『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第2楽章 主題1 】

「大使夫妻にご引見のお時間でございます。何卒お召し替えを、殿下。」
 部屋に入ってきた侍従は慇懃無礼に告げた。ヒロが何を言う間もなく、
「失礼致します。」
 7人の侍女たちが扉の隙間からぞろぞろと現れて、彼の周りにひざまづいた。ナーガレットは申し訳なさそうに、顔をうつむけ部屋の隅に佇んでいた。
 侍女たちは憮然と宙を睨んでいるヒロの上着を取りブラウスを脱がせ、靴を履き替えさせ髪をとかし衣装をまとわせ首飾りを下げた。されるがままになっていたヒロは、仰々しい金モールのマントを羽織らせられたところでさすがに、
「いいよそんなん着ないでも。」
 肩を動かし抵抗したが、
「いいえ、王太子殿下が臣下にお会いになる際の規則にございます。」
 能面めいた顔をした侍従は全く譲らなかった。壁ぎわには侍従の他に近衛兵もずらりと居並んでいた。
 監視されているかの如きこの状態は着替えの時ばかりではなく、食事、礼拝、謁見室への移動と、自室にいる時以外のほとんどがそうであった。最初の頃こそとまどいが勝って従順だったヒロであったが、馴染むにつれ虚礼の空しさははっきり目につくようになり、何よりも戦場にいるルージュやロゼの不自由を思う時、相も変わらず二言目には規則だのしきたりだのと言う宮中の人間たちに対して、彼は強い憤りと軽蔑を覚えるようになっていた。
「ではこちらへどうぞ。陛下がお待ちでございます。」
 絹と天鵞絨(びろうど)と宝石で飾りたてたヒロを、侍従は部屋の外に促した。マントの裾は侍童(ペイジ)が捧げ持った。
 ヒロの歩む前後左右は、例によって警備兵が固めた。
「ったく、うざってぇ…。」
 漏らした言葉を侍従は聞き咎め、
「何かおっしゃいましたか?」
 嫌味な横目で尋ねた。
「あ?」
 ヒロはちらっと窓の外を見、
「また雪が降ってきたっつってんだよ。いつまで降りゃあ気が済むんだか。」
「ああ雪でございますか。まことにこの冬はおかしな気候で、今頃になってこの大雪とは。」
「異常だよな異常。ぜってー異常。」
「はい、これぞ異常気象でございます。」
(…おめぇのアタマが異常なんだよ。)
 心の中でそう毒づいて、ヒロは謁見室に入り玉座の隣に腰を下ろした。
 同盟国の外務大臣である大使と表面的な挨拶を交わすと、ヒロは口元だけに作り笑いを浮かべて全く別のことを考え始めた。伍長が知らせてくる義勇軍の訓練状況、新しい小麦についてのジョーヌの手紙、水車と風車のどちらでも使えるというヴェエル考案の潅漑設備の設計図。エルンストの留守を守りつつ次の作戦をたてているロゼからの報告、そして、婚約者の無残な死を悲しんでいる余裕もなく、マンフレッドを決戦場所に選んだルージュのこと…。
(違うよな、おいら…。)
 ヒロの考えは徐々にそこへ行き着いた。
(今おいらのやるべきことは、こんな外国のおっさんの相手じゃなくないか? 大臣どもは会議ばっかやってちっとも具体的な対策はたててないし、夜になりゃあ飽きもせず音楽会に舞踏会。バッカじゃねぇの? 他にやることあんだろがてめぇら。女と踊ってる暇があったら、エフゲイアのネズミの1匹もとっつかまえてこいっつの。)
 悠然と微笑みをたたえている端正な美貌の下にこのような悪口雑言が渦まいているとはつゆ知らず、大使はヒロの気品あふれる王太子ぶりを褒めそやし、国王も目尻を下げてこの美しい後嗣を見やった。
 会見のあとの食事会にまでつきあう寛容さは、ヒロにはさらさらなかった。気分が悪いのでもう休みたい、このままでは倒れるかも知れないという最強の切り札を使って国王の許しを得ると、彼は急ぎ自室に戻り、小うるさい侍従たちを追い払った。
 重たいマントを床に捨て、ベッドに仰向けに倒れたのもつかの間、ノックに続いて歳老いた侍医が入ってきた。反射的に起き上がったはもののヒロがベッドにいたので侍医はおろおろし、
「あ、ああこれはいけません。ご安静になすって下さいまし。ただ今お薬を処方いたしますので…。」
 持ってきたカバンの中から何やらごそごそ取り出した。
「いい。いらねぇ。」
 そっぽを向いてヒロは言った。
「誰かと話してっとムカつく。お前としゃべんのもしんどい。頼むから構わないでくれ。」
「いや、しかし…。」
 困り顔の老人の言葉など聞き入れもせず、
「下がれ。」
 ヒロはポンと靴だけ脱いでベッドにもぐりこんだ。侍医は溜息と薬湯を残し部屋を出ていった。
 足音が遠ざかったのを確かめて、ヒロはむくりと起き上がった。バリバリと頭を掻きテーブルの上のグラスに目を止め、彼はベッドを下りた。苛立ちを握りつぶすようにグラスを掴み、大股に窓べに歩んでバッと両側に開くと、
「誰が飲むかこんなもん!」
 中身を外に撒き捨てた。氷の風が頬を叩いた。ヒロは中宇を睨んだ。暗黒の空にはまるで意思あるが如く大きなうねりを作って、雪たちが渦を巻いていた。
 ちくり、と突然ヒロの胸は痛んだ。体の中ではなくて肌が、火傷したように…いや小さな針でつつかれたように、奇妙な痛みを訴えた。彼はそこに手を当てた。十字架の硬い感触があった。
 ヒロの背中から苛立ちの気配が消えた。ブラウスの布ごと十字架を掴んで、我知らず彼はつぶやいた。
「今、おいらのすべきこと…。」
 彼は瞼を閉じた。遠くで何かに呼ばれている気がした。カイの声、ルージュの声…いや違う、もっともっと大きな何か。それは例えば神のような、あるいは運命、または星。この世ならぬ時空から送られてきた、大いなるものの示唆のような…。
 ヒロは目をあけた。空色の瞳には強く濃い決意の色が浮かんでいた。
 
 厚い雪雲はいつまでもマンフレッドを去らなかった。小やみになったかと思うと吹雪になり、晴れるかと期待させてはまた、町を白一色に染めた。
 その間も休むことなく兵の訓練は続けられ、新兵たちも少しずつ武器の扱いに慣れてきたが、その日は午後から目も開けていられないほどの猛吹雪になり、まさかこの中を敵も進軍しはすまいと、将軍たちは各隊に休息を命じた。ルージュも市長に今日だけはと強く勧められて、屋敷内の一室を寝間に借りた。次の間にはスガーリが控えた。
 市長宅の者は皆この高貴な客人をもてなそうと、ご入浴をお食事をと世話をやいてくれたが、ルージュは無愛想にそれらを断り、早々にベッドに横たわった。もちろん彼とてくつろぎたい気持ちはあったが、前線で気を緩めることがどれほど危険か、ルージュには判っていたのである。
 蝋燭を吹き消し目を閉じると、悲鳴にも似た吹雪の音が耳の底で増幅された。寝返りを打ちつづけルージュは考えた。
 この吹雪は敵にとってどんな意味を持つだろう。休息か、凍死への恐怖か。それなら奴らの足は止まる。ここへの到着は遅くなる。だがもし止まらなかったらどうなる? エフゲイアの真冬は炎も凍ると聞く。この程度の吹雪など、奴らは寒いとも思わないとしたら。夜目の効く物見の視界をも雪は奪ってしまうだろう。こちらの動きが鈍くなった隙に、思うままの場所に駒を進められる。奴らにとってこの夜は最適の天候だとしたら―――
 ルージュは飛び起きた。吹きつける風に窓枠が鳴った。彼は両耳の後ろに手のひらを立て、うつむいて聴覚を研ぎ澄ませた。聞こえるのは風の音だけだった、がルージュには見えた気がした。純白の雪を踏みしめて進む敵の大軍。ガチャガチャと揺れる鉄(くろがね)の馬具。歩兵隊のところどころに松明を持った者がおり、兵たちは一言も発さずに、ザクザクとこの町に近づいてくる…。
