『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第2楽章 主題2 】

 翌朝、小雪の舞う中を町民たちはエルンストに向けて出発していった。荷車を馬に引かせ肩に頭に荷物を乗せて、老いも若きも男も女も、護衛の騎馬兵に守られつつ、幾度も振り返りながら町を離れていった。
 ヒロは街道の入口まで彼らを見送りに出、握手を交わし抱きあい、ここでの再会を約束した。ただ独りカイだけは彼を避け、またヒロも気づかぬふりをした。スガーリはルージュに命じられて、腕ききの憲兵6人を連れヒロの警護に当たっていたが、
「大丈夫なのですか連隊長。殿下のお姿をこのように人目に晒して…。」
 中の1人が、飛び立つ前の鷹のように油断ない目つきで言った。
「心配はない。」
 軽い溜息とともにスガーリは答えた。
「エフゲイア兵は殿下のお顔を知らない。第一この非常時に王太子が都を離れているなどと、普通は考えられないからな。それにこれだけ結束の固い住民たちなら、間者の入り込む隙もあるまい。」
「ですが連隊長、敵の諜報兵も侮ることはできません。もしあの方こそが次期国王であると、敵軍が気づいたら恐ろしいことに…。」
「杞憂だ。」
 自らに言い聞かすが如く、スガーリはきっぱりと否定した。
「それより敵陣の動きはどうだ。閣下のお考えでは援軍を待っているのではないかとのことだったが。」
「おそらくはその通りでございましょう。」
 兵士は言った。
「町民たちの避難を妨害してくるのではないかと思われましたが、動きは全くみられません。むしろ防御というよりは警備に力を入れている模様、よほどの大軍が援護に加わるのではないでしょうか。」
「だろうな。それまでに何とか敵陣を叩いておかないと…。」
 スガーリはヒロの方を見た。彼は今、最後の集団の中にいた白髪の老女に泣きすがられていた。
「だいじょぶだよ、すぐ戻って来れるって。ばあちゃんも神経痛で大変だろうけど、足腰冷やさねぇように気をつけてな。」
「あんたもねぇ、プチ。あんたはおなかがあんまり丈夫じゃないんだから、消化の悪いもんは食べるんじゃないよ。」
「判った判った。ほら早く行きな。兵隊さんが困ってるよ。な。」
 老女は息子らしき男に抱えられ、ようやく歩き始めた。ヒロはスガーリたちに背を向けて彼らに手を振り続けた。頃合いを見てスガーリはヒロに手綱を渡した。
「さ、もうよろしいでしょう。参りますぞ殿下。」
 うん、と応え彼は受け取った。膝を踏み台に貸すつもりでスガーリは屈んだが、ヒロはさっさと鐙に足をかけ、身軽に地面を蹴った。
「不思議な方ですな、殿下は。」
 スガーリはヒロの半歩あとに馬を歩ませながら言った。何かを考えていたらしいヒロは、うん?と小さく振り向いた。
「我が国において王太子殿下は国王陛下の次に身分高き御方。このような戦場でなければ私どもなど、お声を頂戴するだけで身の震える光栄でありますのに―――」
「…な。悪いけどそういうのやめてくんねぇ? なんか痒くなってくんだおいら。お声を頂戴って、頂戴してどうすんだよお勘定じゃあんめぇし。訳の判んねぇこと言うんじゃねぇよ。難しいことは判んねんだよおいらは。」
「いやその…申し訳ございません。」
「謝んじゃねぇよ。謝られても困んだよ。謝って済むことと済まねぇこととあんだろ。それが世の中ってもんだろが。」
「……」
「ンだよ。何黙ってんの。何とか言えよスガっぺ。」
「いや、その…」
「ッたくアドリブきかねぇ奴なお前。」
 ヒロはクィと手綱を引いた。すっかり彼のペースに乗せられてしまったスガーリには、いきなり走り出したヒロの馬を止める余裕などなかった。
「でっ殿下どちらへ!?」
 悲鳴にも似て呼びかけた彼が見たものは、馬上で右手の親指を鼻孔に当て、残りの指をぱっと開いてみせたヒロの赤い舌だった。
「何をしている早く連れ戻せ!」
 あまりの事態にスガーリは立場も忘れた言葉を使ってしまったが、
「追えるもんなら追ってきてみろバーカ!」
 ヒロの姿はもう坂下へ見えなくなっていた。
 
 ルージュは陣幕の中で司令官たちと軍議を行っていた。夕暮れ前に奇襲をかける、その作戦の仕上げをしていた彼だったが、
「閣下! 閣下ぁっ!」
 珍しく取り乱したスガーリの声に驚いて顔を上げた。スガーリは入口で両ひざをつき、
「申し訳ございません! このスガーリ一生の不覚にございます!」
「何だ、どうした?」
 苦笑して立ち上がったルージュは次の瞬間、ヒロを見失ったと聞いて本当に青ざめた。
「馬鹿野郎、だから言わんこっちゃねぇ!!」
「はっ、面目次第もございません…!」
 いきり立ってルージュはスガーリの肩を掴んだ。
「お前の面目なんざどうだっていい! あのくそったれはどっちに行きやがった!」
「それが、殿下は崖上で馬を乗り捨てられ、目もくらむばかりの斜面を軽々と滑り下りていかれまして、お姿はじきに丈高い枯草と吹き溜まりに隠れてしまい…」
「あああっ、たく何を考えてやがんだクソヒロっ!!」
 ルージュは地団太を踏んだ。
「探せ! 少々手荒にしてもかまわねぇ、見つけたら首に縄つけてかっさらって来い! 簀巻きにしてそのへんの木にくくりつけとけ!」
「はっ!」
 スガーリは陣幕をまろび出た。
 
