『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第1楽章 主題2 】

 沿道を埋めつくした群集の拍手と歓声も、道が荒地にさしかかったあたりから、さすがにまばらになりやがて途切れた。ルージュはホッとした顔で、マントを押さえている金モールの留め金をゆるめた。
 出陣式が思いがけず長くなったのと、予想以上に多くの民が見送りに殺到したせいで進軍は遅れ、今日中に越える予定だった最初の峠に入る前に、太陽はもう地平に沈みかけていた。夜の峠越えはひどく危険である。ルージュは隊を止め、今夜の野営地はこの疎林にする旨を全軍に指令した。木々は風を防いでくれ、また暖をとるための薪も豊富に提供してくれる。そこここに火が焚かれ夕食の兵糧が配られ、兵士たちは干し肉やサワーキャベツを頬ばった。
 潤沢な食料はジョーヌの子爵家が揃え、輸送のためにはヴェエルの新型荷車が威力を発揮した。ルージュとロゼは肩を並べて、椅子代わりの丸太に座った。
「さっきのヒロ、寂しそうだったね。」
 炎に横顔を赤く染めてロゼは言った。ルージュは手にした薪の皮を、小さくむしっては火の中に投げ込んだ。ロゼは指先が冷えるのか両手を顔の前ですりあわせ、
「口では立派なこと言ってたけど、何だか今にも泣き出しそうだった…。」
 ぱきっ、とルージュは木を折って一方を火にくべた。蛍のように火の粉が舞った。
 
 夕べの軍議は晩から始まって夜明け近くまで続いた。疲れきったルージュが控の間の長椅子で目を閉じると、誰も来るなと言っておいたはずの部屋に、誰かの気配が動いた。薄闇に光る銀のサッシュは、彼もまた眠ることなくどこかの部屋で、国王とともに何かの公務を務めていた証拠であった。
「あ、わり。寝ようとしてた?」
 ハスキーな声が言った。
「…いや。」
 とりあえず否定はしたものの、ルージュの両足は長椅子の上に伸ばされ、マントがそれを包んでいた。
「ごめんな。でも1つだけ言っときたくて。明日になるとまた儀式儀式でさ、まともに話してらんねーべ? だから今夜のうちにと思って、お前のことあっちこっち探し回っちまったよ。」
 ひょこひょこと近づいてきて、ぽすんと足元に腰かけるその雰囲気は今までとどこも変わっておらず、王太子の称号も王宮での暮らしも、どうやら彼の本質を変えることはできないらしかった。
「ンだよ。愚痴くらいなら聞いてやんぞ。」
 ルージュも変わらぬ口調で言った。ヒロはうん…と間をおいてから、
「マンフレッドのことなんだけどさ。確かにあの町はおいらのふるさとだけど、だからってお前が必要以上に気にかけてたんじゃいけねぇと思って。おいらのせいでお前の判断をさ、狂わすようなことがもしあったら…。」
「ばーか、ンな訳―――」
 笑おうとしたルージュはしかし、ヒロの真剣な目を見て口をつぐんだ。
 ヒロは言葉と眼差しで言った。
「おいらのことなんか、二の次でいいかんな。もっと大事なことがお前にはあるんだから。無理すんな。無茶すんなよルージュ。お前やロゼに何かあったら、おいらどうしていいか判んねぇよ。勝ち負けなんかどうだっていい。戦さなんて、1日も早く終わらしてくれよな。そのためにおいらに何かできることがあんなら、たとえカンドーされても、いつだってエルンストに飛んでくから…。」
「判った。」
 ルージュは真面目に応えた。いつもなら言ったであろう冗談―――例えば、お前が来たって邪魔なだけだとか、王太子が国王に勘当されてどうすんだとかの言葉を、口にさせない切実さがヒロにはあった。ルージュの目をじっと見つめていた彼は、ルージュが真意をくんでくれたことを悟ったか、ようやく安心した笑顔になった。
 
 翌日はヒロも言っていたように早朝から式典続きで、ルージュもそれにロゼも、ヒロと直接話す機会はなかった。やがて出立の時間を迎え、王宮前広場に整列した正規軍は総勢3万人強。彼らに最後のはなむけの言葉を贈ったのは、国王ゲオルグU世ではなく王太子リーベンスヴェルトであった。
 王家の紋である飛竜の大旗が翻る壇上にヒロが登ると、ルージュは正面で剣を捧げ持った。全兵士がそれに習った。
「共に栄え来し、我らが佳き国の兵士諸君…。」
 銀のサッシュに純白のマント、胸には黄金の首飾りを光らせてヒロは決まり言葉を述べたあと、誇らかというよりは悲しげに、勇猛というよりは寂しげに、大軍を見回してこう言った。
「みんな、生きてこの都に帰ってきてほしい。ただの1人も欠けることなく、またこうやって、ここで会えればと思う。みんながここに残していく人たちのことは、どうか心配しないで下さい。みんなの家族は、全員の家族だから。だから責任を持って―――」
 ヒロはルージュの斜め後ろに立っているロゼを見た。ロゼは小さくうなずいた。うなずき返してヒロは視線を兵士たちに戻した。
「王家が、国家が、守りますから。だから心配しないで、みんな無事に帰ってきて下さい。元帥や、総参謀長と一緒に。」
 言い終わるとヒロは壇上で1歩後ろに下がった。ルージュは剣を一度横に寝かせ、ぐるりと水平に回してから空の高くに突き上げた。これが正式な出陣の令であった。3万の兵士は元帥に続いて剣を振り上げ、
「御代に栄えあれ! 王太子殿下万歳!」
 1つの声で唱和して、そして儀式は終わった。隊は進軍を開始し、ルージュはヒロに向けて最敬礼をおくるとシェーラザードを歩ませ始めた。―――
 