「スガーリ!」
 剣を持ちマントは腕にかけ、ルージュは控の間へのドアをあけた。彼はそこで驚いた。スガーリはベッドにも入らず椅子にかけただけで、今ルージュが押した扉のすぐ脇で門兵をつとめていた。
「夜明けにはだいぶ間がございますが、どうなさいました閣下。」
 質問形にはなっていたが、スガーリの口調は落ち着いていた。ルージュはマントの金具を留めつつ、
「すっげ嫌な予感がする。偵察に行くからついてこい。」
「御意。」
 毛ほども慌てることなく、スガーリは彼に従った。
 目を狙ってくる雪を瞼を細めて遮りながら、二騎は北へと駆けた。小一時間も走った頃、道は上り坂にかかった。ルージュはシェーラザードにムチを入れた。やがて二騎は思った通り丘の上に出た。もちろん闇と雪で十分な視野は望めなかったが、雪の勢いは幾分か衰え始めていた。ルージュは目を凝らした。スガーリは辺りを警戒した。
「来た…。」
 低く、ルージュが呻いた。スガーリは馬体を寄せ、彼の見ている方を見やった。粉雪は蛍のように宙を舞い、その向こうはるか遠方にちらちらとうごめく本物の蛍は、
「エフゲイア軍でございますか…!」
「ああ。蛇みたいにうねってこっちに来やがる。見ろよ、鱗が光ってんのが判んだろ。3万、いや4万。下手すっと5万か…。上等じゃねぇか。」
 スラリとルージュは剣を抜いた。スガーリはハッとした。まさか元帥はこのままただ一騎で、敵前に躍り出ていくつもりではないか。一瞬そんな気がしたのだが、
「戻るぞ! 全軍に攻撃命令を出す。急げ!」
 ルージュは馬首を翻した。
 
 両軍第1回めの衝突は未明であった。町はずれの疎林を潜伏場所として、先制攻撃をかけたのはジャズール連隊の方だった。左右から放たれた矢雨にエフゲイアの先鋒隊が崩れると、第2波の騎馬隊が大蛇の胴体に襲いかかった。駆け抜けては斬り込み斬り込んでは引き、奇襲の効果を十分に発揮したと見るや、ジャズール将軍は連隊を退却させた。その背後をエフゲイアの騎馬隊500ばかりが追ってきた。
「弩(おおゆみ)隊、斉射用意! 構えっ!」
 アゴット将軍は号令した。雪で築いた小山の影で兵士たちは矢をつがえた。
「うてっ!!」
 300の兵士が立ち上がり、弓づるが空を切った。敵騎馬兵はバタバタと倒れた。
「続いて第2隊構えっ! 確実に敵の喉元を狙え! うてっ!!」
 悲鳴と血しぶきが雪原に渦まいた。射(い)殺された味方を泥のように踏みつけてエフゲイア隊は幾度も前進を試みたが、アゴット将軍が選りすぐった弩隊は、驚異の命中精度で敵兵を射程距離内に寄せつけなかった。
 だがその時だった。敵後方で大音響が轟きパッと光が見えたと思うや、ズズンと大地が揺れた。弩隊の一翼にエフゲイアの巨大砲が襲いかかったのだ。
「いかん! 引けっ! 退却せよ急げ!」
 将軍は命じ、信号兵に照明弾を投げさせた。それを合図に今度は、歩兵大隊の装甲兵とカサンドル連隊の騎馬兵が閧の声を上げて突進した。命知らずの作戦であった。カサンドル将軍は馬上で怒鳴った。
「よぅし散開せよ! 扇形陣形を崩すな! あんな大砲は恐れるに足りん! 1発撃ったあとの充填時間が敵の命取りだ! ひるまず進めーっ! 我らが背後には元帥閣下がおられるぞ!」
 うわぁーっと兵士たちは応えた。その声に続く2発の爆発音をルージュは陣幕の中で聞いた。ぎゅっ、と彼は剣の柄を握った。閧の声がまた聞こえた。
「戦況は有利です閣下!」
 駆けてきた騎馬兵が告げた。
「敵の動きは不活発で終始後手に回っております! 我が方の損害は軽微、各将軍とも奮闘いたしております!」
 ルージュは軽く目を伏せて何も答えなかった。代わりにスガーリが言った。
「判った。将軍たちに、好機は見逃すな、しかし深追いはするなと伝えろ。」
「はっ!!」
 兵は駆け去っていった。
 正午過ぎ、エフゲイア軍は退却を始めた。追って追えぬことはなかったが、将軍たちはスガーリの代弁した元帥命令を守ったのである。すぐさまルージュは全将官を集め、緊急の軍議を開いた。
 そこでなされた報告によれば、自軍の戦死者はおよそ100人。ほとんどがエフゲイアの巨大砲によるものだった。さらに戦線離脱せざるを得ない重傷者が同じく100人強。自力で歩ける負傷者は250人を数えた。しかし敵軍の残した死体と捕虜の数はこの3倍に近く、初戦の軍配はこちらに上がったと言ってよいであろう。
「やはりあの大砲には波状攻撃がよいようですな。」
 アゴット将軍は言った。軍の先頭に立って指揮をとりながら、この猛将はかすり傷1つ負っていなかった。
「確かに破壊力には目を見張るものがありますが、弾と火薬の装填にかなりの時間を要する模様。加えて台数も10基に満ちませぬゆえ、順ぐりに撃つことは不可能でありましょう。隙をついて斬り込むのは、それほど難しくはございますまい。」
 アゴットの隣でカサンドル将軍も、
「どんなに優れた武器にも必ず欠点はあるもの。そこをうまく逆手に取れば、敵は必ずや自滅いたします。」
「ふむ、まさにその通りですな。」
 向かいでジャズール将軍は大きくうなずいたあと、
「されば閣下。捕らえた捕虜のことでございますが。」
 ルージュの方を見、話を変えた。
「敵軍の指揮系統と作戦及び暗号について知るために、どんな腕ききの忍びを放つよりも有効な手段を用いたいと存じますが、いかがでしょう。ご許可頂けますかな。」
「有効な手段?」
 問い返したルージュの脇で、スガーリは答えを引き取った。
「…拷問か。」
「然様。」
 ジャズール将軍はスガーリにうなずき、再びルージュを見て、
「捕虜の中で隊長以上の者ならば相当量の情報を得られましょう。1人ずつ全員を責め上げます。さすれば偽情報でその場をしのぐこともできますまい。ただし吐いた後は兵士としても奴隷としても使いものにはなりますまいが、こちらの兵力は充実しておりますゆえ、その点は問題ないと存じます。」
「…。」
 スガーリは即答できなかった。敵兵の拷問は彼の配下にある憲兵の仕事であったが、たった今の戦闘のたぎりは憲兵たちを昂らせているはずだ。普段より激しく残忍に、彼らは敵兵を責め立てるだろう。その命令を下すルージュの胸の内をスガーリは思ったのであった。しかし、
「いいだろう。」
 ルージュは許可した。眉も姿勢も全く動かさず、
「隊長以上の者っつったな。何人いる。」
「は、中隊長を筆頭に12名。」
「判った。そいつらから聞き出せ。第9条の適用は外す。」
「御意。」
 第9条とは、『司令官の許可なく敵捕虜を殺害してはならない』というもので、それを適用しないということはつまり、拷問中に敵捕虜が命を落としたとしても罪には問わないという意味である。それほど厳しく責め立ててよいと、元帥が許可した訳である。
 軍議は終わった。憲兵たちを集めるため陣幕を出ようとしたスガーリはルージュに呼び止められた。ルージュはやはり無表情で、だが他の者には聞こえない小声で言った。
「吐いたらすぐ、息の根止めてやれ。無駄に苦しめんな。それから町の奴らにはぜってー見せんなよ。」
 非情を承知でその手段を許したルージュであったが、手応えを得る時間はなかった。日没間近なマンフレッドの町に物見兵が駆け戻り、
「申し上げます! エフゲイアの本陣をつきとめましてございます。ここより北におよそ60ギル(約20q)の地点。総数は5万を優に超えると思われます! なおそこから隊が二手に分かれ、現在我が方へ進軍中の由にございます!」
「何だと!?」
 ルージュは顔色を変えた。昼間の激戦後たったの数時間で、エフゲイアは第2波の攻撃に出ようというのか。
