『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第1楽章 主題1 】

 2日後、ヒロは王宮に上がった。
 太陽が中天にかかるのを待ち、4頭立ての馬車が公爵家の正門前に横づけされた。玄関から細く長く敷き渡された青い絨毯を踏んで、正装したヒロは門へと進んだ。白とロイヤルブルーの上着の肩から斜めに懸けた銀のサッシュ(懸章)は、彼がすでに公爵家嫡男ではなく、王太子の身分にあることを示していた。
「それでは父上、行って参ります。お見送りありがとうございました。」
 門の前でヒロは礼をした。父公爵はさらに深く頭を下げた。息子とはいえヒロはすでに王族、公爵は彼の臣下であった。馬車のステップに足をかけ、ヒロは城を振り返った。1年にも満たない短い間だったが、ここは彼の住まいであった。おそらく生涯に二度とは戻れない、実家との別れの瞬間であった。
 ヒロを乗せた馬車が走り出すと、続いて黒い馬車が扉を開いた。こちらは普通の大型馬車で、乗り込むのは4人の侍女たち…教育係アマモーラ、侍医バジーラ、それにナーガレットとジュヌビエーブであった。
「ヒロのこと、よろしく頼むぞ。」
 公爵は短く言った。4人は膝を屈め、代表してアマモーラが答えた。
「心してございます閣下。私どもの命に代えましても、ヒロ様をお守り申し上げます。」
 公爵の後ろでサイトーも、
「時代が時代ゆえくれぐれも油断せぬようにな。そなたたちが毒味したもの以外、ゆめゆめヒロ様のお口には入れず、安全を確認したもの以外は、間違ってもお袖を通させぬように。」
「承知しております。サイトー殿も閣下のお身の回りに、どうかこれまで以上のお心配りを。」
「判っておる判っておる。公爵家のことは私にまかせよ。」
「はい。それでは出発いたします。」
「気をつけてな。」
 4人は馬車に乗り込んだ。
 
 執務室で大臣たちの報告を聞いていたゲオルグU世のもとへ、1人の侍従がやってきた。
「申し上げます。ただ今公爵家より、王太子リーベンスヴェルト殿下がご到着の由にございます。」
「そうか!」
 待ちかねたという顔で国王は立ち上がった。
「今現在宮中にいる全ての貴族を、ただちに玉座の間に集めよ。余にとっての新たな息子を皆に紹介せねばならん。」
「御意、陛下。」
 侍従は下がっていった。
 ゲオルグU世は衣服を改め、200人を越す貴族たちが平伏する大広間の壇上の玉座についた。
「苦しゅうない。みな面(おもて)を上げよ。」
 国王は言った。
「病のため長く宮中を下がっていた王太子が、本日、無事こちらに上がった。今後は余とともに、全ての公式行事および政務の席に着くことになる。余のあとを嗣ぐ次期国王だ。―――入るがよい、リーベンスヴェルト!」
 ギィ…と軋みながら大扉が開いた。貴族たちは全員、深く頭を下げた。ヒロは玉座の壇へ足を進めた。巨大な宝石のついた王冠をかぶった国王は、腰を浮かせて彼を迎えると、
「近う。さぁもっと近う寄れ。」
 広げた両腕にヒロを抱きしめた。
「よう参ってくれた…! そなたは今日この日より余の大切な息子だ。母上にはご不幸なことであったが、これからは母に代わって余が自ら、そなたの身を守る盾となろうぞ。安心いたせ。」
「ありがとうございます、陛下。」
 腕をほどかれるとヒロは、国王の指輪に口づけた。信頼の証であった。
 国王はその場でヒロに、王家の紋である飛竜の刺繍が施されたマントと、純金の首飾りを与えた。それらを身につけるとヒロは、
「…よろしくお願いします。」
 皆に向かってぺこりと礼をした。これには全員が仰天した。玉座の間で臣下に頭を下げた王太子など前代未聞だったからだ。しかし、体を起こしたヒロの顔に浮かんでいた照れたような微笑みが、たちまちのうちに一同の心から戸惑いを消し去り、この新たな若い王太子に対する親愛の情を、一気に高まらせてしまった。
 
 ヒロの居住用の御所として用意されていたのは、王宮内の東の1棟だった。廊下にも中庭にも、槍を持った警備兵が常に目を光らせていた。王太子の身辺の警備の徹底的な強化は、近衛連隊長を兼任する元帥、ルージュの命令であった。
 朝から晩までヒロは、すすんで国王について政務のあれこれを実体験した。謁見、会議、大臣たちとの昼食、午後は執務室で国書や各国大使の書状に目を通し、さらに夕食のあとは王妃主催の音楽会。それらを全てこなして夜更けにようやく部屋へ戻ったヒロは、口をきくのもおっくうなほど疲れているのだろう、
「…も、寝る。」
 それだけ言ってベッドに倒れこんでしまった。
 くぅくぅと寝息をたてているヒロの羽根布団を直してやりながら、アマモーラは彼の左手が握っているものを見た。銅製に1つだけ青い石のついた、小さな十字架であった。
 
 事件は3日後に起きた。謁見を終えて執務室に戻ってきたヒロと国王のもとに、息せき切らした外務大臣が駆け込んできたのだ。
「騒々しい。何事か。」
 国王は尋ねた。大臣は胸を叩いて、
「た、た、大変でございます陛下! ただ今エフゲイアより使者が参りまして、これを、これを陛下にお届けせよと…!」
 サッ、と顔色を変えて国王は書状を受け取った。横からヒロも覗き込んだ。それが宣戦布告であることは全文をたどらずとも判った。
「なぜこんなに早く…!」
 国王はうめいた。ヒロは大臣に言った。
「ルージュ呼べ。それとロゼだ。あの2人を呼んで来い、早く!」
「…はっ?」
「何やってんだよ聞こえねぇのかよ! ルージュは元帥、ロゼはジュペール伯爵だろうが! 大臣ならそんくらい覚えとけ、早くしろ!」
「ぎょ、御意!」
 大臣は走り出ていった。
 
