『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第2楽章 主題3 】

 街道にはおよそ12ギル(4キロ)の間隔で、高い物見櫓が建てられていた。伝令のための中継点として、またエフゲイアの動きを察知するために、以前からロゼが命じて設けさせていた櫓である。そこには2交代制で兵士が常駐し、何か目につく動きがあれば、すかさずその情報を都に送っていた。
 その櫓の上で1人の伝令兵が、望遠鏡を目にあて街道の様子を注意深く観察していた。すると丸い視界の中に突然、森へ続く脇道から駆け出てきた1隊が現れた。すわ敵兵、と緊張した直後、彼は兵士たちが着ているのは自国の軍服であることに気づいた。その中には緋色の腹当ての馬にまたがった黒い羅紗服の青年と、白馬の鞍上にひときわ目を引く金髪の青年もいた。
「元帥閣下…! 殿下も!」
 伝令兵は慌てて櫓を下り、最下段3段を本当に転げ落ちて、つないであった馬に飛び乗った。
 
 ヴォルフガングは伍長とともに、練兵場で義勇軍の訓練に当たっていた。彼らはみな自国の危機に奮い立っていたから、厳しい軍律にも異を唱えることなく黙々と訓練に励んだ。実戦の不慣れさだけ克服すれば、これは立派な戦力になる。ヴォルフガングはそう確信した。
 その時練兵場の門をくぐって騎馬兵が駆け込んで来た。何事だ、と前へ出たヴォルフガングに騎馬兵は告げた。
「司令官殿! ただ今伝令が知らせて参りました! 王太子殿下ならびに元帥閣下のご一行が街道にお姿を見せられた由にございます!」
「そうか!」
 ヴォルフガングは表情を輝かせ、かたわらでやはり感激の面持ちになっている伍長に言った。
「よし、すぐ全員に知らせよう。町はずれの城壁までお迎えに出るんだ!」
 
 練兵場内の建物の一室でロゼは、同盟国への何通目かの書状を書きしたためていた。ペン先をインク壺につけ、縁で余分なインクを落として紙に当て、相手国の外務大臣の名前を半分書いたところで彼は眉を引きつらせた。刺客に傷を負わされたのは彼の利き腕である。ペンはころりと指をこぼれ、白い紙にはインクの染みが黒い血のように付いた。ロゼは忌々しげに溜息をつくとクシャリと紙を丸め、痛みの波を止めるが如く右手で腕を撫でた。
 そこへノックの音がした。はい、とロゼが応じると、
「失礼します総参謀長! ただ今街道の伝令より、王太子殿下と元帥閣下がお戻りになったとの連絡が入りました!」
 侍従の知らせにロゼは思わず腰を浮かせた。
「そうか、あの2人で戻ってきてくれたか!」
「はい。伍長と連隊長は城下でお出迎えなさるとのことでございます。」
「僕も行こう。準備してくれ。」
 ロゼは文箱をしまい、立ち上がった。
 王太子と元帥の帰還の知らせはたちまち都じゅうに広がった。兵も民もまるで何かに呼び寄せられるように、街道が都へ至る、その城壁の入口に集まってきた。
「見えた! 見えたぞ!」
 誰かが叫ぶと群衆はどよめき、声はやがて悲鳴になった。町も王宮も焼かれ国王は殺された。民も兵もみな絶望を感じた。だが今彼らの前に姿を見せ、馬と軍隊の力強い歩みとともにこちらに近づいてくるのは、空色の瞳と輝く金髪の、彼らの王太子リーベンスヴェルトであった。さらにその背後には、勝利の女神の寵愛を一身に集めた無敗の元帥の姿があった。2つの太陽を取り戻した気がして、群衆は涙を流した。
「殿下…殿下ぁ…!」
「王太子殿下…元帥閣下…!」
 すがりつくような、仰ぎ見るような、救いを求めるような幾千の目に迎えられて、ヒロは城下に入った。沈痛な表情でヒロは彼らを見回し、ぎりっと下唇を噛んだ。ルージュは彼の馬の半歩あとにシェーラザードを歩ませ、ヒロと群衆を交互に見やりつつ警戒を続けた。
 やがてヒロは群衆の中央で立ち止まり、ぐるりと民たちを見渡した。彼が何か言おうとしているのを知り、皆静まり返った。
「留守にして、すまなかった。」
 ヒロは口を開いた。
「でも、もう安心してくれ。この戦さは必ず終わらせる。これ以上みんなに、つらい思いはさせない。おいらの命に代えても、こんな争いはすぐに終わらせるから。だからもう少しだけ辛抱してくれ。おいらを信じて、…頼む。」
 ヒロは頭を下げた。群衆はすすり泣いた。だがそれは絶望ではなく、己れの君主の真心を悟り得た感動の涙でもあった。
 と、ヒロの正面の群衆がぞよりと左右に揺れた。咄嗟にルージュは緊張したが、
「ごめん。通してくれ。道をあけて。」
 人波を分けて現れたのはロゼだった。彼は馬には乗っていなかった。ロゼ、と呼んで地に下りようとしたヒロを彼は片手で制した。不審げな顔をするヒロの前に、
「お帰りなさいませ、殿下。」
 ロゼは恭しく膝まづいた。
「おいおい何だよ、やめろよそういう―――」
 苦笑したヒロの腕を軽く掴んだのはルージュだった。彼は視線だけでヒロに、ロゼに任せろと告げた。とまどった表情のまま、ヒロはロゼを見下ろした。
 右の手のひらを心臓の上に当て、立てた片膝よりも深く頭(こうべ)を垂れる臣下の礼をとって、ロゼは群衆に聞こえるようはっきりした口調で言った。
「ご無事のお戻り、何よりのこととおよろこび申し上げます。殿下ご不在中に我が国は未曽有の不幸に遭遇し、前(さきの)国王ゲオルグU世はご逝去なされました。本来であれば正規の式典をもって荘厳華麗に執り行うべきご即位の儀なれど、このような折りゆえ忍び難きを忍び、本日ここにて…」
 ロゼはヒロを見上げ、一層声を大きくして、
「これら民の前で王太子殿下に、王位にお就き願わしゅうございます。」
「王位…?」
 ヒロは小声でつぶやいた。そんな突然に、と言い返そうか迷った時、彼はロゼが大きくゆっくりとうなずくのを見た。民の悲しみと不安を取り除き人心を1つにするためには、何よりもそれが必要なのだとロゼの瞳は語っていた。同時にヒロの背後でルージュは言った。
「そうだな。それがいいだろ。準備も何もそんなこと言ってる場合じゃねぇし。…いいな、ヒロ。」
 ルージュは目の前の肩を軽く押した。
「判った。」