 ぱちん…と火の粉がはぜた。黙って火を見ているルージュとロゼの前に、当番兵が食事を持ってきた。基本的には兵士たちと同じものだが、干し肉には火が通されてソースがかけられていた。ロゼは粗末な木の盆を珍しそうに眺めたあと、
「あれ? フォークは?」
 懐紙を取り出しつつ聞いた。ルージュは苦笑し、
「戦さ場でそんなもん使うかよ。これはな、こうやって食うの。」
 まだ熱い肉を指でつまみ、仰向けた口に放り込んで見せた。ロゼは困った顔をしてじっと皿を見つめた。彼の衣装は絹となめし革で、狩りに行くんじゃねぇんだぞと笑ったルージュが次に聞いた台詞はこうだった。
「だってうちには絹しかないんだよ。これでも質素…いや実用的なのばかり選んできたんだけどね。何か問題ある?」
 指のソースを舐めとりながらルージュは言った。
「戦さ場にはな、戦さ場のマナーってもんがあんの。荷駄はできるだけ少なくする。いつ敵が来てもいいようにメシはなるべく早く食う。」
「うん、それは判るよ。」
「だったらガッと手づかみでいけ手づかみで。だいじょぶだって火傷するほど熱かねぇから。」
「…うん。」
 ロゼは意を決したかの如く、左手で肉をつまみあげた。薬指と親指という奇妙な組み合わせにルージュは笑った。
 何とか口に運んだ肉をもぐもぐ噛んでいるロゼに、
「お味はいかがですかね伯爵殿。お口にあえばいいんですが?」
「…。」
 ごくり、と嚥下したあと、
「なんか…新鮮だね。野趣があるっていうか。もう少し塩抜きしてあればもっとよかったと思うけど。いや気にしないで、個人的な好みだから。」
「誰が気にすっかそんなもん。」
 二切れめをルージュは口に入れ、固いパンを噛み切った。
 焚き火の番は2時間ごとの交代だった。兵士たちは火の回りに、薄い毛布だけを与えられてうずくまったが、司令官以上の者は革製のテントの中で眠ることができた。ルージュとロゼは同じテントの中に身を横たえ、ともにほどなく眠った。
 どれくらい時間がたったのか、ロゼはかすかなうめき声を耳にして目を覚ました。うなされているのはルージュであった。枕元にあったはずの灯火皿と火打ち石を、ロゼは手探りで引き寄せた。
 足元も危うい瓦礫の中、ルージュは必死で人影を探していた。炎はいまだあちこちでぶすぶすとくすぶり、薄くたなびく煙のせいで視界もきかなかった。
(どこにいるヒロ…! ロゼ、ジョーヌ、ヴェエル…!)
 都がこれほどの攻撃を受けたのになぜ自分は知らなかったのか、兵士たちはどこへ行ったのか。ルージュは歯がみしあたりを見回し、たちこめる靄に苛立った。
「ルージュ!」
 どこかで自分を呼ぶ声がした。聞いたことのある声だった。誰だと問い返そうとして、
「おい、ルージュ! ルージュ、どうしたの?」
 世界がいきなり切り替わった。両肩を揺さぶり悪夢から掬い上げてくれたのは、心配そうな顔のロゼだった。
「大丈夫?」
 ルージュが目を開けたので彼はホッとしたらしかった。
「やっぱり暗すぎるんだよ。今夜は風もないし明かりはつけておこう。ね。その方が安心だろう?」
 ロゼは言ったが、
「…明るいと寝れねぇんだよ。」
 不機嫌な声でルージュは言い、ごろりと背を向けた。毛布からのぞいている亜麻色の髪を、ロゼは少しの間見ていたが、つけたばかりの灯火にふっと息を吹きかけた。あたりはまた真の闇に閉ざされた。
 背を向けたもののルージュは寝つけなかった。体は疲れきっているはずなのに、妙に神経が立ってしまっていた。ロゼはすぐに寝入ったのか、あたりはしんとして物音1つしなかった。
 情けねぇ、とルージュは思った。この戦さが始まってから…いや正確にはバーム地方から戻って以来、自分はしょっちゅうこんな夢を見ている。荒野を1人でさまよう夢。沼地に足をとられて沈みかける夢。亡霊にまつわりつかれる夢。数千の刃を振りかざされる夢…。今夜のように誰かが揺すり起こしてくれない時は、いつも声にならない自分の悲鳴で目が覚める。そのあとは決まって眠れなくなり、ベッドの上で反転を繰り返しつつ、幾度長い夜を明かしたか判らない。
(俺はいつ戻れるんだろう。都に。城に。平和な日常に。この戦さに勝って国の安全を保証してやるのが元帥の仕事だ。だけど本当に勝てるのか。間違いなく勝てると誰が判るんだ。あの強大な北の敵国に…。)
 そう考えてルージュはふと、ヒロは今頃どうしているだろうと思った。俺たちのいなくなった王宮で、やはりこうして暗闇の中、ぽかりと目をあけているのだろうか。運命の足音に不安を募らせ、見えない明日に怯えながら。
 ごそり、と布が鳴った。続いて浅い溜息が聞こえた。寝入ったとばかり思っていたのに、ロゼも起きていたらしかった。どうしたんだよと声をかける寸前、彼が寝床から立ち上がる気配がした。テントにふわりと風が入ってきて、密やかな足音が遠ざかった。初めは小用だろうと思っていたが、ロゼは戻ってこなかった。子供ではあるまいし探しに行くほどのこともないだろう。独りになったテントの中で遠慮なく溜息をついているうち、いつしかルージュはうとうとした。
 明かりを消したあとロゼは、予想通り一向に眠れなかった。ただでさえ神経質な上、じかに地面に寝ているに等しい薄いシートと硬い枕では、熟睡しろというのが無理な話であった。彼はつきかけた溜息を止めた。ルージュの眠りを妨げるのを恐れたのだ。
(彼でも悪夢を見るのか…。)
 それはロゼも同じだった。うなされるまではいっていないらしい(もし彼がうなされていればヒナツェリアが気づいて飛んでくるはずだ)が、子供の頃から何か不安なことがあると、必ず見る嫌な夢がある。それがここしばらくというもの毎夜のように訪れて、目覚めるたびにロゼは、胸に残る重苦しさを耐えていたのであった。
 ロゼが見るのは必死で何かを探す夢だった。自分がなぜ、何を探しているのかさえ判らないのに、引き出しや棚やクロゼットに手を差し入れてもその「何か」を見つけることができない。容赦なく時間は迫り、ロゼの全身に汗が吹き出す。あれがなかったらおしまいなんだ。早く、早く、早く見つけないと…。
 愚かしい、とロゼは思った。いま考え得る最上の策に、今日できる最善の対応を施したなら、あとはただぐっすり眠るのが正しいというのに、しょせん小心者の自分はこんなにも浮き足立って、いたずらに不安を募らせありもしない危機を数え上げている。
(だけど…。)
 同じ姿勢に耐えきれなくなってロゼは寝返りをうった。今日の行程の遅れを明日でどこまで取り戻せるか、無性にそれが気になり始めた。地図は枕元に置いてあるが、明かりをつけたらルージュが目を覚ましてしまう。ロゼは思いきって体を起こし、毛布の上に掛けていた革の胴着とマントと、それに横になるまで見ていた地図を掴んで外へ出た。
 テントの群れから10メートルほど離れた闇には点々と焚き火が光っており、黒い塊となった兵士たちの寝姿もぼんやり見えた。
 焚き火の周りをぶらぶらしながら、あーあ、と伸びをした兵士は、そのとき闇の中を近づいてくる人影に気づいた。誰だろうと目を凝らし、正体を知るや否や彼は全身を硬直させた。
「そ、総参謀長ジュペール伯爵殿!」
 踵を鳴らして敬礼する兵士にロゼは言った。
「ああ、いいよ別に緊張しなくて。どうにも眠れなくて明かりを借りにきた。火の番くらいなら僕にもできるから、君はもう休んでいい。交代予定の兵士にもそう言っておいてくれ。」
 かたわらの薪を1本地面に置き、ロゼはふわりとマントの裾をはらいその上に腰かけた。兵士は直立不動のまま、
「いいえ、そのようなことは自分には許されません! 伯爵殿に火の番をおさせ申して睡眠を賜るなどと、あまりにも恐れ多うございます!」
「いやいいよ。元帥には明日僕から言っておく。何も2人して揃って起きていなくてもいいだろう。休める時には休むといい。」
「いやしかしその…。」
 兵士はおろおろしたが、ロゼは地図に目を落とし、
「戦さの勝敗を実際に決めるのは君たちだ。僕じゃない。君たちの方が大切なんだ。だから早く休め。明日はまた1日じゅう行軍だぞ。それともまさか、僕に火の番は危なくて任せられないとでもいうのかい。」
「いえとんでもございません!」
「なら問題はないな。決まった。これは僕の命令だ。早く休め。考えごとがあるんだ。1人にしてくれ。」
「はいっ! それでは失礼いたします!」
「ああ。」
 感激を隠して兵士は敬礼し、自分の寝場所にうずくまった。ロゼは地面に刺してあった長い木の棒で、火の中に折り重なっている薪を少しずらし風を入れた。それによって炎はぐっと安定した。ザクリと再び棒を刺して、彼は地図に集中した。
 その様子をシュワルツは、焚き火の反対側で薄目をあいて見ていた。彼の口元はほころんでいた。
(何だよ、若いくせにキザったらしい野郎だと思ってたら、気に入ったぜ伯爵さんよ。見どころあんじゃねぇかあんたも。)
 ルージュだけでなくロゼのことも、今後はせいぜい後押ししてやろうとシュワルツは思った。
 
