『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第1楽章 主題3 】

「第1小隊に側面を突かせよ! 第5から第8の各隊は王宮の守りを固め、装甲兵は敵陣の左翼に斬り込むのだ。急げ!」
 高台の本陣から、ガルーデルは声を枯らして軍を指揮したが、
「総司令! 西にまた新たな火の手が上がりました!」
「先ほど敵の一隊と激突した我が軍は、善戦空しく敵大砲の前に沈黙いたしました!」
「エフゲイア軍はこの国の者を兵士貴族民衆の区別なく、皆殺しにしろと命じられておるそうです!」
「申し上げます! 第2中隊長ビョルンソン殿、見事討ち死になさいました!」
 立て続けの凶報に、さしも老練なガルーデルも眉間を険しくした。そこへ、
「総司令! やはり我が軍の手旗も暗号も、全て敵兵に判読されております!」
 悲壮な顔で駆け込んできた通信兵が言った。
「味方に『引け』と指示すれば敵は押し、『北へ』と告げれば敵兵もまた北へ先回りいたします! これでは味方を指揮するどころか、敵に手の内をさらしているも同じことでございます!」
「たわけ!」
 ガルーデルは椅子を蹴倒し、その兵士から望遠鏡の筒をもぎとって岡の先端に走り出、絶句した。
 おちこちに立ち昇るのは黒や白の煙、煙、煙。遠くに響くずーん、ずーんという地鳴りはエフゲイアの使う巨大砲が建物を破壊する音であった。血路を開こうと突進した自軍はたちまちウンカのごとき敵兵に囲い込まれ、倒しても倒しても屍を踏み越えて斬りかかってくるエフゲイア兵に、刺され斬られ蹴散らされた。
 泣き叫び逃げまどう女子供にも、彼らは容赦しなかった。食料衣料家畜を略奪し尽くしたあとに火を放ち、次なる獲物に襲いかかっていく敵軍が、ガルーデルの目にはありありと見えた。守ってやりたいのは山々なれど、致命的に兵力が足りなかった。民と王宮の両方に、差しのべる手はなかったのだ。
「やむを得まい…!」
 ガルーデルは望遠鏡を捨て、スラリと剣を抜いた。
「王宮にだけは敵を入れてはならん。この国を奴らに渡す訳にはいかんのだ! これより我が軍は総力をもって王宮警護に当たり、やむなくはせめて国王ご一家をお救い申し上げ、安全な地に亡命して頂かねば!―――伝令兵! 大旗を掲げて我に続け! 敵の囲いを突破し王宮に至らん! 遭遇した敵は残らず切り捨てよ! よいな! 全軍、進めーっ!」
 十分に隊伍も整えぬまま、ガルーデル隊は岡の斜面を駆け下った。手旗も暗号も役に立たない以上、ガルーデルに残された唯一の作戦は“無謀”という名の無手勝流であった。
 歴戦の老将最後の奇策は幸いにも功を奏し、彼らはエフゲイア軍の一翼を突き抜けて王宮の門前までたどり着くことができた。しかしそこが彼の死に場所となった。大旗を標的に轟(ごう)ととどろいた大砲が、隊の真正面に落下、爆発した。人間の形をなさぬ死体を残して、ガルーデルの魂は敬愛する前侯爵の元へと還っていった。
 北方警備隊、全滅。第1第2騎甲師団、壊滅。マイストブルク国王夫妻は一兵卒の手によって落とされた首を、城門の鉄柵に突き刺され曝された。―――
 
「ちっきしょう…!」
 その知らせはルージュの怒りに火をつけた。みなまで読み終わらぬうち彼は書状を4つに引き裂き、
「馬引けぇっ! 第3騎甲師団はただちに出撃準備! マイストブルクへ出立する!」
 いきり立ち部屋を出ようとした彼を、ロゼは必死で止めた。
「待てルージュ! 頼むから待て! ここで無茶をするな敵の思う壺だ!」
「うるせぇ! 今はお前の屁理屈なんか聞いてる時じゃねぇ!」
「落ち着けったら! 気持ちは判る。気持ちは判るけどまだだめだ。君が怒って飛び出してくるのをエフゲイアは待ってるんだよ!」
「ああ望むところだ。正々堂々ぶっつぶしてやる! 離せってんだよ! …どこ行ったんだシュワルツ! さっさと出撃準備―――」
「だめだったらだめだ! 頼むから話を聞いてくれルージュ!」
 身をよじり振り払おうとするルージュと、背の高さは同じでも武人の体である彼に引きずられつつ羽交い絞めを解かないロゼと、最高幹部2人の争いをどうすることもできずに、兵士たちは廊下にすら出てこなかったが、
「ああああもう、何をやってんだよお前らはぁ!」
 ずんずんと部屋に踏み込み、間に割って入ったのはシュワルツだった。
「元帥を止めてくれ連隊長! 落ち着いてよルージュ、お願いだから!」
「だから何を落ち着けってんだこの馬鹿野郎! てめぇ自分の立場ってもんが―――」
「やめろ元帥!」
 ぐいっ、と太い腕がルージュの喉に巻きつき、ぎりぎりと肘で締めた。思わず力の緩んだルージュの体から、ようやくロゼは手を離した。ルージュは激しく首を振り、
「てめぇ、シュワルツ! おま、どっちの命令を…」
「落ち着けよ元帥! 総参謀長の言うこと聞いてやれ。さもないと、こいつの方が死んじまうぞ?」
 シュワルツは顎をしゃくった。抱えられたままルージュはロゼを見た。
 いつも近くにいて見慣れてしまったせいか、それとも戦況が気になるあまり他のものが見えなくなっていたのか、ルージュはその時初めてロゼの目の下の亡霊じみた隈取りに気づいた。青ざめて艶のない肌に、荒れてささくれ立った唇。ロゼの神経は極限まで張りつめて、締めすぎたチェロの弦のように、いつ切れてもおかしくないところまで来ていたのだ。
 ルージュが言葉を失ったのを見てシュワルツは腕をほどいた。ロゼはそばの椅子にドサリと崩れ、
「俺を憎むなら憎んでいいから、頼む、軽挙は謹んでくれ…。君が護るべきもっと大きなものは他にあるだろう。マイストブルクには本当に申し訳ないけど、いま君が、その護るべきものを捨ててまで出ていく筋じゃないんだ。むごいことを言ってるのは判ってるけどね。」
「…いや。」
 ルージュはふいと顔をそむけ、
「正しいのはお前の方だろ。視野の狭い俺じゃなくてな。」
 抑揚なく言い捨てると部屋を出ていった。深く長く息を吐いて片手で目元を覆ったロゼに、
「おい大丈夫かよ伯爵さん。あんたそれ以上痩せたら針みたいになっちまうだろが。看護兵呼ぶか? 具合悪いんだろ。」
 シュワルツは心配そうに言った。ロゼは苦笑混じりに答えた。
「大丈夫。ちょっとめまいがしただけだよ。力を貸してくれてありがとう。ルージュももう落ち着いただろう。ああいう時の彼はひとりにしておいた方がいい。放っておいてやってくれ。」