 褐色の草を根元から押し倒している雪を、鼻づらでかき分けて餌を探していたキツネは、何か自分より大きなものの気配を感じて警戒した。頭をもたげ耳を立て鼻をひくつかせていた彼は、やがて軽やかに逃げ去っていった。
 バサッ、と雪が掻かれ枯草が動いた…と見えたのは即席の藁帽子だった。藁を束ね一端を切り揃えたもので、小雪を透かした遠目には草の根と区別がつきにくかった。その帽子がヒョイと持ち上がり、人の顔が覗いた。ヒロであった。
 彼はぴたりと腹ばいになり、雪に半ば体を埋めるように匍匐前進した。この姿勢で枯草の茂みを辿っていけば、敵にはまず見つからないことをヒロは知っていた。長年の雪合戦の経験からであった。
 敵陣の外縁にはぐるりと槍組みの柵が巡らされていて、そのこちら側を今、見張りなのか散策なのか数人の敵兵がゆっくりした足どりで歩いていた。彼らは談笑していた。その声すらかすかに聞こえるほど、ヒロは敵陣の近くにいた。
(へっ、何も知らねぇでやんのこいつら…。)
 雪まみれの前髪をフッと吹き上げてヒロは笑った。
(こんなとこ町の奴らも近寄らねっつの。無知ほどこぇぇもんはねぇよなマジで。)
 彼は目を動かした。エフゲイア兵はみな長身で色が白く、彫りの深い目鼻立ちに黒々とした口ひげをたくわえていた。柵のすぐ向こうにはうっすらと雪をかぶった巨大砲が、うずくまる恐竜の如くに並んでいた。
(あれが噂の殺人兵器か。でっけぇなー! あんなん引っぱってくるだけでも大変だったろうな。あれをこっちにブン取れればな、ルージュもちったぁ楽になんだろうけど、さすがにおいら1人じゃ持ってけぇれねぇしなぁ…。)
 そろりそろりと前進・停止を繰り返し、ヒロはとうとう敵陣の柵に手が届くところまでやって来た。この中の様子を探っていってやろう、そうすればルージュの作戦に役立つ。中腰になろうと膝に力を入れた時、真正面でこちらを向いた兵士がいた。
(やべっ!)
 目を合わせずに伏せるのが精一杯だった。ぎゅっぎゅっと雪を踏む音が聞こえ、兵士が近づいて来るのが判った。
(馬鹿、来んな来んな! 来んなよぉ〜っ!)
 両手を握りしめヒロは祈ったが、もう駄目だ見つかると悟ると同時に、彼は身を躍らせて兵士に飛びかかった。驚愕の声を上げかけた口に、
「うるせぇ! しゃべんじゃねぇこの野郎!」
 ヒロは手の中の雪を押し込んだ。兵士は抵抗し2人は倒れこんだ。盛大に雪しぶきが上がった。甲冑をつけている分、ヒロよりも兵士の方が動きが鈍かった。ヒロは兵士の背中に馬乗りになって首を押さえこみ、ぐいぐいと雪に押しつけた。やがて動きは止まった。鼻と喉に雪が詰まり兵士は気絶したのだった。
 ホッ、としてヒロは隣に転がった。しかしそんな猶予はなかった。複数の男の声と足音が聞こえてきた。エフゲイア語ゆえヒロには聞き取れなかったが、
『妙な音がしたぞ。何かいるんじゃないのか?』
『キツネだキツネ! さっきこのへんをウロウロしてんのを見た。』
『取っ捕まえて毛皮を剥いでやれ。猪と違って肉は不味いが鍋にすりゃああったまんぞ!』
 3人の兵士たちは剣を抜きつれた。ヒロは総毛立った。
 3人は三方に分かれ、そのうちの1人がヒロのいる草かげに近づいて来た。ヒロはいっそう身を低くした。枯草の隙間からギラリと光る刃が見えた。叫びそうになる口をヒロは自分で押さえた。と、柔らかな雪に足をとられたか兵士の体が大きく傾いた。ジャラッ、と金属のぶつかる音がしたのでヒロはハッとした。その兵士は腰のベルトに看守めいた鍵束を下げていた。尻もちをつきかけかろうじて踏みとどまった兵士の脚に、ヒロは真横から飛びついた。
 物音の主はてっきりキツネであると思いこんでいた兵士は、予想もしなかった攻撃に文字通り足をすくわれ剣を取り落とした。ヒロは彼の口の中に一掴みの雪を突っ込んでおいてベルトの鍵束を奪おうとしたが、さすがに訓練された敵兵は、おいそれと意のままにはならなかった。
 緩い雪の斜面を2人は上になり下になり転げ落ちていった。ヒロにはバネのきいた俊敏な動きがあったが、腕力となると絶対的に、大男である兵士の方が優っていた。兵士はヒロを組み伏せるとペッペッと雪を吐き出して、
『このガキゃあ、ふざけた真似しやがってぇ!』
 拳の一撃をヒロの顔に振りおろそうとした。
 だがヒロは咄嗟に身をひねり、縮めた膝を思いきり伸ばし踵を兵士の腹にぶち込んだ。甲冑の隙間をもろに打たれて兵士の腕の力がゆるんだ。もう1発、今度は顎を蹴り上げてヒロは飛び下がった。1つ深呼吸し、へそに力を入れ、ごほごほと咳き込んでいる兵士のふところに彼は頭から飛び込んだ。腰のベルトにかじりつき勢いにまかせて引きちぎろうとした。が仰向けに倒れながら兵士は逆にヒロの胴を抱えこんだ。うわっ、と両足が浮き上がり体が真っ逆さまになったと思うや、頭越しに投げ飛ばされた。雪原に顔面で着地したヒロは、しかし今の衝撃でベルトと鍵束を結んでいた細い革紐が切れたのを知った。
『なんだなんだ、妙な声がしたぞどうしたんだ!』
『おいっ! 誰かそこにいるのか!?』
 別な方角に分かれていた他の2人の兵士が、ようやく騒ぎを聞きつけたらしくこちらにやって来た。まずい!とヒロは跳ね起き鍵束をふところにねじ込んで、脱兎の如く走り出した。
『曲者っ! のがすかぁ!』
 1人の兵士が剣を振り上げ後を追おうとしたが、
『まぁ待て。』
 もう1人の年嵩の兵士が片手でそれをとどめた。
 こけつまろびつ泳ぐように遠ざかっていくヒロの背中を見送りながら、彼は言った。
『武器も持たないガキが1人だ。あんなものを捕らえたところで別に益はない。放っておけ。』
『いやしかし、たった1人でここまで忍び込んでくるのはガキにしても容易なことじゃないだろう。』
『なに、おおかた町の子供だ。もしかしたら我々に親でも殺されて、悔しさのあまり我を忘れたのかも知れん。哀れと思って見逃してやれ。』
 ポンと肩を叩かれた若い方は、渋々と剣を鞘に収めたが、それでもまだ残念そうに、
『けどよぅ、チラッと見た限りじゃいい身なりしてたぜ。財産家の息子だとすりゃ武器はともかく宝石か何か、金目のもんは持ってたかも…。』
『馬鹿者!』
 年嵩の兵士は彼の頬げたを殴りつけた。
『恥を知れ! 我々は略奪者ではないぞ!』
 恐ろしい顔で睨みつけらけれ、2人の兵士はそれ以上逆らえなくなった。彼らは陣に引き上げていった。
 もしもこの時この3人が、若い兵士の言うようにヒロを追いかけ捕らえておれば、この戦さの結末もエフゲイア公国の運命も、全く違ったものになっていたであろう。
 