 新本営に到着したルージュたちを出迎えたのは、陸軍輸送隊の2個中隊を従えた伍長であった。エルンストという小さな町をわずかな時間で軍の新拠点に作り変えた彼は、その細い体に疲れた様子も見せず、
「ご無事のご到着、何よりでございます閣下。」
 そう言って馬上のルージュを仰ぎ見た。ルージュはひらりとシェーラザードを下り、
「ご苦労だった。」
 儀礼的に応えたあと、辺りを見回し口調を変えた。
「すげぇな…。これがみんな兵舎かよ。」
「はい。」
 伍長はわずかに得意げに、
「ここの町長と自分はすっかり懇意になりまして。おかげでこの町の者はみな協力的で、老いも若きも男も女も惜しまず力を貸してくれました。」
 彼らのいるそこは町の中心の広場で、周りには造りこそ粗かったものの、兵が仮住まいするには十分な建物が大小軒を連ねていた。中にはまだ工事途中の建物もあって、そこではこの町の大工らしい男たちが、寒風に吹きさらされつつ脇目も振らずに造作(ぞうさく)を進めていた。
「そうか。協力してくれたのか。」
「はい。なかなか話の判る住民たちでございます。」
 ルージュはふと思い立った顔で、
「町長んちはどこだ。挨拶しといた方がいいだろ。」
「は…。いえ、ですが閣下は今お着きになられたばかりでお疲れでございましょう。ひとまずお部屋へいらしてから―――」
「んなもんあとでいいだろ。疲れちゃいねぇよ年寄り扱いすんな。いいからさっさと案内しろ。」
 ルージュは馬の背に戻った。伍長も急いで自分の馬に股がった。
「都はいかがでございますか。何か変わったことなどは。」
 道が細く人通りの多い街中を馬で駆ける訳にはいかない。ゆっくりと進みながらの馬上で、伍長はルージュに尋ねた。
「ああ。特には何もない。俺たちがこっちに来ちまったんで多少はがらんとしてっだろうけどな。」
「なるほど。それでは民たちも少しとまどっているかも知れませんね。」
「まぁな…。」
 シェーラザードの鬣(たてがみ)が揺れ、ルージュのマントも風に軽くなびいた。道行く人はその緋色の鮮やかさに一瞬驚いた顔をし、だが次には大抵の者が、
「よぉ伍長さん。今日も寒いねぇ。」
「あとでまた店に来いや。今夜もみんな集まるぜ。」
「あ、伍長さんだ伍長さんだ! どしたの今日は馬になんか乗って!」
 子供にまで声をかけられる彼が、実際は町人(まちびと)たちに快く協力させるためどれほどの精力を注いだか、今のルージュには容易に想像することができた。
「こちらでございます。ここが町長ギーゼの家で。」
 先に馬を下り扉をノックしている伍長の背を、ルージュは信頼と感謝の目で見守った。
 エルンストの町長はひ孫が7人いるという小柄な老翁であったが、元帥がおん自ら足を運んで下さったと知って感激し、
「この町の者はみな誠心誠意、軍の方々に忠を尽くす所存であります。どうか何なりとお申しつけ下され。何でしたら徴兵して頂いても―――」
「いやそんな必要はない。あれだけの土地を無償で提供してもらって、それに工事の手助けまでしてもらったんだ。これ以上何を願うこともない。」
 本心からルージュは言ったが、町長は恐縮して平伏した。
「老いの身に、この上なきお言葉でございます元帥閣下…! 私めにできることでしたら何なりとつとめさせて頂きますので、どうかどうかこの町でお心のままにお過ごし下さいませ。光栄至極に存じ上げます…!」
 驚いたことにギーゼは頬肉を震わせて泣いていた。伍長はギーゼの肩を抱え、
「判った判った。判ったからほら、何も泣くことはないだろう町長。町長のお心は、閣下も喜んで下さっているから。」
「ありがたい…。ありがたいことでございます…!」
 渡された懐紙で洟をかんでいるギーゼの感激は、生真面目な老人にはありがちな反応であったが、その様子を見ながらルージュは権力というものの不思議さを思った。ギーゼにすれば孫よりも若いだろう自分が、ただ正一位元帥という地位にあるだけで、無数の人間の尊敬を受けられ奉仕と服従をほしいままにできる。この自分が実際どのような人間であるかなど、ギーゼには判ろうはずもないのに…。
「いや、歳がいもなくお見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。」
 深い皺の刻まれた瞼をしょぼしょぼさせギーゼは言った。
「何かご不自由がございましたなら、どうぞおっしゃって下さいまし。兵士の方々に必要なものは、この私めの責任において、即座に揃えてご覧に入れます。」
「判った。」
 ルージュはうなずき立ち上がった。伍長がその肩に重いマントを着せかけた。町長は追いすがるように戸口へ見送りにきた。伍長のあけた扉からルージュが1歩外に出ると、群がっていた町人たちがさささっと後ろへ下がった。
「何だ何だお前たちは!」
 あわてて町長はルージュの前に立ち塞がろうとしたが、
「いや、いい。」
 ルージュはそれをとどめて、好奇と畏怖を隠そうともせず自分を凝視している彼らに、ゆったりと微笑みを投げかけた。
「しばらくこの町に世話になる。よろしく頼むぞ。」
 群衆は目をぱちくりさせたが、ルージュは繋いであったシェーラザードに股がると、来た道を戻り始めた。その後に続いた伍長の耳に飛び込んできたのは、
「口きいたよ口きいたよおい!」
「お人形みてぇな別嬪さんだが、あれでも俺たちと同じ男なのか!?」
「馬鹿だね、あんたなんかとはご身分が違うんだよ! あれは元帥様。都から来た大貴族様だ。見たろうあの金色のご紋を!」
 伍長は背後を振り返り、人差し指を立ててしーっ、しーっと繰り返したが、群衆は黙る様子もなかった。
「…おい何やってんだよ。」
 数歩先でルージュの声がした。急いで伍長は駆け寄った。
「人のよさそうな町長だな。」
 追いついた彼にルージュは言った。
「軍の規律は叩っこんであっけど、何せこっちは人数が多い。長期戦になればどうしても気持ちが緩むだろうし、町の人間に不届きな真似をする兵士が出ないよう、お前がしっかり目を光らせてくれ。好意には誠意で応えたい。この町に犠牲は払わせたくねぇからな。」
「閣下…。」
 ルージュの横顔を伍長は見た。少しの間にこの若い元帥は、何と高貴になったのだろう。無言で相手を黙らせる威厳が、美貌の裏から立ち昇ってくるようではないか…。返事のない彼にルージュは、
「ンだよ。そんなに見つめんなよ気持ちわりぃな。」
「はっ、失礼いたしました!」
 伍長は目を伏せた。ルージュは笑い、
「んで返事は。聞いてたんだろうな俺の話。」
「はい、もちろんでございます。ですが閣下、そのお役目は私ではなく、どうか他の者にお命じ下さい。」
「あ?」
 きゅっと眉を寄せたルージュに伍長は言った。
「私は明日にでも都へ戻りたく存じます。私が閣下に頂いた任務は、この地に新本営としての十分な機能を持たせること。その任がかない閣下とご配下の大軍をお迎えしたからには、ここでのお役目はもう終わりました。となれば次のご命令を賜りたいと願います。」
「次の命令?」
「御意。」
 伍長はそこで少し間をおいて、
「都の民はおそらく、人少なになった軍隊を見て不安を感じているに相違ございません。閣下や総参謀長のお考えをそのまま理解せよと申しても、無学な民には無理でございましょう。ですから私は都で義勇軍を募り、町中(まちなか)の練兵場にて彼らを訓練しようと思います。そうすれば民たちは、これは自分たちの戦さであると実感し、都の自治能力も高まることと存じます。何とぞご下命くださいますよう、閣下。」
「…。」
 ルージュは伍長を見返した。確かにこの男にはそういう役が誰よりも適しているだろう。
「都の自治か…。」
 遠い空をルージュは見やった。物売りの声や大道芸人の歌や、活気に溢れる市場の空気をふと思い出したからだった。この国では自由市場での商売に対して、出店許可料以外には税金を課していない。だから商人たちの中には「ここは自分たちの市場だ」という意識が強く、犯罪の自衛力は驚くほど高かった。都にあのエネルギーが甦れば、どんな軍隊よりも強い防衛線になるかも知れない。
「判った。」
 ルージュは答えた。
「けど一応総参謀長に諮ってみる。正式な任命はそれからでいいな。」
「恐れ多うございます、閣下。」
 轡を並べて主従は歩み、今後の軍本部となる侯爵家別邸へと進んでいった。
 