 王家の使者の来訪を受け、取るものも取りあえず馳せ参じたロゼは、国王とヒロの待つ謁見の間に通された。床に膝まづき右掌を心臓の上に当てて、
「陛下ならびに王太子殿下にはご機嫌麗しく。ジュペール伯…」
 名乗り終わる間すらなく、
「ロゼロゼロゼぇ!」
 ヒロは椅子から飛んできた。
「遅いっつーの何してたんだよぉ! な、な、これ見てくれよこれぇ! エフゲイアからの果たし状!」
「果たし状って…。」
 ちらりと国王の方を見やり、ロゼは書状を手に取った。
「どうすんだよこんなの来ちまってぇ! なぁお前から使者にうまいこと言ってよぉ、今日のところは帰って下さいって訳にはいかねぇのかよぉ!」
「なに馬鹿なこと言ってるんだよ。そんなの無理に決まってるじゃない。」
 ロゼは言い国王を見、
「陛下、これを携えて来た使者は今、どこに。」
 苦渋の表情で国王は答えた。
「近衛が捕らえておる。観念しておるのか抵抗しなかったそうだ。」
「その者をすぐにこちらへお引き出し下さい。尋ねたいことがございます。」
「判った。」
 国王は侍従を呼びロゼの言葉を伝えた。
「失礼いたします!」
 そこへ1つの声がした。ハッ、とヒロは戸口を見、声の主が膝まづくより早く、
「ルージュぅ! 待ってたんだよぉ! ああもうそんな挨拶なんかいいから。立ったり座ったり面倒臭ぇよ。」
「馬鹿お前、陛下の御前…」
「んなこと言ってる場合じゃねぇよぉ! どうすんだよおいら。なぁ。どうすんだよぉ!」
 泣きだしそうなヒロに国王は苦笑し、
「まぁよい元帥。王太子の望みだ、咎めだてはせぬ。そなたたちは王太子にとって、誰よりも信頼できる相手と見える。杖とも柱とも頼む親友に違いない。能う限り力になってやってくれ。」
「光栄でございます、陛下。」
 礼をするルージュの腕をヒロは揺さぶり、
「いいからこっち来てくれよぉ。ロゼ、その手紙こいつにも見してやって。」
「ああ。」
 ロゼはルージュに書状を手渡し、
「エフゲイアからの正式な宣戦布告だ。フェルナンドT世の花押が入ってる。間違いない。」
 ぎゅっとルージュは唇を噛んだ。やはり、という気持ちだった。ルワーノの言った通りであった。
 そこへ、数人の近衛兵に連れられてエフゲイアの使者が入ってきた。両手首を胸の前で縛られ、縄の先端は兵士が握っていた。兵士は使者を突き飛ばすようにして床に膝まづかせ、
「陛下のおん前だ、頭が高い!」
 腕で頭を押さえつけた。ロゼは書状を広げ、聞いた。
「これはお前が持ってきたのか。」
 使者はうなずいた。
「フェルナンドT世は何と言った。すぐに出兵すると言ったか。」
 これには反応がなかった。目を伏せている使者にロゼは重ねて質問した。
「お前が持ってきたのは宣戦布告の文書だ。その意味は聞かされてきたか。我が国の返事を持って戻れと言われたのか。」
 答えない使者に近衛兵は怒った。
「貴様には耳も口もないのか! ジュペール伯爵のご下問を何と心得る!」
 剣の鞘で肩を激しく突かれ、使者は苦痛の表情を浮かべた。ロゼは溜息をついた。
「そうか…。我が国の答えは聞かぬと、それがフェルナンドT世の意志なのか。生きて国には戻れぬ使い。それがお前の使命なんだな。」
 その言葉に使者は顔を上げた。ロゼもルージュも彼を見た。使者は毅然と言い放った。
「その通り。すでに覚悟はできている。話すことなど何もない。この首、さっさと落とすがいい。」
「よかろう。」
 ゲオルグU世は決意の顔になった。使者の男の運命が決まったのを、ルージュとロゼは無言で悟った。
「ジュペール伯爵。」
 国王はロゼを呼び、
「この戦さ、不本意ながら避けては通れぬ国の試練と見た。そなたはどう思う。」
「御意、陛下。」
 礼をとってロゼは答えた。
「我が国が一個の独立国家であります以上、他国からの宣戦布告を拒む術はございません。いささか不条理とは申せ。」
「そうだな。余の考えも全く同感である。」
「は、恐れ多うございます。」
「国家としての儀礼は尽くさねばならん。これもまた運命(さだめ)であろう。―――元帥!」
 国王の声に威厳がこもった。ルージュは最敬礼し命令を待った。
「王宮前広場にて、即刻その者の首をはねよ! 使者の血をもって開戦の贄(にえ)となす。首は広場に曝し、屍はエフゲイアへ送れ。それが、我が国よりのフェルナンドへの返答―――」
「お待ち下さい!」
 遮ったのはヒロであった。いつも通りのハスキーな声が、感情を映して震えていた。その場の全員が彼を注視した。ヒロは立ち上がり壇を下り、敵国の使者に近づいていった。
「お前は手紙を届けてくれただけだ。王様に言われたことをその通りに守った。悪いことは何もしていない。…そうだな。」
 使者はぽかんとした顔でヒロを見上げていた。
「陛下。」
 彼の正面でヒロは、壇の上の国王を振り仰ぎ、言った。
「別に、殺さなくたっていいじゃないですか。」
 ルージュは目を見張った。見慣れたはずのヒロの姿が、別の世界の存在に思えた。
「こいつを殺したって、いいことは何もありません。こいつ殺したからって戦さに勝てる訳じゃない。それにこいつは、武器を持っていません。抵抗もしてません。そんな人間を殺したって、逆に…」
 ヒロはちらりとルージュを見てから、
「罪の意識や悲しい想いを、強いるだけだと思います。無意味です。そんなのは無意味です…。」
 ヒロが左右に首を振るたびに、金色の髪がそよぐように揺れた。
 ゲオルグU世は何も言わなかった。『使者の血をもって宣戦布告の受諾となす』。思えばこれは国の法律が定めた儀式ではなく、ただ昔からそうしてきたというだけの、曖昧なしきたりにすぎなかった。
「さ、帰れ。」
 再び使者の方を向き、ヒロは言った。
「帰ってお前の王様に伝えろ。おいらは争いたくなんかなかった。できれば仲よくしたかった。会ったこともねぇ奴と喧嘩するなんて、考えてみりゃヘンな話だよな…。」
 ふと遠い目になったあと、ヒロはその場に腰を屈めて使者の手首の戒めを解き始めた。
「ンだよ、ずいぶんかてーなコレ。こんなにきつく結ばなくてもいいのになぁ。いてぇだろ。ああ手の先むくんじまってるもんなこんなに。勘弁しろな。」
 なかなかほどけないその様子を見かねて、ルージュは軍服のふところから短剣を出し視線でヒロにどけと言い、ブツリと縄を切ってやった。ヒロは心配そうに、
「立てるか? どっかケガしてねぇな? 気ぃつけて帰れよ。」
 使者は手首をこすりながら、不安げにあたりを見回した。それはそのはずであろう、彼は処刑を覚悟していたのだから。
「…おら、とっとと来い。街はずれまで送ってってやっから。」
 使者の腕を掴んでルージュは言った。ロゼはゲオルグU世の横顔を見た。そこには1かけらの怒りもなかった。奇妙なほど静かに国王は、何かをじっと考えていた。
 
 決死の使者が生きて帰ってきたというので、エフゲイアの宮廷は大騒ぎになった。ただちに大公の前に引き出された使者は、別人ではないかというほどの落ち着いた声で言った。
「かの国は恐るるに足りぬ相手にございます。民は疲弊し、王侯貴族は怠惰な暮らしに堕落しきっております。兵士たちもろくな訓練は受けておらぬ様子。何ら作戦などなくても、攻めこめば我が国の勝利は必定。これを報告せんがために、生き恥さらして戻って参りました。」
「そうか。それを余に伝えるためにのぅ。」
 フェルナンドT世は深々とうなずき、
「ではその功にむくいて、そちに褒美を取らそう。」
 傍らの大臣を見て言った。礼をした大臣の視線の先には、剣を持った親衛隊長がいた。隊長は目礼し剣を抜き、膝まづいて頭を下げている使者の背後に音もなく歩みよると、大刀を斜めに振りおろした。
 フェルナンドT世は憎々しげに言った。
「宣戦布告の使者が生きて戻るとは何たる不吉か。かくも愚かな者を使者に選んだ者を、即刻国外追放せよ! よいな!」
「は、申し訳ございません陛下。」
 大臣は頭を下げ、
「しかしながら陛下はたった今、勝利の神に贄を捧げるご命令を下されました。これで神もお怒りにはなりますまい。」
「さようか。」
「はい、もちろんでございます。神のご意志は我が国の上に。」
 ニヤリと笑った大臣は親衛隊長に向かって、
「ああ何をしておる、見苦しいものは疾(と)く片づけよ。死骸には釘打ちをして夜の谷に捨てるのだ。早くいたせ!」
「は、ただちに。」
 2つになった使者の死体は、兵士たちによって乱暴に運び出されていった。
「ですが陛下。あの愚か者はよい情報を持ってきたものでございますな。」
 大臣は言った。
「ルイダ将軍の報告では、かの国の軍隊はよく組織され守りも強固であるとのことでしたが、どうやらさほどでもない様子。早々に大軍を送り込めば一気に攻めほろぼせるやも知れませぬぞ。」
「うむ。ルイダの戦功は認めるが、あの者はどうにも慎重すぎて時に余を苛立たせる。軍議はもう十分であろう。国ざかいに前線基地を設け、ゴドー将軍を総司令官としてただちに進軍を開始せよ。都に潜入しているルイダ隊が動くのはそれからでよい。」
「御意。その旨全軍に指令いたします。」
 