 まずい、とルージュは直感した。二手に分かれた片方はおそらく街なかを狙ってくる。マイストブルクに攻め込んだエフゲイア軍は、民家を襲い略奪し、女子供も容赦なく惨殺し火を放ったのだ。奴らはここでも同じ手を使うだろう。抵抗の手段もない民草を殺戮し、町じゅうをパニックにするつもりに違いない。
「スガーリ! 装甲兵を街なかに配置しろ! 各連隊は町の外周部に沿って警戒態勢。鉱山付近はこの町の兵隊に固めさせろ。それから市長に言って町の者は全員家から1歩も出んじゃねぇと伝えろ。急げ!」
「御意!」
 スガーリはただちに将軍たちに命令を伝え、市長宅へ伝令を走らせたが、町はちょうど夕餉の支度の真っ最中で、肉屋にもパン屋にもにぎやかな行列ができていた。
「敵兵が来るぞーっ! 家に入れ! みんな家に入るんだ!」
 伝令兵は声を限りに町じゅうを駆け回った。
「元帥閣下!」
 陣幕内で物見はひざまづき、
「参りました敵兵の第1陣です! 先頭に巨大砲が5基、続いて弩隊がおよそ一千!」
「来たか。」
 ルージュはスガーリを振り向いて、
「町の様子はどうだ。住人の避難は済んだのか。」
「はっ。市長以下町民兵以外は建物の中にこもっております。」
「よし!」
 ルージュは立ち上がり、声を大に命じた。
「比翼陣形で迎え撃て! 敵は一兵もこの町に入れんな!」
 
 ガラガラと巨大砲を押しながら近づいてくる敵軍を真正面に見据えて、馬上のアゴット将軍は剣を抜いた。
「ようし突撃用意! 敵が止まってからでは遅い、あの砲を撃たせるな! 騎馬隊の突撃に合わせ弩隊は左右から援護射撃! あわてずに砲手を狙い確実に仕留めろ! よいな!」
 おぅ、と応える兵士たちの声は気合も見事に揃っていた。将軍は剣を振りかざし、
「進めーっ!」
 雷鳴にも似た号令を下した。騎馬団700がどっと駆けた。ヒュンヒュンと風を切って太い弩が弧を描いた。
 騎馬団と敵軍の距離あと10メートルの地点で、巨大砲の影からも一斉に弩が放たれた。悲鳴を上げ先頭の一団は倒れた。
「ひるむな! 進め、進めーっ!」
 味方の死体を飛び越え剣で矢を払いつつ騎馬隊は突進を続け、等間隔に配置された巨大砲のはざまから数十騎が敵軍に斬り込んだ。激突すれば両軍とも矢は使えなくなる。白刃が残光にきらめいた。
「砲だ! 砲を奪え! 雑魚にかまうな砲手を倒せ!」
 左手に剣を右手に槍を持ち、アゴットは斬り合いの渦の中で自軍を叱咤した。だがさすがに敵兵も手ごわく、砲の周囲は長槍と盾に囲まれ容易に近づけなかった。そしてとうとう、
「アレィド(撃て)!」
 敵将官の命令一下、5基の巨大砲が火を噴いた。アゴットは瞠目した。2連隊を弓なりに配備した比翼の陣の真ん中に、巨大な火柱が立っていた。敵は5基の斉射でこちらの守りを破り、正面突破するつもりかも知れない。
「いかん! 撃たせるな! 次の砲を撃たせるなぁっ!」
 騎馬隊は敵の槍をかいくぐり何人もの兵を倒したが、5発の大砲をいちどにくらった自軍の損害はいかばかりなのか、続いて突入してくるはずの騎馬隊の姿はただの1騎も見えなかった。
 
「負傷者はただちに下がれ! 看護兵、死骸をどけろ! ジャズール連隊前へーっ! このままではアゴット隊が孤立無援となる!」
 陣の左翼を指揮していたジャズール将軍は、自軍の兵を中央へ移動させその先頭で叫んだ。
「これより第1波から第3波に分けて連続攻撃をかける! 弩隊は前へ! 命知らずの斬り込み隊だ、みな命は我と元帥閣下に預けよ! 続けっ!」
 ムチを受け走り出した将軍の馬の後に300の兵が続いた。通常なら装甲兵が担うはずの斬り込み部隊だったが、彼らは元帥命令により市中の警備に回されていた。胴着と手甲だけの弩隊にとってまさに捨て身の攻撃であった。
 しかし彼らは駆けた。追うようにカサンドル隊の中隊も続いた。敵の矢の的になりながら先鋒が敵陣に届いたその時、巨大砲が2度めの斉射をした。太陽は地平に隠れ世界を夜が支配しだしている、その暗闇を切り裂かん勢いで火柱がまた上がった。兵士たちの腕が足が首が、吹き飛ぶ様さえ見えた。この発砲を合図と決めてあったか、二手に分かれたはずのもう一隊が町の背後ではなく真正面から、手薄になった左翼に突貫してきた。
 
「申し上げますっ! 比翼の陣が破られました! エフゲイア隊が町に侵入して参ります!!」
 血みどろの顔で知らせに来た兵士の背には2本の矢が刺さっていた。ルージュもスガーリも言葉を失った。
「側面から我が方を突くと思われた別部隊が不敵にも我が軍の正面で合流! 倍増した兵力で巨大砲を連射し、決死の斬り込み部隊は敵陣に至るもその後の戦果は見えません!」
「馬鹿野郎!!」
 ルージュはテーブルを蹴倒した。
「元帥閣下ーっ!」
 そこへもう1人の兵が駆け込んで来た。弩隊の連隊長であった。
「将軍が、アゴット将軍が敵陣にて…!」
「アゴットが!?」
 ルージュはマントを肩に跳ね上げた。ズズン、と地面が揺れたのは巨大砲の炸裂だろう。
「近い…!」
 スガーリはうめいたが、ルージュは身を翻して陣幕の外に走り出ていった。
「閣下!」
 追いかけてスガーリは、立ちつくすルージュの背中を見た。陣幕の外の地面には、ぼろぼろの隊旗だけを敷いた上にアゴットの遺体が横たえられていた。連隊長は号泣していた。その遺体には首がなかった。
「くそうっ…!」
 ルージュは剣を鞘ごと地に突き立てた。敵か味方か兵士の雄たけびとともに爆発音がまた聞こえた。
「完全に裏をかかれた…。」
 ぶるぶると肩をふるわせて、
「ロゼが…ロゼがここにいてくれたら…。ちっきしょうっ!!」
 ルージュは柄を握り剣を引き抜くと、いきなり本陣の高台を駆け下りていった。スガーリには止める間もなかった。彼が追った時にはすでにルージュの体はシェーラザードの背にあった。
「閣下! なりません閣下! お静まり下さい!」
「うっせぇ!!」
 ルージュは手綱を掴もうとするスガーリの手をムチで払いのけ、馬の腹を蹴った。いなないて馬は飛び出した。呆然と見送っている兵士たちを、
「何をしている馬鹿者ども!」
 スガーリは叱りつけ、手近につながれていた馬を引き出し股がった。
「ジャズールとカサンドル両将軍に伝えろ! 陣形を三日月に立て直し敵砲手を集中攻撃! これ以上の兵を町に入れるな!! いいな!」
 
「おいっ! 敵兵がこっちへ向かってるぞ! 陣の防衛線が破られたんだ!」
 鉱山の回りを固めていた町民兵の元へ、予備軍として看護兵の手伝いをしていた男が知らせにきた。
「何だって!?」
 男たちは一斉に立ち上がり、粗布のテントから我先に外へ出た。
「何だよあの煙は! すげぇぞ山火事みてぇだ。」
「あれが敵の大砲かよ…。あんなんぶち込まれたら坑道が崩れちまうぞ!」
「駄目だ! 俺たちで阻止しようぜ!」
「がってんだ! おい誰かトロッコ持ってこいトロッコ!」
 鉱山の仕事は高度な共同作業である。鍛えられた男たちはたちまちのうちに、鉄壁の指揮体系を確立してしまった。
 
 敵兵侵入の一報を受けた装甲兵の小隊長は、ただちに部下を大通りの中央に集合させた。
「いいか、我々の任務は民の安全確保だ。敵を見たら斬って捨てよ! 建物に火をかけられぬよう身をもって防げ!」
「来ました隊長! 敵の騎馬兵です!」
「ようし散開! 1人ものがすな!」
 敵軍はたちまち町なかに至り、そこここで戦闘が始まった。倒し倒される味方の間で必死の采配をふるっていた小隊長は、味方の兵を斬り殺して一軒の民家に入っていく3人の敵兵の姿を見た。
(あの家がやられる…!)
