力が自分より強まるのを恐れてるんだろう。所詮は卑しい歩兵上がり、視野の狭さはどうしようもないな。」
 フン、と鼻を鳴らして、
「戦さに勝てばこの国の領土の3分の1は俺のものだと、エフゲイアの大公は約束した。お前たちは俺の副官として、十分な恩賞を与えてやるからな。」
「ありがたき幸せにございますルワーノ様。」
 4人は揃って礼をした。
 
 翌日から、ルージュは隊に戻った。彼の顔を見ただけでシュワルツは全てを理解したのだろう、ポンと肩を叩いただけで何も口にはしなかった。
 第3第4騎甲師団の目下の仕事は、公爵夫人の葬儀のための都内および街道の警備であった。公爵家は王家の血縁、かつ現王太子リーベンスヴェルトの実家である。それゆえ公爵夫人の葬儀には、王妃に準ずる規模と格式がおのずと備わるのであった。
 その日の帰城前に、ルージュはヒロを見舞った。がアマモーラの言うところによると、ヒロは今朝から3日間の潔斎に入っているという。潔斎とは、心身を浄めるため大神殿に籠ることで、葬儀が終わったらヒロはすぐにでも、王宮に上がる決意をしたのだとルージュには判った。
 
 3日めの夕刻のことだった。ルージュのいる本営に1騎の使者がやってきて、司令官室で彼に人払いさせると小声でこう告げた。
「王太子リーベンスヴェルト様より内密のご伝言にございます。2人きりで話したいことがある、王家にとってもシュテインバッハ家にとっても、またアレスフォルボア家にとっても重要なことなので、何卒お1人で、本日の日没の刻、ウィリアの森の入口においで頂きたい、と。」
「ウィリアの森?」
 ルージュは問い返した。その森は公爵家の狩り場の1つで、大神殿からもさほど遠くない。だがこうしてわざわざ使者をたてて、ヒロが自分を呼び出すのは初めてであった。王太子としての自覚がいよいよ固くなったせいなのか、それともまさか―――
(まさか公爵夫人の死について、何か気づいたことがあるんじゃあ…)
 ルージュは血の気がひくのを覚えた。一連の事件の一味にルワーノが加担しているかも知れないというのは、まだ証拠も何もない単なる推論にすぎなかったが、もしもそれが的中していて、しかもヒロに知られたらと思うと、彼は胸の真ん中に焼け火箸を突き付けられている気になった。
「司令官殿?」
 不審そうに使者は聞いた。ルージュは我に返り、
「日没の刻にウィリアの森だな。判った。必ず行くとヒロに伝えろ。」
「御意。では急ぎ戻ります。」
「大義だった。」
 使者が出ていくのと入れ代わりに、司令官室にはシュワルツが入ってきた。
「何だい今の男は。妙にキョロキョロ辺りをうかがってやがったが、女からの恋文でも届けに来たのか?」
 冗談を言いかけてもルージュは応えなかった。シュワルツは真顔になって彼を見たが、
「何でもない。うちからの使いだ。そんなことより街道に配置する兵の人員配置はできたか。検問はどことどこに置く。」
 すぐに仕事の話になってしまい、シュワルツは疑問を一旦ひきこめた。
 だがいつもなら執務時間を過ぎても小半刻は兵舎でぶらぶらしているルージュが、その日はさっさと帰っていったのを見て、シュワルツはヴォルフガングに言った。
「おい、侯爵んとこのスガーリとかいう連帯長に知らせろ。司令官は誰かに呼び出されてる。女ならいいが、そうとも限らねぇだろ。…急げよ。」
「はいっ。」
 
 ルージュがウィリアの森の入口に着いた時、太陽は地平線にほとんど姿を消しかけていた。遅くなったかな、と辺りを見回し、ルージュは木立の影から現れた1人の女を見つけ、馬を近づけた。大きなショールを頭からかぶりカンテラを手にしたその女は、彼に深々と礼をした。
「公爵家にお仕えする下働きにございます。アマモーラ様やサイトー様には知られたくないとのヒロ様のご意向で、私めがお迎えに上がりました。」
 見かけない顔だなと思っていたルージュは、女の言葉で納得した。下働きをよこすのは、内密の話なら当然であるかも知れない。彼はシェーラザードを下りた。