 使者を帰したあとヒロたちは、すぐに御前会議を開いた。国王ゲオルグU世とヒロ、それにルージュとロゼ、あとは大臣および都在住の将軍たちが集められた。ルージュは元帥として臣下たちの上座に着き、誰に任ぜられるでもなく自然と総参謀長の役目となったロゼが、地図を広げ一同に説明をした。
「一番の問題はエフゲイアがどちらのコースを使うかです。こちらが我が国。ここがエフゲイア。その間にまるで緩衝のように位置する小国は、西にロワナ、東にマイストブルク。敵が我が国に攻め込むためには、10中8・9、このどちらかを経由してくるものと思われます。両国とも小たりとはいえ立派な独立国家ですが、ロワナ国もマイストブルク国もかつてはエフゲイアの一地方であり、我が国の支援によって独立を果たした国です。ですからひとたび戦さとなれば、エフゲイアは両国を我が国の一部と見なし、宣戦布告した以上は容赦なく、攻撃し略奪するものと思われます。」
「それを放っておく訳にはいきますまいな。」
 腕を組み言ったのはジャズール将軍だった。隣でアゴット将軍も同意し、
「両国とエフゲイアの国境線に、全兵士を配備するのは到底不可能。どちらかに絞らねばなりますまい。ロワナかそれともマイストブルクか。」
「私はロワナの街道を使うと思います。」
 外務大臣は言った。
「いくら今年は雪が少ないとはいえ、ロワナ街道はそのほとんどが平原。対してマイストブルクを通る場合は、途中に峠を幾つか越えなくてはなりません。兵士と荷駄にとってこれは重荷でありましょう。」
「確かにな。」
 何人かがうんうんとうなずいた。
「しかし、敵とて馬鹿ではありますまい。普通なら絶対に通らないような道を使い、こちらの裏をかくということも十分考えられると思いますが。」
「成程それもそうだな。」
「だが仮に国境を越えられたとしても、奴らの狙いは最後はこの都であるはず。都への距離を考えれば、ロワナ街道を直進するのが最も近ぅございますぞ。」
「まさか急ぎの使者でもあるまいに、近いからという理由で敵軍がそのコースを通るものかね。」
「それに、攻撃しやすければその分こちらも防御しやすい。それくらいは奴らも承知だろう。」
 議論は文字通り百出し、結論はたやすくはまとまらなかった。その時国王が言った。
「そなたの意見はどうか、元帥。」
 全員がルージュを見た。腕を組み目をとじていたルージュは、背もたれから体を起こした。
「…マイストブルク。」
 きっぱりと彼は言った。ロゼの瞳がきらりと光った。
「理由は?」
 重ねて国王は尋ねた。ルージュは立ち上がった。
「ついこの前の、暴動を装った例の事件。あれはバーム地方で起きました。奴らは武器を欲しがっています。今回も多分、最初に狙ってくるのはここでしょう。」
 ルージュの指が指し示した地名を、皆は目でなぞった。エフゲイアがマイストブルクを縦断したとすれば、国境を越えた彼らの前にあらわれるのは
「マンフレッド鉱山か…!」
 国王は低くつぶやいた。
 その地名を耳にして、ヒロは怯えたように目を上げた。ルージュは続けた。
「この町を敵に渡す訳にはいきません。南の穀倉地帯が我が国の食料庫なら、マンフレッドは武器庫です。ここに攻め込まれる前に、マイストブルクの国境でエフゲイア軍を退けます。…必ず。」
 視線を合わせなくてもヒロには判った。ルージュが語りかけている相手はヒロであった。お前の故郷は俺が守ってやる。彼の横顔はそう言っていた。
「陛下。」
 ルージュは姿勢を正し、
「同盟条約に基づいて、両国に警備隊を送ります。同時にエフゲイアとマイストブルクの国境には北方警備隊の全軍と、第1第2騎甲師団を派遣致します。」
「判った。この戦さの最高指揮権は、元帥アレスフォルボア侯爵に与える。皆、心して命(めい)に従うように。」
「ありがたき幸せにございます、陛下。」
 ルージュは敬礼した。国王は再び尋ねた。
「出立は準備が整い次第になろうが、隊の指揮は誰がとる。第1騎甲師団の隊長は―――」
「いえ、指揮はこの私が。」
 即答したルージュに、皆は耳を疑った。
「それは駄目だよルージュ、いや、元帥。」
 すぐにロゼは反対した。
「気持ちは判るけど、それには賛成できない。マイストブルク国境でのこの戦いは、いってみれば前哨戦だ。たとえ我が国が圧勝したとしても、エフゲイアがそれで諦めるはずはないだろう。元帥の出る戦場じゃない。君には後方でこれからの展開を、じっくり考えてもらわないと。」
 譲らない口調のロゼにルージュが何か言うより早く、
「余の意見も伯爵と同じだ。」
 国王は言った。これは命令に等しかった。ルージュは口を引き結んだ。国王の言葉を受けてロゼは続けた。
「両国へは今日中に、僕から親書を送っておく。そして両国にも、出せる兵は出して貰う。我が国から送り出す軍隊…北方警備隊と、第1第2騎甲師団か。これを仮に第一次派遣軍と呼ぶとして、この派遣軍の総司令官をまずは早急に決めてくれるかな。そうしたらあとの国交は全部こちらに任してくれていいよ。ルージュには軍務に専念してほしい。それでいいね。」
 わずかに不満そうではあったが、ルージュはうなずいた。ロゼは国王に、
「では陛下、このあとは各執務官ごとに調整を行い、随時ご報告申し上げます。」
「うむ。よろしく頼むぞジュペール伯爵。」
 国王は言い、立ち上がった。皆も一斉に直立した。
「最後にこれだけは告げておきたい。」
 全員を見回して国王は言った。
「我が国の命運は、ここにいるそなたたちの肩にかかっておる。当然、王家と余の命もだ。試練とは常に、神が人に与えたもうもの。この試練を乗り越えて初めて、国家の繁栄が許されるのであろう。いま何より大切なのは、皆の心を1つにすることと考える。共に栄え来し、我らが佳き国のために。」
 国王は席を離れ、御前会議は閉会した。皆の動きは慌ただしくなった。ルージュは将軍たちを連れて軍議のため別室に移っていき、ロゼも、
「外務大臣! すぐに僕の執務室へ。事務次官、君は同盟証書を揃えて国書作成の準備を。ああそれから大蔵大臣に国庫の鍵をあけるように言って。予算審議委員会を通している時間はない。僕の権限を発動していいから。」
 きびきびと指示を下す彼を、ヒロは椅子に座ったままじっと見守っていた。
 エフゲイアという名の巨大な竜巻が、この国を目がけてやってくる。嵐は全てを破壊し飲みつくしてしまうかも知れない。そうさせないために皆、命懸けで戦おうとしているのだ。
 こういう時に国王や王太子が浮足立ってはいけない。戦いに赴く者たちにとって、力強い拠り所でなくてはならない。もちろんそのことはヒロにも判っていたが、生身の彼は文字通り、いてもたってもいられない気分であった。国王のそばに付いていようと思っても、部屋には大勢の家臣が詰めかけていて近寄れず、心を落ち着けるべく礼拝堂に行ってみたものの、5分と祈っていられなかった。
 