 振り向かずにヒロは言った。ルージュは兵士たちに合図をし、自分も馬を下りた。あ、と言って続こうとしたヒロの腰を、
「だからお前はそこにいんだよ。」
 ぐいとルージュは押し上げた。
 ロゼは背後を見やった。侍従が1人膝まづいた。彼の両手のひらは紫の天鵞絨を掛けた台に見立ててあり、その上に、大型の宝石を嵌め込んだ指輪が1つ光っていた。
「ご即位の儀においては、王冠並びに王錫とご家紋入りのマント、及び金の懸章(サッシュ)をおつけになり、神官より印璽をお受けになるのが習わし。しかしそれらは皆、このたびの戦禍により焼け失せてしまいました。なれど勇敢なる兵士が、ただ1つこの指輪のみを炎の中から救い出して参りました。前(さきの)陛下のお形見でございます。」
 ロゼは従者の手から布ごと指輪を取って、ヒロの前に歩み出た。ヒロはそれを手にとった。その指輪は確かに前国王のものだった。ヒロが王太子として初めて宮中に上がった折りも、国王の手にはその指輪が光っていた。短い期間ではあったけれど、国王はヒロを自らの息子と呼び、実子のように慈しんでくれた。
「陛下…。」
 後は頼むぞとの声が聞こえた気がして、ヒロは指輪を握りしめた。
「どうかお手に、殿下。」
 ロゼは促した。ヒロはぐすっと洟をすすって、純金に飛竜を刻み大型の紫水晶を嵌めこんだそれを左中指にはめようとした。だがその指輪は彼の指には二回りも大きかった。何本か抜き差ししてようやく、彼は右の親指にそれをおさめた。
 ロゼはルージュにうなずいた。ヒロを乗せて立つ純白の馬の左側にルージュが、右側にロゼが並んだ。ロゼは、通常であれば大司教が巻物を手に読み上げる祝いの言葉を、ゆったりと群衆を見渡しつつ滔々と暗唱した。
「共に栄え来し我らが佳き国に、生を受けたる全ての者たちに告ぐ。遥か神代の昔より、陽は巡り月は満ち欠け潮干の道の繰り返すうちに、我らが王の慈愛は地を覆い、その支配いくたりの災いを退け、ついには永き繁栄を我らが上にもたらしめんとす。栄光はあまねく天地(あめつち)を照らし、富と喜びは我が国に溢れ、五穀は実り人心は満ち足り、神々の宴もかくやの賑わいに、外国(とつくに)の世人(よひと)みな我が国を慕い仰ぐであろう。天地の御魂(みたま)息づく限りの永遠(とこしえ)に、我らが佳き国を栄えたらしめんと、我ら今ここにあらたしき国の主(あるじ)を―――」
 ロゼは大きく息をつき、
「新国王、リーベンスヴェルトT世の御即位を宣言するものとする!」
 わああっ、と群衆は歓声を上げた。ロゼは両手を上げてそれを静め、今までの張り詰めた表情を笑顔に変えて、
「御代に栄えあれ! リーベンスヴェルトT世陛下、万歳!」
 その声に皆が唱和した。万歳、万歳と繰り返され、ヒロは困惑したように顔を伏せかけたが、ルージュはその上着の裾を強く引いて、
「笑え!」
「…え?」
「えじゃねぇよ笑うんだ早く! お前は王位に就いたんだ、国王らしく、ほら笑えって!」
「んなこと言われたって…。」
 ヒロは片頬を引きつらせた奇妙な笑いを浮かべ、しかし徐々にそれは自然な、慈しみに満ちた微笑みに変わった。止む気配すらない唱和の中、ヒロ・リーベンスヴェルトはついに、この国の王となったのであった。
 
 その後ただちに練兵場内の建物にて、軍事御前会議が開かれた。数々の報告や申し送りがなされ、詳細については明日の朝一番に再び会議の場を持つことが決められた。
 ヒロはロゼに人払いを依頼し、室内には5人が―――ヒロ、ルージュ、ロゼ、新子爵となったジョーヌと、それにヴェエルが残った。前子爵の最期をヒロに話しながらヴェエルはまた涙ぐんだが、ジョーヌは全て吹っ切れた顔で、
「泣くなよヴェエル。俺はもう大丈夫だから。いつまでもメソメソしてたら父上に叱られる。だからお前も元気出してくれよ。な。」
「そっか…。みんな大変だったんだな…。」
 しんみりとヒロが言った時、ノックの音がし、
「失礼いたします。総参謀長、包帯をお取り替えする時間なのですが。」
 聞き覚えのある声にヒロは戸口を見、目を丸くした。
「ヤブ…じゃねぇ、バジーラ!」
「お久しゅうございます陛下。このたびのご即位、誠におめでとうございます。」
 男装し、医者のしるしの白い腕章をつけた彼女は深く腰を屈めた。
「何だお前そのカッコぉ! 質素なジャルジェ准将かと思ったぜぇ?」
 ヒロの冗談にロゼは笑い、
「今や彼女は医師団の副団長だよ。俺の手がこうして動くのも彼女のおかげだ。」
「手…?」
 ヒロは聞き返した。相変わらずの黒絹のブラウスにきっちりとした立ち衿の上着を着ているロゼの外見からは、その左腕にある深い傷は窺い知れなかった。
「じゃあちょっと失礼するよ。すぐ戻る―――」
 席を外そうとしたロゼに、
「おいおい何だよぉ。まだ話が全然途中じゃねぇかよ。」
 ヒロは口をとがらせた。ロゼは少し考えて、
「じゃあ…ここでいいかな。別に隠す必要もないか。」
 バジーラに目で告げて椅子に腰を戻した。バジーラは一礼して、持ってきた鞄を開けた。ロゼは胸のボタンを外しつつ、
「でも君は見ない方がいいよ。まだね、あんまりふさがってないから。」
「何だよ見ない方がいいって…。」
 片肌を抜いたロゼの包帯をバジーラはほどき始めた。忠告を無視して手元をのぞきこんでいたヒロは、やはり最後は顔をそむけた。
「うっわ、ひでぇな…。」
 ルージュも眉を寄せ、
「どうしたんだよそれ。刺客か?」
「ああ。エルンストからここへ帰る途中にちょっとね。シュワルツがいてくれなかったら、俺は今頃向こうへ行ってる。」
「でもお前利き腕だろそっち。不自由しねぇの。」
「うん…多少は右も使えるからね、他はいいんだけど、まともにペンが持てないのはちょっと。」
「そっか、字が書きづれぇか。」
「ああ。ゆっくりすれば書くこと自体は何とかなる。ただ、字体が変わっちゃうんだ。」
「やべーじゃん。」
「ああ…。」
 ロゼは溜息をついた。
 すっかり話の通じているルージュとロゼに、尋ねたのはヴェエルだった。
「え、何で何で? 字体が変わると何がまずいの?」
「馬鹿、お前よく考えてみろよ。こいつは総参謀長。同盟国に手紙出したりすんの。」