「ヒロは。どこにいる。」
「こちらの奥の、お館でお待ちでございます。お供も連れずにお独りでいらっしゃいます。お急ぎ下さいませ。」
「判った。案内しろ。」
「はい。ああ、お馬はこちらにお繋ぎ下さい。細い道でございますので。」
 女の言う通りにルージュは手近な幹に手綱を結び、ブルル…と鳴くシェーラザードの首をポンポンと叩いて、歩き始めた。数歩前を女が先導した。
 森とはいっても狩り場なので、それほどうっそうとはしておらず、針葉樹の枝に遮られて小径の積雪も浅かった。この呼び出しがヒロからのものだと、ルージュは信じて疑わなかった。次の瞬間行く手にバラバラと、数人の男たちが飛び出してくるまでは。
 ハッ、と彼は腰の剣に手をやったが、
「動くな、レオンハルト!」
 その声を合図に灯された十数個の松明が、正面と左右から自分を狙っている銀色の矢じりを照らし出した。
「そうだそのまま動くな。剣を抜く前に、お前の喉は串刺しになるぞ。役立たずの長男がお情けで与えられた護衛兵の中にも、腕の立つのは1人や2人いるんでね。」
 近づいてくるその男の名を、ルージュはついにつぶやいた。
「ルワーノ…。」
 立ち尽くす彼に、ルワーノは乾いた笑い声とともに言った。
「おいおい年若のくせして、偉そうに兄を呼び捨てか? 身分高き深窓の貴婦人でらっしゃるお母上に、そのように躾けられたのか若君様は。」
 憎しみの炎を両目に宿して、
「笑わせるな、何が若君だ。お前は盗っ人なんだよ。俺が持っていた全てのものは、みんなお前に取り上げられ奪われた。それをまるで生まれながらの当然の権利のように振りかざすお前を見るたび、いつか殺してやる、いつか殺してやると思ってきた。そのお前をようやく片付けることができる。長年の恨みを晴らせる時がやっと来たんだな。」
 ルワーノは剣を抜いた。弓矢に狙いを定められていてさしものルージュも身動きができない、それを過信してルワーノは、背後になどまるで注意を払わなかった。剣先をルージュの心臓に向け、
「ひざまづけよ俺の前に。みじめに命乞いしてみせろ。そうしたら苦しまずに済むよう一息に殺してやろう。そうでないなら生きたまま八つ裂きにして…いやその前に、お母様似のその綺麗な顔を、二目と見られないように切り刻んでくれるわ。」
 こみ上げる残虐な快感にくっくっとルワーノは笑ったが、彼の勝利の確信はいささか早すぎた。
 ルージュの目が素早く動いた。ルワーノがそれに気づいた時、ルージュはもう剣を抜いていた。1対1でやりあったらルージュに勝てるルワーノではなかった。ダッ、と突き出された一撃をかろうじてよけながら、
「弓! 何をしている弓を引けっ!」
 ルワーノは叫んだがその時、
「そこまででございますルワーノ様!」
 凛と響いたのはスガーリの声だった。仰天してルワーノは回りを見回した。松明は地に落ち味方は倒れ、別の松明と弩(おおゆみ)隊が、ずらりと自分たちを取り巻いていた。その数はおよそ30。闇の中から現れたスガーリは、ゆっくりと歩み寄りながら言った。
「侯爵閣下の命によりルワーノ様のご身辺、忍びどもに張らせておりました。ご嫡男レオンハルト様への反逆、しかとこの目で見定めましたぞ。」
「何だと…。」
 今度はルワーノが立ち尽くす番だった。スガーリは彼の前まで来ると、
「さ、剣をこちらへ。」
 そう言って手を差し出したが、ルワーノはいきなり斬りつけようとした、が腕を振り上げた瞬間、ヒュン!と何かが彼の耳元をかすめた。スガーリは言った。
「無駄な抵抗はおやめ下さい。地には弩隊、枝には忍びが取り巻いております。今の吹き矢は猛獣をも一撃で倒す毒矢。人間などひとたまりもございません。」
 だらり、とルワーノは両腕を下げた。スガーリはその手から剣を取り上げた。数人の兵士たちが駆け寄ってきて、粗い麻縄をルワーノの両手首に巻いた。本来なら全身を縛り上げるところだが、さすがに身分を考慮したのであった。ルージュはかたわらで彫像のようにその様子を見守っていたが、