 つい先日まで大勢の騎馬兵がひしめいていた練兵場には今や物影1つとてなく、門には鉄の錠前が下ろされ立入禁止の札が掛けられていた。その前でヒロは馬を止め、時を忘れたかの如く佇んだ。あまりに長いこと彼がそうしているので、
「殿下、この場所に何かございますのですか。」
 控えていた護衛の従騎士がたまりかねて尋ねても、ヒロは黙って雪野原をじっと見つめ続けた。
 城下の視察という名目でようやく許された外出だったが、護衛のための兵士が15人、ぴたりとヒロについて離れなかった。いくらうっとおしがっても、国王に厳命されているのか彼らは囲みを解かなかった。護衛というよりこれではまるで護送される犯人じゃないかとヒロは思ったが、今の時期には仕方のないことで、むしろ外出を許されたことの方が特筆に値するのかも知れない。ヒロは手綱を引いて愛馬シルバーアローを歩ませ始めた。兵士たちもぞろぞろとついてきた。
 中の1人、今ヒロに声をかけてきた騎士は隊のリーダーらしく、怯えた鷲のように絶え間なく周囲に目配りをしていた。
「お前さぁ、ずっとそんなんだと疲れんだろ。もっとリラックスしろよ。見てるだけでこっちが疲れるっつの。」
「申し訳ございません。」
 口では謝ったがその騎士は、一向に態度を変えようとはしなかった。市場に丘に、できればジョーヌやヴェエルの城へも行きたいと思っていたヒロであったが、彼は早々にそれを諦め、
「もう帰んぞ。」
 そう言って馬首を王宮へ向けた。隣でこうもピリピリされたのでは、息抜きどころかストレスの加重であった。
 軽くムチを当てようとして、ヒロはふとあたりを見回した。
「どうか?」
 従騎士は聞いた。
「…何でもねぇよ。」
 ヒロは溜息混じりに答えた。騒ぎになるのが嫌なので黙っていたが、王宮を出た直後から、誰かに尾行(つけ)られているのは判っていた。自分たちが止まればその“影”も止まり、走り出せば走り出すのだ。つかず離れずのこのやり方は、素人にできることではないだろう。
(ははん、これがロゼの言ってた『ネズミ』か。)
 すぐにヒロにはピンときた。もし今思いきりシルバーアローの腹を蹴って自分1人が走り出したら、ネズミどもは果たしてどうするだろう。驚くか、チャンスだと追ってくるか。そうやってネズミをあぶり出せたなら、せいぜいロゼに自慢してやれるのに。
 だがヒロはそうしなかった。していい立場ではないことも、彼には判っていたからだ。そんな忍耐がいつまで続くか我ながら不安でもあったが、とりあえず今は自分の気持ちを押さえこむのに成功し、ヒロは白いマントの衿をぎゅっと握りしめた。
「ご帰城!」
 従騎士は兵に指示して、半数にヒロの行くて前方を守らせた。
 