「うん、それは判るけど。」
「その手紙の字がな? いつものこいつの字と違ってたら、場合が場合だけに相手は警戒すんだろが。もしかして偽手紙なんじゃないかって。」
「ああ、ねー…。そっか、ロゼの字じゃないと思われちゃうんだぁ。」
 ヴェエルは納得した。ルージュはさらに説明した。
「同盟国ったってな。ほんとの本音はよその国のゴタゴタに巻き込まれたくなんかねぇんだよ。でも条約があっからな。仕方なく協力すっとこがほとんど。だから向こうにしてみりゃ、手紙が本物かどうか判んねぇっていうのは、返事を遅らすいい言い訳になんだよ。」
「ああ、その通りだ。」
 ロゼは苦笑した。手当てを終えたバジーラは5人に礼をし、出ていった。
「援軍の申し入れはねぇのか。」
 着衣を整えているロゼにルージュは聞いた。
「ないね。」
 あっさりとロゼは答えた。
「唯一ロワナからは皇太子直々の返事が来たけど、あそこもエフゲイアに宣戦布告されてるだろう。自国の警備で手いっぱいで、余力は全くないそうだ。申し訳ないと詫びてきた。」
「まぁあそこはしょうがねぇだろな。うちが助けてやるべき立場なんだから。…で、それ以外のとこからは?」
「いや、音沙汰もない。」
「ふざけやがって…。」
 ルージュは舌打ちした。
「でもね、逆の立場だったら俺もそうしたと思うよ。」
 ロゼは溜息混じりに、
「字は違う紙は違う、封蝋だって粗末なものだ。まぁ仮にどんな紙だって、花押が押してあれば否やは言わせないんだけどね。全ては燃え尽きてしまった。あの美しかった宮殿とともに。」
 しんと黙ってしまった彼らの中で、
「花押…?」
 問い返したのはヒロだった。ああ、とロゼは彼の方を見、
「国王の印璽だよ。ほらいつか俺の執務室で君に掃除してもらったことがあっただろう。あの印が押してさえあればそれは正式な国書の体(てい)をなす。どこに出しても疑われることなんてないんだけどね…。」
 悔しそうに爪を噛んだロゼは、だが次の瞬間、ごそごそと胸のかくしをまさぐっていたヒロの手が、
「ひょっとしてこれのことか?」
 突き出して見せた粗紙を見て絶句した。
「お、ま……」
 こんなに驚くロゼを見るのはルージュでさえも初めてだった。彼は目を見開き口を数回ぱくぱくさせ、やにわにその紙をヒロの手から引ったくったかと思うと、ぶるぶる震える指で広げた。四つ折りにされくしゃくしゃに皺が寄り、端の方はめくれて破れている部分さえあったが、そこには朱肉の色も鮮やな王の印が、くっきりと捺されていた。しかも紙は1枚ではなかった。国王印が3枚に外務大臣印が1枚、国務用のジュペール伯爵印が2枚、合計6枚もあったのだ。
 ロゼの目に涙が浮かんだ。今、何よりも必要なもの。それさえあればと歯ぎしりしたもの。それをいきなり目の前に突き出された時、我を失わない人間などいるはずもない。
「これ…どうしたんだ一体…。」
 泣き声でロゼは聞いた。ヒロはポリポリと頭を掻き、
「いや、あんとき判こ掃除して、綺麗になったかどうか試しに捺してみたやつ。何となくそのままここに入れてあったんだな。ほら、あん時もおいらこの上着着てたべ? 動きやすくてさ、お気に入りなのよ。だから王宮抜け出す時もこれ着てって、でもそんなん入ってるって今が今まで忘れてた。よかったよなー捨てなくて! セーフじゃんセーフ!」
 腕を広げるジャスチュアをしたヒロを、ロゼはいきなり抱きしめた。
「わったっとっとっ何だよっ! 離せよっロゼ! 気持ち悪ぃだろ離せっつの!」
 ふりほどこうと暴れるヒロにかまわず、ロゼは胸深くいだいた背を何度も撫でた。
「神よ感謝します…! ヒロ、君は俺たちの守護神なのかも知れない。もし君が王宮を抜け出していなかったら、エフゲイアは君を捕らえ傀儡の王としたに違いない。君は多分、奇跡を起こせるんだ。母君にもらった名前の通り、誰よりも神に愛されているんだよ…!」
「判った! 愛されてるよ愛されてる愛されてる! 奇跡でも何でも起こしてやっから、だからいい加減離れろっ! おいらのカオで洟拭くんじゃねぇっ!」
 やっとの思いでロゼの腕を逃れ出、きったねぇなぁと頬をこすっているヒロを、ロゼはなおも微笑みつつ見つめた。そのロゼの肩をルージュはポンと叩いた。
「やったじゃねぇか。それさえありゃ国書作れんだろ。」
「ああ。本当に夢のようだよ。今日中に全部書き上げる。待っててくれよヒロ…いや、陛下。」
「んな、今さらそんな呼び方すんじゃねぇっ! とっとと行け!」
「御意。」
 別人ではないかというほど表情を引き締め、ロゼはヒロに一礼して部屋を出ていった。
 そこへ、彼とちょうど入れ違うように兵士がやって来た。
「申し上げます。ただ今、陛下にお目通り願いたいとシュテインバッハ公爵がお見えになりましたが。」
「父上が?」
 ヒロは腰を浮かせた。
「はい。いかがしましょう。ご謁見なさいますか。」
「たりめーだ馬鹿。すぐ行く。どこにいんだ父上は。」
「いやその、陛下の方からお出ましになるという訳には…。」
 困惑する兵士にルージュは言った。
「どっかあき部屋あんだろ。そこに通せ。なるべく散らかってないとこな。」
「御意、閣下。」
 兵士は下がっていった。不満げに振り向くヒロに、
「何度も言わすな。お前はもう国王なんだよ。」
 諭すようにルージュは言った。
 
 本陣とはいえこの建物は、練兵場の片隅にぽつりとある2階建ての木造にすぎなかった。元々実用一点張りでろくな調度はなかったが、とりあえず揃いの椅子とテーブルがある司令官用の客間に、シュテインバッハ公爵は通された。背後にはナーガレットがいて、彼女は大きな布包みを両手に捧げ持っていた。
 戸口のきわの床に膝をつき、2人はヒロを待った。ほどなく奥の扉があいて侍従が現れ、
「リーベンスヴェルトT世陛下、お出ましにございます。」
 作法通りにそう告げた。公爵たちは頭(こうべ)を垂れた。別な足音が部屋に入ってきた、と思うやそれは細かく畳みかけて、
「父上、そんな、やめて下さい。そんなお辞儀されたらおいら困ります。顔上げて下さい早く。」