「よく知ってんな、あの坊っちゃんの扱いをよ。そうか、あんたらは幼なじみなんだっけな。」
「ああ。子供の頃から知ってる。癖も好みも長所も短所もね。」
 ふう、ともう一度ロゼは溜息をつき、
「ごめん。10分だけ仮眠したい。…下がってくれるかな。」
 語尾は既に消え入りそうな小ささだった。シュワルツは足音をひそめて外に出た。
 
 その日の軍議は、マイストブルクを奪回するか否かでもめにもめた。司令官たちのほとんどは、第1第2騎甲師団の弔い合戦だと交戦を主張したが、ロゼは頑として反対した。仮にマイストブルクを取り戻せたにしても、そのために払う犠牲はいかばかりか容易に想像がつく。ロワナ国での警備も決して手薄にする訳にはいかず、エフゲイアが一息ついている間にこちらも作戦を練り直すべきだというのが、総参謀長ジュペール伯爵の意見であった。
 だが憤怒に燃える司令官たちもおいそれとは彼の意見に同意せず、決着はつきそうになかった。最高指揮官の判断を求めて、皆がルージュの方を見た。彼はずっと腕を組んだまま目を閉じており、会議の初めから一言も発言しなかった。
「まぁ、ともかくよ。」
 場をまとめたのはシュワルツだった。
「ここで焦ったんじゃ、ろくなことにならねぇだろ。もう1度作戦を立て直して、んで今度はこっちから出てってやるんだ。次の一戦は負ける訳にいかねぇ。心して向かわねぇとな。」
 会議は散会し、皆は部屋を出た。最後まで口を開かなかったルージュのあとをロゼは追おうとしたが、そこへ諜報兵の1人がやってきて、
「総参謀長、ただ今マイストブルクから極秘の使いが到着いたしましたのですが。」
「マイストブルクからだって!?」
 さすがにロゼは驚いた。
「はい。元帥閣下にお目通りをとのことなのですが、まずは総参謀長にお知らせせねばと。いかがいたしましょう。」
「判った。すぐに会う。執務室…いや、僕の私室の方に通してくれ。誰にも知られないように。」
「心得ました。」
 兵は戻っていった。ロゼも自室に急ぎ、呼ぶまで近づくなと人払いをした。
 使者はすぐにやってきた。額に包帯を巻き左足をひきずった痛々しい姿で、それでも儀礼通りにひざまづこうとする彼を、
「ああ、そのままでいい。楽にしていい。話を聞こう。」
 ロゼは腰を浮かせてとどめた。使者はふところから血のついた軍務証書を出し、
「私はマイストブルク王家に仕える近衛の少尉でミハイルと申す者にございます。お目通りを許され光栄に存じます。」
「うん。それで用の向きは。元帥に何を話したい。さしつかえなければ僕に…」
 促したロゼにミハイルは首を振って、
「いいえ、恐れながらこれは元帥閣下に申し上げるべきこと。何卒お取り次ぎを願わしゅう。」
「いやそれは困る。彼は誰にでも会える立場じゃないんだ。何も全て僕に聞かせろと言っているんじゃない。どんな話なのかだけ教えてくれないか。それも無理なのかい。」
「…。」
 ミハイルは少し迷ったあと、
「国家や軍のことではございません。元帥閣下というよりはむしろ、アレスフォルボア侯爵殿ご本人に個人的にお話し申し上げとうございます。」
「侯爵本人に?」
 ロゼは軽く眉を寄せた。
「はい。侯爵殿のご婚約者、コンスタンシア王女のことでございますので…」
「なぜそれを早く言わない!」
 ロゼは卓上の鈴を振り、
「たれか! 元帥を呼んでくれ、すぐにここへ来るようにと!」
 ややあってルージュはやってきた。不機嫌そうな面持ちでけだるげに髪をかき上げ、
「…ンだよ。何の用で呼びつけ―――」
 そこで彼は使者に気づいた。その軍服がマイストブルクのものであることを、ルージュはすぐに悟ったようだった。ミハイルは彼に、なぜ自分がここに来たかを堰を切ったが如く話し出した。
 雨のような火矢を受け炎上し始めた王宮から、何とか脱出できた王族はコンスタンシア王女だけであった。彼女は数人の侍女たちとともに、馬車で母君の祖国ギスカール公国へ亡命しようとしたのだが、途中でエフゲイア兵に発見されてしまった。森に逃げ込み川を越え1度は振り切ったものの、馬車が脱輪して動かなくなり、女たちはやむをえず歩き始めた。
 しかし行く手にはエフゲイアの一隊が先回りしており、さらに王女は慣れない山歩きによって足を傷めていた。もはやこれまでと覚悟を決めた王女は、婚約の際ルージュに贈られた短剣で自らの命を絶ったのである。
「侍女たちのほとんどは、黄泉の国まで王女のお供をするべくその場で自害致しましたが、中に1人気丈な者がおりまして、このままではあまりにおいたわしいご最期であると、せめてこのことをご夫君にお知らせせねばと思い、その地に住む農民たちの助けを借りて、私めに連絡してきたのでございます。」
 手の甲でミハイルは涙をぬぐった。ルージュは彼に尋ねた。
「で、王女は今どこにいる。その侍女もここに来てるのか。」
「いいえ。」
 ミハイルはきりりと顔を上げ、
「ご座所へは私がご案内いたします。どうか、わずかでも哀れとおぼしめされるならば、我が王女に最後のお別れを、なすって差し上げて下さいまし…!」
「判った。すぐ行く。…いいなロゼ。」
 否やは言わせぬ口調でルージュは言った。ロゼは黙ってうなずいた。
 
 ルージュはスガーリのみを供に連れ、新しい馬を与えてやったミハイルに導かれてマイストブルクの小さな村に到着した。藁葺きの屋根にまだこんもりと雪を乗せ、仮にエフゲイア兵が残党狩りに訪れたとしても目もくれず通り過ぎそうなあばら屋に、ミハイルはルージュたちを案内した。コツコツとひそやかにノックして、
「俺だ。閣下をお連れした。入るぞ。」
 中にそう呼びかけてから彼は扉をあけた。はずしたマントをルージュはスガーリに手渡した。マントの下の彼の衣装は、王女に礼を尽くすための白と金の正装であった。
 今にも抜けそうな木の床が、男たちの体重を受けてきしんだ。納屋を片付けただけらしい狭い部屋の奥には、白い布で覆われた寝台様のものがあり、その傍らで深く腰を屈めているのが、王女に付いていた侍女であろう。スガーリとミハイルは戸口に控え、ルージュは寝台に歩み寄った。
「よく…よくおいで下さいました閣下…!」
 侍女は嗚咽を殺し、泣き腫らした顔で白布をめくった。
 決して美人ではないけれども、ひらきかけの林檎の花を思わせる、清らかに可憐な少女の亡骸がそこに横たわっていた。逃亡のためにまとったのであろう粗末な木綿の服を着ていても、生まれながらの王女の気品は隠しようもなかった。柔らかな栗色の巻き毛は枕から台の上へと流れ落ち、胸に重ねた手の下に彼女は、見覚えのある短剣と、何か額のようなものを持っていた。