 執務室の大型の机に資料を積み上げ、ロゼはペンを走らせていた。夜までに作らなくてはならない文書が幾つもあって、額に乱れかかる髪もそのままに、彼は手を動かし続けた。
 その時、書斎に通じるドアが開き、またすぐに閉まる音がした。誰かがやって来たのは判ったが、ロゼは構わずにいた。自分への用向きならば事務官が取り次ぐはずだった。なのに彼らは何も言わず、部屋に入ってきたその何者かは、まっすぐに机の前に来た。
「ロゼぇ。何か手伝うことない?」
「ヒ…、いや王太子殿下。」
 ロゼはさすがにペンを止めたが、ヒロは口をとがらせて、
「もぉ、お前まで殿下とか言うなよぉ。ヒロでいいってヒロでぇ。なー。おいらも何か手伝いたい。やらして。」
「何か…って言われても…。」
 ロゼは事務官たちを見た。彼らは立ち上がり最敬礼していた。おそらくヒロは部屋に入るや、人差し指を立てて『しーっ』とやったに違いない。困った様子の彼らにロゼは、
「いいよ、みんな作業を続けて。急ぐ書類ばかりだろう。ゆっくりやってる時間はないよ。」
「は、申し訳ございません。」
 事務官たちは仕事に戻った。
「なーなー何やればいい? おいら計算は苦手だけど字くらい書けんぜ。あ、こっちのこれ、清書してやろうか。な。」
 積み上げた草稿に手を伸ばしたヒロに、
「おいよせ馬鹿! 王太子直筆の親書なんて貰った方が困る! 君が書くのは最後の最後、エフゲイアの降伏宣言を受諾する時だよ。」
「そんなん黙ってりゃ判りゃしねってぇ! おいらの字メチャクチャ汚ねぇしさ。誰も王太子の字だなんて思わねっつの。」
「自慢するなよそんなこと。いいから触るな。頼むから邪魔しないで。ね。」
「んだよぉみんなして冷てぇなぁ。王太子だからってサベツすんなよ。」
「差別って…。」
 ロゼは苦笑したが、
「さっきルージュんとこ行ったらよ、邪魔だからロゼんとこ行ってろって言われて、ほいでこうやってお前んとこ来たら、やっぱ邪魔者扱いだよ。ちぇ。こんなことなら王太子になんか、ぜってーならねって言ってればよかった。」
「…。」
 ロゼは無言でヒロの顔をしげしげと見た。親しいつもりでいても時々、ヒロがどんな人間なのかロゼには判らなくなるのだ。ロゼやルージュの姿を見るなり駆け寄ってきた姿は幼子のようで、宣戦布告の使者を殺すのは無意味だと言った、先程の姿は大天使を思わせた。なのに今度は邪魔者扱いされたと、非常時も省みずに怒っている。参ったなとロゼは笑い、
「ああそうだ、じゃあこれを頼もうかな。」
 引き出しをあけて印璽(いんじ)を取り出した。
「え? 何なに何すんの?」
 ヒロは目を輝かせた。ロゼは彼の前に印璽を3つ並べて、
「いい? これが外務大臣の判。こっちが俺の、ジュペール伯爵の判。で、この大きいのが国王の花押。これをね、今から俺が仕上げる書類に押すんだけど、大事な書類だから、少しでも印がかすれると困るんだ。」
「うんうんうんうん。」
「だからこれをこの棒の先で、傷つけないように丁寧に掃除してくれるかな。ほら見て。こういうところが汚れてるだろ。それをこうやって軽くこすって、綺麗にしてほしいんだけど。」
「おっけ。任してくれよそういうのは!」
 手近な椅子をヒロは引き寄せ、ロゼのいる横長の机の短い方の一辺に向かって、せっせと判子(はんこ)掃除を始めた。子供と同じだなとロゼは思い、自分の仕事に戻った。
 カリカリとペンを動かすロゼの傍らで、ヒロは3つの印璽を新品同様に磨き上げると、事務官の机から朱肉と白紙を奪いとってきて、ぺたぺた押し始めた。
「おい、無闇に押すなよ。その印があったらどんな内容でも国書なんだから…。」
 ロゼが注意すると、
「だいじょぶだいじょぶ。ちょっとテスト。…ん〜まだここが少しかすれるかな。」
「どれ。ああそれくらいなら平気だよ。貸して。ちょうど1通仕上がったから。」
 ヒロが手渡した伯爵印を、ロゼは書状の最後に押した。さらに吸い取り紙を当てていると、
「な。それってマイストブルク行きの手紙?」
 手元を見てヒロは聞いた。
「ああ。王家に宛てた手紙。」
「ふーん。…アレスフォルボア、って字がちらっと見えたけど…。」
「うん。今回ルージュが行けないからね。彼の立場を向こうにも、ちゃんと判ってもらわないと。」
「立場?」
「そうだよ。君も知ってるよね。マイストブルク王家にとって、ルージュは将来の婿なんだから。」
 あ…と短く言って、ヒロは黙ってしまった。ルージュの婚約者コンスタンシアがマイストブルクの第3王女であることを、今思い出した顔であった。文章を読み返しながらロゼは言った。
「今までのように若君ならね、ルージュは行かざるを得ないけど…でも彼は今、元帥なんだ。侯爵家嫡男の立場より、軍の総責任者としての役目を優先してもらわなきゃならない。それを説明する手紙だったから、けっこう気を使ったよ。」
「そっか…。あいつも今までとは立場が違うんだ…。」
「そう。君と同じ。今までと同じような訳にはいかない。」
 ロゼは視線で事務官を呼んだ。やって来た青年に文書を差し出し、
「夕方の早馬で、これをマイストブルクへ。大使への書簡は出来てるね。」
「はい、仕上がっております。」
「うん。」
 うなずいたロゼのもとへ別の事務官が、
「恐れ入ります伯爵。こちらの指令書についてご査閲頂きたいのですが…。」
「ああいいよ。どれ。」
 また別の担当が、
「伯爵、ロワナ国の国防大臣宛ての依頼は、荷駄兵も含んだ方がよろしいでしょうか。」
 次々と指示を仰ぎに来た。その間にヒロは、いつしか姿を消していた。椅子まできちんと片づけてあって、机の上には3つの印璽が行儀よく並べられていた。
 
 軍議の末、第1次派遣軍の総司令官は北方警備隊長ガルーデルと決まった。準備のために中1日をおいて、第1第2騎甲師団は明後日の朝都を出立し、エフゲイアとマイストブルクの国境で全軍が終結することになった。急使はあちこちへ遣わされ、四方へ伸びる街道には何頭もの早馬が、昼夜の区別なく蹄の跡を刻んだ。
 派遣軍、とひとくちに言っても、送るのは兵と武器だけではなかった。食料、野営のための寝具などの装備、それに薬と治療用品を携えた医師団が同行する。今回医師団の団長には、侯爵家侍従サミュエルが任命された。都に残るルージュには支度などはいらないから、明日の出立に備えてサヨリーヌは父の旅支度を手伝った。
「戦地ではくれぐれもお気をつけ下さいませね、父上。」
 幾度となく彼女はその言葉を繰り返した。医師や看護兵は敵に殺されることこそ少ないが、貴重な専門家として捕虜にされ、連れ去られる可能性はむしろ兵士よりも高かった。とは言え傷ついた人間の命を救えるのも医者だけであり、父の任務の重要性はサヨリーヌにもよく判っていた。
「大丈夫だ、心配するな。」
 父もまたその台詞を繰り返した。
「同行するのは亡き閣下がおん手ずから鍛えられた第1第2騎甲師団。それに現地には猛者(もさ)揃いの大軍、北方警備隊が待機している。医者の出番などないかも知れないが、傷ついた者なら敵味方の区別なく、手当てしてやらなくてはいかん。若君…いや現閣下もそのことはお許し下さるはずだ。」
「第一次派遣軍が強大であることはうかがっておりますが、医者の不養生という言葉もございます。どうか父上、くれぐれも…」
「ああ判った判った。母さんにもさんざ言われたよ。医者の立場を忘れて矢面に飛び出すような無茶はするなとな。」
 サミュエルは苦笑した。
「だが…。」
 サミュエルはふと真剣な顔になり、
「この第一次派遣軍の勝利は、おそらく間違いないだろう。初戦からまさかエフゲイアも、全戦力をあげては来るまいからな。だが問題はその後だ。第2陣・第3陣に次々と攻撃された場合、小国マイストブルクとロワナは、そう長くは持ちこたえられまい。決着はすぐには着かん。長い戦さになるだろう。いずれ元帥閣下がご出陣になる時、戦況がどう傾いているか…。私には自分のことよりも、その時の閣下のお身が心配だ。」
 ルージュの出陣。それを思うと、サヨリーヌは血の気が引く思いがした。敵は大国エフゲイア。彼らにすればルージュは敵軍の総大将で、元帥アレスフォルボア侯爵の首を落とすことが、彼らの勝利であるはずだ。勝ち負けに絶対はなく、最後は時の運が決めることである。今すぐではないにしても、いずれはルージュも戦場へ行く。その時戦況は不利か有利か。彼の身は誰が守るのか…。サヨリーヌの顔が青ざめているのに気づき、サミュエルは娘の肩を叩いた。
「大丈夫だ。閣下が負けることなど万に1つもありえない。勝利の女神はあの方に恋しておられるのだからな。栄誉は常にあの方の頭上にある。我々はそれを信じておればよい。つまらぬ不安を胸に育てて、閣下に暗い顔を見せるなよサヨリーヌ。」
「判りました父上。大事なお仕事前に、ご心配をおかけして申し訳ございません。」
 サヨリーヌは言い、黙って荷造りに戻った。そんな娘の姿を、サミュエルは複雑な思いで見守った。親としての本音を言えば、彼はサヨリーヌに侯爵邸を下がって欲しかった。そして誰か信頼できる男のもとに嫁ぎ、戦さなどとは遠い場所で平凡に幸せに暮らしてほしかった。だが彼女がそれを望まぬこともサミュエルには判っていた。父と娘は別な思いを胸に、無言で同じ作業を続けた。
 