 小隊長は甲冑を鳴らして走り、ドアに体当たりした。バリバリとくだけた扉の向こうでは、
「何すんのよっ!」
 若い女が敵に抱えられ悲鳴を上げていた。だが次の瞬間その女は敵の手にガブリとかみつき、力が緩んだ隙を見て横っ飛びに飛びのくや、壁にかけてあった鎌を取って男の脳天に振りおろした。ぎゃっ、と叫んで敵兵は転がった。吹き出す血と脳將に兵士たちはひるんだ。
「出ておいき! ここはあたしんちだよ! さぁっ出ていかないとあんたたちもこうなるよ!」
 女は夜叉の形相だった。敵兵ばかりか小隊長も度肝を抜かれ言葉を忘れた。実はこの小隊長はマイストブルクで壊滅状態になった第2騎甲師団の生き残りで、あの戦さで市民が殺される現場を嫌というほど見てきていた。縊り殺された母親がいた。生きたまま火に包まれた老女がいた。殺された夫の傍らで泣きながら犯されていた女がいた。だがこの町の女は違った。ひるむことなく敵に挑みかかり、女豹さながらに戦っている。
 はっ、と小隊長は我に返り、目の前の敵兵を叩き斬った。血の滴る鎌を握りしめている女の肩を抱え、
「大丈夫か! 走れるな!?」
 女は宙を睨んでうなずいた。
 隣の家でも、またその隣の家でも、女たちは勇猛だった。敵兵たちは竹槍で太ももを貫かれ、鉄鍋で殴られ昏倒し、またある小隊は全員が頭から油をぶちまけられた揚げ句、火のついた薪を振りかざされて犬のように這って逃げた。
「こっちだ! 今のうちに市長の家に避難しろ!」
 小隊長は襲われた家の町民たちを誘導し怪我人の有無を確かめた。ほとんどの者が無傷であった。
 
 敵兵はじりじりと鉱山の入口に近づいてきた。片や町民兵たちは雪道にべたりと腹ばいになり、
「来たぞ来たぞ。馬に乗ってる。」
「何人くらいだ。」
「30てとこだな。」
「よし十分に引きつけろ。こんなとこに俺たちがいるなんて、奴ら気づいちゃいねぇだろ。」
 息を殺してタイミングを計り、ついに、
「よしっ、やれ!」
 1人が指を鳴らした。別な1人が斧を振りおろした。石の台の上でロープが断ち切られ、漬物石ほどの瓦礫を山積みにした古いトロッコが坂の下にころげ落ちた。うわぁーっと敵兵の声がして、すぐに聞こえなくなった。
 
「うてーっ! 敵を近づけるな! 第3陣斬り込み準備! 号令と同時に全速力で前進せよ! いいな! 進―――」
 号令しようと振り返った視界に、カサンドル将軍は信じられないものを見た。はあはあと息をきらして駆けつけた緋色のマントは、
「げ、元帥閣下!」
 本陣深くにいるはずの彼がなぜこんな、と狼狽する将軍に、
「何言い損ねてんだタコ! どけっ!」
 ルージュは隊の正面に出、すでに抜いていた剣をかざして怒鳴った。
「いいか俺についてこい! あんなオモチャにまどわされんな! やられると思ったらそこで負けだ。俺はぜってー死なねぇ! 信じられる奴だけついて来い!」
 ビシッ、と馬にムチをあて走り出した彼に騎馬隊が続いた。援護射撃の火矢が宙を切って飛んだ。
 敵の指揮官は目を剥いた。駿馬の鬣(たてがみ)にも似た亜麻色の髪と緋色のマントを翻して疾走してくるのは、敵総大将アレスフォルボア侯爵。エフゲイア大公フェルナンドT世がその首を落とせと全軍に命じた、敵軍元帥に間違いなかった。千載一遇の好機だと指揮官は思った。ここであの男を仕留めれば自分はこの戦さの英雄である、そう思うと彼の額には興奮の汗が滲み出した。
 だがそのことが逆に命令を遅らせた。信じられない速さで敵将は巨大砲の前を走り抜け、はぁっ!とよく通る掛け声と同時に、軽々と高々と弩隊を飛び越えた。歩兵たちはササッと身構えた。敵将はペガサスの手綱を操りくるりとこちらに向き直ると、
「おらおらかかってこい腰抜けのエフゲイア野郎ども! 俺がじかに相手してやる、文句あっか!」
 盾もなく剣1本だけ握り、燃えるような目で兵士たちを見回した。歩兵の1人が無謀にも斬りかかった。つられるように数人が槍を突き出した。キィンと甲高い音がして、剣が、槍が、腕や手首をつけたまま四方に飛び散った。
「どうしたよ…。」
 敵将は馬を進めた。ひぃっ、と兵士たちは後ずさった。
「ンだよここまで来さしといて、おもてなしはなしか。そういうのを礼儀知らずっつぅんだよ!」
 怒鳴った時数本の矢が放たれた。緋色のマントが揺れた。剣先が半円を描いただけで、役立たずな棒切れは地面に散った。
(こいつは…!)