 彼の視線に気づいた侍女は、
「姫様、失礼致します…。」
 重そうに手首を持ち上げて、額を抜き取り表に返した。ルージュは胸を突かれた。王女が抱いていたのは、数々の品物と共に贈った彼の肖像画であった。
「姫様は、閣下に恋をしておられました。いまだお会いせぬご夫君への想いを、日ごと夜ごとに募らせておいででした。」
 話しながら侍女は幾度もハンカチを目に押しあてた。
「閣下に賜ったご婚礼衣装を肩に打ち掛けてはうっとりなされ、その肖像画を見つめては夢見心地に微笑んでおいででした。こんな美しい方の奥様になれるのだと、それはそれは幸せそうに、嫁ぐ日を指折り数えておられました。」
 ルージュには見つめ続けることしかできなかった。侯爵家後嗣(こうし)の立場を固めるため父に命じられた政略結婚の相手。今が今まで会ったこともなかった遠い異国の知らない女。もしもあのまま平和な世が続いていれば、夫婦として肌を合わせ子をもうけたであろう縁(えにし)の女性。それがこうして目の前に、もの言わぬ亡骸となって存在している。自分に恋をし、会う日を夢見てくれた、無垢なる少女コンスタンシア。自分のそばで笑い、喜び、幸せを感じてくれたかも知れない女。時には怒りも悲しみもし、長い時間をともに歩んだはずのかけがえのない俺の「妻」…。
 ルージュの心には徐々に、哀れみや同情とは全く別の、人としての愛しさが吹き上げてきた。彼は寝台にかぶさるように体を屈め、王女の顔の両脇に手をついた。あっ、と侍女は思わず声を上げた。季節が死後硬直を長引かせているとはいえ、それももう解けかけているはずだ。穢らわしさなどは露ほどもルージュに感じてほしくなかった。妖精のようなコンスタンシアを記憶の城に住まわせてほしかった。しかし彼は姿勢を変えずに目だけで侍女を見て、
「妻にキスすんのに何か文句あんのかよ。」
 短く言ったその唇で、王女の唇を押し包んだ。
 侍女は深く深く礼をした。輝くような王女の笑顔が、彼女の目にははっきりと見えた。
 ゴトッ、と扉が鳴った。誰だ、とミハイルは鋭く尋ねた。
「俺だ。」
 答えた声は同僚のものであるらしく、彼はすぐに開けてやった。顔を出した兵士は早口で言った。
「迎えの馬車が着いた。急いで出発した方がいいぞ。殿下の行方をエフゲイアがあちこち探しているらしい。見つかったらまず逃げ切れないだろう。」
 それを聞いてスガーリはミハイルに聞いた。
「迎え、とはどちらからの。」
「亡き王后陛下のご実家、ギスカール公国です。幸い、使者が無事たどりつけた様子で。」
「おお、それは…。」
 うなずいたスガーリは、そこでルージュの呼ぶ声を聞き彼を見た。自分の方に伸ばされた腕が意味するものを知り、スガーリは腕に掛けていたマントを渡した。
 ルージュはミハイルを顧みて、
「馬車はどこにいる。すぐに発てるのか。」
「はっ、裏口で我々を待っているはずです。」
「そうか。急ごう。」
 ふわり、とマントで覆ったコンスタンシアの亡骸をルージュは抱き上げた。胸にぴったり頬を寄せている彼女に苦しくないかと目で尋ね、
「行くぞ。ほら、お前も早く来い。」
 侍女を促し歩き出した。ミハイルはドアを開けた。さらさらと白いものがまた舞い始めていた。
 ルージュはいったん馬車に乗り込んで座席に王女を下ろし、マントを直してやりながら話しかけた。
「できれば送ってってやりたいけど、俺は国に戻らなきゃならないんだ。許してくれよな。」
 最後に手の甲に口づけて、
(…さよなら。)
 彼は妻に別れを告げた。入れ代わりに侍女とミハイルが中へ、呼びにきた兵士は御者の隣に座った。侍女は窓から首を突き出し、
「ありがとうございました閣下。ありがとうございました…!」
 涙で見苦しいほどになった顔で繰り返し礼を言った。
「いいから早く行け! コンスタンシアを頼んだぞ!」
 ぴしり、と鞭を受けて馬車は走り出した。小型だけに速度は出る。揺れる車内で侍女は王女の前に座りこみ、
「ようございましたねぇ姫様…。姫様のおっしゃっていた通り、侯爵閣下は素晴らしいおかたでございました。いいえ、もう姫様ではございませんね。姫様はあのかたの奥方様、アレスフォルボア侯爵夫人になられたのですね…。」
 門出を祝う花吹雪に似て粉雪は馬車に降りそそぎ、真紅のマントに包まれたコンスタンシアは、さながら笑っているようだった。
 
「極度の過労による内臓疾患と血圧低下ですな。」
 洗い終えた手を丁寧にぬぐいつつ、白髪の軍医は、ベッドでぐったりと目を閉じているロゼに言った。
「お立場は重々承知の上ですが、せめて夜は横になってお休み下さい。今夜は無理にでも、消化のよい暖かいものをお口に入れて頂いて。さもないと疫神に魅入られかねませんぞ。くれぐれもご注意下さい。」
 はいともいいえとも答えずにロゼは、
「お手数をおかけしました先生。ありがとうございました。」
 丁重に礼を言った。
 助手を連れて軍医が出ていったあと、
「どうだい具合は。」
 やってきたのはシュワルツだった。掠れ気味の声でロゼは言った。
「面倒をかけてすまなかったね。参ったな。意識を失うなんて子供の頃日射病になって以来だよ。」
「黒ばっか着てっからだろ。」
 遠慮なくシュワルツは椅子を引き寄せて座り、
「医者も言ってたけど、あんた全然寝てないんだろ。それで全然食わねぇんじゃ誰だってブッ倒れるぜ。俺が見たとこ、ただの疲れじゃねぇよな。何をそんなに悩んでんだよ。」
「…。」
 ロゼは答えなかった。シュワルツは浅い溜息をつき、
「ま、いいけどな言いたくなきゃ言わねぇでも。でも言うだけで楽になるってこともよ、…」
「―――眠れないんだ。」
 独白めいてロゼは言った。
「マイストブルクを滅ぼしたのは、俺じゃないのかって気がして仕方がない。総参謀長として俺は、この国の民と王家のことを第1に考えてきた。そのこと自体は間違っていないと信じてる。でも、その結果マイストブルクを見殺しにしたような気がしてならない。あの時ルージュは、第一次派遣軍と一緒に自分が出陣すると言った。でも俺は止めた。彼を死なせる訳にはいかなかったからね。でももしルージュがマイストブルクにいれば、エフゲイアにこれほど好き放題はさせなかっただろうし、コンスタンシア王女も亡くならなかったかも知れない。そう思うと何かこう、後ろから錆びた槍でつつかれているようで、眠れない。目を閉じるのが怖くてね…。」