 ヒロは父公爵の肩を揺さぶった。公爵は彼を見上げて苦笑し、
「困りましたな陛下、そんなことをおっしゃられては。実の親であっても私は臣下の身、家臣が国王に礼をとるのは当然のことと存じますが。」
「かも知れませんけど、でもおいら嫌なんですよ。」
 ヒロは聞き分けなかった。
「親に膝まづかせて、それで喜ぶ奴がいたら見てみたいです。四角四面の儀式ならともかく、他に誰もいないじゃないですか。お願いです、立って下さい。頼みますから父上。」
 そこまで言われては仕方がないと公爵は息子の言う通りにした。ナーガレットが椅子を引いた。ヒロと公爵は向かい合って腰を下ろした。
「まずは、ご即位おめでとうございます。」
 丁寧に言う父親に、
「またそんな…。」
 ヒロは眉を寄せたが、
「まぁまぁ決まり文句くらい言わせてくれ。元気そうで何よりだな、ヒロ。」
 名を呼んでもらいようやく彼は笑った。
「はい、父上もご無事でよかったです。今は離宮にいらっしゃるって聞きましたけど。」
「ああ。ラルクハーレン男爵も一緒だ。別棟には前(さきの)アレスフォルボア侯爵夫人もおられる。元帥閣下に会いにここへおいでになりたいのは山々だろうが、今は大変な時期だからとご遠慮なさっているようだ。さすがは前侯爵夫人、ご立派なお心構えでいらっしゃる。」
「そうですか。でもルージュも、ほんとはかぁちゃ…いえ母上に会いたいだろうにな。それとさよぽんも、全部放り出して飛んできたいだろうに。みんな偉ぇな…。」
 ヒロはしみじみと言った。公爵は思い出し笑いをし、
「偉いといえば伯爵家の侍従たちもだ。都にある貴族の住まいで難を逃れたのはあの館だけだろう。門前でずらりと武器を構え敵は一兵たりとも中へ入れなかったらしい。今でも皆で館を守っているというし、見上げたものだな。」
「伯爵家…ひなっつぅか。」
 ぷっ、とヒロは吹き出した。ロゼのためとあらば人柱(ひとばしら)はおろか肉弾戦も辞さないだろう彼女の、薙刀を構えた雄姿はたやすく想像できた。
 クスクス笑っているヒロの前に、ナーガレットは持ってきた布包みを差し出した。ヒロはくるりと目を動かし、
「何だこれ。」
 触るとふわりと柔らかいそれをナーガレットはほどいた。
「お衣装にございます。」
「衣装?」
「はい。真っ先に火を放たれた王宮からは何ひとつ持ち出すことができませんでしたが、公爵家のお城は幸いにも全焼をまぬがれました。その中より選んで参ったものでございます。王位にお就きあそばされた以上、何かとあらたまった場にご出席なさいましょう。その際のお召し物が不足しては陛下の権威にかかわります。」
 包みの中からナーガレットは次々衣装を取り出して広げた。それを横目で見つつ公爵は、
「それとな、これは我が家の家宝の1つだが、これなら国王の胸を飾っても見劣りしなかろう。」
 小さな宝石箱を取り出してヒロに手渡した。固い蓋を開けるなりヒロは小声でうわ、と言った。卵大のスターサファイアのブローチが、燦爛たる光を放っていた。
 目を奪われているヒロに公爵は言った。
「何かの儀式の時にはそれを着けなさい。もともと王家より賜った品と聞く。そなたが手にしても筋違いではあるまい。…どれ、着けておやりナーガレット。」
「はい。」
 命じられて彼女は立ち上がり、
「失礼いたします陛下。」
 指先にずしりと重い宝石をヒロのブラウスの衿の袷せに留めつけた。五条の星を宿す青い石は、まるでその場所で輝くために地層の奥深くから掘り起こされたかの如く、ヒロの瞳に似合った。ナーガレットは思わず涙をこぼした。
「お許し下さいませ陛下…。」
 いきなりの嗚咽にヒロは慌てた。
「おいおい何だよぉ。どしたんだ急に。」
 笑いながら尋ねられ、彼女はハンカチを口元に押し当てた。
「私は陛下のおそば近くにお仕えする光栄に浴しながら、お身の回りのお品を何1つ持ち出すことができませんでした。公爵家からお持ちになった思い出の品々をみな灰にしてしまうなど、私はどうお詫びすればよろしいのか…!」
「ばーか。」
 床に屈んだナーガレットの手首にヒロは指をかけた。
「何言ってんだおめー。んな、燃えちまったものああこう言ったってしょうがねぇだろ。着るもんなんてなくたって人間生きていけらぁ。泣くほどのことじゃねぇだろが。」
 ほら立て立て、と彼女を促し、ヒロはハッと表情を変えた。
「ちょっと待った。てことはお前、ひょっとして自分の着るもんも、全部…?」
 ナーガレットはうなずいた。ヒロはさらに、
「マジ? 持ち出せなかったのか? 全部? 1枚も?」
「ああ勿体のぅございます陛下! そんな、私どものご心配など…!」
「いやいやいやいや。何だそうか…。ッたくひでぇことしやがるよなエフゲ野郎。」
「あの、陛下。そのお手のVサインは…。」
「え? なんもしてねぇよおいら。してないしてない。ちょっとさ。この指輪がデカくて。ああ痛ぇ。なんか、ユビ凝っちまって。」
 彼はぶらぶらと手を振った。1枚のマントの秘密が、いま永遠に封印された。
 
 ヒロたちが戻ってからの2日間、都は静かだった。寒さこそさほどでもなかったものの、例年よりも長びいた冬がようやく終わりに近づいたか、春色の空とうららかな陽ざしがつかの間の安らぎで彼らを包んだ。
 しかしそれを断ち切ったのは練兵場内の本陣に駆け込んできた早馬の蹄の音だった。使者の額に巻かれた血の滲んだ包帯が、禍々しい戦地の匂いを伝えていた。
 ヒロとルージュ、ロゼ、及びスガーリと2人の司令官、シュワルツとヴォルフガングの前に膝まづき、使者は不幸な知らせを告げた。
「マンフレッドが、エフゲイア軍の手に陥ちましてございます…! 留守部隊の主力・歩兵大隊は全滅。市民兵は遁走し行方が知れません。敵兵は無人の町なかに陣を構え鉱山の調査を開始した由にございます…!」
 サッとヒロが青ざめるのが、背後のルージュには判った。ロゼは驚愕を必死に押さえる口調で、
「敵軍の人数は。進路は。」
「はっ、歩兵騎馬兵人夫も含めて総数およそ5万。北と東二手からの総攻撃に我が軍はよくもちこたえ、戦利品の巨大砲をもって応戦するも、5万対8千では、もとより時間の問題でございました…。」