 指揮官は剣を握った。敵将と目が合った。何という美貌かと指揮官は思った。血に飢えて闇夜を駆けるしなやかな野獣に見えた。
「手出しするな。」
 指揮官は覚悟を決めた。自分よりもはるかに若い総大将、この獣を倒してみたい。喉、胸、それともその美しい眉間から、吹き出す血の熱さを感じてみたい…。彼は剣を抜き、呼びかけた。
「アレスフォルボア侯! 当連隊司令官のモーガンがお相手申す。その御首(みしるし)頂戴致す!」
 ニヤ、と敵将は笑った。悪魔と天使が二重写しになった。モーガンは剣を構えた。敵将は防御もせずに剣を下げた。誘い込みか、とはチラリと思ったが、モーガンはそのまま突いた。
 躱された。体重を乗せた一突きだった。ぐらっとバランスが崩れた。敵将は剣を寝かせた。体勢を立て直す間はなかった。やっ!と気合が聞こえたかと思うと、目にも止まらぬ速さで剣先が躍りかかってきた。上下左右に間合いも測らせず、まるで10本の剣に突かれているようなものだった。柄元で防ぐのが精一杯だった。モーガンの視野は霞みだした。
 目を細めた瞬間を敵将には隠しきれなかった。胸のあたりでズブッと鈍い音を聞いた、直後に世界は暗転した。自分の身に何が起きたか、痛みも判らぬうちモーガンは絶命した。どしんと地面に落ちた首は、目をあいたまま転がった。
 うぁぁ、とも、おぉぅ、ともつかない悲愴な声を出し、エフゲイア兵は及び腰で後ずさった。モーガンは全軍で1、2を争う剣の名手であった。その指揮官を苦もなく斬り捨てた敵元帥を目の当たりにし、彼らは戦意を喪失していた。緋色のマントと亜麻色の髪の美貌の悪魔が斬り込んできた―――衝撃はたちまち軍全体に伝播し、エフゲイア隊は劣勢に回った。
 ルージュは駆けた。シェーラザードを操って敵陣内を駆け回った。身の程を知らず向かっていった者は数秒後に死体になった。脂の巻いた自剣を彼は左手に持ち替え、敵将の1人から奪った大刀を自在に宙に舞わせた。
 深夜、敵軍は退却を始めた。味方も疲れきっていたので、ルージュは追うなと命じた。雪野原の真ん中に馬を立たせていると、徐々に全身の感覚が戻ってきた。右腕は痺れ肩に疼痛があり、左の頬には火矢がかすめたらしい軽い火傷が、左手の甲には血を流している傷口があった。その傷を唇に押し当てた時、
「他にお怪我はございませんな、閣下。」
 いつからそこに控えていたか、すぐ後ろでスガーリの声がした。
 一睡もせぬままルージュは将官たちを集め、戦況の報告をさせた。敵味方ともに死者負傷者は初戦の4倍に上り、アゴット将軍が戦死した他はジャズール将軍が腹を刺され重傷、弩隊は3分の1が負傷し騎馬兵も相当数が失われた。
 その中で驚くべきは、装甲兵に警護させていたとはいえ町民の大部分が無傷であったことだった。火をかけられた家屋もあったが懸命の消火作業により全焼はまぬがれ、町民の手によって捕虜となった敵兵は何と50人もいた。
 報告のあとの議題は、当然次の作戦についてであった。失った戦力をどう補強して、いつ攻め入るかあるいは待ち構えるか。あの巨大砲を封じるないし奪いとる方法はないものか…。
 夜明けまでかかって出された結論の1つは、町民全員の避難であった。それによって装甲兵を街の警備ではなく前線に配備することができる。エフゲイアの目的は殺戮ではなく鉱山の奪取であることは明白だった。だから避難は有効な策である―――ということを、翌日ルージュは教会の礼拝堂に町民たちを集めて自ら説明したのだが、
「冗談じゃねぇよ!」
 町の者全員が大反対した。
「あんたたちはこの街のことを何も判ってねぇじゃねぇか! 鉱山だって俺たちが守ってなかったら、今ごろあの馬鹿でかい大砲にぶっ壊されてるわ!」
「悪いけど兵隊さんたちゃあ、俺らを誘導しただけでロクに戦っちゃいねぇ。そんな奴らにこの街預けて逃げろだぁ? ふざけんじゃねぇよ俺たちをなめんな!」
「だからそうじゃなくて!」
 ドン、とルージュは壇を叩いた。堂内は薄暗く、彼には全員の顔は見えなかったが、その時ルージュから見て右斜め奥の入口の扉が一瞬開き、サッと短い光が差し込んだ。遅れてやって来た誰かだろうと彼は思い、気にせずに話を続けた。
「そうじゃない。誤解すんな。装甲兵たちは戦うことよりも、お前らを守る方が優先だったんだ。そうしろと俺が命令した。だから兵士たちは…」
 その言葉もかき消す大きさで、あちこちから怒鳴り声が上がった。
「へっ聞いてられっかよ!」
「よそ者に俺たちの鉱山が守れるわきゃねぇ!」
「そうだそうだ!」
「ここで死ぬなら本望だよ! 俺たちは命よりもなぁ、あの鉱山が大事なんだ!」
 声は高まり拳は突き上げられ、礼拝堂全体が波のようにうねった。
 ルージュは唇を噛んだ。兵士たちなら無条件で従う元帥命令であるが、街の人間に対しては強制する手段はなかった。口々に反対しているうち町民たちの雰囲気には、殺気めいた異様なものが生まれてきた。まずい、とスガーリは腰の剣を確かめた。今にも誰かが駆け寄ってルージュにつかみかかりかねない―――と、その瞬間だった。
「待ってくれ。」
 入口近くで声がした。ルージュはギクリとその方角を見た。聞き覚えのあるハスキーボイス。いや、まさか、あいつがここに来るはずは…。
「…プチキャット!!」
 気づいた男が叫んだ。どよっ、と礼拝堂が揺れた。ルージュは言葉を失くした。声の主はわずかに息をはずませつつ、頭からすっぽり被っていた藁蓑を脱いだ。ヒロに間違いなかった。
「みんなにとって、この街と鉱山がどんなに大切か、おいらはよく知ってる。」
 一転して水を打ったように静まり返った堂内を、ヒロはゆっくりルージュの方に歩み寄りながら言った。
「だから自分たちの手で、命がけで守りたい気持ちも痛いほど判る。でも、今だけはルージュの…いや元帥の言うことを聞いてくれ。エフゲイアは鉱山がほしいんだ。そのためにまた何度も何度も攻めてくるだろう。大砲を撃ち、家を壊し、女だって子供だって容赦なく殺す。そんなことにならないように、元帥は町の警備に兵隊を差し向けたんだ。だからその分、敵への攻撃力は弱まっちまったんだよ。判るか? みんなのために、軍隊は犠牲を払ったんだ。立派にみんなを守ってくれたんだ。」
 正面の壇の前で、ヒロは町民たちを見回した。誰も言葉はなかった。
「判りました。」
 やがて答えたのは市長であった。立ち上がった彼にヒロは、懐かしさと感激の混じったえもいえぬ表情を向けた。変わらぬ微笑みで市長は言った。
「この町と鉱山を守るために、それが一番いい方法だというのなら、私たちに反対する理由はありません。どうか1日も早く、平和な町を取り戻して下さい。」
 市長は頭を下げた。ヒロはそれよりさらに深く礼をした。
「約束します。」
 うん、とうなずいた市長の目もうるんでいた。
「お元気そうで何よりです、王太子殿下…。」
 呼びかけられてヒロは首を振った。
「よして下さい。おいらはプチです。この町にいた時と同じ、プチキャットです。何も変わってません。」
「…抱かせてもらって、いいですか。」
 市長は彼に歩みよった。照れ臭そうにヒロは顔を伏せた。市長は両腕をヒロの体に回し、深く胸に抱きしめた。
 町民たちへのそのあとの指示は市長が出した。正規に合格した町民兵以外は全員今夜じゅうに準備をして、明日の朝護衛の1小隊とともに本陣エルンストへ避難すること。その代わり戦さの様子は定期的に早馬を送って報告してほしいとの希望を、ルージュは即座に飲んだ。
 話は全て済んだ。町民たちは礼拝堂を出る前に、皆ヒロのもとへやって来た。親しげな口調で彼らと話し、肩を叩き抱擁し合うヒロの背中をルージュは見ていた。
 10人去り20人去り、堂内にはヒロとルージュと警備兵だけが残った。ほっ、とヒロは息をついて、そろりそろりと振り向いた。ルージュの視線が待ち構えていた。彼は憮然と腕組みしていた。
「よ。」
 ヒロは誘い出し笑いをした。
「久しぶりじゃんかよぉルージュぅ。元気だったかぁ?」