「閣下、そろそろ刻が迫っておりますが。」
 陣幕の中でただ独り腕組みしているルージュのもとへ、アゴット連隊の中隊長がやって来た。ルージュは閉じていた目を開いた。
「本日の奇襲攻撃はいかがいたしますか。決行するのであれば、出撃準備のお下知をそろそろ頂きませんと…。」
「判ってんだよそんなことは。」
 苛々した口調で彼は遮り、
「スガーリは。まだ戻ってこねぇか。」
「はっ、いまだ。」
「馬鹿野郎が…。」
 ルージュは舌打ちと溜息を同時にした。
 エフゲイアの援軍が到着するまでに敵本陣を叩いておく。そのためには敵に動きのない今が最善の機会であるというのに、あろうことか王太子が行方不明。そんな中で攻撃をしかけて、万が一にもヒロを巻き添えにするようなことがあったら…。そう思うと出撃命令など簡単に下せる訳はなかった。しかし中隊長は重ねて言った。
「で、いかがいたしますか。出撃の有無は。何卒ご決断を賜りますよう、閣下。」
 急き立てるようなその言い方が、ルージュの苛立ちにカッと火をつけた。
「だから判ってるっつってんだろ! うるせんだよてめぇ!!」
 ルージュは中隊長を怒鳴りつけ、座っていた椅子を彼に向かって蹴り飛ばした。いつもはスガーリがそばにいてこの癇癪をなだめてしまうのだが、今彼はヒロを探すため町じゅうを走り回っている最中であった。ルージュは中隊長の襟首を締め上げた。
「俺の命令に文句があんのか。え? なんか納得いかねぇことでも、従いたくねぇことでもあんのかよ!!」
 半ば宙に釣り上げられて中隊長は両手をばたつかせた。けれど相手は元帥、強く抵抗することなどできなかった。物音を聞いて駆けつけた司令官たちも、おろおろと遠巻きに見守るしかなかった。
 その時であった。ばさっ、と入口の幌がまくれる音がして、
「おいおいおい、何やってんだよルージュぅ。」
 笑いを含んだハスキーな声が彼を呼んだ。全員がギクリとそちらを見た。
「…ヒロっ!!」
 ルージュは中隊長を押しのけ、怒りと驚きと安堵が混ざり合った複雑怪奇な表情で彼に歩み寄った。ヒロは一同をケロリと見回し、
「ケンカはよせよケンカは。事の始まりは何なのか知らねぇけど、今はそんな場合じゃねぇだろ。……どした? ルージュ。」
 目の前で立ち止まった彼を見上げて、ニコッと笑って見せた。
「お前、今までどこ行ってたんだ…?」
 目元を軽く押さえてルージュは聞いた。目まいがしたためだった。
「ああ、ちょっとな。お前にはみやげが―――」
 ヒロはごそごそとふところをさぐり、
「あれ、どこ行った? うーんと…おおあったあった。ほいよ。」
 ジャラリと鳴る鍵の束をルージュの鼻先に差し出した。
「何だこれ。どこの鍵だこんなにいっぱい。」
 受け取ったルージュが数を数えようとした時、
「さぁ…何の鍵かは知んねぇけど、エフゲ野郎が持ってた奴だから何かの役には立つんじゃねぇの?」
「ふーん。」
 あいずちを打ったその直後、ルージュはぴくりと表情を変えた。
「…ヒロ。」
「ん?」
「お前、今なんつった。俺の聞き間違いか? お前今、エフゲって言ったか?」
「言ったよ。」
「エフゲって…なんだ。まさかエフゲイアのことじゃねぇだろな!」
 気負いこむルージュに、ヒロは芝居がかって応えた。
「嫌だなぁ、そうに決まってるじゃないか。どうしたんだ元帥。長い戦さで疲れたのか? そんなんじゃうちの軍隊、お前に預けとくのも不安だなぁ。」
「ふざけてんじゃねぇっ! お前…お前まさか独りで、エフゲイアの本陣に行ってきたのかヒロっ!?」
 ルージュは彼の両肩を掴んだ。ヒロは身を引き気味にして、口元だけでかすかに笑った。ルージュは全てを理解した。体中の血液が一瞬逆流し、怒髪天を突くという表現のままに脳天が逆巻き、殴って蹴倒して罵りつくしたい衝動が突風のように全身を駆け抜けて、最後は立っていられないほどの虚脱感に襲われたルージュは、へたへたとその場にしゃがみこんだ。
「おいおいルージュ、なにうんこ座りしてんだよ。ほら立って立って。みんなもいることだしちょうどいいや。…おい、そこのお前。地図と、それに紙と書くもん持って来い。今からおいらが説明してやっから。」
 ヒロは中隊長に言い、皆をテーブルの回りに集めた。
「いいか、ここがおいらたちのいる本陣。んでこれが鉱山の入口で、ここが町の中心の広場。」
 ヒロはペン尻で地図のあちこちを指した。司令官たちとルージュはぐるりとテーブルを囲んで彼の手元を見つめた。
「んでここから北に約60ギル。このあたりをエベ荒地つって、平地の中にボコボコ、山だの丘だのがある他はなーんもない荒れ地なんだ。奴らはその丘の1つに陣を張ってる。」
 地図の1点にヒロはぐるぐると丸を書き込んだ。
「だけどここはな。とんでもねぇ危険地帯なんだよ。奴らはそれも知らずにただ地形だけを見て本陣にした。大馬鹿だよな。よく今日まで崩れずにもったもんだ。おいら感心したよ。うん。」
 腕組みなどしてうなずいているヒロにルージュは、
「だから、何がそんなに危険なんだよ。もったいぶってねぇでとっとと話せ!」
「まぁまぁ。慌てるナントカは損するっつぅだろ。落ち着いて聞いてろよ元帥。」
 ヒロは中隊長に持って来させた白紙を引き寄せ、そこに何やら線を描いた。
「この丘は横から見るとな、椅子の背中みたくこっち側がミョンて高くなってて、そっからここまで一気にドンと下がって、あとはだらだらーっと平地になってんだ。そのドンとだらだらの間の平らなとこに、敵は人間も大砲も全部集めてる。一見理に適ってるようで、これはこのあたりの気候を知らない無学な野郎のすることなんだよ。」
「だからそれは何が…」
 再び言ったルージュを見てヒロはニッと笑った。
「雪庇、ってお前知ってっか?」
「せっぴ?」
「そう。雪の庇(ひさし)。今の時期の風は鉱山から吹き下ろすっておいら言ったろ? その風がこの、ぐちゃぐちゃしたちっけぇ山の間を吹き抜けて、んでこのミョンってなってるとこに、こう回り込んでぶつかるんだ。」
「…。」
 ルージュと司令官たちの間に、シンと張り詰めた空気が流れた。ヒロの言わんとすることが、彼らにも何となく判ってきた。
「今年は異常気象で、こんないつまでも大雪が降ってっけど、それでも真冬の雪とは違う。湿気を含んでっからベタベタくっつくんだ。だからエベ荒地の丘は、あっちもこっちも雪庇だらけになってる。町の奴らはあんなとこ、怖くてぜってー近づかねぇよ。クシャミ1回しただけで、崩れる時は崩れっからな。何かのはずみで雪庇って雪庇がドーッと落ちて来たら、なんもかんも埋まっちまって夏まで出てこれねぇや。あそこであの馬鹿でけぇ大砲、1発ドカンと打たしてみろよ。どうなるかは…判んだろルージュ。」
 ルージュは無言で顔を上げ、ヒロを見返した。これはまさにヒロにしか立てられない作戦であった。ルージュの頭の中で新たな奇襲作戦が、恐ろしいほどスラスラと組み上げられて行った。彼は地図に両手を突き、皆にそれを語った。
「よし。攻撃は2回に分ける。第1波は少数精鋭の騎馬隊による陽動部隊。敵陣の目の前に出て挑発し、巨大砲を撃たせるように仕向ける。ただし発射の瞬間に一斉退却できるよう、射程距離ギリギリで動け。深く入ると逃げ損ねる。大砲からじゃなく大雪崩からだ。1発撃たせりゃ…それで勝負はつく。」
「しかし元帥、お言葉ではございますがその、もしも思惑通りに雪庇が崩れなかったら陽動部隊は巨大砲の餌食…」
「崩れる。」
 消極的意見を即座に否定したのはヒロであった。
「おいらはついさっき、敵陣を見てきたんだ。あれなら必ず崩れる。むしろ、こうしてる間にも落っこってるかも知んねぇぞ。それでもどうしても心配だっつうなら、もし崩れなかったらそん時は、おいらが登って崩しきてやっから安心しろ。な。」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ…。」
 渋面でルージュはつぶやいた。
 作戦の決議は早かった。陽動部隊の人選と伝令のルート、それに雪崩が小規模だった場合(それは唯一考えられる悪い結果だとヒロは言った)の攻撃のきっかけなどを決め終えたちょうどその時、陣幕の入口が大きくまくれ、
「殿下がお戻りというのは本当でございますか!?」
 のめりそうな勢いでスガーリが駆け込んできた。その真正面でヒロは、
「よ。さっきはごめんな置いてけぼりにして。」
 敬礼めいて軽く手を上げた。スガーリは本当によろりとし、
「いえ、ご無事で…ご無事で何よりでございます…。」
 汗と雪で濡れた髪を額に張りつかせ、深々と頭を下げた。
「スガーリ。帰ってすぐで悪いけどな、お前に命令することがある。」
 言いながらルージュは立ち上がった。
「はい。このお叱りはいかようにも。覚悟はできております。」
 顔を伏せたままの彼の方へ行くのかと思いきや、ルージュはヒロの座っている椅子に近づいた。何?というようにくるんと目を動かしたヒロの背後にルージュは立つと、その首をガバと抱えこんだ。
「痛ぇ痛ぇ痛ぇ! なんだよっルージュいきなり―――」
 苦しがって腕にかけてきたヒロの手をルージュは片手でひとまとめに握り、
「スガーリ! そこのロープ持って来い! 目ェ離すと何すっか判んねぇこの馬鹿王太子を、椅子にぐるぐる巻きにして見張っとけ! この戦闘が終わるまで、泣こうがわめこうが漏らそうがぜってーほどくんじゃねぇぞ!」
「はっ!」
 スガーリは縄を掴み、命令通りにヒロの体を椅子に縛りつけた。
「てめぇ、ルージュ! 放せこの野郎!! お前、おいらはこの国の王子様―――」
「うるせぇ! 王子様が1人でヒョコヒョコ敵陣の偵察なんぞに行くか! スガーリ! んな甘く縛るこたねぇ! 足で押さえてギリッギリに締めつけてやれ!」
 
 日没の刻、エフゲイア軍を挑発するための陽動部隊50騎は、ルージュに癇癪を起こさせたあの中隊長を指揮官としてエベ荒地へと向かった。続いて背後を固める予備隊80騎と、伝令兵の5騎が出発した。
 ルージュは正式の戦さ装束である家紋入りの緋色のマントをつけ、陣幕の中央に腰を据えて出撃報告を受けた。本陣内にいるのは彼と数名の護衛兵、それにスガーリ…とここまではいつも通りであったが、違うのは奥の正面の椅子に、重たい黒絹のマントをまとった王太子の姿があることだった。スガーリはルージュではなく彼の背後に立ち、穏やかな風貌に似合わぬ鋭い目で、油断なく気配を窺っていた。
「申し上げます! 後続の左翼部隊、出撃準備完了致しました!」
「申し上げます! 右翼部隊、閣下の出撃命令をお待ちしております!」
 次々と陣幕を訪れる兵士たちはそこに、威厳に満ちた王太子の存在を認め、焼けつくような忠誠心の昂りを覚えた。ヒロのマントは縄を隠すため、むすっとした表情は縛られていることへの反抗のためであるなどと、兵士たちには知る由もなかった。
 陽動部隊はエベ荒地に到着すると、敵陣からおよそ3ギル(1キロ)の地点を前線と定めた。朝から降り続いている湿った小雪はさらに勢いを増していて、彼らの顔にマントにこびりついては溶けていった。丘の上にちろちろとまたたく灯りは敵陣のものであった。
 中隊長は剣を抜き、高く頭上にかざした。それが出撃の合図だった。50騎は弩(おおゆみ)に火矢をつがえ、ドッと雪原に走り出た。松明を持った予備隊80騎が後に続いたが、彼らの役目は攻撃ではなかった。馬の尻には藁束が積まれていた。予備隊の兵士たちは、敵本陣から見下ろして真正面のあたりを中心に、次々と藁束を地面に放り出してはそれに火をつけていった。
 奇襲の知らせを受けたエフゲイア軍司令官たちは、みな浮足立った。奇襲自体はある程度予想していたから驚くには値しなかったが、彼らは敵兵の数を聞いて耳を疑った。ある見張り兵は2千と言い、ある者は3千と言った。それほどの大軍が至近距離に野営しているとは、いったいいつの間にやって来たのであろう。風に乗って聞こえてくる閧の声は、悪魔の叫びほどに大きかった。実はこれもルージュの作戦で、陽動部隊に選ばれたのは声の大きい兵士ばかりだったのだ。
 早く反撃をと焦ったエフゲイア軍は騎馬と歩兵合わせて200に丘を駆け下らせたが、彼らは待ち構えていた弩の火矢に苦もなく射抜かれ、散った。
 陽動部隊は続けて撹乱作戦に出た。あたかも大波のように押しては引き、押しては引くを繰り返すうち、中隊長は敵が撃ち上げた鏑(かぶら)の火矢に気づいた。その矢を合図に雪原の敵兵は一斉に退却を始めた。中隊長は味方に叫んだ。
「大砲だ! 奴らは大砲を撃つぞ! 全軍、下がれ!! 全速力で下がれーっ!」
 丘の上でパッと閃光がひらめき、一瞬遅れて爆発音がした。燃える藁束ばかりで誰もいない雪原に、巨大な砲弾が命中した。駆けながら中隊長は耳を澄ませた。ズズン、と地響きが腹に伝わり、そののち、ゴゴゴゴ…とかつて耳にしたことのない地鳴りが聞こえてきた。中隊長は馬にムチを入れた。敵兵より大砲より恐ろしい、自然の驚異から逃げるためだった。
 