「5万だと…。」
 ロゼの語尾は震えた。エフゲイアが勝負に出たことが彼にもルージュにも判った。自軍の全てを集結させても今や1万に満たない味方が、どうやってこの大軍を撃破できるのか。振り向いて自分を見たロゼの瞳に、ルージュは絶望の色を知った。しかしルージュの心は不思議なほど静かだった。とうとう来るべきものが来た、単に早いか遅いかの違いだけだと、彼はそう思った。
「伝令。」
 ルージュは兵士に声をかけた。はっ、と平伏したのは兵士、顔を上げたのはロゼであった。ルージュのその声があまりにも静かで、かつて耳にしたことのない悲愴さを秘めていたからだった。
「休む間もなく発つことになるが、お前はまだ軍とともに戦えるか。」
 何だって、とロゼが問う前に兵士は即答した。
「もちろんでございます閣下! これしきの怪我はかすり傷。私はこの命尽きるまで、閣下とともに戦う所存にございます。」
「そうか。頼もしいな。なら下がって指示を待て。遅くとも明日の朝には出陣する。」
「御意!」
 兵士は部屋を出ていった。
「おい、本気なのかルージュ。」
 真っ先にロゼは尋ねた。彼は強く眉を寄せていた。ルージュは全く表情を変えず、
「冗談言う余裕はねぇよ。言った通りだ。すぐに出陣する。」
「ちょっと待てよ。今聞いただろう相手は5万だ。出陣って、どうやって戦うつもりなんだよ!」
「…じゃあ他にどんな方法があんだ。」
 ジロリとルージュはロゼを見た。
「聞かしてみろよ、どんな方法があんだよ。ダンゴ虫みたいにここでひとかたまりになって、ぶるぶる震えながら攻撃されんの待つのか。それがお前の策なのかよ総参謀長!」
 ロゼはぐっと言葉に詰まった。ルージュは両手でロゼの肩を押さえた。
「マンフレッドを陥としたことで、今エフゲイアは一息ついてる。こうやって都も叩いたことだし、ぜってー油断してるはずなんだ。そこを今度は俺らが叩く。少しでも戦力を削いで時間かせぎをする。その間に援軍が集まんだろ。2万か3万か…もしくはそれ以上か。お前はそいつらを指揮して鉄壁の防衛線を引いて、何とか最小限の犠牲で和平にもちこめ。いいな。」
 ロゼは黙った。確かにルージュの言う通りだった。エフゲイアが動き出した以上、手をこまねいていてはこの先滅びが待っているだけなのだ。一縷の望みに賭けた最後の抵抗を、ルージュは…元帥は選び取ったのである。が、
「だけどルージュ、そしたらお前は…?」
 今度はヒロが聞いた。援軍が整う間の時間稼ぎはそれで叶ったとしても、この作戦でのルージュの役目はいわば捨て石。生きて帰れる可能性は皆無に等しいのだ。
「ヒロ、お前の責任は重大だぞ。」
 問いには答えずルージュは言った。
「各国から援軍が来る。奴らは条約があるから協力するだけで、決して俺らの身内じゃない。そいつらの士気を高めて1つにまとめんのは、国王だ。これはお前にしかできねぇ仕事なんだかんな。」
 次にルージュはヴォルフガングを見、
「お前はここに残れ。実際に援軍の指揮取れんのはお前しかいねぇだろ。言葉も毛色も違う奴らだ。うまく配置しなきゃ動かねぇぞ。」
「…御意。」
 一瞬意外そうな顔をしたヴォルフガングだったが、最後は深く礼をした。ルージュは指示を続けた。
「スガーリ。お前は忍びたちを使って大至急情報網を整えろ。もう伝令に人数は割けねぇかんな。」
「御意、閣下。」
「シュワルツ。お前は俺と来い。すぐ全軍に出撃命令を出せ。」
「おうさ。あんたとだったら地の果てまで行ってやるよ。第3騎甲師団は無傷でエルンストにいる。いい働きすると思うぜ。」
「判った。」
 ルージュは一同を見渡し、
「行くぞ。」
 短く言って部屋を出た。すべもなく見守っていたロゼは、その時ヒロが椅子を蹴って立ち上がり、ルージュを追って走りだすのを見た。
「ルージュ! ちょっと待てってルージュ!」
 大股に歩いていく彼にようやくヒロは追いついた。立ち止まった肩章に手をかけ、
「お前何考えてんだよ。生きて帰れねぇって判ってんだろ!?」
「…。」
 無言で無表情のルージュの衿を、ヒロは掴んだ。
「そりゃ、他に方法はねぇのかも知んねぇけど、でもお前が危ねぇって判ってんのに、ハイそうですか行ってらっしゃいって、おいらに送り出せっつぅのかよぉ! んな冗談じゃねぇよルージュぅ! 嫌だよおいらそんなのぉ!」
 がくがくと揺さぶられながらルージュは苦笑した。
「あのなぁヒロ。何回言わせりゃ気が済むんだよ。お前は国王。この国の主(あるじ)だろうが。いつまでもぴよぴよ言ってねぇで、いい加減に立場とか自覚しろよ。」
 ヒロはキッと目を吊り上げ、
「ああそうだ、おいらはぴよぴよだよ。でもな、ぴよぴよはぴよぴよなりに色々考えてんだよ。この戦さだけじゃない。戦さが終わったあとのことをおいらは考えてるんだ。お前がいなくなったらこの国はどうなる。誰が軍隊引っぱんだよ。言っとくけどおいらにゃ無理だぞ。ロゼにだってこればかりは無理だ。ヴォルフもそこそこだろうけど、お前に比べたら全然―――」
 言いつのるヒロの腕を、ルージュは両手で掴んだ。ヒロが思わず顔をしかめたほどの恐ろしい力だった。
「軍隊の、いらない国つくれ。」
 ルージュはヒロの目の奥の、シリウスめいた光に言った。
「他の誰にできなくても、お前ならできんだろ、ヒロ。」
「…。」
 ヒロは言葉を失くしてルージュを見つめ返した。ルージュの目が笑った。力強く美しい、底知れぬ優しさを湛えた瞳だった。彼はヒロの腕を放した。そして再び歩き始めた。ヒロは視線だけでルージュの背中を追った。黒羅紗の元帥服は廊下を曲がり、やがて足音も遠ざかっていった。
 
 春の使者である煙るような霧雨の中、ルージュは川向こうの離宮へとシェーラザードを走らせた。供はなく彼1人であった。突然の来訪に侍従たちは慌てたが、母ビクトーリアは彼が来たことで何もかもを悟ったのだろう、ことさらな惜別の涙もなく、ただ武運長久を祈るとのみ告げて息子の頬に口づけた。