「…ああ。」
「ンだよぉ、そんな怒ったような顔すんなよぉ。やだなーこぇぇじゃんかよぉ!」
「怒ってんだよ。」
「なんでよぉ! 怒ることないでしょあなたぁ! こやってはるばる来さしといてぇ!」
「来さしただぁ?」
 ルージュはサッと腕をほどき、ヒロの両肩を鷲掴みにした。
「何考えてんだ馬鹿野郎! てめ、この戦さの最中にこんなとこまで来やがって!」
「いていていて! いてぇよルージュ! いてぇ!」
「いいかお前に何かあったらなぁ! 俺らは何のために戦ってんだよ! 何のために犠牲払って、ここでこうやって―――」
「ごめんっ!」
 ヒロはいきなり体を2つ折りにした。そのままの姿勢でさらに、
「自分の立場もわきまえない軽はずみな行動でした! 我儘で勝手でどうしようもない、ほんとに大馬鹿野郎ですっ! でももう自分でもどうにも我慢できなくなって…」
 早口でまくしたてたあと、ヒロは両手を合わせ上目づかいにルージュを拝んだ。
「わり。来ちった。ごめん。堪忍して。」
「馬鹿野郎…。」
 脱力したようにルージュは溜息をついた。ヒロは掴まれた腕をさすり、
「一応さ、置き手紙はしてきたから。大丈夫だよ都には陛下がいるんだし。」
「それにしてもなぁ…。」
 ルージュはヒロが着てきた藁蓑を見、
「なんだよさっきのカッコは。どこのミノムシかと思ったぜ。」
「あ、これ?」
 ヒロは苦笑しつつ手に取った。
「いやー実はさぁ。急いで出てきたもんだからおいら金持ってくんの忘れちゃって。途中で腹が減って腹が減って、ここ着くまでに死にそうになったから、しょうがないんでマントをさ、売ったのよ。そのへんの農家に。」
「マント!?」
 ルージュは再び顔色を変え、
「おま、まさか王家の家紋入りのやつなんか売っばらってねぇだろな!」
 そんなことをしたらたちどころに、王太子はマンフレッドに向かったことが敵の耳に入る。だがルージュの驚愕などどこ吹く風で、
「まさか。そんな目立つもん着てこねぇよ、おいらだって馬鹿じゃないんだ。」
 ヒロはケロリと、
「ちょっとな。ナーガレットの借りてきた。」
「ナーガ…?」
「うちの衣装係。ぼーっとしてんの。いやあいつさぁ、こないだ出かけっ時にこんなぼわぼわのついたあったかそうなの着てやがったから、あっ、あれいいなと思って…。まぁ、事後承諾でいいやと思って。」
「んで何。お前それ売っちまったの。」
「だってしょうがねぇじゃんかよぉ! 王太子が行き倒れなんつったら末代までの恥だろぉ?」
「判ってんなら出てくんなよ…。」
「ま、帰ったらよく謝っとくから。でもそのおかげで農家に肉とか野菜とか食わしてもらって、ふんで弁当と、それにあの蓑もらって。いやー助かった助かった。困った時はお互い様だよな。いい国だ。」
「まぁな…あのカッコじゃ王太子っていうよりは、何つーか馬泥棒みてぇだよな。よくつかまんなかったなお前。」
 ようやくルージュは笑い、ヒロもホッとした笑顔を見せた。
 
 2人は教会を後にすると、轡を並べて市長の家に向かった。途中の道々をヒロは懐かしげに見回した。あの広場もこの四つ角もどこも変わっていなかった。しかし町なかに入ると、避難のための荷づくりに大わらわになっている民の姿をそこかしこで見かけた。ヒロの笑顔は徐々に曇った。隣でルージュは言った。
「みんな、じきに戻って来れんだろ。この町の奴らはたくましいよな。さすがはお前の育ったとこだけあるよ。」
 ヒロはそれには応えず、2人はしばし黙った。石畳を打つ蹄の音だけが妙にはっきりと耳に届いた。ルージュは左の手綱を軽く引いた。角を曲がろうとしたのだが、ヒロはそうしなかった。
「おいどこ行くんだよ!」
 呼びかけるとヒロは振り向きもせず、
「こっちのが近ぇの。」
 まっすぐに馬を歩ませた。急いでルージュは追いついた。
 なるほどこれは地元の人間しか知らないだろうという路地を抜けて、2人の馬は市長宅への通りに出た。ヒロの視線が落ち着かなくなったのをルージュは感じた。どうした?と聞く前に彼は、行く手の道端で荷車を囲み、わいわいと話をしている集団に気づいた。近所同士の何家族かが一緒に荷造りしているのであろう、子供もいるらしいし大変だなと思った時、ヒロの白馬が走り出した。
「おいっヒロ! おい!」
 ムチを当てようとしたルージュにヒロは言った。
「先行っててくれ! すぐ行くから!」
 危ないから駄目だと叫びかけてとどまり、ルージュは背中を見送った。あいつはこの町の隅々を手のひらの如く知っている。身なりは貴族だが銀のサッシュはしていないから、まさか王太子だとは判るまい。市長の家はすぐそこだ、追いかけるまでもないだろう。そう結論したルージュのもとへ伝令兵の馬が走ってきた。
「お探し申しました閣下! 物見から情報が入っております!」
「なに?」
 彼は表情を引き締めた。
「こちらでご報告してよろしいでしょうか。」
「待て。」
 ルージュは兵士を道の真ん中に連れていった。極秘の会話はなるべく物陰から遠いところで交わす、これが戦さの鉄則なのだ。伝令兵はルージュの耳元に顔を近づけて言った。
「敵陣に妙な動きがございます。2個中隊がそれぞれ西と東に分かれ北上を始めた由にございます。」
「北上?」
「はい。まるで自国へ退却するかの如く。」
「いやそれはねぇだろ…。」
 ルージュは考えた。あれだけの大軍を率いてやってきたエフゲイアが、1度や2度の劣勢で逃げ帰るとは思えなかったし、それに移動しているのが2個中隊というのも解せない規模であった。
 伝令兵はさらに言った。
「残る本陣は静まり返っておりまして、見張り兵が交代しております他は剣の音1ついたしません。ただ陣べりにはずらりと巨大砲が並べられており、無闇には近づけない状態でございます。」
「何だよ籠城でもする気かよ…。」
 ルージュは腕を組んだ。敵の出方が判らない時の戦法は、カマをかけて反応を見るか、ひたすら待つかのどちらかだ。この場合はいずれが得策か、それを判断しなければならないのは元帥であった。
(ひょっとして、援軍呼びやがったか?)
 すぐにルージュは思い至った。北上中の2個中隊は、万が一こちらが追跡をかけた場合のおとりで、入れ代わりに本国から大軍が押し寄せる筋書きなのかも知れない…。
「時間がねぇな。」
 ルージュは言った。敵が援軍と合流する前に徹底的に叩いておかなければ、数がふくれ上がってからでは遅い。住民避難はやはり正解だったなと、ルージュは独りうなずいた。
 
「駄目だよそんなものそこに積んじゃあ! バランスが崩れて馬を疲れさすだろ!?」
 太った女は亭主に怒鳴り、彼をどんと押しのけた。亭主も負けじと、
「何言ってんだこのオタフク! これがなかったら向こう着いてから、1家7人食うものも作れやしねえ!」
「だからそこに積むなって言ってんだよ! ほら! ここに置いてよーく縄で縛っときゃいいだろう? 引っ込んどいで役立たずが!」
 家の前に集まり大騒ぎで荷造りしているその一団の中には、カイの姿もあった。すっかり仕切り役となった太った女は、
「ああ、カイ! それも積むんだね? 必要じゃないもんはなるべく置いてっとくれよ!」
「判ってるよ。これはうちの弟たちの着るものと毛布。嵩張るけど軽いから乗せてもらっていい?」
「ああそんならそこの隙間のとこに突っ込みな!」
「ありがとう。」
 2頭の馬に引かせる大型荷車は、両隣3軒が共有で使う相談になっていた。カイは汗をぬぐった。見ると向こう側から荷物を積もうとしているのは、乳飲み子を背負ったエマという若い母親だった。体調が思わしくないと言っていた彼女は、やはり今日も青ざめた額につらそうな汗を浮かべていた。
 あっ、とエマは声を上げた。荷物を包んでいた布が破れたのだった。同時に背中の赤ん坊が火のついたように泣きだした。あやすこともできずに荷物をかき集めている彼女のもとへ、カイは行ってやった。
「エマ、赤ちゃん見ててあげる。下ろしな。」
「えっ?」