 エルンスト町長ギーゼの家から、軍の総本部である侯爵家別邸に帰りついたルージュは、彼を待っていた使者と2〜3の打ち合わせを済ませると、伍長の申し出について相談するためロゼの姿を探した。執務室となる部屋をまずは訪れたが、そこでは兵が忙しそうに荷ほどきをしているだけであった。
「おい、ここの主(あるじ)はどこ行った。」
 手近な1人をつかまえて聞くと、
「はっ! 伯爵殿はさきほど厩舎の方へ行かれました!」
「厩舎ぁ?」
 意外な答えをルージュは復唱し、まさかと思いつつ階段を下りた。
 この館にも当然留守役はいたが、別邸とはいえ部屋数30を越える城、庭の手入れまでは行き届いておらず、綿帽子をかぶった庭木の枝は伸び放題だった。きしきしと雪を踏みしめルージュは東側の庭に回った。そこには小さな厩舎があって、ルージュのシェーラザードとロゼの黒馬が繋がれているはずであった。板葺きの建物に近づいていくとロゼの声が聞こえてきた。立ち止まってルージュは中を覗いた。
「ちょっと狭いけどね、ここで我慢するんだよ。お前の世話をする人がついてくれるかどうかは、まだちょっと判らないんだ。でも遊びに来てるんじゃないからね。食べ物も我慢しておくれ。干し草と、あとは野菜。大好きな林檎は多分あげられないな。」
 乗馬用のブーツに革製のベスト、その下は絹のブラウスという姿で、ロゼは愛馬の体を拭いてやっていた。黒光りする毛並みに沿って丁寧にブラッシングし、木桶の横に屈んだところで彼はルージュの視線に気づいた。
「ああ。…」
 一瞬の決まり悪そうな顔をわざと無視して、
「へぇ。お前のそんなかっこ初めて見たな。」
 ルージュは笑いながら仕切り板に肘をかけた。
「いや、ずっと、走らせたから。綺麗にしてやらないと可哀相だろう。」
 ロゼは鬣を指で梳き、
「言わなかったっけ。これは父上が大事にしてた馬なんだ。」
「ああ前に聞いた。どっかからの献上品なんだろ。」
「うん。力もあるし、速いよ。」
「なんて名前だっけ。」
「オルフェウス。神話に出てくる竪琴の名手。」
「…お前んちらしいな。」
「俺もそう思うよ。」
 ざぶざぶと洗ったブラシの水滴を振り切って、ロゼは作業を再開した。ルージュは少しの間その様子を見ていたが、
「ああ、実は相談があんだ。」
「なに。ここでいいの。」
「かえって人目がなくていいだろ。うちの伍長の意見なんだけど。」
 ルージュは先程の話をロゼに聞かせた。
「それは願ってもないよ。」
 ルージュの説明が済むとロゼは即答した。
「都のことは気になってたんだ。残してきた兵力で治安維持は十分できるだろうけど、不安が原因の妙な風評が流れないか、それが心配だったんだ。君の伍長が人心を鼓舞してくれるなら言うことはない。最高だよ。」
「そっか。」
 心なしかルージュもホッとした様子で、
「んじゃ伍長は都に戻すぞ。輸送隊と一緒にな。それなら安全だろうし。」
「そうだね。」
 ロゼはうなずいたが、
「ただ…。」
 すぐに思案の顔になってルージュの耳元に口を寄せた。
「都に着いてからの彼の身が、それがちょっと心配なんだ。多分ネズミが接触してくる。味方を装って情報を取りに来るよ。その時の彼の態度如何では、最悪の場合もないとはいえないし…。」
 ルージュは表情を改めた。思えばもっともな話であった。前王太子を2人も殺し公爵夫人にまで手をかけたスパイが、今度は伍長に接近してくる。シュワルツやスガーリほどの体格はなく、一見ひ弱に見える彼は、敵にしてみれば御しやすい恰好の駒に思えるかも知れない。
「…大丈夫だろ。」
 沈黙ののちルージュは決断した。
「あいつも武人だ。今の時期に安全な任務なんてねぇことくらい、俺に言い出す前に判ってんだろ。」
「そう…。」
 ロゼは痛々しげにルージュを見た。表面は平静な彼の瞳の奥に、悲しみが揺らぐのが判ったからだった。しかしルージュは言った。
「んじゃ、今夜の定会(ていかい)で正式に発表するわ。ああもちろんお前も出ろよ。」
「うん。そのつもり。」
「じゃな、邪魔したな。」
 軽く手を上げて行こうとしたルージュを、
「ああそうだ、ついでに俺からも相談があるんだけど。」
 そう言ってロゼは止めた。
「あ?」
 ルージュは振り返った。亜麻色の髪が午後の陽に光った。
「別に急ぐ話じゃないんだけどね。落ち着いてからでいいんだけど。」
「何だよ。落ち着くって、いつ落ち着くかなんて判んねぇぜ。」
「うん。だから言うだけ言っとこうと思って。」
「だから何だよ。どうもお前の話は前置きがなげぇんだよな。」
 再びこちらへやって来たルージュの、アレキサンドライトの瞳にロゼは言った。
「実は、いずれ両家の間に婚姻を結びたいんだ。」
 ルージュの瞼が数回動き、首がかすかに傾いた。婚姻って、誰が。うちの誰と、お前んとこの誰が。視線でロゼを問い詰めながらルージュは言葉を忘れていた。ロゼは必死で笑いをこらえ、
「俺もね、全然気づかなかったんだけど、実は恋してるらしいんだ。」
「…。」
 ますますルージュは混乱し意味もなくロゼを指差したが、
「オルフェウスとシェーラザードなんて、名前もぴったりだと思わない? この出会いはきっと運命的なものだね。」
 なに? という顔でルージュは、
「オル…。それって…こいつ、か?」
「そう。嫌だな誰だと思ったんだよ。俺がルージュに恋する訳ないじゃない。ここに来て気づいたんだけど、このオルフェウスは君のシェーラザードに恋をしてるらしいんだ。彼の願いを叶えてやりたくてね。」
「…んな…。」
「どうかな。いい話だと思うんだけど。」
「んな、…」
「結納はいつがいい? 先に婚約式でもやる? もちろん今の時期だからね。子供はまだまだ先にした方がいいと思うけど。」
 どんどん勝手に話を進めるロゼに、とうとうルージュは怒鳴った。
「んな、冗談じゃねぇっ! そう簡単にシエラとやらせてたまっか!」
「やらせてって…どうしてそういう下品な言葉を使うかな。君ももう侯爵で元帥なんだから…。」
「うるせぇうるせぇうるせぇ! 駄目っ! ぜってー駄目っ! お前みてぇなタラシをうちのシエラに指1本触らせっか!」
「ちょっと待ってよ。俺じゃないよ。俺じゃなくてこのオルフェウス―――」
「おんなじようなもんだっ!」
 きっぱりと言い捨てると、ルージュはロゼに背を向けた。ブルル…と黒馬の声が聞こえたが、彼は振り向かなかった。ロゼはクスクス笑いながらオルフェウスの鼻を撫で、
「まるで親馬鹿だね彼は。大丈夫、いざとなったら駆け落ちでも何でもしていいよ。俺は彼のように人の恋路の邪魔はしない。ゆっくり外堀から埋めていこう。」
 ロゼはあたりを片付け始めたが、ふっと手を止めつぶやいた。
「『おんなじようなもんだ』って…どういう意味かな…。」
 