「そりゃ考えすぎってもんだわよ。」
 わざと剽軽にシュワルツは言った。
「そんな、隣んちの火事見舞いとは訳が違うんだ。総参謀長さんに、てめぇの国ほっぽり出して隣のこと考えられても困らぁ。勘違いすんな伯爵。マイストブルクを滅ぼしたのはエフゲイアだ。あいつらのしたことにまで、あんたが責任感じてどうすんだよ。」
 ロゼは答えなかったが、口もとはかすかに笑っていた。シュワルツは少しホッとして、
「とにかく今夜は、おカユでも食って早く寝ろ。特別にデザートもつけるように当番兵に言っといてやっから。な。」
 そこでロゼはクスクス笑い出した。なんだよ、とシュワルツが問うと、
「不思議だね。」
「何が。」
「俺は、自分で言うのも何だけどかなり人見知りで警戒心が強いんだよ。なのにどうして君にはこんなにすらすら、思っていることが言えるんだろう。第一、君はなぜ俺に、いろいろとよくしてくれるんだい?」
「いや、よくしてってことはないけどよ。…」
 シュワルツはロゼの掛け布団の端を指先でもてあそび、
「俺はあの坊やを…元帥をかってんだよ。だからその親友のあんたのことも、まぁ、大事にすんのが筋ではないか、と?」
 ロゼの笑いはクスクスからクックッに変わり、
「いい部下を持ったなルージュは。部下というよりお兄さんみたいだね。」
「よせやい。まぁ、その他にもな。いずれあいつに許可してもらわなきゃなんないこともあっからな。一応まぁ、あれはあいつの侍従な訳だし…。」
「なに。そんなに鼻が痒いの。」
「え?」
「君には照れると鼻を掻く癖があるみたいだね。ほら、ほらまたそうやって。」
 ひとしきり笑うと、ロゼは静かな口調に戻り、
「戦さは、むごいね…。人間はなぜこうやって互いに殺しあうんだろう。あの白鳥は今、ひどく悲しんでるだろうな…。」
 何のことだろうとシュワルツが首をかしげた時、ノックに続いてドアの外で声がした。
「失礼致します! 連隊長はいらっしゃいますでしょうか!」
「おお、いるぞ。どしたい。」
 答えるとドアがあき、1人の兵士が敬礼をして、
「申し上げます! ただ今元帥閣下がご帰還なさいました!」
「帰ってきたぁ!?」
 シュワルツは立ち上がった。
「信じらんねぇな…。あいつの馬には羽根でも生えてんじゃねぇのか? まずいまずい、お出迎えしてやんないと。」
 行こうとして振り返った視界に、すでにルージュは立っていた。
「元帥…。」
 目を丸くしているシュワルツのそばを、ルージュは風を起こして通り過ぎ、
「おい大丈夫かよロゼ! 医者は何て言ってた。お前また食ってねぇんだろ!」
 ベッドに近づいてくる彼にロゼは、
「ああ、ごめんねこんな恰好で。元帥が帰って来たっていうのに横になんかなって―――」
 枕に手を突き起き上がろうとしたが、
「馬鹿、無理しねぇで寝てろ!」
 ルージュはその両肩を押し戻した。
「ッたく意地っぱりだな相変わらず。何だこの痩せ方。ガリガリじゃねぇかお前。」
「…いいから。放してよ。」
 ルージュの手をロゼは外させ、再びベッドに身を落ち着けた。2人が気づかないうちにシュワルツは出ていった。
 起き上がった時にやはりめまいがしたのか、目の辺りを左手で覆ったロゼをルージュは無言で見下ろした。寝台の上に疲れきった体を横たえているこの親友は、しかし確かな命の脈動を力強く刻んでそこにいた。ロゼが生きて自分の前にいてくれることが、当たり前すぎるそのことが、今のルージュには計り知れない幸運のように思えた。彼の沈黙に気づいてロゼは左手をどかし、
「どうしたの。座りなよ。」
 先ほどまでシュワルツのいた椅子を目で示した。
「あ、ああ。」
 現実に返ってルージュは腰を下ろした。
「王女には会えた?」
 ルージュの方を向いてロゼは尋ねた。うなずきでルージュは答えた。
「そう…。」
 ロゼは痛ましげに、
「心から、お悔やみ申し上げるよ。」
 枕の上で軽く会釈すると、
「ありがとう。」
 はっきりとルージュは言った。ロゼには正直意外であった。ルージュはかすかに溜息をついたあと、
「母親の実家と連絡が取れたって、ギスカール公国に帰ってった。しっかりした侍女と近衛がついてっから、多分無事に着けただろ。」
「ああ、それは何よりだね。母君のご実家なら手厚く―――」
 葬ってくれるだろうと言おうとして、ロゼは言葉を選んだ。
「…守ってくれるだろうからね。どこへ行くよりも安心だよ。」
「ああ。そうだな。」
 素直にルージュは言った。2人はそこで少し黙ったが、
「何か、話があるんじゃないの。」
 先にロゼが促した。ルージュは上目使いにちらりと彼を見た。ロゼは苦笑し、
「平気だよ。頭ははっきりしてる。体だって、ちょっと疲れが溜っただけで別に病気になった訳じゃないんだから。」
「またお前はそうやってよ…。」
 口の中でルージュは何事かつぶやいていたが、やがて意を決したがごとく顔を上げた。
「ロゼ。俺は前線に行く。――行かしてくれ。」
 じっ、とロゼの瞳の奥に思いを語りかけつつ、ルージュの口調はむしろ淡々としていた。
「マイストブルクからの帰り道、俺はずっと考えてたんだ。どうすればこの戦さを、早く終わらせることができるか。長引けば長引くほど、犠牲が出る。人が死ぬ。いつまでも手ェこまねいてたんじゃ、この先いったい何万人が死ぬ? …冗談じゃねぇ。戦さなんか、1日も早く終わらせるべきだろ。」
「ルージュ…。」
 ロゼもまた彼の目をのぞきこみ、かつてなかった静かな怒りと、凛とした使命感を見てとった。ルージュはさらに続けた。
「エフゲイアは、次はぜってーマンフレッドに来る。宣戦布告なんつぅ手のこんだことしてロワナにいっぱい食わせてまで、マイストブルクを陥としたのはそのためだ。奴らはマイストブルクを前線基地にして、マンフレッド鉱山を狙ってくんだろ。」
「うん。それは間違いないと思うよ。」
 ロゼも即座に同意した。諜報兵の報告によれば、エフゲイアは従来に比べ殺傷力が2倍になった巨大砲を使うという。だがそのためには弾丸にも砲身にも2倍の鉄が必要なはずだ。マンフレッド鉱山の鉄鉱石は質がよく、近隣諸国の垂涎の的である。この戦さにおけるエフゲイアの最大の目的も、鉱山の占有化に他ならないだろう。