「申し上げますっ!」
 陣幕に駆け込んできた兵士の声は弾んでいた。ヒロもルージュもスガーリも、それだけで作戦の成功を悟った。事実、報告はその通りだった。陽動部隊並びに予備隊は、ただの1騎も傷つくことなく作戦を遂行し大成果を得た、後続の出撃には及ばないと中隊長は伝えていた。
「よしっ!」
 ルージュは力強く立ち上がった。
「全歩兵および輸送隊に進軍命令を出せ。残りの騎馬隊はこのまま本陣で、先発部隊はエベ荒地にてそれぞれ待機! 夜明けを待って戦果の確認に当たれ。それまでは厳重に警戒を続けろ。いいな!」
「御意!」
 伝令兵は出て行った。ルージュの両肩が大きく上下した。スガーリは彼に歩み寄り、
「大勝利、おめでとうございます閣下。これで仮に援軍が訪れましょうとも、敵の戦力は半減。エフゲイアにとっては大打撃でございます。」
 姿勢を正して最敬礼するスガーリにルージュは、
「んな、安心すんのはまだ早ぇだろ。これで戦さが終わった訳じゃねぇ。とりあえず駒を1つ進めただけだ。」
 つとめて平静に言ったが、ひとまずの安堵は声に滲んでいた。スガーリは微笑み、
「これもみな王太子殿下のおかげにございますな。戦果ばかりではなく、兵の戦闘意欲も忠誠心も、この上なきものになさいました。」
 2人は振り返った。さっきまでの膨れ顔はどこへやら、黒いマントにくるまれたヒロは満面の笑みを浮かべていた。
「まぁ確かにこいつのおかげだけど。」
 ルージュは立ち上がり、近づいた。
「お前さ、そうやってさも褒めてほしそうな顔して笑ってんじゃねぇよ。これでお前がいい気になっても、この俺が好き勝手はさせねぇからな。戦さに『ぜってー』はねぇんだから。」
 言い聞かすようにルージュは言ったが、ヒロは聞いていなかった。
「やったべ!」
 ヒロはルージュの評した通り、何偽らぬ得意顔で言った。
「な! おいらの言った通りだったべ! この辺りのことなら何でもおいらに聞いてくれよぉ! 判んねぇことなんかひとっつも、ねぇんだからよおいらには!」
 かっかっかっと高笑いされ、つられてルージュも苦笑した。彼は横目でスガーリを見、軽く顎をしゃくった。意図するものを素早く悟り、スガーリはヒロの縄をほどいてやった。
 
 夜が明けるとルージュは、ヒロとともにエベ荒地に赴いた。もちろんヒロの背後にはスガーリがぴたりと付いていた。道すがらのヒロはまるでピクニックにでも行くようなはしゃぎぶりだったが、現地に着き状況を目の当たりにすると、その大きな目を見開いてぴたりと口をつぐんだ。
「閣下!」
 ルージュのもとへ中隊長が駆け寄ってきた。夕べから眠っていないはずの彼はひどく興奮していて、頬を紅潮させ口調を弾ませて言った。
「ご覧下さい。予想以上の雪崩が発生し、何もかも飲みつくしてくれました。かろうじて逃れた敵兵もわずかながらおるようですが、恐れをなして逃げ去ったのでしょう、どこにも姿を見せません。昨夜のうちに送りこんで頂いた歩兵隊と我々とで、ただ今戦利品を回収しておりますが、これは回収というより発掘作業ですな。皆汗だくでございますよ。」
「そうか。ご苦労だが全力で対処してくれ。敵兵の遺体は1箇所に集めて葬れ。首を落とす必要はない。」
「御意!」
 喜々として馬を走らせていく中隊長の背中をルージュは複雑な思いで見送り、溜息を1つついてから改めて目の前の雪原を見渡した。
 その光景は例えて言うならば嵐で氾濫した大河の濁流さながらだった。轟々と渦を巻き大地を削り、木も岩も建物も、全てを薙ぎ倒し奪い取る破壊者そのものであった。ただ、褐色にうねる濁流とは違いこの破壊者は純白で、汚れを知らぬが如き横顔は濁流よりもむしろ残酷だった。流れ去ることのない恐るべき重さは、飲み込んだ何もかもをぎりぎりと押さえ包みこみ、ゆっくりと確実に圧死させていくのだ。
「すげぇな…。」
 ぽつりとルージュはつぶやいて、傍らのヒロに視線を戻した。ヒロは鋭く眉を寄せ、何かに憤っているかのように虚空の一点を凝視していた。と、再び蹄の音が近づいてきて、今度は歩兵隊長がルージュの足下に駆け寄ってきた。
「閣下! 素晴らしいご報告がございます! エフゲイアの巨大砲が5基、我が軍の手に入ってございます!」
「何だと!?」
 これにはルージュも思わず歓喜の声を上げた。歩兵隊長は経緯を説明した。
 
 夜明けとともに歩兵たちは、敵本陣(であったろうと思われる場所)の捜索を開始した。腰まで雪に埋もれての作業は容易なことではなかったが、じきに彼らは黒く巨大な鉄の塊を発見した。それは味方を苦しめたあの大砲であった。
 さしもの大雪崩もこの重さには敵わなかったか、大砲はそれほど押し流されずにいたので10基全てを見つけ出すのは難しくなかった。しかし半数は車輪が外れたり砲身が欠け折れたりしていて、使えるのは5基だけだった。
 ところが触ってみて判ったことに、巨大砲は誤操作を防ぐためか充填口に厳重な蓋がされており、そこには頑丈な鍵が取り付けられていた。せっかく見つけたのにこれではと皆が落胆しかけた時、歩兵長はコルネリウス将軍が元帥から預かったと言っていた『エフゲイアの鍵』のことを思い出した。早速に伝令を飛ばして将軍にそれを借り、鍵穴に差し込んだ直後、わっと大喝采が上がった。
 