 その夜の定例軍事会議でルージュは、義勇軍徴募と組織化の任務を正式に伍長に与えた。命令を受けて彼は翌日、陸軍輸送隊とともに都への帰途についた。
「ご武運長久をお祈り申し上げます。」
 ルージュに敬礼した彼の目には怖れも迷いもなかった。スパイの動きによっては危険の伴う任務であることを、夕べルージュは彼に告げたのだが、
「それならば尚更重要なこと。心して務めさせて頂きます。」
 動揺1つ見せずに伍長は言い、誇らしげに笑った。
 
 マイストブルクではガルーデルたちが、次にあるだろう戦闘に備えて毎日兵士を訓練していた。初戦では無傷に近かった第一次派遣軍に、新たにジャズール連隊とアゴット連隊を加えた大軍の威容は、これほどの防衛線がよもや破られることはないであろうと、マイストブルクの民と王家を大いに安心させた。
 だがガルーデルには気にかかることがあった。諜報のため北に放った忍びたちは次々情報を持ってきたが、それらの内容は皆バラバラで、まるで統一性がなかったのだ。おそらくこちらを惑わせるための偽の情報を、エフゲイアがあちこちに流しているのだろう。
(勝ち戦さのあとこそ怖い。これが前(さきの)元帥の口癖だった。敵国恐るるに足らずとマイストブルクは浮かれすぎている。この軍容が裏目に出なければいいが…。)
 その思いがガルーデルの胸を去らず、訓練を一層厳しいものにしていた。
 
 都に帰りついた伍長は、休む間もなく任務にとりかかった。伝令兵に檄文(げきぶん)を持たせて人の集まる場所に走らせ、15歳以上の健康な男子は義勇軍へ、また医術治療の心得のある20歳以上の女子には医師団への入隊希望を募った。
 兵役に就いた者の家族に対する保障は、まだまだ不十分ではあったが概要はロゼが作りあげていた。伍長はそれを強く前面に押し出し、国家安泰への努力と協力を広く民に呼びかけた。これが功を奏して、都の中だけでなく周辺地域の町々からも入隊希望者が続々と集まり、ヒロを寂しがらせた無人の旧本営は瞬く間に賑わいを取り戻した。
 