「ここに第3と第4の騎甲師団を残して、それ以外は全部マンフレッドに連れていく。もうひと戦さくらいは多分避けらんねぇだろうけど、時を見て和平交渉をもちかけてみるわ。先にこっちから言い出すんだ、足元見らんねぇためにも、それなりの軍容は必要だろ。アゴット、ジャズール、コルネリウス、それに歩兵大隊とうちの直轄連帯。こんだけ揃えりゃそれなりのメンツだ、向こうもそうそう大怪我はしたくねぇだろうからな。」
「判った。」
 ルージュが語り終えるのを待ってロゼは言った。え?とルージュはロゼを見返した。自分の出陣を止め続けてきた総参謀長が、こんなにも簡単に許可するとは思えなかったのだろう。枕の上でロゼは微笑み、
「君がそこまで考えての作戦なら、俺は反対しない。1日も早く戦さを終わらせてくれというのが、ヒロの願いでもあったよね。」
「ああ。多分…まともな人間の一番正しい願いだろうな、それが。」
「そうだね。」
 自分たちを見送っていたヒロの寂しげな姿を、ともに2人は思い出した。よし、とルージュはうなずいて、
「今夜、軍議を開いて司令官たちに指示する。あ、お前は出なくていいかんな。お前にとって今一番大事な仕事は、俺がこっちにいるうちに、そのほっせぇ体を元に戻すことだ。またすぐブッ倒れられたんじゃ、おちおち留守にもしてらんねぇよ。俺がいねぇ間の本陣は、全部お前に任すっきゃねぇんだから。」
 ロゼは苦笑し、
「判ったよ。お言葉に甘えて休ませてもらう。」
 一度はそう言ったものの、次の瞬間表情を変え、
「ちょっと待って。それだけの大軍がマンフレッドへ移るとなると、受け入れる町の側も容易じゃないよね。先に市長宛に書状を送って、輸送隊の段取りもしておかないと―――」
 今にもペンを手に取りそうな彼に、
「だから。お前はそれがいけねぇんだっつの。手紙くらい俺にだって書けっから。」
「いやでも君の文章はさ。ねぇ。時々何を言ってるんだか判らないことが…」
「おめ、ぶん殴って寝かすか?」
 ルージュはロゼの前に拳を突き出して見せ、
「旅行じゃねんだよ。受け入れるの入れねぇの聞いてるヒマなんかねぇ。俺ら軍隊は野宿は慣れっ子なんだよ。フォークがなきゃものも食えねぇって誰かさんとは違ってな。」
 
 4日後、ルージュはジャズール以下4人の将軍と配下の軍を連れて本陣エルンストを発った。留守部隊となる第3第4騎甲師団の統率権をロゼに、指揮権はシュワルツに委ね、町長ギーゼにまで言葉をかけてルージュは出立していった。
 緋色の大旗が視界から消えると、ロゼは兵士たちを持ち場に戻し自分も部屋に帰った。午後の祈りを終え、医師に命じられた薬湯を顔をしかめて飲み干すと、ロゼはいつも通り机に向かった。無理をしている訳ではなく、彼にとってはそこが一番落ち着ける場所なのである。
 木彫りの文箱(ふばこ)をロゼは開けた。中には彼が作成した書状を、控えとして書記官が書き写したものが2通入っていた。1通はマンフレッドの市長宛、もう1通は王宮のヒロに宛てた手紙だった。ざっと読み返すと彼は、椅子を窓の方に向け薄曇りの空を見上げた。
 マイストブルクから帰ってのち、ルージュはまた変わったとロゼは思った。コンスタンシア王女の死によって、心の中の何かを触発されたのだろうことは容易に想像できた。苦悩と悲しみは容赦なくルージュを襲い、そのたび彼を大人の顔にしていく…。そう思うとロゼには彼が、自分の方が年下ながら痛々しく思えて堪らなかった。
 とは言え今は同情している場合ではなく、戦さの早期解決に向けて、ルージュには全力を振り絞ってもらわなければならなかった。マンフレッドを決戦の場にする作戦が、果たして吉と出るか凶と出るかはロゼにも判らなかったが、彼は今回ルージュの武人としての判断に―――いや祈りに賭けたのだ。
 時を待ち手をこまねいていては犠牲が増えるばかりだというルージュの意見は、もちろん正しくはあるのだが、一方には大きな不安もはらんでいた。都に潜んだまま未だ正体の見えないネズミたちにとって、主力部隊がいよいよ北へ離れることは願ってもない好都合である可能性もあった。いま都にいるのは一部の警備兵と、伍長が肝煎りで集めたとはいえ所詮は素人の義勇軍。そこへ攻撃をかけられたらと思うと、ロゼは血の気が引く思いがした。
 しかし一旦この作戦に賭けたからには、もう迷うのは禁物だ。過剰な心配は自分の悪い癖でもあると思い直し、ロゼは椅子を立って窓辺に歩み寄った。
 ふと彼は不審げな顔になった。玄関前に馬車が、しかも長距離用の大型のものが停まっているらしい。誰だろう、と思うと同時にドアがノックされ、入ってきたのはロゼの身の回りの世話をしている看護兵見習いの少年であった。
「申し上げます。総参謀長にお客様がお見えです。」
「客? 僕にかい?」
「はい。侍従の方は、ファンデベルグ家の者であるとお伝え申すようにと…。」
 驚愕を浮かべる寸前でロゼは兵士に背を向け、かろうじて動揺を隠すことに成功した。無意識にカーテンを指にからめ、
「会えないと伝えてくれないか。」
 彼は口から言葉を押し出した。
「会議の最中で、とても会えないと伝えてくれ。いつ終わるか判らないと、そう言えば多分判ってくれるから…。」
 兵士は怪訝な顔をそのままに、かしこまりましたと下がっていった。ロゼは窓枠に身をひそめるように馬車の屋根を見つめた。やがてそれは静かに動き出し、蹄の音とともに門を出て行った。
「失礼致します。」
 兵士は戻ってきた。ロゼは振り向かなかったが
「こちらをお預かり致しました。伯爵殿にお渡し下さるようにと、そう申されましたので。」
 それを聞いてロゼはようやく兵士を見、
「ありがとう。」
 彼の差し出している白い封筒を受け取った。一礼して兵士は出ていった。ロゼは封を裏返した。“L”のイニシャルがあった。
(レティシア…。)
 冬枯れの枝のむこうの石畳をロゼは見やり、それからペーパーナイフで封を切った。美しい未亡人の楚々とした風情を、そのままに伝える文字が記されていた。
「愛しいルイーズ様へ
立場もわきまえず不躾なことをしてしまったわたくしを、どうかお許し下さいませ。
突然ではございますが、わたくしは生まれ育った祖国に帰ることになりました。
最後に一度だけおめもじを賜れればと思ったのですが、もとよりかなわぬ我儘でございました。
またいつかお会いできる日が来るのかどうかは判りません。判るのはただ、ルイーズ様と過ごした時間は、わたくしの人生にとって至福のひとときであったということだけです。
貴方の腕の中でまどろむ午後が、どれほど甘やかな安らぎに満ちていたか…。