「んじゃあの鍵は、巨大砲の充填口の鍵だったのか!」
 小躍りせんばかりにルージュは言った。はい、と歩兵長も嬉しげに、
「さらに奴らが蓄えていた砲弾も手に入りました。火薬は濡れてしまい使いものになりませんが、それくらいは何とかなりましょう。操作は決して簡単ではございますまいが、5基のうち1基を取り急ぎ解体して詳細に分析すれば、エフゲイアに使えて我々に使えないはずはなく、これは何より大きな戦利品にございますぞ。」
「そうだな。都にならそういうのが得意な奴もいるんだけど、あいつをここへ呼んだ日にゃ、問題児が増えて手がかかってしょうがねぇ。」
 ペンチや金槌、ねじ回しを手に舌なめずりしているヴェエルを想像し、ルージュはぷっと吹き出した。
「よし。大至急分解して調べてみろ。あ、だけど暴発には気をつけろよ。ぶん取りました、爆発しましたじゃシャレになんねぇかんな。」
「御意。操作法が判り次第ご報告申し上げます。」
 歩兵長は一礼して走っていった。
「おい、聞いたかヒロ!」
 ルージュは背後を振り向いた。
「お前が持ってきたあの鍵。あれは巨大砲の―――」
 そこで彼は言葉を切った。切らざるを得なかった。押し黙ったヒロの見開いた目から、つうっと涙が伝うのを見てしまっては。
「おいら…」
 ヒロの声は震えていた。
「何をヘラヘラ喜んでたんだよ。何だよこれ…。地獄じゃねぇかよまるで…。戦さってのはこういうことなのかよ。殺さなきゃ誰にも勝てねぇのかよ。」
 新たな筋がまた描かれ、独白めいて彼は続けた。
「戦さなんて、早く終わらせなきゃ駄目だ…。こんなもん、いつまでもやってちゃ駄目だ。しちゃいけないことだろ。殺し合いなんて続けても意味ねぇだろ!」
 指に絡めた革の手綱を、ぷんとヒロは振った。驚いた馬は暴れかけた。咄嗟に押さえたルージュの手が間に合った。ヒロは洟をすすった。
「終わらそうぜ、俺とお前で。1日でも、1時間でも早く。もっと早くそうするべきだったんだ。おいらは今日まで、いったい何をやってたんだろう。」
「ヒロ…。」
 一言一言に胸を突かれ、ルージュは彼の名を呼んだ。責められるべきは自分なのにと、そう思ったルージュはしかし、
「ごめんな…ルージュ…。」
 信じられない言葉を耳にし、えっ?と問い返した。
「おいらはお前ひとりにこんな思いを、ずっと、何度も、させてたんだな…。お前は元帥、軍隊のアタマだ。やんなきゃなんないことがあるよな。つらかったろ。嫌だったろルージュ。敵だからつって人を殺して、平気でいられるお前じゃないよな…。」
「……。」
 言葉という言葉を失い、ルージュはただただヒロを見つめた。何かを少し考えたあと、ヒロは静かに言った。
「ロゼに使いを出そう。和平について、あいつはあいつで考えてることがあるはずだ。エフゲイアだって自分の国の兵士を喜んで死なしちゃいないよな。先にこっちが折れて出れば、案外乗ってくっかも知んないし…。」
「そうかもな。」
 即座にルージュは賛成した。ヒロの言葉は王者の意思、涙は帝王の嘆きだった。こいつにならこの国の全てを預けていい。ルージュはそう確信した。彼は手綱を引き、言った。
「本陣に戻るぞヒロ。すぐに早馬を仕立てる。総参謀長ジュペール伯爵に、王太子からの至急の文だ。」
 さぁ、とうなずいたルージュに、判った、とヒロもうなずき返した。2騎は並んで駆け始めた。
 本陣への上り坂に2人がかかったその時だった。
「おい。」
 馬足をゆるめルージュは言った。視力のいい彼には、1本道の街道をこちらへやって来る早馬の姿が見えた。
「あの腹当て…。あれはロゼんちの旗だ。噂をすりゃあ使いが来たか。何か動きがあったのかも知んねぇな。」
「ああ。急ごうぜ。」
 ヒロはルージュを追い越して馬を走らせた。ルージュは後を追った。
 伝令は兵士ではなく伯爵家の従者であった。息を切らし目を血走らせた彼は、陣幕の中に通されると崩れ落ちるようにひざまづいた。
「王太子殿下、元帥閣下、恐るべきお知らせを申さねばなりません、どうかお驚きになりませんよう…!」
 聞き苦しいほど喘いでいる使者に、ヒロとルージュは顔を見合わせた。
「どうした、何があったんだ。そんなに急ぐ知らせってのはまさか…」
 都に何かあったのかと聞こうとして、使者の次の言葉に2人は瞠目した。
「エフゲイアの間者どもが都で蜂起いたしました! 王宮が襲撃され民は逃げ惑い、陛下おん自らが近衛隊を指揮しておられます! どうか一刻も早くお戻りを! わが主君ジュペール伯爵も、今頃は都に到着しておられるはずです…!!」
 
 エフゲイア蜂起の一報を受けた時、ロゼは寝入りばなだった。ベッドにかろうじて半身を起こし片手で額を覆っていた彼は、王宮襲撃、の言葉にパッと両目を見開いた。使者はほとんど叫び声で言った。
「都には我ら義勇軍の他には王宮警備隊と近衛連隊しかおりません! 近衛隊の副長は間者に惨殺され陛下が指揮をとっておられます! しかしながらこのままでは宮殿の門が破られるのは時間の問題! 疾(と)く、疾くお戻りを伯爵殿!!」
「判った、ただちに騎甲師団を都へ差し向ける!」
 ロゼはベッドから飛び降りた。長い夜着の裾が割れるのも構わず、
「シュワルツ! たれかシュワルツをここへ呼べ!」
 その言葉に当直兵が走り、ほどなく、
「何かあったのか総参謀長!」
 軍服に袖を通しつつシュワルツが飛んできた。早口でロゼは事の次第を告げ、看護兵に手伝わせて服を着ながら指示を続けた。
「夜明けを待つ間はない、すぐに都に戻る。ただし僕には持ち出す書類の準備があるから、先に隊を都へ向かわせてくれ。ここにはマンフレッドの人たちを守れるだけの兵力を残して、あとは全員…」
「よし、その人選は俺にまかせてくれ。」
 シュワルツは言った。ロゼは一瞬言葉を切ったが、
「じゃあ、君に任せる。準備が出来次第ただちに出立する。」
「おうさ!」
 シュワルツは出ていった。
 ロゼの手元の書類は多く、仕分けるだけでも一苦労であったが、重要なものは革袋へ、そうでないものは引き出しへ、焼き捨てるものは看護兵に命じ目の前の暖炉にくべさせて、何とかロゼは至急の作業を済ませた。
 乗馬用の長靴にマントを着、革手袋をつけて玄関へ急ぐと、馬の準備はされており護衛兵も数名いた。だがロゼが驚いたのは、その中にシュワルツの姿があったことだった。
「なぜ君がここに? 軍を指揮しなくていいのか。」
 問いかけるロゼにシュワルツは、
「いいから早く乗れ。替え馬の手配は多分間に合わねぇから、こいつで都まで一駆けになる。大丈夫なんだろなこのまっ黒黒助は。」
「ああ、それはまぁ。このオルフェなら平気だと思うけど、でも君はどうして…」
「んじゃ行くぜ! お前らも遅れんなよ!」
 シュワルツは兵士に声をかけるとロゼの尻を強引に馬上に押し上げ、ひらりと自分も股がるなりムチを入れた。馬たちは走り出した。
「先発で都に戻ったのは俺の第3騎甲師団2連隊と、それに第4騎甲師団全部だ。指揮はヴォルフガングに取らしてる。大軍を指揮すんなら俺よりあいつの方が巧い。安心してくれ。」
 道中、駆けながらシュワルツはロゼに言った。第3の半分を残したのはもちろん避難民たちの安全のためだったが、理由はそれだけではなく、シュワルツの武人としてのカンがそうさせたのであった。元帥にとっての最後の切り札は、第3騎甲師団が務める。その日は必ず来るだろうと、シュワルツには思えたのだ。
 そうか、と応えただけでロゼは異を唱えなかった。軍隊についてはシュワルツの方が専門家であると認めていたからだった。
 御衛兵たちは松明を手にロゼの周囲を包むような隊形を取っていたが、その時突然先頭の1騎が、ぎゃっ!と叫んで地面に転げ落ちた。
「刺客だ!」
 叫んだシュワルツの耳元を紙1枚の差で矢がかすめた。一同は剣を抜いた。ロゼも腰に下げた柄に左手をかけたが、その時黒衣に覆面の賊が目の前に踊り出てきた。はっ、と剣を抜き終わる前に賊の刃が闇を裂いた。
「うわっ!」
 最初に来たのは痛みではなくすさまじい衝撃だった。刃の勢いにロゼは鞍上でバランスを崩し、次に突き出された剣先を身をひねってよけたと同時に、背中から草むらへ落馬した。
「総参謀長!」
 シュワルツは叫びロゼに駆けよろうとしたが、賊たち3人に群がられ進むに進めなかった。賊は手だれの刺客らしく、味方の兵たちはバタバタと倒されていった。ロゼは左の二の腕を押さえ何とか膝で立ち上がったが、賊は彼に時を与えず斜めに剣を振りおろした。ロゼは鞘ごと剣をかざしてかろうじて一撃を避けた。が傷ついた利き腕にそれ以上の反撃の力はなかった。賊は刃をすくいあげた。ロゼは地に転がって躱した。ザッ、とマントが裂けた。起き上がろうとしたロゼの腕に激痛が走り、彼は再び倒れ伏した。賊は剣を逆手に持ち替えた。
 駄目だ、と覚悟したその瞬間、賊の体が真横に薙ぎ倒された。地面に額をつけていたロゼの目の前に、息絶えた刺客の顔がドサリと落ちてきた。
「おいっ大丈夫か伯爵!」
 シュワルツはロゼを抱え起こした。ロゼは傷口を右手で押さえ、数回うなずいてみせた。そのこめかみの脂汗に気づき、シュワルツは落ちた松明を引きよせて、
「ちょっと傷見せてみろ。とりあえず消毒を…」
 破れたマントをめくったところでぐっと言葉に詰まった。ロゼは奥歯で痛みを噛み殺したあと、
「大丈夫だ、かすっただけだから…。動脈は外れてるだろう。」
「いや外れちゃいるだろうけど…。あああっ動くな動くな! 止血すっからじっとしてろ!」
「…済まないね。」
 シュワルツは立てた膝でロゼの上半身を支え、
「これ、使わしてもらうぜ。」
 破れたマントの布を切り、傷口の10センチほど上に絡めて、
「ちょっと痛ぇが、我慢してくれよ。」
 そう断ってから短い気合を入れ、ぎりっと布を結んだ。ロゼの背中が小さく跳ねた。
 続いてシュワルツは、腰のベルトに下げた応急手当用の布袋を解き、
「エフゲイアの刺客がこんなとこまで入り込んでるたぁ…奴らは国じゅうに間者を放ってやがんだな。都で蜂起したっつぅのは何人ぐらいいるんだか。」
 強い消毒薬がロゼに与える苦痛を少しでもまぎらわすため、敢てのんびりとした口調で言った。ロゼは目を閉じ、暴れたがる痛みを押し戻すように、喉の隆起をこくりと上下させ、
「さぁ…何百か何千か…。腕ききの間者が潜入していることは判っていたし、奴らを早くおびき出すことが何よりも大事だと判っていた。それなのに先手を打たれてしまった。これは俺の責任かも知れないな…。」
 溜息をつくロゼに、
「おいおいあんたはまたそうやって、何でもかんでも自分1人で抱えこもうとすんだな。」
 おどけた口ぶりに軽い叱責をこめてシュワルツは言った。
「戦さの勝敗ってのはなぁ、1人の成功で決まるもんでも1人の失敗で決まるもんでもねぇんだ。駆け引きと気合い。要はそいつが全てだな。今回は相手が先手を打った。次はこっちが打ちゃあいい。最後にどっちが王手をかけるか…」
「全てはそれで決まるという訳か。」
 ぽつりとロゼは言い、ふぅ、と深く短く息を吐くと、まるで怪我などしていないかの如く平然とした顔で立ち上がった。
 一瞬唖然としてしまったシュワルツは、黒馬の鐙に足をかけたロゼにハッと我に返った。
「おい、おいちょっと待て! あんたそんな怪我で走ったら失血死しても知らねぇぞ!」
「構わない。」
 馬上のロゼはオルフェウスの鬣を撫でた。
「体じゅうの血が流れ出してしまっても、今はとにかく都に着くことが先決だ。この死骸を葬ってやれないのが心残りだけど…神よどうか許し賜え。都に着き次第、侍従をよこします。―――行くぞ!」
「おいっ! ちょっと待て! 待てっつぅに伯爵!」
 シュワルツは慌てて追った。
 