「…ひとつ、聞きたい。」
 言葉を口から押し出すように言った。
「ヒロの母親…公爵夫人を殺したのは―――」
「俺だよ。」
 うっそりとルワーノは笑った。
「まぁ直接手を下した訳じゃないが、計画し実行したのはこの俺だ。本当はヒロってガキを殺したかったんだが、あれは生かしておけというのが決定だった。だが公爵家に脅しはかけておく必要がある。だから母親を殺したんだ。」
 ルージュの体はわなわなと震え始めた。ルワーノはおかしそうに、
「あの時も本当は、お前が来なければ全員で夫人を輪姦(マワ)したあと、素っ裸の死体を公爵家に送り届けるつもりだったんだがな。惜しいことをしたと皆残念がっていた。元内親王殿下を姦(や)るなんてのは、人生にそうそうあるもんじゃないだろう。」
「…貴様!」
 衿元にルージュは掴みかかったが、スガーリはそれを止めた。
「若君、あとは侯爵閣下のお裁きにお任せ下さい! 閣下のご命令でございます!」
 ようやくに彼を引き剥がすと、
「謀反人をひったてぃ!」
 スガーリは大声で命じた。弩隊はつがえた矢を下ろし、一同は森を出ていった。
 
 侯爵家本邸の地下牢で、ルワーノは手首の縄を解かれた。石積みの壁に灯された蝋燭を揺らすのは、天井近くの、錆びた鉄格子の嵌まった小窓から粉雪とともに吹き込んでくる氷の風であった。侯爵家の城は入り組んだ造りになっており、地下も1層ではなく幾重にも堀り込まれていて、その牢の入口のさらに目下(まなした)には、中世より今に至るまで無数の人間の生き血を吸ってきた鉄の拷問道具が、薄闇にずらりと不気味な光を放って並べられていた。
 牢の中央の石の床に、ルワーノは正座させられた。回りの壁には剣を持った弩隊の兵士たち…彼らはスガーリが統括する侯爵家直轄連隊の中でもさらに特殊な、いわゆる憲兵の役割を果たす者たちであった。侯爵家内部の不祥事は全軍に重大な影響をおよぼす故、兵の人選にスガーリは、細心の注意を払っていた。
 ルージュは牢の入口近くにスガーリとともに立っていた。冷え冷えとした空気を伝って鼻に届く拷問部屋からの臭気が、衝撃と憎悪と苦悩の渦巻くルージュの胸をさらに悪くしていた。
 ガチャリと錠の音がして、父侯爵が牢に入ってきた。スガーリ以下、兵士たちは敬礼した。侯爵は視線で彼らに下がれと命じた。牢内には侯爵とルージュ、それにルワーノのみが残った。侯爵はルワーノの…かつて一度は爵位を譲る気でいた最も年嵩の息子の前に立った。ルージュは2人の男を交互に見た。そこにいるのは彼の父と、血の繋がった兄であった。
 2人は長い時間黙っていたが、最初に口を開いたのは侯爵だった。
「なぜこんな愚かな真似をした…。そんなに俺が憎かったか。」
 父の言葉にルワーノは顔を上げ、
「ああ、憎かったよ。」
 虚無的に笑って言った。
「俺より血統のいい弟も、誰よりもあんたが憎かった。この侯爵家は俺が嗣ぐはずだった。そう思って俺は努力してきた。武術も学問も芸事も、作法もな。馬鹿なりに必死で努力したんだ。時々王宮に連れて行かれるのは嬉しかったし誇らしかった。お高い公爵家にも気のいい侍従はいた。みんな俺を若様と呼んだ。それなのに…。」
 膝の上でルワーノの拳が震えた。
「そいつが生まれた時、俺は10歳だった。あと2年でお披露目のはずだった。だがあんたのご正室様が立派なご嫡男を産んだ以上、もう俺は侯爵家には要らないガキだった。俺は1日で地獄に蹴落とされた。若様若様とへつらっていた奴らが、一斉に手の裏返したよ。俺はただの長子。まだ立つこともできない赤ん坊は、あろうことか侯爵家の“若君”様だとよ。そして俺はあんたがお袋にくれてやった、あのちっぽけな館に追い出されたのさ。