思い出すたび肌がうずくようで、押さえようもなく涙が溢れます。
けれどやはりお別れを申さなくてはなりません。同封の指輪をどうか、思い出の形見としておそばにお置き下さいませ。
どこにいても貴方のお幸せを心からお祈りいたしております。   Au revoir.   L・F」
 ロゼは封筒を傾けた。見事な彫金の指輪が手のひらにこぼれ落ちた。彼はそれを握りしめた。薄い菫色の便箋からは、彼女の香水と同じ匂いが立ち昇っていた。
(許して下さい、レティシア…。でも僕はいまここで、あなたに会うことはできなかったんです…。)
 ロゼの脳裏を、命の危険もかえりみずに前線へとひた走るルージュの横顔と、都で独り不安と戦っているだろうヒロの面影がよぎった。
 ロゼは封筒に便箋と指輪を収め、それを引き出しにしまった。彼女への手紙はこの戦さが終わったら書こう、そう思ったすぐあとにロゼは、おし殺した不安の囁く声を聞いた。
(終わるのか戦さは。いつ。どんな形で。あと何人の命を奪って…。生きていられる保証はないんだ。俺にもヒロにも、ルージュにも…。)
 ロゼはぎくりと顔を上げた。いつからその枝にいたのか黒い鳥が、荒々しい羽音をたてて飛び去っていった。
 
 丸いルーペが拡大するピンセットの先で、ジョーヌの父ヘルムート子爵は、小麦の胚芽を2つに割った。それは交配を重ねた結果生まれようとしている、病気と寒さに強く成長の早い、新たな品種の小麦であった。これを国中で栽培すれば収穫高は3倍近くなるはずで、戦さでどんなに国が荒れようとも十分な食料が確保できさえすれば、混乱はずっと少ないのである。子爵は眠る間を惜しんで研究に没頭し、成長記録を克明に日誌に記していた。
「やっぱりこちらにいらっしゃいましたか、父上。」
 湯気のたったティーカップを盆に乗せてやってきたのはジョーヌであった。ああ、と生返事をする子爵の背後のテーブルにカップを置き、
「母上が入れて下さいました。疲れのとれるお茶だそうです。」
「うん。そこに置いておきなさい。」
「判りました。」
 父の背をジョーヌは微笑んで見つめ、
「ご無理はなさらないで下さいね。何かお手伝いできることがあったらおっしゃって下さい。」
「うん。多分ないよ。」
「そうですか。」
 くすっと笑ってジョーヌは行こうとしたが、
「ヨーゼフ。ちょっと。」
「はい?」
 父に呼び止められたので椅子に歩み寄った。
 子爵は彼にルーペを渡し、
「見てごらん。こんなに成長が早い。しかもこの3世代で実が5割ほど大きくなってる。次の種子からはいよいよ、実際に畑に蒔いてみよう。試験的に育てて収穫してそこから小麦粉を作ってみよう。そして――」
「パンを焼くんですね。」
 顔を上げ、ジョーヌは言った。
「じゃあそれは僕がやります。工場のみんなと粉を練って、まず父上に召し上がって頂きます。」
「いやいいよ。君たちが食べなさい。私は後からいくらでも食べられる。国中のテーブルにおいしいパンを山盛りにできたら、戦さなんて何が怖いものか。」
「僕もそう思います。」
 ジョーヌはうなずいた。子爵はマジシャンのように優雅な手つきでルーペとピンセットをトレイに置き、
「頂こうか。」
 カップを見て言った。ジョーヌはそれを渡した。飲みながら子爵は尋ねた。
「ところで兵糧は。もう送ってやったのか。その…なんとかいう鉱山の町に。」
「マンフレッドですか?」
「そうそうマンフレッドマンフレッド。ど忘れしちゃったよ。」
「今朝、輸送部隊の兵士150人が出発しました。食料衣料、それに薬も送っておきました。」
「そうか。ご苦労だったね。」
 子爵は満足そうに微笑んだ。今までは何かにつけ頼りなかった息子の、成長を喜ぶ父親の顔であった。ジョーヌはさらに、
「前線のマンフレッドだけでなく、エルンストの本陣にも別隊を向かわせました。それでもまだ予備はたっぷりありますから、この先少々のことがあっても持ちこたえられますよ。」
「そうだね。工場の稼働率を予定通り上げることができたからだ。これは君の力でもある。」
「ありがとうございます。」
 ジョーヌは頭を下げた。口調は穏やかだが滅多に褒めてくれない父の、この言葉は貴重であった。
「じゃあ、もう行きなさい。私はあと少しここにいるから。」
「はい。では失礼致します。」
「うん。」
 父を残してジョーヌは部屋を出た。自室に戻る途中の廊下から彼は窓の外を見た。暗闇にぼんやりと雪野原が浮かび上がっていた。この冬は例年よりも暖かだったが、ここへ来て遅い寒波に襲われたのか、いつもなら南の地方からそろそろ聞こえてくるはずの雪解けの報もまだであった。
「でも、必ず春は来るからね。」
 ジョーヌはひとりごちた。
「春になったら畑に種を蒔いて、秋には金色の野原を作る。その頃までには戦さが終わってればいいな…。頑張ってねルージュ、ロゼ。俺もここで頑張るから。」
 
 ロゼの仕立てた早馬が市長宅に着いたその2日後、ルージュたちの軍はマンフレッドに入った。総参謀長名の書状で全てを理解した市長は、
「この町の住民たちの安全さえお約束下さいますならば、私どもは惜しみなくご協力させて頂きます。」
 客間に通したルージュとスガーリの前で、丁重にひざまづきそう言った。椅子に座っているルージュの背後でスガーリは応じた。
「それはもちろんだ。この町の者たちの安全は何にもまして優先する。兵士たちにも軍律は徹底してあるから、迷惑をかけるようなことは決してない。だがもしも我が軍の滞在によって何か不都合が生じたら、遠慮なく私に言ってきてほしい。」
「ありがたきお言葉にございます。」
 市長は再び礼をした。
 ルージュは黙って聞いていたが、
「…ヒロは、このうちにいたんだよな。」
 ゆるりと室内を見回しながら言った。はい?と市長は聞き返し、すぐになつかしそうな笑顔になって、
「ああ、プチのことでございますね?」
「プチ?」
「はい。私どもはそう呼んでおりました。元気で明るくて人なつこくて、ただ喧嘩っ早いのだけが困りものでございましてねぇ。でもあの子を嫌う者はおりませんでした。町じゅうの人気者でございましたよ。」
 遠い目をして語っていた市長は、そこでハッと平伏した。
「大変申し訳ございません、無礼なことを申しました。あの方は今では王太子殿下、私どもが慣れ慣れしく口にできるご身分では―――」
「いや、いいんだ。そっか、あいつがプチ…。」
 ルージュがクスクス笑ったので市長はホッとし、