 都に潜入していたエフゲイア兵は数にすれば200足らずだった。が彼らは総指揮官のルイダ将軍を筆頭に全軍から選りすぐりの兵士たちで、しかも3年という長い時間をかけて練り上げていた作戦にミスはなく、王宮警備の他には儀礼的な式典にしか活動の場がなかった近衛連隊など、最初から敵ではなかった。
 今や国王一家と近衛兵は、宮殿内部に逃げ込んだというよりは敵軍に押され閉じ込められたに近く、最後の砦である厚い城門を破られまいと、ミツバチのようにひとかたまりになって幼い抵抗を続けていた。
 王宮を攻撃する一方、エフゲイア軍は町のそこかしこに手当たり次第に火を放った。逃げまどう民で路地も大通りも大混乱になり、実戦経験のない義勇軍は、伍長の死に物狂いの指揮も虚しく、それだけで行く手を阻まれてしまった。
 炎は民家のみならず貴族たちの館をも襲った。主のいない侯爵家本邸も例外ではなく、火矢の雨を受けた城はたちまち炎に包まれた。サヨリーヌは侍従たちとともに何とか消し止めようとし、もう無理と判ったあとはできる限りの家財を持ち出そうとした。
 しかしそんな彼女をクマパッシュは背後から抱きかかえた。
「サヨリーヌ様! お気の毒ですがもうお諦め下さい! 早くここを逃げなくては、品物よりもあなた様のお身が危険でございます!」
「お離しっ無礼者! ルージュ様のお衣装とお道具を燃やしてしまう訳には参りません!」
「落ち着いて下さいどうか! 閣下がお留守の今、前(さきの)侯爵夫人をお護りする方はサヨリーヌ様以外にいらっしゃらないではありませんか! 火が回りきらないうちに早くお逃げ下さい! 表に馬を用意してございます。夫人もお待ちでございます!」
「ルージュ様のお母上を…。」
 サヨリーヌはクマパッシュを見た。彼は力強くうなずいて、
「さぁ猶予はございません、こちらへ。ひとまず町はずれにある練兵場へお逃げ下さい。義勇軍の一隊がおるはずです。」
 クマパッシュはサヨリーヌの肩を抱え城の外に出た。馬上には横座りで手綱を持った前侯爵夫人が、回りにはボルケリア、チュミリエンヌ、ユッシーナたち侍従が彼女を待っていた。
「サヨリーヌ様!」
 飛びついてきたのはチュミリエンヌだった。クマパッシュは妹の肩を叩き、
「さ、あとはせっしゃに任せて早く行け。」
「はい。でも、あにじゃはどうするつもりですか。」
 半べそをかいているチュミリエンヌにクマパッシュは笑った。
「せっしゃは義勇軍に入って戦う。閣下がお戻りになるまで何とか持ちこたえなければな。この先は男の仕事だ。」
「こんな時ですが…あにじゃ、かっこよすぎです。」
「何を言っているんだ。いいから早く行け。奥様とサヨリーヌ様をたのんだぞ。」
「はい!」
 女たちは走って行った。クマパッシュは庭園に取って返し、鷹たちのいる鳥小屋を開け放った。
「逃げろ! お前たちも早く逃げるんだ! 何をしてる早く飛べ! さぁ、頼む飛んでくれ!」
 小屋じゅうを駆け回る彼に驚き、鷹たちは次々舞い上がった。最後に翔け去った白い翼を見送り、クマパッシュは王宮へ向かった。
 
 エフゲイア軍は家々に火を放つだけでなく、強奪と暴行もほしいままに行った。数は少なくとも訓練された兵士たち、武器も持たぬ者には抵抗などできなかった。
 しかし伯爵家の侍従たちは徹底抗戦の構えをとった。ヒナツェリアは薙刀の柄でドンと床を鳴らし、
「よろしいですか。私たちは命に代えてもこのお館をお守りします。ルイーズ様とご両親の大切な思い出が詰まった館を、どうして敵の手に渡すことができましょう。たとえ刺し違えてでも戦いなさい。いいですね。」
 はい!と声を揃える中にあって1人震えている下働きに、ヒナツェリアは厳しい視線を当てた。
「どうしましたマレーネ。まさか怖じ気づいたのではないでしょうね。」
「い、いいえ…。ただ、どうしても手が…。それに膝もガクガクして…。」
「だらしのない。それでも伯爵家の侍従ですかしっかりなさい! 全てはわが君ルイーズ様のおんため。このヒナツェリア、生きるか死ぬか最後の舞台です。さぁっ参りますよ皆さん!」
 侍従たちは持ち場に散った。城門前はヒナツェリア以下腕のたつ3人の侍女が固めた。
 