若君の歯固めの儀式だの三歳(みつとし)の祝いだの、そんなものが本邸で祝われるたびに、俺は思った。いつかあのガキを殺して、侯爵家の全てをもう1度手に入れてやる。そのためにはどうすればいいか、俺は来る日も来る日もそれだけを考えて生きてきた。そんな俺に声をかけてきたのがエフゲイアだったって訳だ。奴らはこの国が欲しいと言った。もしこの国を手に入れる助けをするならば、領土の3分の1は俺にくれると言った。だから俺は喜んで協力したんだ。俺の夢を叶えるためにな。」
「馬鹿が…。」
 侯爵は吐き捨てるように言った。
「そんな言葉を信じたのか。奴らが本気でお前の望みを叶えるとでも思ったか。事が済んだらたちどころに暗殺される。そんなことも判らなかったのか。」
「予想はついたさ。」
 ルワーノは小声で言った。
「それなら別にそれでもよかった。この手でそいつを殺せるのなら、悪魔の言いなりになったってよかった。この国の守り神。太陽神アポロンの化身。勝利の女神の恋人。そんな風に何も知らない馬鹿どもに礼賛される若君を、俺は盗っ人として処刑してやる。10歳の秋から今日までずっと、俺はそのために生きてきたんだから。」
 くっくっくっ、と卑しく笑うルワーノを侯爵は見下ろしていたが、すっと大股に歩み寄ると、無言で胸を蹴倒した。ルワーノは壁ぎわまで転がされ、そこにうずくまった。
「愚か者が…!」
 侯爵はうめいた。彼は決して、生まれた時からルージュを後嗣ぎと決めていた訳ではなかった。成長を待って資質を見定め、人の上に立つ器量が優れている方を嫡男に定めるつもりだったのだ。なのにルワーノは自滅した。素行は悪くなり傷害事件を幾つも起こし、悪友以外は身の回りに近づけなくなった。対してルージュの剣の天性はまさに輝くばかりで、素直に健康に生い立っていく彼には、世間も期待と称賛を惜しまなかった。ルワーノには不幸としか言いようのないことだった。
 ルワーノは起き上がった。唇を切っていた。べっ、と血を吐き出して彼は再び卑屈に笑った。
「もう遅いんだよ親父。子供時代あんたに連れて歩かれたおかげで、俺は王宮にも公爵家にも好きなように出入りできたし、この国の機密も知ることができた。それは全部エフゲイアに渡ってる。この国の全軍隊がどう組織されどう機能するのか、エフゲイアは何もかも知ってるぞ。じきに戦さを仕掛けてくるだろう。それまでに組織を作り直す時間は、もうこの国にはないんだよ。五色の御旗の各城の見取図も大公の手に渡ってる。これが俺の復讐だ。あんたと、そこにいる盗っ人に対してのな!」
 指さされてルージュは、思わず剣の柄に手をかけた。がそれより先に侯爵はルワーノに近づき、言った。
「ならば覚悟はできているな。」
 ルワーノは顔を伏せていた。
「敵国に情報を流し、2人の王太子殿下と公爵夫人を殺(あや)めた。万死に値する罪だがお前をすぐに処刑する訳にはいかん。お前をそうしてしまったのは俺だ。だから責任を取って―――」
 グイ、と彼はルワーノの衿を掴み引きずり上げた。
「お前の知っているエフゲイアの情報を、是非とも吐かせねばならん。俺がこの手でその口を割らせてやる。他の者に拷問はさせん。それがせめてもの罪滅ぼしだろう。」
 言い終わると侯爵は、ルワーノの体を床に叩きつけた。
「レオン。」
 背後を振り向いてルージュに、
「こいつを下に連れていけ。お前には見せねばならんことが…」
「親父!!」
 だがルージュは叫んだ。床に伏せたと見えたルワーノが、ブーツの中に隠してあった短剣をぎらりと握りしめたのが見えたからだった。ハッ、と体を戻そうとした侯爵の腹に、全体重をこめてルワーノは魔刃を突き立てた。ルージュは剣を抜いた。だが駆け寄ろうとした彼より早く、
「触るなレオン!」
 刃をねじこまれながら侯爵は、ルワーノの腕を掴み信じられない力で押し戻し、抜いた剣でルワーノの左肩を袈裟懸けに斬り下ろした。
 ルージュの視界で2人の男は、支え合うように互いに体をもたれさせてズルリと膝をついた。叫び声を聞いて飛び込んできたスガーリも戸口で立ち尽くした。ルワーノは断末魔に身を震わせボロボロと涙をこぼし、侯爵の胸にすがりついた。
「おや、じ…」