 ラルクハーレン男爵邸の敷地内にある小工場では、ヴェエルの設計した新型荷車の生産が大車輪で進められていた。従来の荷車を、より軽くより大量の荷物を運べるようにヴェエルが改良したものに、父男爵が若干の手直しを加えて完成させた製品だった。幾つかの試験を終え、さぁ大量生産するぞという矢先の開戦だったから、工場の設備はまだ十分に整ってはおらず、ゆえにほとんどを手作業で、しかも人海戦術で造らねばならなかった。ヴェエルは両肌(もろはだ)脱ぎになり、大声で工員たちを指揮した。
「あ、そこんとこでね、そのボルトをしっかり留めて! それが命綱なんだからちゃんとやってくれよぉん。途中で荷車がバラけちゃったんじゃ、俺、責任取んなきゃなんないからさぁ。…あっと、そこはもちょっとカンナかけて。削りすぎないように注意ね注意。」
 工員の男たちはみな筋骨隆々で、冬になっても浅黒い肌に吹き出す汗を、パチパチと燃え上がる炎に光らせて懸命に荷車を造り続けていた。
「おぉい、ぼん! ちょっとここんとこを見てくれっか!」
「なになにどしたのぉ?」
 呼ばれれば気さくに飛んでいき、はるか年上の工員たちと笑いあい励ましあうヴェエルの姿に、男爵は物陰で思わず目頭を押さえた。
「ねー親父! 親父よぉ! 何サボッてんのそんなとこで! ヒマなんだったらほら! 下おりて来て手伝ってよ!」
「お、おおすまんすまん。待っててねぇ、今お父さんがかぁ君のところへ行くからねぇ。」
 大きな体を弾ませて男爵は階段を下りてきた。
「ねぇ、もういい加減よしてよ、その“かぁ君”ていうの。俺カラスじゃないんだから…。」
「いいじゃないの愛称なんだから。ほらっ、かぁ君はあっちをチェック! お父さんがこっからこっちを見てあげるからね!」
「もぉ、全然聞いてないよ…。」
 ぼやくヴェエルに工員が、
「旦那は嬉しいんだよ、ぼん。ぼんが立派に仕事してるんで、嬉しくてたまらないんだ。言わせておいてやんな。それも親孝行だよ。」
「そっか。」
 ヴェエルは父の背中を見て笑い、自分もカンナをかけ始めた。
 
 ヒロは繻子(しゅす)のソファーに仰向けに寝そべり、衿から引き出したカイの十字架を眺めてもの思いにふけっていた。彼女の面影の向こうに街の様子を思い出し、市長や定食屋のおかみさんや、色々な人の笑顔を思い浮かべたあと、彼は御前会議でのルージュの言葉に立ち返った。
『この町を敵に渡す訳にはいきません。南の穀倉地帯が我が国の食料庫なら、マンフレッドは武器庫です。ここに攻め込まれる前に、マイストブルクの国境でエフゲイア軍を退けます。…必ず。』
 溜息をついて、ヒロはごろんと横向きになった。ルージュの言葉を聞いた時は嬉しかった。故郷が戦さで荒らされるのは嫌だった。何としてもとどめたかった。しかし、自分の代わりにルージュがそれをしてくれるならと願う心の反対側に、マンフレッドを守らなければという気持ちがルージュの戦略判断を狂わせ、戦さに影響が出てはいけないという、矛盾する考えがヒロの中に生まれていた。決して合い入れぬ2つの思いに、ヒロは深く悩んだ。
 トントン、とノックの音がした。はい、と応えヒロは起き上がった。
「失礼致します。」
 入ってきたのはバジーラだった。ヒロは十字架をブラウスの中に落とした。バジーラは腰を屈め、
「本日はご気分はいかがですか。お具合の悪いところなどはございませんか?」
「ねぇよ。」
 もぞもぞとヒロは座り直し、
「お前さぁ、心配してくれんのは判んだけど、そう毎晩毎晩、具合はどうだ具合はどうだって聞きにくんなよ。まぁ役目なんだろうけど、そこまでされっと何かおいら、具合悪くなんなきゃわりぃかなって気がしてくんだよね。元気じゃ申し訳ないつぅか。」
「いえいえ何を仰せられます!」
 慌ててバジーラは首を振った。
「もっとさぁ、面倒見てやんなきゃいけない奴って他にいると思うんだよね。」
 ヒロは独白めいた小声になった。バジーラに言うというよりは、自らに語りかけるような口調であった。
「戦さになれば、大勢の人間が死ぬ。でもそれ以上に、怪我したり手足なくしたり、働けなくなる奴がいっぱいいんだろう。父ちゃんが死んで、母ちゃんと子供だけが残されたとかさ…。そういう奴のこと、もっとちゃんと面倒見てやんなきゃいけねぇよ。戦さの時だけ駆り出しといて、後は知りませんじゃさぁ…可哀相だろ、怪我した奴とか。」
 バジーラはヒロの顔を見た。傷ましそうに彼は続けた。
「何か決まりを作った方がいいな。税金払わなくていいとか、みんなで助けてやるとか。人によってたまたま温情で楽したりすんのも、よくねぇと思うんだ。平等にきちんと、対応できるようにした方がいい。こういうの、ロゼだったら出来んじゃねぇかな。」
 きゅっ、と唇を噛んで、
「この戦さが終わったら、あいつに相談してみるわ。傷ついた兵士と家族をどうするか。勝ち負けより本当は、そういうのが一番大事なことなんだよな…。」
「ヒロ様、そのようなことまでお考えに…。」
 バジーラは声を詰まらせた。エフゲイアとの戦いについては皆が知恵を絞っているが、戦さのあとのことまで気遣っているのは、多分ヒロだけだろうと彼女は思った。この御方は本物の君主だ。君主たりえる方なのだ。バジーラは感動にうち震えつつ、ヒロを見つめ続けた。
 