 エマは振り向いた。カイは女同士だけに通じるいたわりの目くばせをした。エマは背負い紐をほどいた。
「ああよしよしよし、泣くんじゃないよリリー。いい子だいい子だ。」
 カイは赤子をあやした。空腹なのではなくただ驚いただけだったらしい、ぐずりはすぐにおさまった。だがエマの作業が終わるまでこうしていてやろうと、カイは荷車から離れて歩き始めた。
 目尻に涙を湛えたリリーは、いまだこの世の汚れという汚れに全く染まらぬ生き物であった。私も誰かと結婚したら、こんな風に子供を産むのだろうな。そう思ってカイは何げなく顔を上げた。
 純白の馬が、こちらへ走ってくる。どきりと彼女は足を止めた。馬上には1人の青年がいた。黄金の髪に空色の瞳、表情はいつもおどけていても、その実溜息が出んばかりの美貌…。近づくと彼はひらり身を躍らせ、3メートルほど先の地上に舞い降りた。彼女の恋人・プチキャットがそこにいた。
「カイ…。」
 1歩進んでプチは呼んだ。
「元気だったか、カイ…。」
 彼女は1歩下がった。はじける寸前の複雑な笑顔でプチはさらに近づいた。
「会いに来たんだ。お前に会いに、おいらここまで来たんだよ。」
「…。」
 カイは後ずさった。足が勝手に動いていた。
 自分の心が頭が体が、てんでばらばらなのを彼女は感じた。最初は幻ではと疑い、違うと判るや喜びが突き上げ、だが次にはとまどいと、ある種の恐れがカイを支配した。
 恐れの理由は別離の記憶であった。公爵家の馬車を見送った時の、そして彼が王太子になったと聞いた時の、あの血の出るような胸の痛みを、忘れろと言う方が無理な話だった。
 さらにプチは気づいていないのかも知れないが、長いこと会わなかったカイには判った。今や彼は別人のようだった。公爵家に住み王宮に暮らし、その環境は若い彼の柔軟な感性に働きかけて、雰囲気や物腰を自然と変えさせていた。仮に昔のぼろ服を着せても、今の彼は誰が見たとて、貧しいみなしごの坑夫には見えまい。そこにいるのはプチではなく、ヒロという名の青年だった。やがてはこの国の主となる、王太子リーベンスヴェルトであった。私とはもう住む世界が違う人…。カイにはそう思えた。
「どうしたんだよ。」
 だがプチはまた歩み寄ってきた。表情に不安が見えた。
「おいらだってば。なんで逃げんだよ。カイ。おいらあの十字架―――」
 ひいっと赤子がまた泣きだした。ハッとして2人はカイの腕の中を見た。プチは小声で尋ねた。
「その赤んぼは…?」
 咄嗟にカイは笑った。
「決まってるじゃない、あたしの子よ。」
「お前、の…?」
 プチの語尾は震えていた。
「お前、結婚したのか…?」
「そうだよ。だってあたし長女だし、いつまでもグズグズしてオールドミスになんかなりたくないもん。」
 わざと蓮っ葉な調子で言い、彼女は錐で突かれるほどの痛みを感じた。プチは涙ぐんでいた。
「そっ、か。」
 だがそれも一瞬だった。プチは振り切ったように笑った。
「そうだよな。お前おいらより1こ年上だもんな。よかったな、ババァにならないうちにもらい手が見つかって。」
 ははっ、と乾いた笑い方をし、
「…幸せなんだな。」
 確かめるが如くプチは言った。今度は自分が涙ぐみかけてカイは素っ気なく言った。
「荷造りでさ。忙しいんだあたし。だからもう行くね。じゃあね。」
 リリーを抱きしめ、彼女は走った。リリーはいつまでもべそをかいていた。
 
「…どうしたんだよ。」
 夕食後、市長宅の客間で、ショコラの入ったカップを持ちぼんやりしているヒロにルージュは言った。え?とヒロは顔を上げた。
「お前、夕方から何か変だぞ。メシだってあんま食わなかったろ。どっか具合でも悪いんじゃねぇだろな。」
「いや平気平気。ちょっと旅疲れ。今夜寝れば治るよ。何でもない。」
「そうかな…。」
 ルージュの表情は納得していなかったが、ヒロはショコラを飲み干して立ち上がり、
「おいらね、この庭の馬小屋にいたんだ。ほらそこそこ。見えんだこっから。馬小屋っつってもね、床にバーッて干し藁敷くとへたな絨毯よりあったけぇんだよな。んでぇ、この壁の上んとこに蝋燭立てて本読むのね。たいてい2〜3ページで眠くなっちゃうんだけど…」
 そこでやはりヒロは思い出した。本を読んでいるとよく、カイが食事を持ってきてくれた。焼いたジャガイモや熱いシチューや、デザートは林檎だったりアンズだったり―――
「ま、懐かしいのは判っけどよ。」
 先ほどからずっとタイミングを計っていた話を、ルージュはそこで切り出した。
「明日、町の奴らと一緒にここ出ろよ。ひとまずエルンストに行け。あそこならロゼがいっから安心だろ。あいつとよく相談して、陛下への言い訳も考えてもらえ。都へは護衛兵と、それからシュワルツも一緒に…」
「ん? わり、聞いてなかった。何だって?」
 きょとんとした顔をヒロは振り向けた。ルージュは舌打ちした。さぞや抵抗し反発するだろうと覚悟していたのに、馬鹿に大人しく聞いているなと思った、それはやはり間違いだったのだ。もう1回言わすのかよとつぶやき、ルージュはヒロを見た。今度は彼も、ルージュの言葉を待っていた。
「明日。ここ出てロゼんとこ行け。着るもんも変えて平民のふりして、町の奴らに混じってな。次の戦闘が始まる前に―――」
「冗談じゃねぇよっ!」
 窓辺からヒロは飛んできた。やはり、とルージュは溜息をついた。
「やだかんな。おいらぜってーここ出ねぇかんな!」
「ぜってー、ってなぁ…。」
「んな、今日来てすぐ明日出てけなんて、あんまりじゃねぇかよルージュぅ。それじゃおいら何しに来たのか、判んねーじゃねぇかよぉ!」
「何しにって…んじゃ聞くけど、お前ここに何しに来たんだよ。」
 ぐっ、とヒロは詰まった。ルージュはシニカルに続けた。
「俺に会いにか? 都で1人で寂しかったのか? 俺もロゼも戦地に行っちまって、自分だけ何もしてねぇのがどうにも我慢できなくなったのか? お前のそういう自己満足になぁ、つきあってる場合じゃねぇんだよ!」
「違う!!」
 ヒロはルージュを睨み返した。
「違う。そうじゃない。おいらは…おいらには、誰かが、何か大きなものが、ここで呼んでる声が聞こえて…。」
「馬鹿かお前。」
 ふん、とルージュは鼻で笑った。
「メルヘンしてんじゃねぇよ。『何かが私を呼んでるのぉ』ってか? いいかヒロ。ここは前線なんだ。明日にもエフゲイアの大軍が俺ら殺しに攻めてくる。町の警備に兵隊割いてる余裕はねぇ。だから全員を避難させる。そこにこんだお前にいられたんじゃあ、何の意味もねぇんだよ。お前は死なす訳にいかねぇ。俺はお前まで…お前まで死なす訳にはぜってーいかねぇんだよ!」
 ルージュの脳裏には忌まわしい記憶が蘇っていた。あの雪の夜、公爵夫人は殺された。遺体にとりすがってヒロは泣いた。夫人の敵(かたき)は俺の兄ルワーノ。生涯打ち消すことのできない、こいつに対する俺の罪…。
「ルージュ…?」
 ヒロは大きな目を見開き、とまどいのまばたきをしていた。ルージュは彼の手首を放しソファーに背を戻した。黙ったままのヒロに何か気づかれたかと思ったが、
「だから、死ななきゃいいんだろ?」
 意外やヒロはニヤリと笑った。
「おいらだって死ぬのはやだよ。そんなんお前に言われるまでもねぇや。自分の身くらい自分で守れるっつの。」
 ヒロはガキ大将のようにクイとあごをしゃくった。
「ついて来な。ほんとは町の奴以外にはぜってー教えちゃいけねんだけど、まぁ場合が場合だし、特別に連れてってやらぁ。」
 言い終わる前にヒロは歩きだしていた。ルージュは剣をつかみ立ち上がった。
 勝手知ったる市長宅の廊下を、ヒロはスタスタ歩いて裏庭に出た。途中台所で仕入れた小さな燭台の明かりを頼りに、薪を積んだ小屋や藁で覆った鶏小屋の脇を通り抜けると、人間の2〜3人は燃やせそうな石組の焼却炉があった。当然あたりには異臭が漂い、ルージュは思わず鼻をつまみたくなったが、ヒロは平気な顔で覗きこみひょいと身を屈めると、驚いたことに炉の中に入っていった。
「なっ…。」