「許せ…ルワーノ…!」
 血を吐きながら侯爵は言った。ルワーノの瞼が落ちた。床に崩れた彼の上に侯爵も重なって倒れた。
「親父!」
 はじかれたようにルージュは父を抱きおこした。
「閣下っ!」
 スガーリも駆けよった。
「何やってんだ医者呼べ! 早く!」
 怒鳴るルージュの手を侯爵は撫でた。驚いてルージュは父を見た。侯爵はうっすらと目をあいて、
「いい…。もう、間に合わん…。」
「親父…!」
 ルージュは彼の体を揺すった。
「レオン…。」
 ゼイゼイと苦しい息の下から侯爵は言った。
「いいか…ルワーノは悪性の流行病で急死し、アレスフォルボア侯爵は、王家と公爵家のご不幸を未然に防げなかった責により自刃した。それだけだ。いいか、それだけなんだ…。」
「…」
 唇を噛みしめてルージュは父を凝視した。
「ルワーノの件は父親の俺が全責任を取った。これで終わる。俺の死で一切が消滅するんだ。お前には関係ない。お前は何も知らず何も係わってはいないのだ。つまらん罪の意識で自分の役目を忘れるな。兵士の気持ちを乱してはならん…! いいな、誰にも言うな。お前の胸1つにおさめて墓の下まで持っていけ…! 判ったな。誓えるなレオン…!」
「若君!」
 涙をぬぐわずにスガーリは息だけで叫んだ。ルージュは奥歯を噛みしめ、はっきりとうなずいて、
「判った…。」
「よし、いい子だ…。」
 侯爵は微笑みスガーリを見た。
「俺が死んだらすぐに、レオンに元帥と侯爵の位を嗣がせろ。陛下にはもう話してある。非常時だ。すぐに戦さが始まる。式典は最小限にして、近隣諸国へは文書だけで―――」
「判った。判ったからもう喋んな。判ったから。全部判ったから喋るな親父…!」
 肩を掴む手の震えに気づいたか、侯爵はかすかに声を上げて笑った。
「なにをべそっかきしてるんだ、この生意気坊主が。どんなに折檻しても絶対に泣かなかったお前が、ここへ来てそんなじゃあ気持ちが悪いぞ。」
「閣下…!」
 スガーリも嗚咽を漏らした。侯爵は長く息を吐いた。最期が近いと判った。
「そうだ、前から言おうと思っていたんだが…。」
「あ? 何だよ聞こえねぇよ!」
 ルージュは耳を寄せた。
「お前の剣はどうも、右肩が下がる癖がある…。あれは直せよ…。肘に余計な力が入って手元が狂う…。勝負はいつも一瞬だ…。」
「判った。右肩だな。判った、直すから。」
「それとな…」
「あ?」
「ママンに伝えてくれ…。浮気ばかりして苦労をかけた…。でも一番君を、愛してる、ぞ、と…」
 腕にかかる力が、増した。ルージュは天を仰いだ。
「…スガーリ。」
 長い長い沈黙のあと、低く静かな声でルージュは言った。
「聞いた通りだ。アレスフォルボア侯爵は、この家とこの国の未来のために、自らの命を絶った。あとは全てこの俺に任せると、それが遺言だ。」
「御意…。」
 父の遺体を、ルージュはそっと床に横たえ、立ち上がった。無意識に腰の剣を握りしめていた。
「王家へ使いを。俺は明日、大神殿に行く。葬儀はその後だ。元帥の位は1日たりとも空白にはできない。どちらも式は簡単でいい。親しい者だけで内々に行う。全ての準備を、連隊長、お前に任せる。」
「御意、若君…いいえ。」
 スガーリはひざまづいたまま、右掌を心臓の上に当てる最高位の敬礼をして言った。
「我が主君、アレスフォルボア侯爵閣下…!」
 ルージュは地下牢を出た。
 足元を見、大股に、ルージュは歩いた。階段を廊下を玄関を、何も見ずに彼は歩き抜けた。父の声が耳元にこだましていた。たった今の、つい先日の、遠い昔の父の声だった。
 父はいつも自分に厳しかった。が一方ではとてつもなく甘い男親だった。元帥の背中に股がって部屋中歩かせたのはルージュだけだというのは、王家にまで知られた有名な笑い話だった。2人で遠乗りに行き道に迷い、野宿したこともあった。初めて海を見たルージュがあまりに喜んだものだから、父は急遽海軍に軍艦を出させて旗艦に乗せてくれた。悪いことをすれば顔が腫れるほど殴られたが、新しい剣の技を身につけるたび、皆の前で褒めてくれた。育て庇護し鍛えてくれる、最高の親であった。怖くて優しい、大好きな父であった。