 同盟国マイストブルクと敵国エフゲイアの国境線へ向けて出陣する、第1・第2騎甲師団の閲兵式は、王宮前広場にて華やかに盛大に挙行された。兵の数は合わせて五千。これに、すでに現地に集結している北方警備隊の二千を加えた第一次派遣軍は総勢七千の大部隊であった。五千人の兵士は皆そろいのモスグリーンの軍服を着、将官たちはマントをつけ羽根飾りのついた帽子をかぶって、指揮下の中隊を背後に従え、ルージュの立つ閲兵台の前にずらりと整列した。
 黒羅紗に金刺繍を施した元帥服に緋色のサッシュ(懸章)、ずしりと重い大勲章を下げたルージュは、壇の上から大軍の威容を見渡しつつ、幼い日に仰ぎ見た亡き父の姿を思い出していた。
「全軍全兵士の命を今、共に栄え来し我らが佳き国の元帥、アレスフォルボア侯爵閣下にお預けする事、ここに宣言いたします! 一同、抜刀! 剣を捧げて、元帥閣下に敬礼!」
 第1騎甲師団の司令官の声に合わせ、五千の剣が光を返した。父と同じようにルージュは返礼した。
 あの日、父の姿を見てルージュは感動した。自分もいつかこのように誇らかに雄々しく、凛とした威厳に満ちて壇上に登りたいと思った。その「いつか」が今であった。五千の兵の命の重さを、ルージュは挙げた左腕に感じていた。父もおそらくは誇らかさよりも、悲愴なまでに重いこの責任を、全身で受けとめていたに違いなかった。
 元帥・アレスフォルボア侯爵。
 この時ルージュは真の意味で、その名を父から嗣いだのである。
 軍は整然と隊伍を組んで、広場から街道へと出ていった。沿道には民たちが人垣をなし、拍手と歓声で兵たちを見送った。国中の街道筋には早馬の駅が設けられ、そこにはよく組織された警備兵と伝令兵が数人ずつ配置された。またエフゲイアには密かに忍びの一団が放たれ、その統括には侯爵家直轄連隊の隊長・スガーリがあたった。これら周到な配備は全て、総参謀長ジュペール伯爵、ロゼの指示したものであった。
 不眠不休の毎日に眼窩を落ち窪ませながら、ロゼは時おり羽根ペンの手を止めては見えない敵に語りかけた。
(動け、隠れているネズミたち。前王太子殿下を亡き者にし公爵夫人を殺(あや)めたスパイたち。怖いのはエフゲイアからの大軍じゃない、これほど探しても姿を見せないお前たちなんだ…。動け。挑発に乗って籠り穴から出てこい。お前たちをまず潰さなければ、この戦さは我が国に不利なんだ。)
 だがロゼには判っていた。敵もまたこちらの狙いは見抜いていよう。そう簡単に尻尾を掴ませはしないはずだ。ルージュに勝るとも劣らぬ苦悩と責務が、ロゼの背骨をきしきしと軋ませていた。
 同じ頃、川べりの塔の石の部屋の中で、本国からの書状を受けとったルイダ将軍(今井雅之さん)は、読み進むうちに血相を変え、
「ばかな…!」
 そうつぶやいて書状をグシャリと握りしめた。
「今のタイミングで不用意にマイストブルクに攻めこんだら、この国の軍隊と正面衝突になる。簡単に崩せる敵ではないと繰り返し報告したのに、ゴドー将軍は何を聞いていたんだ…!」
 ドン、と机を殴った彼の拳は、怒りにわなわなと震えていた。
「大公には確かに気短かなところもおありになるが、決してご短慮なさる方ではない。回りの者が誠意あるご進言さえつかまつれば、誰よりも正しいご判断を下される方だというのに、おべっかつかいの大臣どもがまた性懲りもなく、自己の保身のためだけに動いたか…!」
 ルイダは歯噛みし、ひざまづいている使者を勢いよく振り返って、
「すぐに国へ戻れ! 戻ってゴドーに伝えろ! 強行突破は不可能だ。攻めるとみせてここは1度引け。揺さぶりをかけて敵兵を分散させるんだ。この国の騎馬兵を甘く見るな。力は我々と五分五分だと!」
 激しい口調で言い切った彼に、
「おそれながら将軍、それはもう間に合いませぬ!」
 使者もまた必死の形相で言った。ルイダは悲愴な顔で彼を見下ろした。
「いま動けば我々はあぶり出されます。我らがこの国に潜んでいることを、敵はとうに悟っておりましょう。いたるところに警備兵が配置され、密偵どもも四方に放たれております。この状況の中で母国へ戻るには、影にひそみ闇を伝わねばなりません。街道を馬で駆け抜けるのはもはや不可能。我々は時を待つしかございません!」
「たわけたことを! 一部の寧臣(ねいしん)の誤った指示によって、幾多の兵士がむざむざ命を落とすのをここで黙って見過ごせと言うのか!」
「お静まりを、将軍。」
 使者の後ろに控えていた将官が、1歩進み出て声を放った。ルイダはぎろりと彼を見た。
「思いは我らとて同じでございます。しかしながら我々の使命はこの国の奥深くに潜み、いずれ来たるべき時に内部から敵を切り崩すことにございます。そのため将軍以下我々は、3年(みとせ)の長きに渡りこの地に身を潜めて参りました。あと少しでその任を果たせるという大事な時に、お心に流されての軽はずみな行いは、どうかお慎み下さいますよう。」
 バシッ、とルイダは書状を壁に叩きつけた。彼のこめかみはひきつり息は荒かったが、怒りは峠をこえていた。その意見がもっともであると、ルイダ自身判っていたからであった。
「我々のことはとうに悟られている、か…。やはりあのルワーノという男、味方にするには小者すぎたか。」
 吐き捨てるように言ったルイダに、
「然様。」
 今意見した将官、副将軍のブルゼは言った。
「庶子とはいえあの男はれっきとした侯爵家の人間。貴重な情報提供者ではございましたが、しょせんは愚かな売国奴。遅かれ早かれ始末する必要はございました。なれどあの男の急死と前侯爵の死が1日違いというのは、これはまた解せぬ事。おそらくルワーノは罪を知られ、実父に裁かれたというのが真実でございましょう。」
「そしてそのあとを嗣いだのが、あの若僧…レオンハルト・メルベイエだ。」
 ルイダは口元を歪めた。
「女みたいに整った顔をして、あの若僧の剣才はただごとではない。技量と度胸に加えて、何か勝負強さのようなものがある。それに、怖れるべきはあの若僧に対する兵士たちの心酔だ。この上官のためならと兵が命をかけたとき、軍隊はその実力の何倍もの力を発揮する。一種の自己暗示に支えられた軍は、決して負けはしないのだ。だからあの若僧を…レオンハルトを捕らえてしまえば、この国の軍は一気に力を失うだろう。1万の敵兵を殺す必要はない。狙うべきは元帥アレスフォルボアだ。」
「同感でございます、将軍。」
 ブルゼはうなずいた。
「そしてもう1人、ジュペール伯爵リヒャルト・ルイーズ。」
 さらにルイダは続けた。その声はいつしか不気味なほど、静かで淡々としたものに変わっていた。こういう時のルイダの人物評には天才的な鋭さがある。部下たちは真剣に耳を傾けた。
「この男も侮れない。歳こそ元帥より若いが、12歳の時から爵位にいる男、知略にかけては歴戦の将と変わりあるまい。…だが。」
 ルイダは一瞬言葉を切った。
「何としても得体の知れぬ、不気味な男がもう1人いる。元公爵家の嫡男、王太子リーベンスヴェルトだ。この男に関して我々は、ほとんど何の情報も持っていない。さらわれて長いこと行方知れずだったために、あのルワーノもよくは知り得なかったからな。果たしてどれほどの器なのか…。」
 溜息をついてルイダは腕を組み、呻くように言った。
「俺に判るのはただ1つ。雑草の暮らしを知っている王者ほど、怖いものはないということだ。そういう人間は山の頂上からでも雲の上からでも、麓の隅々まで見渡せる力を持っている。権力の甘い汁を当然の如くに吸って生きてきた者どもとは、その魂が違うのだ。例えば―――」
 ぎゅっ、とルイダは剣の柄を握った。
「我が国にたむろする蛆虫のような、出世欲にまみれた寧臣とはな。」
「お言葉の通りにございます。」
 ブルゼは頭を下げた。
「雑草になれる王太子、兵の心を一身に集めた剣の名手の元帥、それに若くして知略にたけた頭脳明晰な軍師と、3拍子そろった敵国を相手に我らは戦わねばなりません。売国奴を通して得た機密に加え、さらなる情報収集に全力を尽くしたいと考えます。特にその得体知れぬ王太子について。」
「頼んだぞ副将。」
 うなずきながらルイダは命じ、北の地で無理な戦いを強いられるであろう同胞の武運を、無言で神に祈った。
 