「あいてる。」
 バジーラのノックに答えたヒロはいつものハスキーボイスだった。失礼いたします、と中に入って彼女は腰を屈めた。
「夜のお薬湯をお持ちしました。」
「うん。そこ置いといて。」
 小机に向かってペンを走らせ、顔を上げずにヒロは言った。彼の前には厚い本が何冊も置かれ、フリンジのように栞(しおり)が挟まれていた。
「…なに。」
 黙ってそこに立っているバジーラに、ヒロは聞いた。顔は上げず手も動かしたままだったが、彼の耳と心はきちんと彼女の方に向いていた。
「実は…。」
 意を決してバジーラは言った。
「義勇軍に志願しようと思いまして。」
 ぴたりとヒロの手が止まった。バジーラは、ここ数日間考え続けていたことを一言ずつゆっくりと語った。
「私はヒロ様のお体を健やかに保つべく、公爵閣下のご命令を賜ってお城に上がりました。そのうち勿体なくもこの王宮へのご同行を許され、お側近くお仕えして参りましたが、ヒロ様はお体もお心もすっかりお強くなられました。もう私などが常にお付きしていなくても、よろしいのではないかと存じます。」
「…。」
 いつしかヒロは首を傾け、バジーラの方を見ていた。黄金の髪にサファイアの瞳、雪花石膏(アラバスター)の頬にはほんのりと、薔薇にも似た血の色が透けていた。
「わずかな間にヒロ様は本当にご立派になられました。私には判ります。ヒロ様が今なさろうとしていらっしゃる事。心の底からお望みの事。それはこの国の安泰と民の幸福。まさに帝王のお心そのものでございます。
私はこれより、そのお心のお手伝いをしとうございます。いかに優勢とは申せ、戦さ場で兵は傷つきます。巻き込まれる民もおりましょう。名もない命を救うのは医師にしかできない技であり、そのために力を尽くすのが、天と君主に与えられた私の責務かと存じます。」
「…。」
 ヒロは無言でバジーラを見つめ続けた。その表情の静かさに、彼女は同意と了承を悟った。
「明日、アマモーラ様にこのお話を致しまして、早ければ明日のうちにでも軍に志願書を提出するつもりでございます。その後は隊長殿のご指示に従い、当面は都にとどまるか、それともすぐにマイストブルクへ発つか、…いずれにせよこの王宮は、下がらせて頂くことになろうかと存じます。」
 バジーラの心に少しずつ涙がにじみ始めていた。王宮を下がるということは、そのままヒロとの別れを意味する。もちろん永の別れではなく、戦さが終わってまた平和な世になれば、再び彼のもとに戻ることも決して適わぬ夢ではない。ただ戦さの勝敗とおのれの運命は判らぬものだった。ひとたびは別れなくてはならない。彼女の主君にして最愛の、ヒロ・リーベンスヴェルトとは。
「そっ、か。」
 短くヒロは言った。バジーラは深く頭を下げた。次に彼女が耳にしたのは、
「…ありがと、な。」
 慈しみに満ち満ちた、低い彼の声だった。今まで守ってくれてありがとう、気持ちを汲んでくれてありがとう、最高最大の勇気を、ふりしぼってくれてありがとう…。そんな想いをその一言にこめて、ヒロの眼がバジーラを見ていた。
「では失礼致します、王太子殿下。」
 腰を屈めて礼をとり、彼女は早足で部屋を出た。扉が閉まった瞬間に涙は心を溢れ出し、止めどなく頬を濡らした。
 翌日、バジーラに心を告げられたアマモーラは、一度は強く反対したが、やがて彼女の決意が固いと知るや、手を取って力強く言った。
「判りました。王太子殿下が民草に注いでおられる尊いお志を受け止めて、あなたは精一杯働いて下さい。あなたの願いは、ヒロ様の祈りでもあるのですね。」
「アマモーラ様…。」
「形は違えどあなたも私も、ヒロ様をお護りすることに変わりはありません。ともにこの命に代えて、あの方をお護り申し上げましょう。」
「はい。」
 バジーラは大きくうなずいてアマモーラの手を握り返した。アマモーラもまた静かにうなずき、2人は同じ思いを誓いあった。
 義勇軍募集の肝煎りは伍長だったが、医師団の総責任者はサヨリーヌの父サミュエルであった。彼は一度第一次派遣軍とともにマイストブルクへ赴いたのだが、その戦さが予想以上の大勝利だったため、後続組織の強化を図るべく一旦都に戻っていた。
 サミュエルはバジーラの加入を大いに喜び、自分の右腕として働いてほしいと婦長の地位を与えた。前線への出動をいつにするかは今後の戦況を見て決めるとのことで、彼女の仕事は経験の浅い看護兵や看護婦たちに、まずは実践知識を教えこむことから始まった。
 
 スガーリの部下であるその諜報兵が、ガルーデルのもとに報告に来たのは夕刻であった。彼は忍びたちとともにエフゲイアへ潜入し、軍の様子を探って帰ってきたのだが、
「敵の動きがどうも妙なのでございます。」
 浮浪者を装っての旅であったがゆえの、髭だらけの顔でそう言った。
「妙とはどんなところがだ。」
 身を乗り出してガルーデルが尋ねると、
「エフゲイア国内の軍は1つにまとめられることもなく、今日は1隊明日は1隊と、それぞれの隊ごとに分散して王宮に伺候したのち、三々五々どこかへ移っていくのです。マイストブルクを経て我が国に向かうのかと思いきや、進路はおおむね大きく西に傾いておりまして、もしや奴らは狙いをここマイストブルクから、ロワナへ移したのではないかと…。」
 諜報兵はすくいあげるようにガルーデルを見たが、
「そうか、やはり奴らはその動きを。」
 予想はしていたと言わんばかりにガルーデルはうなずいた。初戦で犯した過ちを繰り返すエフゲイアではないと、ガルーデルはそう考えていた。次は必ず何かの奇策で来る。そしてそれは軍備手薄な隣国ロワナへの進軍であった。
「よし、ただちに早馬を仕立てよ。本陣の元帥閣下に急ぎお知らせせねばならん。」
「御意!」
 諜報兵が去ったあとガルーデルは副官を呼び、緊急の軍事会議を招集させて司令官たちに告げた。
「いよいよエフゲイアは第2波の攻撃に出てきた。しからばこの地には第1次派遣軍を残し、アゴット並びにジャズールの両連隊はただちにロワナへ出立せよ。こことは違いロワナには峻険な山も谷もない。平地での戦さは数と速さがものを言うのだ。つまり遅れた方の負けである。急げ! これより全軍戦闘配置をとり、ロワナ国境での攻防戦に突入する!」
 
 ガルーデルの早馬が到着するよりも早く、本陣へはロワナ国大使よりの書状が届けられていた。曰く、ロワナ国はエフゲイアからの正式な宣戦布告を受け、ただちに皇太子モリィを総大将とした国防軍を組織して臨戦の構えである。何卒同盟国として急ぎ援軍を賜るよう、云々。
「そっちの手できやがったか…!」
 ルージュはロゼの差し出した書状を読むと、それを棒のように丸めてパシンと机を叩いた。傍らでロゼは腕を組み、しきりに首をひねった。
「おかしいな…。」
「何がだよ。んな悠長に考えこんでる場合じゃねぇだろ!」
 苛立った口調でルージュは言った。ロゼは独り言のように、
「なぜマイストブルクにはしてこなかった宣戦布告を、そんな、今になってロワナに対して向けてきたんだろう。領土も人口も、ロワナはマイストブルクの半分だよ。それこそ我が国の属国と見なされても仕方のない小国なのに…。」
 それを聞いてルージュもハッとした顔になった。ロゼは口元を撫でながら、
「何か裏があるのかも知れない。軽挙は慎まないと。忍びたちは何か言ってきてる?」
「いや、特に聞いてねぇけど。」
「そう…。」
 またひとしきり考えたあとロゼは腕をほどいた。
「ま、仕方ないね。同盟条約がある以上援軍は送らなきゃならない。しかも皇太子が総大将じゃ、こちらもそれなりの兵力は提供しないと。」
「皇太子か…。」
 ルージュは言葉を切った。モリィの妻はこの国の第1王女、ルナ内親王だった。もしもロワナに何かあったなら、彼女はあの国と運命をともにすることになる…。不吉きわまりないその仮定を、ルージュはぶるんと振り払った。
 ロゼは軍の組織図を開き、
「ロワナ国へはひとまずコルネリウス連隊の全軍と、それに陸軍歩兵大隊から2個師団を派遣しよう。司令官は将軍にお願いして、大使へは元帥名の親書を送る。あとは戦況を見てからの判断になるね。それでいいかな。」
「ああ。判った。」
 総参謀長の意見を、ルージュは無条件に諾した。早速ロゼは机に向かった。ペン立てから羽根ペンを抜き取りつつ、
「エフゲイアがロワナ国に宣戦布告してきたからといって、マイストブルクの警備を手薄にする訳にはいかないからね。案外裏をかいてくるか、それとも裏の裏をかくつもりか…。どちらに駒を進められてもいいように、両国の国境警備は万全にしておこう。」
 話しながらもロゼのペンはたちどころに、大使宛ての正式な国書と将軍への指令書を記していった。
 この時2人はまだ知らない。司令官判断によってガルーデルが、アゴット並びにジャズール両連隊をロワナへ向かわせていたことを。都にいるよりも近くなったとはいえ、マイストブルクからここエルンストへは、早馬で駆け通したとて1日半の道のりである。ガルーデルからの使者はいまだその途中にあり、2人が彼の即断に顔色を変えるのは翌日になってのことだった。
 