 中庭でルージュは剣を抜いた。
『来い、レオン!』
 正面で父が剣を構えていた。
『ほらほらどうした。そんなんじゃあ戦場へ出たらあっという間に串刺しだぞ!』
 気合とともにルージュは突いた。粉雪が顔を叩いた。右、左、上、右。狂ったように剣を振るい、ルージュは父と最後の稽古をした。汗が吹き出し息は乱れたが、夜更けまで彼はやめなかった。
 正一位元帥、第29代アレスフォルボア侯爵、レオンハルト・メルベイエの誕生した夜であった。
 
 何かの予感がそうさせたのか、亡き侯爵は自らの死後の段取りを全て整えてあった。侯爵家からの申し入れは即日国王に聞き届けられ、翌日ルージュは、母ビクトーリア(池上季実子さん)とスガーリ、それに五色の御旗の各当主のみが立ち会う中、大神殿にて元帥ならびに侯爵の位を嗣いだ。
 純白の正礼装に長く裾を引く緋色のマントを羽織り、この日のみ蔵から出される家宝のルビーの額飾りを付け、左胸にはずしりと重い正一位の大勲章を下げたルージュには、一晩で人はこうも変わるかというほどの威厳と貫禄が宿っていた。列席したロゼは彼の背後に、かつて伯爵家の爵位継承問題に力を貸してくれた亡き侯爵の幻を見、今度は自分がこの親友を支えてやる番であると、密かに心に思った。
 続いて翌日、葬儀は行われた。昨日とは一変してルージュは黒一色の衣装をまとい、言葉少なに喪主の役目を務めた。式後の饗応は遺言により省略され、弔問客たちは早々に引き上げていった。
 終始平静だったルージュが初めて動揺を見せたのは、大聖堂に独り残っていたはずの自分の背後に、1つの足音が近づいて来た時だった。
「ルージュぅ…。」
 振り向くより早く、足音の主は彼の名を呼んだ。思いやりのこもった暖かい声だった。
「急なことで大変だったな。寂しいだろ。ここ…痛ぇだろ。強くて優しくて面白くて、すげぇいい父ちゃんだったもんな…。」
 七色のガラスで覆われた窓から低い夕日が斜めに射しこみ、その光はヒロの華奢な体の回りを、慈愛深い天使のように煌かせていた。笑うでもなく泣くでもなく、ルージュは表情を歪ませた。全ては胸の内におさめるというのが父との約束だったが、こうしてヒロの顔を見てしまうと、仙人ではないルージュの心には、押さえきれない罪の意識が傷口を破って溢れ出すのだった。
「つらかったら、我慢すんなよ。」
 ヒロはさらに歩みよってきた。その分ルージュは後ろに下がった。
「他の奴にはそうもいかねんだろうけど、おいらには泣き顔見せていいよ。情けなくっていいよ。ボロボロでいいよ。笑わねぇから。母上が死んだ時お前が慰めてくれたように、今度はおいらが…。」
 ルージュは身を翻し壇の陰に隠れた。心が悲鳴を上げていた。今ここでヒロの足元に土下座して詫びたかった。許してくれ。お前の母親を殺したのは俺の兄貴なんだ。俺はお前の敵(かたき)になってしまったんだ。殴ってくれ。なじってくれ。許さないと罵ってくれ…!
「ルージュぅ。」
 だがヒロは繰り返した。すぐそこに彼が立っているのがルージュには気配で判った。
「おいらじゃ駄目か? おいらはお前を泣かしてやれねぇのか? …なー。ルージュぅ。返事してくれよぉ。あ、それともこないだの仕返しかぁ? あん時お前さぁ、何もドア蹴破ることねぇべ? おかげで今こんなばってんに板打ちつけてあって、さぶくてしょうがねぇんだよぉ。あれじゃ風邪ひいちまうっつの。王宮上がる時に王太子がこ〜んなハナ垂らしてたんじゃ末代までの恥さらしだろが。」
 カカカ、とヒロは笑ったが、それでも応えはなかった。
 小さな溜息のあとでヒロは、
「ごめんな。おいら、なんかかえってお前のこと苦しめてっかも知んねぇな。ごめん。独りでいてぇ時もあるよな。わり。ちっと無神経だったわ。」
(違う…違う違う違う、そうじゃねぇんだ、ヒロ…!)