 第1第2騎甲師団の到着に先立って、北方警備隊の全軍はマイストブルクに集結した。警備隊長…いや第一次派遣軍の総司令官ガルーデルは、国境線近い丘の麓に陣を張ったあと、マイストブルク王家の宮殿に祗候し国王・王妃に謁見を願い出た。
 希望はすぐに通された。国王夫妻はガルーデルに、軍の派遣を心から感謝していると告げ、自国の防衛軍の指揮権一切を彼に委ねると宣言した。
「光栄至極に存じます、陛下。」
 ひざまづき礼をしたガルーデルに、温和な表情で国王は言った。
「御国の元帥アレスフォルボア侯爵殿にはご健勝のご様子、何よりもお慶び申し上げる。我が国と我が王女のことを誠実におもんばかって下さるお心には深く感銘いたした次第。どうかご憂慮なさらぬようにと、総司令官殿からもお伝えあるよう。」
「は、かしこまってございます。」
 ガルーデルは王宮を辞し、本陣にてマイストブルク国の国防大臣と、兵の配置について具体的な話し合いを行った。マイストブルクは小国ゆえ軍隊も小規模であったが、国土のほとんどが山岳地帯であるため兵士は特殊な訓練をされており、普通なら考えられないような険しい岩場や崖からも、敵に攻撃をしかける能力を持っていた。これは心強いとガルーデルは思い、エフゲイアとマイストブルクの国境に当たる峠道を、戦さの場とする作戦を立て始めた。
 都から第1第2騎甲師団が到着したのは6日後の朝であった。本陣とその周辺にひしめく七千の大軍にマイストブルクの民たちは感激し、すすんで食料や休憩場所を提供してくれた。自国の兵士たちとは違う敬礼をする彼らに町の子供たちはいちはやく気づいたらしく、棒切れを持っての戦さごっこに早速それを取り入れた。
 
 2日後、マイストブルクの物見兵が本陣に駆け戻ってきた。国境近くの川向こうに、いよいよエフゲイア軍があらわれたのだ。その数はおよそ五千、後続の有無は不明であった。待ちかねた顔でガルーデルは全軍に命令を下した。
「よし、先制攻撃をかける。かねてよりの作戦通り、第2騎甲師団は本陣にて待機! 町と住民の警護にあたれ! マイストブルク国防軍及び北方警備隊、それに第1騎甲師団は戦闘隊形で出陣する!」
 
 冬枯れで水の少なくなった浅い川を、エフゲイア軍は悠然と渡った。山あいを流れる急流が土砂を運んで作った河原は、目前にある国境の山から遮るものなく見渡せたが、彼らは何ら警戒なく、岸を経て峠道を登り始めた。
 怖るるに足らぬ軟弱な敵であるとの情報と、まさか都からこれほど離れた場所で攻撃はされまいという油断とが、兵の気を緩ませ進軍を隙だらけにしていた―――その側面に、ガルーデルはいきなり奇襲をかけた。雪と岩の崖上で仕掛けが崩れ、左の急斜面からは人の頭ほどもある瓦礫雪崩が、右の緩斜面からは数百の騎馬隊がエフゲイア軍に襲いかかった。二重の不意打ちをくらって彼らは浮足立った。隊伍を整えるも何も狭い峠道にはそのための場所すらなく、エフゲイア兵は剣や槍で切られるより崖下に転落する者の方が多かった。
 たまらずに退却した中隊は、河原に先回りし待ち構えていた第1騎甲師団の大軍に囲い込まれ、術もなく打ち負かされて総崩れになった。総司令官のゴドー将軍は肩の骨を折る大怪我をし、五千の兵はおよそ半日で千人足らずに減った。
 幾つかの小隊は山中に逃れ、時を見て精一杯の反撃をはかるも、この地の地形を習熟しているマイストブルク軍の機動力の前に、はかなくも破れ去った。
 初戦の決着は3日でついた。完膚なきまでに痛めつけられたエフゲイア軍はほうほうの体(てい)で自国に逃げ帰った。マイストブルクの都は戦勝の喜びにわきかえり、急ぎの使者は蹄も軽く都へ旅立っていった。
 
 悲惨なまでの完敗に、エフゲイア大公フェルナンドT世は激怒した。円卓に集まった重臣たちが顔も上げられぬほどに憤った彼は、瀕死の重傷のゴドー将軍を官位剥奪の上更迭すると告げ、さらに敵に対する誤った情報を与えた者の責任を、厳しく追及し始めた。
「この間からの軍議は何だったのだ。恐るるに足らぬかの国へ一気に攻め入り、道々で捕虜を絡めとって反乱軍に仕立て、脆弱なる都を3日で陥としてみせると余に言うたであろう大臣!」
 今にも剣を抜きそうな大公に大臣は体を二つ折りにしたままで、
「面目次第もございません…!」
 その言葉を1つ覚えに繰り返し、さらには縷々と弁解を始めた。
「今回の敗因は全てゴドーの先走りによるものでございます。使者の言上を鵜呑みにし、功を焦って我が軍に多大なる損害を与えました。かの国は決して侮ってはならぬ敵であると、ルイダ将軍もたびたび報告してきておりましたものを。」
 追従の口調で大臣は言い、同席の重臣たちも一様に大きくうなずいた。更迭が決まり二度と宮中へは戻れないだろうゴドーを、いやもしかしたら怪我のせいで命を落とすかも知れない不幸な彼を、謂れなき責任ごと追放してしまおうという暗黙の合意が、会議室の空気に満ちていた。
「そもそもなぜあの生き恥者の使者は、あの大事な場で真実と違うことを申したのでしょうか。」
 座の1人が疑問を発した。別の1人が腕組みをした。
「それよ。儂もそれが気になっておった。宣戦布告の使者に立つのは一族を上げての名誉。交わした別れの盃を覆して生き戻ってきたあの者の言葉は、敵国の王宮とゲオルグ本人を目の当たりにした上での報告。多少の主観はいたしかたないとしても、事実とはむしろ正反対の報告を、しかもわざわざ恥を忍んで申すはずは…。」
 彼はしきりに首をひねったが、そこで大公は言った。
「あの者の素性は?」
 唐突な問いかけに誰も答えられずにいると、
「疾(と)く答えよ、あの者の素性は!」
「はっ!」
 慌てて立ち上がったのは、憲兵隊を統括する監察庁長官であった。彼は手元の冊子をめくり、
「あの者の名はリュベック。身分は憲兵隊の大尉で、腕も立ち優秀な男でございましたが。」
「間者ということはないのか。」
 大公の問いに長官は、
「め、めっそうもございません! そのような者が軍の内部に、しかも憲兵の中におるなどとそのようなことは…!」
「ないと申すか。」
「は、断じて!」
「ならばあの者は、かの国の毒に冒されたのやも知れぬな。」
 ぎょろり、と目を動かして大公は言った。
「毒…と仰せになりますと?」
 おずおずと長官は尋ねた。大公はいまいましそうに爪をはじきながら、
「手先になり下がったということよ。たちまちのうちに、かの国のな。王という名の悪魔・ゲオルグは、はてどんな魔術を用いたものやら。」
「魔術…でございますか…。」
 まさかという顔を重臣たちは見合わせたが、ここでやたらなことを言って、ようやくおさまりかけている大公の怒りの矛が自分に向いてはたまらない。長官は黙って腰を下ろし、そういえば部下の1人がおかしなことを言っていたなと思い出した。
 その部下はあの使者の同僚で、彼と親しくしていた者だった。使者の死を聞いたあと、彼は長官にこう言ったのだ。
「奴がここに帰ってきた時、私は自害しろと勧めました。王宮になど参ったら、大公の厳しいお叱りをかうこと必定だと。でも奴は覚悟を決めていたようです。何としてもこれだけはやってから死にたい、さもなくば死ねないと申しました。何のことだと聞き返しましたが、奴は笑ってごまかしてしまいました。それでもなお食い下がって聞き正しますと、ぽつりと妙なことを申したのでございます。俺は大天使に会ったのだ。その瞳は白夜明けの空と同じ色をしていたと…。」
 