「殿下はお元気でいらっしゃいますか?」
「ああ。相変わらず喧嘩っ早いけどな。」
「そうですか。相変わらずお元気で…。」
 しみじみした表情で言った。ルージュは身を乗り出して、
「な。あいつってどんなガキだった。つきあってた奴とかいたんじゃねぇの。」
「元帥!」
 小声でスガーリはたしなめたが、
「いいじゃねぇかよ、あいつの昔知ってんのはこの町の人間だけなんだから。」
 誘い出すように笑っているルージュの目の輝きを、その時市長は初めて正面で見た。元帥という地位を持ってそこに座っているこの大貴族が、実はまだどこかに少年の香りを残す若さであることと、プチを…いやヒロをよく知っているという点で驚くほど自分に親しみを感じていることを、市長はようやく知ることができた。市長の緊張は自然と薄らぎ、語り口にも余裕が生まれた。
「こちらにいらした頃の殿下は、マイヤーというベテラン坑夫の指揮する班に入っておいででした。」
「うんうんうん。」
 ルージュの表情もいっそう明るさを増した。
「鉱山の仕事をお始めになったばかりでしたから、何もかも新しいことばかりだったと思いますが、荒くれ男たちも殿下に対しては皆、息子か孫に接するような態度をとりまして。」
「ああ、そうだろなあいつならな。」
「焼きソーセージがお好きでしたので、皆でそれをおごってさしあげますと、それはそれは嬉しそうに、見ている方が幸せになるほどのご様子で、お口にほおばっておられました。」
「ああ、あいつはヴェエルと違って口の中がでけぇからな。焼きソーセージが好きなのか。そういや今でもよく食ってんな。」
「はい、あちあちあち、とこうやってはふはふなさいながら。」
「そうそうそれ! そうやって食ってんなあいつ!」
「あとは…そうジャガイモがお好きでらっしゃいましてね。この町には宿屋を兼ねた大きな定食屋が一軒ございまして、そこで働いているカイという娘が、よくジャガイモを届けておりました。」
「…カイ?」
 くっくっと笑っていたルージュは、その女名を耳にして聞き返した。
 特に隠すこともないだろうと市長は思い、
「はい、カイ・ジューンと申す娘でございまして、同じ年頃の娘たちの中では一番殿下と親しくさせて頂いておりました。いえいえもちろん滅多なことはございませんでしたよ、決して。殿下はその点律義というか、ひどく真面目なお考えの方で――」
 そこでトントンとノックの音がした。はい、と市長が返事すると、この家の女中頭がおずおずと中に入ってきた。
「あの、閣下とお付きの方のお部屋を客間の方にご準備致しましたが…。」
「あ、ああそうでしたね。」
 市長はルージュたちを見て、
「ご覧の通りの田舎家ではございますが、元帥閣下のお部屋はこちらでご用意致しましたので、どうかそちらをお使い下さい。」
 ルージュはわずかに慌てたように、
「いや、それはいい。気持ちだけもらっとく。」
「でも…。」
「俺は兵士と一緒でいいんだ。野宿は慣れてる。俺だけぬくぬくと部屋ん中にいたんじゃ、隊の士気にかかわるからな。」
「さようでございますか…。」
 心配そうな市長にルージュは、
「その代わりっつうとあれなんだけど、もしできたらでいい。何かスープみたいなあったかいもんを用意してくれっと助かるな。」
「スープを?」
「ああ。兵糧はたっぷり持ってきてっけどどうしても乾燥系だから、熱いスープとか飲ましてやっと喜ぶだろ。」
「なるほど…。それはおっしゃる通りでございますね。」
 市長は納得の面持ちで、
「かしこまりました。それでは皆様に何かご用意致しましょう。」
「そうしてくれ。もちろんこっちは大所帯だから全員分はなくてもいい。交代交代で食わしてやっから。」
「判りました。」
「頼むな。」
 ルージュは立ち上がり、部屋を出ようとして足を止めた。
「いずれまた総参謀長から手紙が来る。軍に協力してくれた分、この町の税負担を軽くすっから。その点は安心してくれ。」
 市長は最敬礼して見送った。
 ルージュたちは町を見下ろせる小高い丘をこの地の本陣と決め、隊は幾つかに分けて広場や空き地に駐屯させた。いかんせん人数が多いので町じゅうが兵であふれかえっているように思えたが、軍律を乱した者は即刻絞首刑に処すと厳しく言い渡されているためか、町の者に対して兵士たちは皆紳士的にふるまった。
 夕暮れが近くなるとルージュは、スガーリを連れて各隊の様子を見回りに行った。緋色のマントをなびかせ黒鹿毛の馬を操る姿を、町の者はたちまちに見覚えてしまった。
 広場には女たちが集まって、大鍋を火にかけわいわいと賑やかに炊き出しをしていた。坑夫の妻たちらしい威勢のよさで、
「ああもっとどんどん野菜入れてやんな! 腹ぺこの兵隊なんかブリキの人形より役に立たないよ!」
「そうそう、たっぷり食べてガンガン働いてもらわんとねぇ!」
 そんなことを言いあい、笑っていた。
「すげえな、これがスープかよ。」
 釜に近寄りルージュはシェーラザードを下りた。都の貴婦人たちならば、アレスフォルボア侯爵に声をかけられただけで赤面し腰を屈めたものなのだが、ここの女たちはとまどいもせず、
「ああそうだよ、別嬪さんの元帥閣下! ちっちゃい鍋でことことやってるよりね、この方が美味いし手もかかんないって寸法さぁ!」
 化粧っ気のない大口をあけ、かんらからからと笑った。
 さすがのルージュも圧倒されていると、女たちは彼を取り巻いて、
「元帥っていっても若いねぇ! あんた幾つだいお兄ちゃん。まだ20にはなってないだろ。」
「しかし綺麗な顔してるねぇ…。さぞや女にはご堪能とみたね。よかったらうちに泊まるかい?」
「腰には注意するんだよ、男の命だろ?」
 下品な言葉をポンポンと浴びせた。スガーリはその無礼さに憤り、
「ああ控えよ控えよ! 閣下に向かって何たる暴言を吐くのだ!」
 女たちの輪の中から強引にルージュを連れ出した。
「まことに失礼いたしました。もっとお側近くについておれば…。」
 恐縮するスガーリだったが、ルージュはというとまんざらでもなさそうに、
「俺、泊まっちゃおっかなマジで。」
「閣下っ!!」
 ひゃはは、と笑ってルージュは、シェーラザードの鞍に手を置き爪先をあぶみに掛けた。がその時、向こうから1人の娘が走ってきて彼の背後を通り過ぎた。すると大鍋をかきまわしていた女が、彼女に気づいてこう言った。
「遅いじゃないかカイ! ほらこれ代わっとくれよ!」
(―――カイ!?)