 言葉なくルージュは叫んだが、
「落ち着いたらまた、うち来てくれな。おいらもうじき王宮行くし、今までみたく気楽には遊べなくなっちまうからさ。だから最後に、パーッとどんちゃん騒ぎしようぜ。ロゼにジョーヌにヴェエルも呼んで、な。おいら待ってっから。お前が元気になるの、ずっと待ってっから…。」
 言い終わって少しの間、ヒロはそこに立っていたが、やがてとうとう諦めて壇を離れていった。ルージュはズルズルと床に座りこんだ。涙が頬を濡らしていた。
「ヒロ…。すまない、ヒロ…!」
 天に向けてルージュはつぶやいた。
(俺はいつかお前のために死んでやる…。だから、どうか許してくれ…。俺の罪と、お前に秘密を持つことを…。)
 十字架の前に彼はひれ伏し、いつか下されるであろう神の鞭を、我と我が身に科した。
 
「どうだった? ルージュは。」
 大聖堂から出てきたヒロを出迎えてジョーヌは聞いた。ヒロは黙って首を振った。
「そうか…。ルージュってお父さん子だったもんね、無理もないよ。つらいだろうな…。」
「親ってさ、いつか死んじゃうんだね。」
 ぽつりと言ったヴェエルの肩を、ヒロはポンと叩いた。
「そうだぞ。だからお前も親孝行しないと、あとになって後悔すんだかんな。」
「うん…。」
 ぐすっと洟をすすったヴェエルを、
「おいおいお前が泣いてる場合じゃないよ。俺たちで何とかルージュを力づけてやらなきゃ。」
 ジョーヌが明るく励ました。
「でもなぁ…あんまり回りで騒ぐのもな…。かえってあいつの負担になんだろ。」
 たった今の様子を思い出してヒロは腕組みした。うーんと考えこむ3人にその時、
「何してんのこんなところで。」
 声をかけたのは喪服姿のロゼだった。
「あー! いいとこに来たロゼぇ!」
 ヒロはパッと笑って、
「実はルージュなんだけど…」
 かくかくしかじかと説明した。ふぅん、とロゼは口元に手をやり、
「でも今はそっとしといた方がいいんじゃないかな。多分ルージュには、可哀相だけどいつまでも泣いている時間はないはずなんだ。新元帥を待っている仕事は本当に山のようにあるからね。」
「ンだよ薄情モン。だからせめておいらたちが…」
 口をとがらせたヒロの横で、ヴェエルはポンと手を打った。
「あーっ! いいこと考えちゃったぁ!」
「え? 何?」
 3人は顔を寄せた。
 
 事後処理に3日を要して、ルージュは4日めに隊に出た。元帥として軍事統括の最高位に就いた彼であるが、諸隊には通達の文書が届けられたのみで、ことさらな式典などは一切行われなかった。変わったのは呼び名と軍服の色…“司令官”ではなく“閣下”に、紺色だった服は金のモールと肩章をつけた漆黒の羅紗になった。しかしシュワルツは今まで通りの態度で彼に接し、ルージュもまた当たり前のように、変わらぬ口調で応じた。
「ああ、そうだそうだ閣下、今夜ちょっと時間とれねぇか?」
 報告の最後にシュワルツは思い出したように言った。
「実はあんたのいない留守にちょっといざこざが起きちまってな。隊の人事関係で、内密に相談してぇことがあんだよ。」
「ンだよ、揉め事くらいそっちで解決できんだろ。」
「いやそうできりゃあんたに相談しねぇって。いいじゃねぇかちょっとくらい。な。」
「いいけど…今じゃまずいのか。」
「まずい。ものすごくまずい。だから仕事が終わってから、下の食堂に来てくれよ。」
「食堂?」
「ああ。あそこは時分どき以外、滅多に人が来ねぇからな。んじゃ頼んだぞ。忘れんなよ。」
 何か様子がおかしいとは思ったが、ルージュは承知した。
 夕刻、執務時間を終えて部屋を出ると、廊下はおろか建物全体から、人の気配が消えていた。まさか隊の内部に大問題でもあったのかと、彼は階下に急いだ。いつもは開け放しの食堂の扉も、今日に限ってぴたりと閉ざされていた。取っ手にルージュは手をかけた。押しても引いてもビクともしなかった。
「シュワルツ!」
 ドンドン、と彼はノックした。
「いるのか。おい。何があったんだ返事しろ、おい!」
 さらに激しく叩いていると、中でガチャリと鍵が外れるのが判った。ルージュは深呼吸し、いつでも剣を抜けるようにしてグッと扉を押した。
 中は真っ暗であった。が闇の中に息を潜める、大勢の気配は隠しようもなかった。反射的に剣の柄に手をかけ後ずさったルージュに向けて、次の瞬間、
「新元帥閣下に、祝砲っ!」
 何事、と思う間もなく彼の視界に七色の紙吹雪が降り注いだ。窓を覆っていた暗幕は剥がされ大型の燭台に灯がともり、頭上では巨大なくす玉が割れて金銀の紙テープが垂れ下がった。
 目を丸くしているルージュにシュワルツが言った。