 ルージュは声を失って、ただヒロのすることを見守った。ヒロは中腰の姿勢でつきあたりの石を撫でたかと思うと、燭台を足元に置いてゴトリと石をはずした。人ひとりが何とか這って通れそうな、四角い通路が口を開けていた。ヒロはルージュを手招いておいて、燭台を先に奥に入れ、イモ虫よろしくよいしょと這い入った。
「おいルージュ何してんだよ、早く来いよほら。」
「来い、ってお前…なんだよこの宝探しみてぇな道はよ。」
「着きゃ判るっつの。ゆっくり行くかんな、ちゃんとついて来いよ。―――あ、それとな。」
「あ?」
「もし屁ェこいたらごめんな。」
「こくんじゃねぇっ!! 刺し殺すかんなおめー!」
 2人は前後に連なって窮屈な通路を進んだ。
 さしも鍛えたルージュの背中も無理な姿勢に痛み出した頃、2人はようやく出口に着いた。が出口といっても、1メートルほどの落差を飛び降りて彼らが立ったところは、地上ではなくまた別の洞窟の中であった。足元にちょろちょろと聞こえる水音は、地下水路が小川になっているのだろう。ヒロの燭台の明かり以外は何ら光源はなかったが、白っぽい土の壁がその光を反射させて、互いの顔だけは何とか見ることができた。
「ンだよここは…。」
 つぶやいたルージュの声は不気味にこだました。
「鉱山の地下。」
 応えるヒロの声も反響ににじんだ。
「昔使ってた坑道だけど、こっちがたはもう掘りつくされてなんもないんだ。マンフレッド鉱山てのはどこもかしこも、こんな風に迷路みたくなってんだよ。」
「ふーん…。」
 ルージュはあたりを見回した。蝋燭の炎が時々ふらっと揺らぐのは、どこからか風が入ってきている証拠であろう。何百年にも渡る採掘の結果生まれた、町の者以外はたどることのできない道だった。
「こっち。」
 ヒロは再び歩き始めた。
「ぜってーはぐれんなよ。2度と会えねぇぞ。」
 無言でルージュは続いた。さすがに反論はできなかった。
 怪物の体内めいた通路は右にくねり左に曲がり、時に階段を下りたり登ったりして、方向感覚を全く失ってしまったルージュは、本能的に左手を壁に触れさせながら進んでいた。すると彼の指先は突然、異様に粗く柔らかい土の感触をとらえた。何だ?と思う間もなくぞよりと動くものを知り、
「わっ!」
 思わず飛びのいたルージュは、ヒロの背中にどんとぶつかった。
「ンだようるせぇな。女みてぇに騒ぐんじゃねぇよ。」
 ヒロは邪険に肩を振り、壁に燭台を近づけた。
「ああ蓋蜘蛛の巣に手ェつっこんじまったのか。」
「蜘蛛…?」
 無意識に左手を服にこすりつつルージュは聞き返した。見ると壁の一部がモグラの巣のように盛り上がっていて、今ルージュが崩した部分からはグレイと茶色の縞模様が覗いていた。
「何だ蜘蛛かよ、ふざけやがって。」
 照れ隠しに舌打ちした彼だったが、ヒロはさらりと言った。
「こいつに噛まれて毎年4〜5人は死ぬんだ。平均でな。まぁ猛毒がある割に大人しい蜘蛛だから、よっぽど驚かさなきゃ平気だけど。でもこいつ、ムカデとか他の毒虫食ってくれんで殺せねぇのよ。そこいら中に巣くってんぞ。気をつけろ。」
「そういうことは最初に言えよ…。」
 気弱な語尾でルージュは言った。
 2人はほどなく洞窟の突き当たりの、小部屋めいた空間に出た。ヒロは燭台の炎を、石の台に据えられていた百目蝋燭に移した。蝋燭はあちこちにあった。全てに灯をともすとその部屋は、会話するには十分な明るさになった。
「驚いただろ。」
 得意げにヒロは言った。
「鉱山で働いてる奴らはみんな、何か特別な打ち合わせがある時はここに集まるんだ。班長の選出とか新しい坑道を決めるとかな。ここならエフゲイアも判る訳ねぇだろ? 戦闘になったらおいらここに隠れてるよ。食料と明かり持ち込めば半月やそこらは暮らせる。たまに陽に当たんねぇと病気になんだろうけどな。」
「こんなとこがあんのか…。」
 ルージュは感に絶えたように言った。とりあえずこの洞窟に潜んでいてくれるなら、エルンストへ逃がすよりも安全には違いない。万一戦況が今よりも悪化した場合は、またその時に考えるとして――。
「判った。」
 ルージュはうなずいた。
「俺が逃げろっつったらすぐ、ここに隠れて出て来んなよ。いいな。約束できんなヒロ。」
「おっけおっけ。この鉱山はおいらにとっちゃ庭みてぇなもん。1回逃げこんだらお前にだって見つかんねぇ自信はあるよ。ジモッピーをなめんじゃねぇぞ。」
「俺にすごんでどうすんだよ。」
 ルージュは苦笑した。
 2人は来た道を辿り、市長宅へ帰った。彼らの外出に気づいた者は誰もいなかった。
 ヒロは机から紙とペンを持ってきて、鉱山の中を坑道がどのように通っているのかルージュに説明してくれた。それによると先ほどのような地下道は鉱山内ばかりかこの町の下いたるところにあり、大雨によって地盤が緩んだりすると、突然あたりの地面ごと建物がストンと陥没するのは、この地方では決して珍しくはなかった。
「気がついたかな。この町の家は町の北っかわに多いだろ。それもおんなじ理由。南の方が地層の関係で崩れやすいんだって。だからみんな北の方に密集して建ってて、南にあんのは広場と畑。あとは草っぱらばっかなんだよ。」
「なるほどな…。」
「んでこれが第1坑道。南から入って鉱脈の横っぱらにぶつかるように掘ってある。こっちっかわから回り込んでんのが第2坑道。岩盤がかてぇから事故は少ない代わりに、掘り進むのにすっげ力がいんのね。だから若い奴らはなるべくこっちに集めて、んで第3坑道がこれ。急斜面で水が出やすくて…」
 説明を聞きながらルージュは、かつてない頼もしさをヒロの横顔に感じ始めていた。彼の言動にはこれまで幾度となくドキリとさせられたが、慣れ親しんだ故郷の風はヒロの瞳を生き生きとさせ、動作には機敏さを言葉には自信を、はっきりと宿らせていた。
「本陣はどのへんに敷いた?」
 ヒロに聞かれルージュは地図を指した。ふぅん、とヒロは腕組みし、
「いいとこ選んだな。風上か。矢の射程距離が伸びんだろ。」
「風上?」
 全く意識しなかったことだったのでルージュは聞き返した。
「ああ。今の季節の風はこっちからしか吹かねぇの。鉱山の斜面からな、吹きおろしてくんだよ。攻め込むにしても敵にすりゃ向かい風だし、不利だろ。」
 ニヤ、と笑うヒロの不敵な表情に、ルージュは何万の援軍を得た気がした。両軍の中で最も土地鑑があるのはこのヒロなのだ。さらに自軍に王太子がいるという事実は、兵たちを鼓舞し戦闘意欲を高める何よりの護符になるだろう。それはもちろんルージュ自身にとっても、同じ意味があったのである。
 それから小半時のち、ルージュは本陣に戻った。司令官たちの報告を聞いたあと、彼はスガーリを連れ、傷ついた兵士たちのテントを見舞った。入口の幌をまくると消毒薬の匂いが鼻をつき、同時にあきらかな血の匂いと、苦痛にうめく声がルージュを押し包んだ。
「閣下!」
 看護兵がルージュに気づいた。意識のある兵士たちは皆、身をよじって起き上がろうとした。
「あ、ああそのままでいい! 無理すんな横になってろ!」
 急いでルージュは言った。彼の足もとにはミイラさながら全身に包帯を巻かれた兵士が横たわり、隣には右腕をもぎ取られた兵士が、その奥では断末魔に痙攣している若い兵士がいた。
「死ぬなよ…。」
 祈りにも似てルージュは言った。
「んな簡単に死ぬんじゃねぇぞお前ら。お前らには俺と、それに王太子がついてんだかんな。死ぬなよ。ぜってー死ぬんじゃねぇぞ!」
 どかりとルージュはその場に腰を下ろし、あぐらの中に剣を抱えた。
「今夜はここで寝る。死神なんか俺が寄せつけねぇ。信じろ。いいな。俺と王太子を信じろよ!」
「閣下…。」
 聞き得た男たちはみな涙を流した。ルージュはその大きな目をぎょろりと闇に見開き、彫金の鞘を手のひらで確かめるように撫でた。
 

第2楽章主題2に続く
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