 去る前にルージュは1室をあけさせ、サヨリーヌを呼んだのち人払いした。離宮とはいえ荒れた建物に調度は少なく、薄暗い明かりと埃臭く淀んだ空気の中で、サヨリーヌはルージュの前に膝まづいた。彼は粗末な椅子に掛けていて、傍らの小テーブルの上には白絹の布が広げられていた。
「マンフレッドが陥ちた。」
 ぼそぼそとルージュは話し始めた。
「じきに大軍が攻めてくる。援軍は要請してっけど、今すぐって訳にはいかねぇ。だからもう、この方法しかねぇんだ。」
 サヨリーヌはまばたきもせずにルージュを見上げた。この方法、というのが何であるかは言われなくても判った。ルージュは凭れていた身をゆっくり起こし、懐に手を入れ短剣を取り出すと、束ねていた髪をほどいた。豊かに波打つ亜麻色の髪は、戦地へ赴いている間に伸びて肩を少し越えていた。ルージュは剣の鞘を抜いた。ぎらりと銀色に光るそれをいったんテーブルに置き、彼は髪を指で梳いて首の後ろに集め、1つに握った束の下に短剣の刃を当てた。
 ざくり、と乾いた音がした。掴みきれなかった絹糸はぱらぱらと床にこぼれ、不揃いの毛先が彼の頬を撫で、唇を覗き込んだ。
「俺の髪はいつも、お前がとかしてくれた…。」
 独白めいてルージュは言い、白絹の包みをサヨリーヌに差し出した。震える手で彼女は受け取った。彼の体温が残っていそうな気がした。
「これで誰にも切らせずに済むだろ。どこで何があってもな。」
 それだけ言うとルージュは、短剣を懐にしまいながら立ち上がった。膝まづいたままのサヨリーヌの横を風が通り過ぎ、だが足音は戸口のところで止まった。彼女はそちらを見た。ルージュは横顔で言った。
「俺が、逝ったら。…弔えよサヨリーヌ。」
 1人残された暗がりの中で、サヨリーヌは手にした包みを見た。いつも自分が梳いてやった髪。子供の頃も少年時代も、どんなに不機嫌な時でもルージュは彼女のブラッシングだけは嫌がらなかった。子犬のように鼻を鳴らし時には眠ってしまうことさえあった。舞踏会の時などは薔薇の香油を塗りつけてやりつつ、彼女はその美しさに幾度も溜息をついた。白と金の礼服の肩でゆらりゆらり揺れていた絹糸の髪は、今まるで屍の如く彼女の手の中に横たわっていた。
(ルージュ様…!)
 サヨリーヌは走り出した。部屋を出、廊下を抜けて階段を駆け下りた。しかし時はすでに遅く、彼女が見たのはルージュの馬が城門を出ていく後ろ姿だった。
「ルージュ様!」
 それでもサヨリーヌは走った。石畳を踏みスカートを押さえ城門の外まで彼を追った。が、爪先を石の間に取られて彼女はそこに倒れた。
「ルージュ様! ルージュ様! ルージュ様ぁぁーっ!!
 後は悲鳴だった。うち伏せたまま彼女は泣いた。彼は死を覚悟している。二度とは生きて会えないかも知れない。あの瞳が、あの笑顔が、いま私の前から永遠に消え去ろうとしている――。彼女は包みに唇を押し当てた。かすかな薔薇の香りがした。
 
「ヒロ、これに目を通してくれるかな。」
 窓辺に立ち外を見ている彼にロゼは言った。ルージュが都を発って数日来、めっきり口数の減ったヒロは、ああと応えて椅子に座った。渡された紙はベルリア国王家…ロゼの姉の嫁ぎ先への国王名の礼状だった。ヒロは文章を読みながら言った。
「ありがたいもんだよな、お前の姉ちゃん。援軍だけじゃなく保存食まで届けてくれて。」
「ああ。子爵邸の倉庫が燃やされたせいで食糧不足も深刻だったのに、これでちょっとは息がつけるよ。海産物はあの国の特産品なんだ。塩漬けだから日持ちもするしね。…手紙の内容、それでいいかな。よかったら最後にサインだけして。」
「判った。」
 ヒロはペンを取った。
 自分で書いたLiebensweltの文字を眺め、ヒロは溜息をついた。と、その時、ドアがノックされロゼの侍従がやってきた。
「失礼致します。陛下、アレスフォルボア侯爵家の侍従サヨリーヌ殿が、内密にお会いしたいと申されておいでですが、いかがいたしましょうか。」
「え? さよぽんが? おいらに?」
「はい。何かひどく思いつめたご様子で…。」
「判った、会うよ。いいよなロゼ。」
「ああもちろん。」
 2人が了承したのを見、侍従は、
「ではこちらにお通し致します。」
 そう言って下がっていった。
 ほどなくサヨリーヌはやってきた。低く腰を屈める彼女に、
「よぅ。しばらくだなさよぽん。無事でよかったよ。何だおいらに話って。あ、こいつも一緒でいいか?」
 ヒロは明るく尋ねたが、サヨリーヌは笑わずに、
「はい。多分伯爵はうすうすお気づきでらっしゃると思いますので…。」
「お気づき? ロゼが? …何だろ。お前が来たからにはどのみちルージュのことだよな。」
「はい、おっしゃる通りでございます。」
 ヒロはサヨリーヌを、続けてロゼを見た。ロゼの表情は確かに、何かを感じ取っているようだった。
「何だよ。またおいらだけ何も判ってないのかな。聞かしてくれよさよぽん。ルージュがいったいどうしたって?」
 ヒロは身を乗り出した。彼女は一瞬祈るように目を閉じ、淡々と話し出した。
「陛下はご存じでらっしゃいましょうか。前国王ゲオルグU世陛下の王太子殿下たちが、あのようなおいたわしいことになったのは、エフゲイアに通じた我が国の内通者のしわざであると。」
「ああ、それは聞いた。おいらも1回襲われかけたしな。」
「さらには公爵夫人…。陛下の母上様をも。」
 サヨリーヌの声は震え、ヒロも、
「…ああ。そうだな。」
 どこかが痛むかのように目を伏せた。サヨリーヌは続けた。
「そのことをルージュ様は、ずっと気に病んでおいででした。まるでご自分の罪であるかのように悩まれて、父上が全てを背負ってお亡くなりになられたあとも、ルージュ様はおそらく、陛下に対する永遠の負い目を感じていらっしゃったに違いないのです…。」
 聞いているうちヒロの眉は徐々に険しくなった。サヨリーヌはいつしか涙を流していた。
「これを陛下に申し上げようかどうしようか、私は悩みました。前(さきの)侯爵閣下がお命に代えてまで秘めようとなさった事を、私ごときが口にするなど、許されぬことだとも思いました。でも、ルージュ様は死を覚悟していらっしゃいます。あの方の本当のお気持ちを、せめて陛下にだけは知っていて頂きたくて…。」