 戦さを支える両輪は、武器とそして食料である。敵軍蜂起を知ると同時にラルクハーレン男爵は、真っ先に狙われるのはヘルムート子爵家であると予想し、女子供を逃がしただけで自邸の守りを捨て、すぐに子爵邸へ駆けつけた。ヴェエルと従者たちも一緒だった。
 男爵の予感は的中し子爵家は敵に襲われていた。
「城なんかいい! 倉庫だ、皆倉庫を守ってくれ! 頼む!」
 子爵は声を絞って懇請した。敵兵は鏑矢に油を仕込んで火をつけ、文字通り矢継ぎ早に城壁の中へ射込み、はしごをかけて乗り越え侵入しようとした。
「おのれら火事場泥棒する気かぁ! この卑怯者ども、かかってこい!」
 男爵がもろ肌脱ぎになると、力自慢の従者たちも次々それにならった。食料を奪おうと塀を飛び越えてきた敵たちはその肉弾に突き飛ばされ、ある者は骨折しある者は脳震盪を起こして気絶した。
 消火は懸命に続けられたが、1人が黒煙に気づき叫んだ。
「大変だ! 貯蔵庫がやられた! 貯蔵庫から火が上がったぞ!」
「何だって!?」
 子爵は悲壮な顔で建物を振り仰いだ。都じゅうの民をふた月は養える量の小麦は、哀れにも火に弱かった。子爵は全身をわなわなと震わせたかと思うと、突然身を翻して貯蔵庫に走って行った。
「父上っ!」
 ジョーヌは驚き追おうとしたが、
「馬鹿、危ないよ!」
 ヴェエルは横から抱きついて止めた。
「離せ! 離せよっ! 父上! 父上ーっ!」
「駄目だったら! お前が行ったら死んじゃうって!」
「死ぬなら父上と一緒に死ぬ! 父上ーっ! 私も行きます、お連れ下さい!」
 いつもなら簡単に負かせるジョーヌであるのに、ヴェエルはずるずると引きずられた。ヴェエルは暴れる彼にしがみついたまま、
「親父! こっちに来てよ親父ーっ!」
 誰よりも頼れる人間を呼んだ。
「かぁ君どうした!」
 聞きつけるなり男爵は飛んできた。ヴェエルは半泣きで、
「子爵がぁ! こいつの父ちゃんが火の中に入ってった! 貯蔵庫が貯蔵庫がって言って…」
「何!?」
 男爵は建物の方を見て、
「ヘルム、あの馬鹿野郎…!」
 ぐっと大きな拳を握り、息子とジョーヌを抱きしめると、
「お前たちはここで待っていなさい。必ず助けて連れ帰るから! ―――おいっ! 誰か水を持ってこい! 桶に1杯でいい、急げ!」
 すぐに侍従が木桶を抱えてきた。男爵はザバリと頭からかぶって、燃えさかる貯蔵庫に駆けこんだ。
「ヘルムーっ! どこにいるヘルム! 返事せいー!」
 降りかかる火の粉を両手でよけて男爵は火の中を進んだ。太い梁がバキバキと燃え落ちた。黒焦げになった麻袋は、農民たちが精魂込めて育てた小麦たちであった。唇を噛みしめて男爵はあたりを見回した。
 彼は思い出した。この奥に子爵の研究室がある。男爵はそちらに向かった。炎は容赦なく彼の体を焙り、背中じゅうを火ぶくれにしながらたどりついたドアを、男爵は踵で蹴破った。
 中は火の海だった。出口を得て狂喜する赤い悪魔を肘で防いだ時、男爵は何か動くものを見た。斜めに倒れバチバチと爆ぜている柱の下で、こちらに振られているのは子爵の手であった。
「ヘルムっ!」
 男爵は炎を飛び越えて走り、子爵の体に手をかけたが、親友の下半身は材木の下に埋もれ、その上で炎が踊り狂っていた。愕然とした男爵の前に、
「こ、れを…」
 焼けただれて血さえ出ていない手で、子爵は宝石箱を差し出した。
「これを、息子に…ヨーゼフに渡してくれ…。新しい小麦の種子が入ってる…。従来の3倍の収穫量と、3分の2の成長速度を持つ…。たとえ戦さがどうなろうとも、この品種を生産できれば民は飢えずに済むだろう。若干病気に弱いけれどね、それは交配によって改良できる…。だからこれを、これをあの子に…。そしてあとはお前がやれと…」
「判った。判ったから死ぬなヘルム! 今助けてやるから死なないでくれ…!」
「無理だよ。」
 子爵は微笑した。瀕死であっても優雅さには寸分の衰えもなかった。
「これで思い残すことはない。さ、早く行ってくれ。君のカール同様、私のヨーゼフをどうか頼む…。」
「ヘルム…!」
 ぼろぼろと涙を落とす男爵の膝を子爵はグイと押した。行け、の合図だった。男爵は立ち上がり、心に鞭打って走り始めた。背後で梁の崩れる音がした。
 
 ジョーヌは地に両ひざを突き、ヴェエルに抱きかかえられて待っていた。ただ独り戻った男爵に、先に尋ねたのはヴェエルであった。
「子爵は…? こいつの父ちゃんは…?」
 男爵は洟を拳でぬぐい、
「済まない、間に合わなかった…!」
 ジョーヌの表情が凍りついた。男爵はその手を取って、
「これを、君に渡してくれと。それが父上の、最後の願いだった…。」
 子爵に委ねられた宝石箱を渡した。
 呆けたように動かないジョーヌの代わりに、ヴェエルが蓋を開けた。天鵞絨が張られた箱の中には、薄茶色の種子が一握り入っていた。ジョーヌの瞳が動いた。
「父上の小麦だ…。」
 彼は箱に指を伸ばした。
「父上が改良してた小麦だ。すごくいっぱい実ができるんだって。でもまだ欠点もいろいろあって、あと2世代交配する必要があるって父上は言っていた…。」
 男爵は泣きながらうなずいた。
「そうだよ。戦さが終わってからのことを、君の父上は立派に考えていたんだ。だからあとは君がやるんだ。父上の遺志を嗣いで、君がこの国の食料庫をしっかりとしっかりと守るんだ。」
「父上…。」
 玉のような涙がジョーヌの瞼からこぼれ落ちた。
「父上…父上…父上ぇ…!!」
 箱を胸深くに抱え、身を揉んで号泣する彼を、
「ジョーヌ…ジョーヌぅ…!」
 抱きしめてヴェエルは泣いた。見つめていた男爵の表情は徐々に仁王に変じた。
「悪魔どもめが…!」
 うなり声とともに男爵はきびすを返し、敵兵と素手で戦っている侍従たちの中に飛び込んでいった。
「食うもんが欲しけりゃてめぇらで作れ! 人のもん掠めて何が戦さだ! 汚らわしい盗っ人ども、1人も無事じゃあ帰さん覚悟しろ!」
 
 第4騎甲師団全軍と第3騎甲師団の約半数、合計3千の正規軍が都にたどり着いた時、遠目にもはっきりと判る火柱が王宮の塔を包んでいた。
「しまった!」
 ヴォルフガングは歯ぎしりし隊に全速力を命じた。
「どけーっ! 道をあけろーっ!」
 叫びながら駆ける自国軍に民たちは歓声を上げた。しかし時すでに遅く宮殿の門は破壊され、近衛兵たちは死体の山となって打ち捨てられていた。
「全軍突入! 敵は王宮内のエフゲイア兵! 一兵たりとも逃すな、捕虜にしろ!」
 剣を抜き、ヴォルフガングの馬は先頭を切って城門をくぐった。
 
「ルイダ将軍! 敵騎馬隊が突入して参りました!」
 大広間へ駆け込んできた兵士の知らせに、
「何!?」
 ルイダは振り返り舌打ちした。
「早い。さすがはジュペール、侮れん若僧だ! …ええい、まだ見つからんのか王太子は!」
「おりません。部屋という部屋を探し回りましたが影ひとつさえ!」
「くそうっ!」
 ダン、とルイダは床を踏み鳴らし、
「どこへ消えたリーベンスヴェルト! 王太子を捕らえねば我らの目的を達したことにはならぬ!」
「ですが将軍! ここはひとまず撤退するしかございません! 敵は正規軍でございます、腰抜け近衛や寄せ集めの市民軍とは訳が違います!」
「そのようなことは判っておるわ!」
 ルイダは剣を腰におさめ、
「退却ーっ! ただちに城外へ退却せよ! 急げ!」
 その命令に兵士たちは、ドアを蹴破り壁を打ち壊しカーテンを剥ぎ取っていた手を止めて一斉に走り出した。ルイダはかたわらを見やり、
「副将! お前はあの長鉾を掲げて我に続け!」
 大股に窓に歩みよるや、大胆にもバルコニーへ出ていった。眼下に群がる敵兵たちを雷神の如く見回して、地響くほどの大声で彼は告げた。
「聞け! お前たちの王はここだ! このざまをお前たちの目でしかと見確かめるがいい!」
 彼は頭上を指さした。副将の鉾の先には人間の生首が刺さっていた。目を見開き口から血を垂らしたままの、国王ゲオルグU世の首であった。
「陛下が!」
「陛下ぁぁっ!」
 兵士たちは悲愴にどよめいた。ルイダと副将は奥へ姿を消した。
 黒煙の中を泳ぐようにヴォルフガングたちは大広間にかけつけた。そこには一かたまりになって短剣を構えている3人の侍女だけが残されていた。
「大丈夫か!」
 兵士たちは駆け寄った。味方の姿を見たアマモーラは、ふらりと気絶しかけたところをヴォルフガングに抱きかかえられた。
「しっかりするんだおい! おいっ!」
 ガクガクと肩を揺さぶられアマモーラは目をあいた。
「怪我はないか。残ったのはこの3人れだけか。他の者たちはどうした?」
 ヴォルフガングは早口で尋ねた。アマモーラは気を取り直すように1つ深呼吸すると、
「判りません…。逃げおおせたか捕らえられたか。私たちは王太子殿下のお部屋におりましたため、行き先を知っているだろうと聞かれて…」
「そうか。それで捕虜にされかけたんだな。」
「はい。皆、自決する覚悟はしておりました。」
 アマモーラは背後を見やった。ナーガレットとジュヌビエーブも瞳をうるませてうなずいた。
「そうだったのか。間に合ってよかったな。さ、とにかく逃げよう。残念だがこの王宮はじきに燃え落ちる。さぁ早く。」
 3人は兵士に守られて外へ出た。それから半時たたないうちに、荘厳華麗な宮殿は塔1つ残さず焼け落ちた。
 