「公式には何の祝いもできねぇからさ、せめて俺たちでパーッと祝ってやろうって決めたんだ。あんたのお友達の心づかいだからよ、怒んねぇで受け取れよな。」
「友達…?」
 髪に肩に紙吹雪を積もらせて、ルージュは問い返した。兵士たちが道をあけた。大柄な彼らの間から歩み出てきたのは、
「ヒロ…。」
「よぉ、侯爵閣下。」
 拍手しながらヒロは言った。
「元帥就任おめでとう。みんな来てるぜ。お前にお祝い言いたくてな。」
 肩ごしにヒロがかえりみると、ロゼ、ジョーヌ、ヴェエルも次々と姿を見せた。
「お前ら…。」
 ルージュは笑った。その語尾がかすかに震えた。兵士たちも口々に、
「おめでとうございます閣下!」
「新元帥着任、おめでとうございます!」
 うねるような拍手がルージュを包み、歓声がそれに混じった。
「なぁなぁ乾杯しようぜほら!」
 兵士たちの影になって見えなかったテーブルから、ヒロはグラスを取ってルージュに渡した。それに習い皆も手に取った。
「これから色々大変だと思うけどさ。」
 微笑みながらヒロは言った。
「おいら、お前頼りにしてっから。もちろんおいらだけじゃない。ここにいる全員が、ルージュのこと大好きだし、信じてるし、すっげ頼りにしてっから。何があったってこの国は大丈夫。おいらたち全員で力を合わせて、どんな嵐も乗り気っていこうぜ!」
 おーっ!と兵士たちは声を合わせた。ヒロに背を押されたヴェエルが、皆の輪の中に進み出た。彼は声が大きい。すうっ、と息を吸い込んでから、
「それではっ、新元帥の着任を祝ってっ! かんぱぁい!!」
「乾杯!」
 グラスは天に伸ばされ飲み干され、再びの拍手がルージュを包んだ。にじみかけた視界に彼は、慌てて数回瞬きをして、
「ありがとう…。ありがとうヒロ、ロゼ、ジョーヌ、ヴェエル。それにシュワルツ。ヴォルフガング。伍長。みんなみんな…ほんとに、ありがとう!」
 深く頭を下げた彼の髪から、雪たちが煌き落ちた。
 ルージュは思った。悲しむのは後でいい、後悔するのはもっと歳をとってからでいい。秘密は封印されなくてはならない。今はやるべきことがある。エフゲイアがいつ攻めてこようとも、迎え撃てるよう準備しなくてはならない。そのために自分は生きているのだ。これからもそのために生きていくのだ。
 ヒロは思った。これでもう心残りはない。まだ誰にも言ってはいないが、明日にでも王宮へ上がれと、国王から指示を受けている。王太子という地位がどれほどのものなのか、どれだけ重い責任が自分に課せられるのか。何も判らないが多分それでも、こいつらと一緒なら何とかなる。この国は決して不幸にはならない。自分たちの心が1つである限り…。
 
 ちょうどその頃、はるか荒野を隔てた北の国の王宮では、全軍の全将校たちが、大公フェルナンドT世(鹿賀丈史さん)の召集により玉座のある大公の間に祗候していた。古代紫と黄金の広間に、凛とした大公の声が響いた。
「我が勇敢なる兵士諸君に命ずる。天の道はひらき星々は時を告げた。今こそ我らは神の声に従い、我らが支配を待ち望む南の国々への進軍を開始するものとする!」
 振り上げた勺に輝く金剛石の光に、将校たちは表情を昂らせた。
「我らが手に入れるものは、敵国の主ゲオルグU世と、新元帥アレスフォルボアの首である! この2つを諸君らの手で、余の前に持って参れ! その時こそこの世の秩序は守られ、我らが聖エフゲイア公国の威は、あまねく天地(あめつち)を照らすであろう!」
 おおーっ!と将校たちは閧の声を上げた。フェルナンドは手にした勺で真南を指し号令した。
「かの国へただちに使者を送り、宣戦布告をせよ! 防御の時を与えてはならぬ! 天を切り裂く雷(いかづち)の如くまた怒濤の如く、かの国へ攻めくだり勝利するのだ! 行け、我が勇猛なる兵士たちよ! 天の意は我が上にあり! その手で栄光を掴み取るのだ!」
 
 ヒロはルージュの肩を抱いた。ルージュはワインのボトルを掴み、ロゼのグラスについでやった。ヒロが大笑いしたせいで手元が狂い、酒はグラスに溢れた。ロゼは慌てて口をつけ、その動きがおかしいと笑ったジョーヌの頭に、ヴェエルがシャンパンをかけた。兵士たちは囃し立て拍手をし、夜更けまで兵舎は沸き立った。
 黒雲が流れを早めていた。嵐はそこまで迫っていた。濁流は彼らの運命を飲みこみ、きりきりと逆巻くことになるのだが、いまだ5人はそれに気づかず、束の間の静けさを笑い過ごした。
 

第3部主題1に続く
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