 初戦圧勝の報は都じゅうに広まり、民は歓喜し重臣たちはほっと安堵の溜息をついた。王宮では華やかな祝賀会が催され、諸国の大使が次々と祝いを述べに参上した。
 立場上主役に近いルージュは祝賀会を欠席する訳にいかず、
「ッたく、のんきに飲んだり食ったりしてる場合かよ…。」
 ぶつぶつ文句を言いながら、礼服に着替え大広間へと向かっていった。
 楽の音は雪とともに風にのって、時おりロゼのいる執務室にまで届いた。部屋には彼の他に数人の事務官がいて、みな無言で机に向かいペンを走らせていた。
 ガルーデルからの報告書を読み終えると、ロゼは指先でこめかみを押さえた。寝不足のせいで偏頭痛がおさまらず、ここ何日かは食欲さえ失せていた。目を閉じて彼は考えた。今回の初戦は、勝って当然の戦さであった。遠く進軍してきたエフゲイアと、待ちかまえて奇襲をかけた自国軍とでは、こちらが有利なのは判りきった話である。今回こちらが勝ったことによってむしろエフゲイアに緊張感を与え、反動による勢いをつけさせてしまう恐れさえあった。ロゼは親指の爪を噛んだ。
(次だ。問題はこの次なんだ…。多分さほどの間はおかず、波状攻撃を仕掛けてくるだろう。第二波そして第三波。北方警備隊が果たして、どこまでもちこたえてくれるか…。)
 軍隊の全組織図を広げ、ロゼはペン尻を唇に押し当てた。
(週明け早々にでも、派遣軍の増強をするべきだろうな。ジャズール連隊を動かすか歩兵大隊を動かすか。いやその前にこの本陣を都から出した方がいいかも知れない。ここから国境までは早馬でも時間がかかりすぎる。今後はいっそう迅速な判断が必要になるだろうし。)
 祝賀会を終えてルージュが戻ってきたら、相談することが山ほどあった。それまでの時間、ロゼは自分に短い仮眠を許した。
 
 翌日、ルージュとロゼの同意はそのまま軍議にかけられ、マイストブルクへの第二次派遣軍の出立とともに、指令本部を都の北方の町、エルンストに移すことが決まった。エルンストには侯爵家の別邸がある。そこを本営として四方に情報網を整え、必ずや激しさを増すであろう今後の戦況に対処する―――それがルージュとロゼの考えであった。
 本営が都を離れるのは過去に例のないことで、重臣たちの中には不安ゆえの反対もあったのだが、王太子が真っ先に、
「それってロゼが考えたんだろ? でもってルージュも同意見なんだな? だったらこれ以上のことはないだろ。おいらはそう思うな。」
 そう言って無条件に賛成したため、その後の決議は早かった。
「都には王宮警備兵と近衛連隊を残すよ。王家の護衛と町の治安維持には十分だろう。」
 会議室を出、廊下を歩きながらロゼはルージュに言った。
「ああ。そんだけいりゃ足りんだろ。」
 ルージュも歩調をゆるめずに応えた。
「全軍を北に進めることは都を背中にしょうのと同じ。しかも最前線にも近づくし、お前らしい1石2鳥だな。」
「それだけじゃないよ。」
 ロゼは少し小声になり、
「本当の狙いはむしろネズミをあぶりだすことにあるんだ。本営が北へ移って大軍が姿を消せば、奴らは都の警備が手薄になったと思うだろう。必ず動きを見せるはずだ。そこをすかさず…」
 ロゼは左手で何かを捕らえるジェスチュアをして、
「尻尾を掴む。何としても穴から引きずり出す。だから侯爵家の直轄連隊は、本営に属さない遊撃隊でいてほしいんだ。そういうのは近衛じゃ役不足だからね。」
「判った。」
 ルージュはうなずき、ロゼを見た。
「総参謀長に預ける。好きに動かせ。」
「ありがとう。」
「別に礼言うことじゃねぇだろ。」
「いやほら一応、さ。」
「ンだよ一応かよ。」
「…なに、言うのと言わないのとどっちがいいの。」
「知らねーよ。」
 何日ぶりかで2人は笑い、大股に廊下を歩き続けた。侍従や女官はすれ違うたび脇に控えて、腰を屈め礼をした。社交界の若き花形だった2人は今や、完全に国家の柱石となっていた。
 
 週が明けると、まずはジャズール連隊とアゴット連隊が、おのおのの将軍とともにマイストブルクへ出立した。それとともに陸軍輸送隊の2個中隊が、本陣設営のため一足先にエルンストに発っていった。
 正規軍主要部隊のほとんどが集結するとなれば、兵舎厩舎を初めとしたそれなりの受け皿を、エルンストの地に整える必要があった。この責任者に任命されたのはルージュ直属の伍長であった。荒くれ兵を率いて戦場を駆けるよりも、彼はこういった実務処理能力が抜群の男で、適材適所を絵に描いたような彼のはたらきにより、エルンストの新本営はたちまちに完備された。
 5日後の夕刻、ルージュは侯爵家本邸の正門で、式典用の鞍をつけたシェーラザードにまたがった。轡はスガーリが取った。全軍が都をあとにするのは明朝の予定だったが、それに先立ってルージュは今夜のうちに王宮に入らなくてはならなかったのだ。
 ルージュの前にはこの城に勤める全ての侍従が集まっており、その中には当然サヨリーヌもいた。いつかの暴動鎮圧の際には城の留守を委ねられた彼女であったが、今回は正式の出陣であり、しかもあの時はまだ若君だったルージュは、今や侯爵家当主にして正一位元帥の地位にあったから、一侍女に出番はなかった。侍従たちを従える形で彼の前に立っているのは、前(さきの)侯爵夫人、ルージュの実母ビクトーリアであった。
「私が留守の間、この城の主(あるじ)をお願い申し上げます、母上。」
 どっしりと厚い緋色のマントを羽織った息子の言葉に、
「委細心得ました。武運長久をお祈りします。」
 母はしきたり通りに応え、合わせて侍従たちは平伏した。この粛然たる儀式の場で個人感情を見せることなど許されないが、戦地に赴く息子を母君は、どのようなお気持ちで見送られるのだろうかとサヨリーヌは思った。今はあのように表情も態度もきりりと張りつめておられるが、ひとりベッドに入ったあとは、世の母親の常として、彼の身を案じ涙されることもきっとあるに違いない…。
 ゆっくりと頭を上げながら、サヨリーヌはルージュを見た。馬上で彼は母の方に体を伸ばし、母もまた両腕を差し伸べた。黒いドレスの母の肩にルージュは手を置いて、左右の頬を交互に母の頬とふれあわせた。実の母に向ける細やかな彼の仕種に、サヨリーヌは思わず胸を突かれた。
 ルージュが兵士たちとともに都を離れると聞いた時、サヨリーヌは同行を願い出た。無理だ、と言下に否定されたが、彼女はなおも、
「今回は長い戦さになるだろうと父も申しておりました。だからこそ若君…いいえ、閣下のお身の回りのお世話を、しっかり務めさせて頂きとうございます。」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。前線じゃねぇだけでれっきとした戦場なんだぞ。」
「判っております。不自由は覚悟の上。一兵卒並みに扱って下さってよろしゅうございます。」
「いやそうはいかねぇだろ。」
「なぜでございますか。」
「お前な、兵舎にいんのは野郎ばっかで、しかもほとんどが若いんだ。そんなとこにお前がいたら、…マワされんぞ?」
 サヨリーヌは首をかしげ、
「回されるとは、水車か何かでございますか?」
「…。」
 呆れ顔に苦笑を混ぜて自分を見たルージュの瞳に、サヨリーヌはようやくその意味を理解した。同時にカッと頬が熱くなり、黙ってしまった彼女にルージュは言った。
「心配すんな。俺には看護兵が世話係に付くから。女の来る場所じゃねぇ。不安だったら実家に帰ってろ。」
 スガーリは轡を放した。手綱を引いてルージュは侍従たちを一渡り眺め、最後にサヨリーヌと視線を合わせると、くるりと馬首を翻した。
 一陣の風を残して彼が走り去ったあとに、サヨリーヌは薔薇の香りをかいだように思った。あの姿を次に見られるのはいったいいつになるのだろう。10日後か1月後か、それとも1年後なのか…。振り返れば母についてこの侯爵家に上がった日から、彼女はそんなに長くルージュと離れたことはなかった。初めて経験する彼の不在に、果たして自分は耐えられるだろうか。いつものようにこの城で、朝を昼を夜を繰り返し、彼の帰りを待てるだろうか。
 サヨリーヌは悟った。待つこともまた、1つの戦いであるのだと。
 

第1楽章主題2へ続く
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