 ヴォルフガングたちは隊を三手に分け、1隊は敵兵の追跡と探索に、さらに1隊を民の救援と避難援護に、もう1隊には都中心部の防衛線を張らせた。第3第4騎甲師団の本部は焼き払われていたから、彼らは町はずれの練兵場を本陣とし、兵舎は焼け出された民たちの避難場所として開放した。
 彼らの帰還を最も喜んだのは、民たちの次は伍長であった。彼は涙ながらにヴォルフガングの手を取り、義勇軍が力を出せなかったのは自分のせいであると言って詫びた。
「おいおい何を言ってるんだよ。そんなもの伍長の責任じゃない。これからが力の見せどころだろう。マンフレッドから元帥が戻ってくるまで、俺たちが頑張らないとな。」
 ヴォルフガングは伍長の肩を叩いた。
 シュワルツの言った通りヴォルフガングの実務的な指揮能力は高く、騎甲師団と義勇軍の命令系統はたちまちに整えられた。
 翌日、ヴォルフガングは本陣で、伍長以下司令官及び義勇軍のリーダーたちと軍義を開いた。席にはジョーヌとヴェエルの姿もあった。シュテインバッハ公爵を初めとする貴族とその侍従たちは、護衛兵とともに川むこうの離宮に避難していたが、彼ら2人は自らすすんで本陣に寝泊まりすることにしたのである。
 民たちの様子や敵兵探索についてなどの報告がなされていたその時、
「おい! 連隊長が戻ってきたぞ! 総参謀長もご一緒だ!」
 見張り兵が息せききって知らせに来た。全員、先を争って外に出た。広い練兵場を斜めに横切って駆けてくる2騎が見えた。
「おーいっ! 医者! 医者連れてこい早く!」
 手を振りつつシュワルツは怒鳴った。彼の隣の鞍上でロゼは、ほとんど馬首に伏せたような姿勢で手綱を握りしめていた。
 馬が完全に止まらぬうち身を躍らせ着地したシュワルツに、
「待ってたぞ。遅かったじゃないか!」
 笑いながらヴォルフガングは言ったが、
「馬鹿野郎、これでも必死で遅くしたんだ!」
「はぁ?」
 シュワルツの言う意味をはかりかねたヴォルフガングは、いつまでも下りてこないロゼと彼を抱え下ろそうとしているシュワルツを不審に思い、続いてロゼの腕からぽたりと滴った鮮血にギクリとした。
「何やってんだヴォルフ! 医者連れてこいっつってんだろ! …おいっ伯爵! 大丈夫かあんた! だから言っただろうもっとゆっくり走れって! 笑いごっちゃねぇ本当に死んじまうぞ!」
 慌てて手を貸したヴォルフガングは、ロゼの左袖が絞れるほど血に濡れていることにようやく気づき、
「軍医ーっ! 軍医を呼べ! 総参謀長の手当てを早く!」
 背後の兵士たちに命じながらシュワルツとともにロゼを馬の背から下ろした。そこへ、
「ロゼ! ロゼ大丈夫!?」
 悲鳴に似た声を上げジョーヌとヴェエルが駆け寄ってきた。
 地に足が着いた瞬間、うっ、と激しく顔をゆがめたロゼは、彼らを見ると蒼白の頬で笑い、
「ああ、2人とも無事だったんだね…。よかった…。」
「も、だからそんなこと言ってる場合じゃないってぇ! 誰か早くベッドの支度! こんなんじゃロゼが死んじゃうよぉ!」
 子爵の死とジョーヌの嘆きを目の当たりにしたばかりのヴェエルは涙を浮かべて言ったが、ロゼは彼から目をそらし、肩を貸してくれているシュワルツを見て言った。
「すぐに報告を聞きたい。このまま全指揮官を集めてくれ。」
 シュワルツは一瞬まばたきし、
「馬鹿言ってんじゃねぇ! あんた自分が生身の人間だってこと忘れてねぇか? 手当てして横になってなかったら―――」
「手当ては受ける。」
 きっぱりとロゼは言った。
「だけどそれは報告を聞きながらでもできるだろう。」
「…あんたな、いい加減にしろよ伯爵!」
 声を荒立てたシュワルツだったが、
「総参謀長命令だ。従ってもらう。」
 ロゼは頑として譲らなかった。
「ああもう好きにしろこの強情野郎! あんた元帥の上行くよ!」
 シュワルツは悪態をつきながら彼を会議室へ連れていき、長椅子を運ばせてその上にロゼを横たわらせた。さすがにロゼは抗わなかった。

 ロゼの治療に当たったのは今や医師団の副団長となっていたバジーラであった。彼女は長椅子の脇に膝まづき、彼の黒絹のブラウスの袖を肩からメスで断ち落とした。
「蜂起したエフゲイア兵は何人だ。」
 彼女に腕を、いや左肩より先を預けてロゼは一同に尋ねた。眼窩を黒く落ち窪ませた総参謀長の気迫に座は緊張し、立ち上がった小隊長の手は震えていた。
「は、総勢およそ200。うち王宮を襲撃した者が150、町に火を放ち民を暴行した者が50です。」
「こちらの被害状況は。」
「敵兵の手により国王陛下ご逝去、王宮警備隊および近衛連隊がほぼ全滅です。」
 ロゼは溜息をついた。
「敵兵200の前に近衛が全滅か。」
「はっ、申し訳ございません…!」
「いや怒ってる訳じゃない。なぜそんなにも力の差があるんだろうと思っただけだ。」
「それは…。」
 口籠る小隊長にロゼは、
「何。思うところがあったら隠さず報告してくれ。そうでなければこんな会議は意味のないことだろう。」
「それでは申し上げますが、奴らはまるで自軍の兵士であるかのように、こちらの動きも反撃も、全てを読んでいたとしか思えないのでございます。まるで…その、誰かが内部から手引きをしているかの如く…。」
 きゅっとロゼが眉を寄せたので小隊長は言葉を切った。ロゼの反応は痛みのせいだったのか違うのか、小隊長にも一同にも判らなかった。
 だがロゼはすぐに質問を続けた。
「次。相手の総司令官は。」
「は、はい。義勇軍の兵士が耳にしたところによりますと、敵は自軍の将を『ディード・ルイダ』と呼んでおったそうです。筋骨逞しい30がらみの男だそうで。」
「ディード・ルイダ…。」
 ロゼは復唱したあと、
「ディードというのは将軍のことだ。ルイダ将軍。それがエフゲイア側の総司令官の名前か。」
「ルイダ将軍…。」
 一同は心に刻み込むように、その名をつぶやいた。
 報告は続き、小隊長は、王宮より救出された侍女たちに聞いた国王の最期や、ヘルムート子爵の死に至るまでをロゼに説明した。ロゼは時おりあいずちを打つだけで、目を閉じ黙って聞いていた。
 全ての報告が終わると彼は寝椅子の上に身を起こした。
「皆、ご苦労だった。」
 一同は自然と平伏した。
「こちらの被害は決して小さくなく、まして国王陛下のご逝去と、ご遺体への許されざる侮辱は総参謀長としても身の震える思いがする。しかし我々の反撃がかくも早かったことは、敵にとっての誤算だったろう。それに―――」
 言葉を切ったロゼに、一同は顔を上げた。ロゼは力強く言った。
「我々には王太子がいる。彼が生きている限り、我が国は滅んだ訳ではない。王太子は我々の元帥とともに、今この都に向かっているはずだ。」
「王太子殿下…。」
「元帥閣下が…。」
 場はざわめいた。そうだ、とロゼはうなずいた。
「彼らが戻ってくるまでに、我々はできる限りのことをしておこう。まずは蜂起したエフゲイア兵の探索だ。奴らの拠点はここから遠くない。絶対都のそばにある。奴らが次の手を打ってくる前に、せめて本拠地だけでもつきとめたい。―――シュワルツ。ヴォルフガング。」
 呼ばれた2人の指揮官は、ぴたりとロゼの左右に控えた。
「都における軍事の全権を君たちに委ねる。よろしく指揮をとってくれ。僕は同盟国に書状を送り援軍を頼む。王太子と元帥が戻るまでの辛抱だ。」
 ロゼが視線を投げた先、遠いマンフレッドの方角を一同は見やった。隊を従え地に蹄を響かせて、駆けてくる姿が見えるかの如く。
 
 雪どけの茶色い泥はバシャバシャと彼らの膝のあたりまで跳ね上がった。前をコルネリウス連隊、後ろをカサンドル連隊に守らせ、旗は掲げず馬の緋色の腹当てのみで、ヒロとルージュは街道を疾走していた。道は国境の峠の上り坂にかかった。この峠の頂からは、南方はるかに彼らの都が見渡せる。
「大丈夫かヒロ!」
 遅れがちな彼に、ルージュは振り向き振り向き声をかけた。
 やがて2騎は峠の頂上、木々の枝が途切れた自然の展望台に出た。
「閣下…。」
 一足先にたどり着いていたコルネリウス将軍は、悲痛な表情でルージュを見た。
「どうした。都はどんな具合だ。」
 彼は将軍を見て馬を止めたが、ヒロの馬は並足のまま、ルージュがひやりとしたほど崖の際(きわ)まで歩んでいった。
「危ねぇだろ馬鹿!」
 駆け寄ったところでルージュはヒロの顔色を知った。その視線をルージュはたどった。地平近く、いつもならば陽光に煌いているはずの都は、霧雨とも噴煙ともつかぬ黒い靄(もや)に茫漠と霞んでいた。
 

第2楽章主題3へ続く
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