「判った。」
 ヒロは低い声で言った。
「話してくれさよぽん。ここにはおいらとロゼしかいない。誰にもしゃべんねぇって約束すっから。だから聞かしてくれ。ルージュは、まさか…。」
 サヨリーヌはハンカチで涙をぬぐい、決意の表情になって言った。
「エフゲイアと通じていたのは、ルージュ様の腹違いの兄上、ルワーノ様だったのでございます。それをお知りになった前侯爵閣下が、ルワーノ様に御手ずから死を賜りました。でも同時に、ルワーノ様と刺し違えられて…。」
「…。」
 ヒロは絶句した。まさかそんな、と思う彼に幾つかの記憶が囁いた。前侯爵の葬儀の日、そういえば確かにルージュの態度はおかしかった。ヒロがいくら呼びかけても祭壇の影から姿を見せなかった、あんなことはそれまでにもそれ以降も1度もなかった。さらにはマンフレッドの市長の家で、エルンストに避難するのを嫌がった自分にルージュはこう言った。
『お前は死なす訳にいかねぇ。俺はお前まで…お前まで死なす訳にはぜってーいかねぇんだよ!』
「あの馬鹿…!」
 ヒロは椅子の腕をだん!と拳で殴った。言葉にせず態度にも表さず、だがルージュがずっと胸に秘めていただろう慚愧の念を思った時、ヒロは今回の彼の出陣が、自分への贖罪の意図を込めたものであると―――もちろんそれが全ての理由ではないにせよ、勝ち目のない戦さに彼を駆り立てた根底根源の意図はそれであったと、はっきりと悟り得た。
「あの野郎、許さねぇ…。何がお前は国王だだよ。おいらにしか出来ねぇことだとか何とか言って、独りで悲劇しょいこみやがって…。知ったらおいらが怒るとでも思ったのか。母上のかたきだってあいつのことを、憎むとでも思ったのかよ!」
 泣きそうに顔を歪めるヒロに、ロゼは言った。
「それは無理だよ、ルージュにすれば…。たとえ腹違いでも兄は兄。血の繋がった実の兄が、君の母上を殺したんだ。自分には関係ないって、割り切って思えるルージュじゃない。それに彼は立場上、君に全てを告白して許しを乞うこともできなかった。二重の十字架をルージュは背負っていたんだ。むしろ君に罰してもらえれば、彼はずっと楽だったんだろうね。」
「何だよそれ…。」
 キッ、とヒロはロゼを見た。
「立場って何だよ。隠さずに何でも言いあって、みんなでこの国を支えていこうって…言ったじゃねぇかよあのローマ祭の日に! それなのに何でルージュは…。」
「ヒロ。」
 ロゼの声は落ち着いていた。
「君は国王で、ルージュは元帥なんだよ。わずか1年もたってはいないけど、あの頃とは状況が違う。国を支えるっていうことは―――」
「なんだよ国王って…。」
 再び遮ったのはヒロだった。彼はどこか遠くを見る目で、
「元帥ってなんだ。立場ってなんだよ。そんなもんに縛られて自由に生きらんねぇような国だったら、おいら国王なんかたった今やめてやるよ! 立場だの身分だの、昔誰かが決めただけだろ。そんなもんとっ払っちまえばいいだろが!」
 ヒロは立ち上がった。大きく見開かれたつりあがり気味の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
「許さねぇあの野郎、ぜってーぶん殴ってやる…。馬鹿ルージュ、これで死んだらただじゃおかねぇかんな…。あのスカした顔ぼこぼこにして、おいらに謝らせてやる。ずっと黙ってやがって。独りで何もかんも抱えこみやがって…!」
 毒づく言葉とは裏腹に、細かく震えるヒロの背を見てロゼもサヨリーヌも何も言えなくなった。
 窓の外、ヒロの視線の先にはマンフレッドがあった。街道を進んでいたルージュたちはその時、進軍中のエフゲイア軍と激突し、激しい戦闘をくり広げていた。
 
「弩(おおゆみ)隊、前へーっ! 騎馬兵は左右に展開して突撃準備! 歩兵隊は騎馬隊の後ろについて突撃せよ! 弩、斉射! 無駄に打つな敵の喉元を狙え!」
 馬上にて抜刀しルージュは全軍を指揮した。残り少ないとはいえ精鋭揃いの兵士たちは、それぞれの小隊長を中心に見事な息の合わせ方で、ルージュの一言一句、剣の一振りをも見逃さずに鮮やかな攻撃を繰り出した。
 エフゲイアの前衛隊総指揮官・ルガシュ将軍は、隊の最後尾に馬を下げ戦況を把握するべく兵士から報告を受けていた。初めは楽勝を確信していた将軍だったが、敵の数、隊の構成に続いて、3人めの兵士がもたらした報告に顔色を変えた。
「敵軍の先頭で指揮を取っているのは、どうやら元帥アレスフォルボアと思われます。髪が短くなっているので別人かと思いましたが、金色の鷹の紋が入った緋色のマントを身につけられる者は他にいないはず。」
「何だと…。」
 ルガシュは手綱を握りしめた。
「よもや元帥自らが出て来るとは思ってもみなんだが、どうりで敵兵の動きに勢いがあるはずだ。アレスフォルボアに率いられておるなら、この隊は侮れん。いよいよ我が軍に『美しき悪魔』が牙を剥いたか。」
 ルガシュは背後を振り返り、
「副官! 歩兵小隊1個を残してひとまず全軍を退却させよ! 後続軍と合流し態勢を立て直し、敵を誘い込んで一気に撃滅するのだ! このままでは悪魔の餌食になりかねん。歩兵小隊にはこの地でできる限り敵を食い止めるよう命じろ。」
「御意。」
「儂は先に戻る。あとの指揮は任せたぞ。護衛隊はついて参れ。急ぎ後続軍と合流するのだ!」
 エフゲイア軍の動きに、いち早く気づいたのはシュワルツだった。彼は馬腹を蹴ってルージュのもとへ駆け寄り、
「元帥! 奴らは一時退却するつもりだ。見ろよ、騎馬隊が次々引き上げていくじゃねぇか。」
「腰抜けどもが…。」
 ルージュは表情を歪め、
「追うか。こっちが優勢なうちに少しでも叩いておかねぇとな。」
「そうすっか?」
「ああそうする。騎馬隊300。指揮は俺が取る。」
「またまたあんたはそうやって…。」
「いいから言う通りにしろ。お前は残りを連れて俺のあとに続け。いいな。」
「へいへい。死に急ぐなよ元帥。」
 ニヤリと笑うシュワルツに、
「まだ死んでたまっかよ。」
 ルージュも笑い返した。