 普段ののどけさが嘘のように、甲冑に身を固めた物々しい警備兵がロワナ王宮内に溢れていた。大臣たちは早足で廊下を行き来し、軍の幹部は何時間も会議室に詰めきりで、大国エフゲイアを迎えうつための準備を国じゅうが必死でなそうとしていた。
 ルナは自ら外出を控え、決まった時間に礼拝堂へ行く他は自室にこもり、刺繍や読書をして時を過ごした。思い悩んだとて仕方がないのだと彼女は自分に言い聞かせ、国務に忙殺されている夫のためにも何とか心の平穏を保とうとしたが、この国と祖国の将来を思うと、重く湿った溜息がついつい漏れるのであった。
 その日の夕刻、ずっと執務室にこもりきりだったモリィは外出着姿でルナの居間に現れた。先触れもなく突然だったので、ルナは驚いて夫を迎えた。
「これから国境の視察に行ってくる。1週間くらいで戻れると思うから。」
 とり急いでの出立なのだろう、彼の口調は急(せ)いていた。
「まぁ…。」
 ルナはモリィの長身を見上げた。いくぶん疲れをにじませた顔に彼はいつも通りの笑みを浮かべ、
「大丈夫、心配はいらないよ。君の国が後ろ盾になってくれるし、うちの軍隊は優秀だ。どんな大国が攻めてこようと、この国と君のことは僕がちゃんと守るからね。」
「あなた…。」
 秋空に似たモリィの瞳に写っている自分自身が、ルナの視界でじわりと滲んだ。嫁いできてまだ1年にも満たないが、ルナの心はもう立派に、モリィの妻、ロワナ国皇太子妃になっていた。モリィは彼女の両肩を掴み、
「だからそんな悲しそうな顔をしないで。この宮殿は安全だから。父上や母上と一緒に僕の帰りを待っていてくれ。いいね。」
 大きく暖かい彼の手に支えられる気持ちで、ルナははっきりとうなずいた。
「判りました。お留守中のことはご心配なさらずに。どうか1日も早くご無事でお帰り下さいませ。」
「うん。」
 モリィは少し身を屈め、ルナの唇に軽く口づけると、
「行ってくる。」
 そう言い残して部屋を出た。
 ふわりとなびいた白いマントと、しなやかに細い彼の体を一層強調する白タイツが、ルナの脳裏に焼きついた。
 彼女はそっと下腹に手を当てた。まだ確証はないのだが、そこには多分モリィの子供が宿っている。間違いないと判ってから彼に言うつもりだったのに、モリィは戦場へ出ていってしまった。皇太子自らが総大将となってこそ兵たちの戦闘意欲が高まるのはよく判る。しかし敵が第一に狙うのもまた皇太子の首であるはずで、今さらのようにつのる愛しさと同じ量の不安が、ルナの胸を激しく乱した。
 
 ロワナ国はマイストブルク同様、ヒロたちの国のさらに北に位置しているのだが、地形と貿易風の関係で、マイストブルクよりもいくぶん春の訪れが早かった。加えて今年は暖冬であったため雪解けも早く、モリィの敷いた本陣からは、そろそろ氷の緩み始めた雪野原を広々と見渡すことができた。
「思いつく限りの場所に物見を放とう。僕の護衛なんかしなくていい。そんなところに兵力を割くのは無駄だろう。とにかくエフゲイアの影だけでも見えたら、即刻戦闘体勢に入るんだ。」
 いつもは朗らかでおっとりとした王子が、次々と下す命令は的確であった。幹部たちは内心驚きながら、その言葉に従った。
 さらに彼らを喜ばせる使いが来た。マイストブルクの国境を警備しているガルーデル司令からの使者であった。勇猛をもって聞こえるアゴットとジャズールの両連隊がこちらへ向かっていると聞いて、ロワナ軍は大いに奮い立った。
 やがて大連隊が到着した。モリィは将軍たちに謁見し、ねぎらいと感謝の言葉を直接2人にかけた。二か国の連合軍は一致団結して、エフゲイアを迎え撃つ構えに入った。
 ところが2日たち3日たち5日が過ぎても、エフゲイアはただの1兵も姿を見せなかった。宣戦布告の文書には、日をおかずただちに攻め入るといった意味のことが書かれていたのに、これはいったいどういう訳だと幹部たちは囁きあった。アゴット将軍とジャズール将軍も、
「少しおかしいと思わないか。皇太子の差し向けた物見兵からは何の連絡もないんだろう。」
「ああ。決死の覚悟で街道のかなり深くまで偵察に行った者が、今朝がた拍子抜けした顔で戻ってきた。民や行商人に尋ねてみても、軍が進んでいるという話は全く聞かないらしい。」
「アゴット…。これは、もしかしたら…。」
 歴戦の名将である2人は、青ざめた顔を見合わせた。その予感は的中した。ただちに前線に戻れというルージュの命令書が2人の手元に届いたちょうどその頃、マイストブルクはエフゲイアの大軍に攻め入られて、都は火の海と化していたのである。

第1楽章 主題3に続く
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