 反射的にルージュは振り返った。木綿の服にエプロンをかけた、赤毛の小柄な娘がいた。
「ごめんねー、洗い物がいっぱいあったから! いいよあとはあたしがやるよ。」
 彼女は髪を束ね直すと、年嵩の女から木のしゃもじを受け取った。ルージュはまじまじとその横顔を見つめた。
 袖をまくりしゃもじを鍋に入れたところで、カイはルージュの視線に気づいた。さすがにドキリとして慌てて顔を伏せたが、
「お前、カイっていうのか?」
 つかつかと彼は近づいてきた。
「は、はい…。」
 消え入りそうな声で答えたカイは、そのあと心臓の止まる思いをした。
「プチ、って奴知ってっか?お前。前ここの市長んちにいた。」
 はっ、と彼女はルージュを見上げた。笑いを含んだアレキサンドライトの瞳は、ヒロとはまた質の違う匂いたつような美しさであった。
 カイの反応の仕方でルージュは、それがYesであることを知った。と同時にまた顔を伏せてしまったカイの頬の赤さによって、彼女の気持ちがまだヒロの上にあることもルージュにはよく判った。
「あいつさ、こんな、ちっちゃな十字架持ってんだろ。青い玉が1個だけ付いた。」
 指で形を作って彼は言った。
「絹を着ようと毛皮着ようと、肌身離さず下げてんぞあいつ。…あれってもしかしてお前がやったんじゃねぇの?」
 しゃもじを握った彼女の手は小刻みに震え始めた。都へ帰る馬車の窓からいつまでも手を振っていたプチの泣き笑いが、鮮やかに脳裏に甦った。
 それだけ言うとルージュはその場を立ち去っていった。カイは少しの間身動きもできずにいたが、はっと我に返ると乱暴に鍋をかき回した。けれどひとたび甦ってしまったプチキャットの記憶は、容易に彼女を開放しなかった。金色の髪と空色の瞳、カカカと笑うハスキーな声、怒った顔、おどけた顔、好きだと言ってくれた時の照れ臭そうな顔…。ただいちど重ねた唇は夜気のせいで少し冷たく、抱きしめられた胸の暖かさとは対照的だったことを思い出した時、カイはぶるっと身を震わせた。
 遠い都の出来事は、カイの店に来る旅人や行商人がこの町に伝えてくれる。王太子の死によって公爵家の若様が国王の養子になったと聞いた時、カイは心のどこかにあった淡い夢を完全に捨てる決心をした。おとぎ話の王子様のように、いつかプチが迎えにきてくれるなどということは、これでもう決してありえないのだと自分に強く言い聞かせた。
 なのにその固い封印を、今のルージュの言葉がぐらつかせていた。プチはあの十字架をまだ持っている、しかも肌身離さずに…。
 カイは汗を拭くふりをして手の甲で瞼をぬぐった。その様子を見ていたのだろう年嵩の女が、
「あーあー、しょっぱいスープができちまうよ、カイ。」
 笑いに紛らして言った。
 
 翌日、ルージュとスガーリのもとへ3人の男がやって来た。筋骨たくましい40がらみの大男と30歳ほどの長身の男、それにルージュと同い年くらいの黒髪の青年であった。何の用だとスガーリが尋ねると、彼らは兵士として働きたいと言った。
「そう思ってんのは俺たちだけじゃありません。」
 青年の顔は真剣だった。
「昨日の夜、町の寄り合い場で話したんです。今はまだ鉱山も雪で閉鎖されてて、俺たちにはこれといって仕事がない。だから軍に雇ってもらえれば、戦力にもなるし金にもなるだろうって。利害が一致してるんじゃないかって。」
 あとの2人もうなずき、
「閣下が許してくれさえすれば、町じゅうの男どもが喜んで集まりますぜ。兵隊は多い方がいいに決まってるでしょうし、力のない男はこの町じゃあ暮らせねぇ。力自慢が揃ってるんです。」
 大男は破れ袖をぐいとまくって、二の腕に力こぶを作って見せた。ルージュが思わず目を見張ったほどの、化け物めいた隆起であった。
「それにあんたは…いや閣下は、プチの知り合いなんでしょう。」
 青年は一種不敵な笑い方をし、
「てことはあんたの役に立てば、回り回ってプチの役にも立つってことになるもんな。」
 長身の男も身を乗り出して、
「プチがこの国の王様になるためだったら、俺たちゃ何でもします。エフゲイアなんざ追っ払ってやりますよ。だから雇ってくれませんかね。お願いしますよ旦那。」
 目を輝かせている3人を前に、スガーリはううむと深吟した。
「まぁそう言われてもな…。希望すれば誰しも入れるという訳にも…。」
「―――いいだろう。」
 しかしルージュは即諾した。
「いや閣下それは…。」
 驚くスガーリを尻目に、
「確かに兵隊は多ければ多いほどいい。ただしこっちにも条件があんぞ。年齢や体格、それに格闘技ができんのかどうか、一応の試験はさしてもらわねぇとな。入隊したからには軍律に従って、それと命の危険は覚悟してもらう。半端な気持ちじゃつとまんねぇぞ。それでもいいって奴は、じゃあこれからすぐ下の広場に集まれ。15歳以上の健康な男だ。」
「本当ですか!」
 剣を握り立ち上がったルージュに3人は歓喜をあらわにした。互いに顔を見合わせて、やったぜなどとうなずいている彼らに、
「おら、もたもたすんじゃねぇよ。町じゅうの男が集まるんだろ? とっとと召集かけに行け。遅れた奴はその時点で入隊資格なし。急げよ!」
「がってんだ!」
 バタバタと走り出ていった男たちを見送り、
「よろしいのですか閣下…。」
 スガーリは不満げに言った。
「確かに兵は多いに越したことはありませんが、やる気はあっても所詮は素人。烏合の衆では戦力になるどころか、いざという時の足手まといにもなりかねませんぞ。」
「んなこた判ってる。」
 ルージュは剣を腰のベルトに差し、
「こうやって町じゅうを味方につけとけば、エフゲイアの間者なんかぜってー入りこめねぇだろ。それに住んでる奴ほど土地鑑のある奴もいねぇしな。町から入隊者が出たとなりゃ軍の士気も上がるだろうし、1石2鳥…いや3鳥じゃねぇか。」
 ニヤ、と笑ってスガーリを見、ルージュは自分のこめかみのあたりを指さした。
「ちったぁここ使えよなここ。…行くぞ!」
「はっ。」
 一礼してスガーリは従った。
 ルージュは兵士たちの中から格闘技に優れた者を数人指名し、集まった入隊希望者の相手をさせた。むろん訓練された兵士たちは、力まかせに突進してくる男たちをたやすく投げ飛ばすことができたが、中には兵士を負かす者もおり、見物に集まってきた女たちの大喝采を浴びた。
 結果的に合格したのは41人だったが、ルージュは落ちた者も全員予備兵扱いとし、輸送や見張りなどの補助的な任務に当たらせることにした。これには男たちも大喜びして、士気はいやが上にも高まった。
「なるほど。これならエフゲイアにも立ち入る隙はございませんな。」
 早速に整列させられ喜々としている新兵を眺めて、スガーリは言った。
「だろ。」
 ルージュも満足そうに笑い、しかしすぐに表情を引き締めて、
「ここからマイストブルクは目と鼻の先だかんな。奴らがいつ攻めてこようと不思議はない。町全体を要塞にしてぇとこだけど、そんな時間があるはずもない。とすればあとは“人”で止めるしかねぇだろ。人の目と人の耳と、守ろうとする気持ちとな。」
「御意、閣下。」
 スガーリは頭を下げた。まさにその通りであった。ルージュは顔を仰向かせ、広場と町を見渡して、
「ここはあいつの育った町だ。来たからにはやっぱ、守ってやりたい…。」
 誰にともなくつぶやくと、素早く馬上に身を据えた。
「本陣に戻る。物見が戻って来てる頃だろ。」
 バサリとマントを翻して彼は広場を後にした。

第2楽章 主題1に続く
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