 各隊から数分のうちに選出された300の騎馬兵は、闘志を漲らせた表情でずらりとルージュの前に並んだ。ルージュは、気がはやるのか落ち着かないシェーラザードの手綱を片手で操って、大声で彼らに言った。
「いいか、奴らはろくに刃向かってもこねぇでさっさと退却を始めた。けど、我が軍としては呑気に逃がす訳にはいかねぇ。尻尾まいた敵の尻に噛みつくつもりで攻めろ。放っておけば奴らはいずれ都にやって来る。お前らの家族や親友を殺すかも知れない。そうはさせねぇのが俺らの役目だ。お前らのここでの攻撃が、大事な人を守ることになる。そう思って…」
 バッ、とルージュは剣を振り上げた。
「斬って斬って斬りまくれ! 捕虜はいらねぇ、叩き斬れ! …続けーっ!!」
 わぁっ、と閧の声をあげ、兵士たちはルージュを先頭に突撃を開始した。馬足はみるみる加速したが、その時周囲の草むらから、敵の歩兵隊が一斉に躍り出てきた。手にした槍状の武器に突かれ、落馬する味方が見えた。
「蹴散らせ! 少兵だ! 構わずになぎ払えっ!」
 ルージュは号令し自らも剣を振るった。不意を突かれたせいで数名の犠牲は出たが、把握してしまえば騎馬兵対歩兵、破壊力の差は格段であった。
 たちまちにルージュは10人近くを斬り捨てた。片づいたか、と思ったところで右横からザッと槍が突き出された。身を引くと同時にルージュは剣を振りおろした。苦もなく折れた槍の柄を掴み、彼は驚いた。漆も塗らず膠(にかわ)も使われていないむき出しの枝。この敵兵はこんな粗末な武器しか与えられていないのか…。
(最初から捨て石なんだ、こいつらは。)
 ルージュの胸は軋んだ。見ると、柄の一方を握りしめている兵士の顔は、憎悪と恐怖が入り交じって今にも泣きだしそうだった。
 彼はおそらく農民兵だろうとルージュは想像した。もしかしたら強制徴用で、訳も判らず集められた貧しい民かも知れない。武装といえるほどの武装もしておらず、武術の訓練もされていないだろう。
 ルージュは目を閉じた。哀れむ心に彼は無理矢理蓋をした。右腕が宙を切った。敵兵の首は枯草の茂みに埋もれた。
 十数分で歩兵小隊を全滅させ、ルージュたちはエフゲイア軍を追撃した。退却中の大隊は動きが遅い。その背後に襲いかかった少数精鋭の騎馬兵は、逃げながらの応戦などという消極的な防御を物ともせず、予想以上の打撃をエフゲイア軍に与えた。
 裾も揃わぬざんばらの髪で、血塗られた大刀をかざすルージュを敵兵はみな『悪魔』と呼んだ。悪魔と目を合わせた者は間違いなく死体になる。エフゲイア兵はそう囁き交わし、畏怖はやがて激しい憎しみに色を変えていった。
 敵の前衛が後続部隊と合流した後も、ルージュは攻撃の手を休めなかった。執拗な追尾に業を煮やしたか、エフゲイアが迎撃のための陣を崖ぎわの湿地帯に設けたと物見が報告してきた時、ルージュは迷いもせず総攻撃を命じた。しかも作戦はぬかりなく、
「忍びに先導させて森の獣(けもの)道を進軍する。馬鹿どもは俺らが真正面から攻めかかると思ってんだろ。そこを押し包んでぶっつぶす気だろうが、そうはさせねぇ。思うつぼにハマッたふりして奇襲をかけてやる。シュワルツ。お前は弩隊を率いて崖の上に回れ。背後、しかも頭上から石と弩と火矢を見舞ってやる。そうすりゃ奴らは大慌てだ。そこに俺らが脇から突っ込む。どうだ、イケると思わねぇか。」
 何かに憑かれたように語るルージュに、シュワルツは一瞬、痛々しさを覚えて目を伏せた。
 
 エフゲイア兵2万は、切り立った崖を天然の守りとして密集型陣営を敷いた。残り2万はさらに後方に下がり、マンフレッドの留守部隊5千を除くとほぼ敵の半数がルージュたちを撃破する構えをとったことになる。
 ルガシュ将軍と副官は陣幕の奥で、羹(あつもの)を片手に軍議を開いていた。将軍の膳には酒さえ運ばれていた。うまそうにルガシュは杯を干し、
「いかな悪魔でも生身の体に羽根は持たぬ以上、この陣を攻めるには真正面の1本道を来るしかない。湿原へ誘い込み馬の動きを鈍らせ、四方から矢を射掛けて一気に掃滅するのだ。敵将アレスフォルボアはできれば致命傷を負わさず生け捕りたいが、無理であればやむを得ん、殺せ。ただ首はまだ落とすな。屍であっても我らが都に連れ帰り、ふさわしい刑罰を加えねばならんからな。」
 ぐい、とルガシュが再び杯を干した時、
「申し上げます! 湿原の対岸に敵軍が姿を見せました! その数およそ300、我々を追撃してきたのと同じ人数です!」
「来たか。」
 ニヤリと笑うルガシュに兵士は、
「ですが奴らは攻撃してくる様子はありません。どうやら我が軍の威容に怖じ気づいたものと思われます。」
「勢いはあってもしょせんは微力か。して、あの悪魔の姿はあるか。」
「ございません。が伝令の動きが慌ただしいのは、後方に控えておるからではないでしょうか。」
「おそらくな。」
 ルガシュは立ち上がった。さっ、と平伏する部下たちに、
「よいか、敵が動くまでこちらから動くでないぞ。挑発に乗るな。誘い込み包囲して退路を断つのだ。」
 その頃シュワルツたちは、雪解けのぬかるみと腰までの枯草に苦しめられながら、何とか敵陣後方の崖の上にたどりついていた。高さおよそ15メートルの崖は垂直に切り立ってはおらず、下りて下りられぬことはない角度の傾斜がついていた。しかしエフゲイア軍は、道のないところから決して敵は来ないとでもいうかのように、背後には全く注意を払っていなかった。
「ようし、間に合った。」
 シュワルツは隊を止め、
「じき合図がある。それまでに仕掛けを作るぞ! 弩隊は火矢の準備にかかれ。号令と同時に点火できるよう油壺に浸しとけ。急げ!」
 兵は役割ごとにさっと散り、ある者は崖ぎわに石を積み、ある者は弓づるを固く締め始めた。シュワルツは眼下の敵陣を観察した。累々と連なる陣幕の列はみなこちらを背にしており、矢も弓も湿原の側にずらりと並べられていた。
「馬鹿め、これこそ頭隠して尻隠さずだよ。」
 ニヤッとシュワルツは笑った。
 攻撃の準備は整った。射手は二重の横隊をなし、片膝をついて弓を構えた。各自の傍らには油を入れた壺があって、そのそばに点火する係の兵士が屈んでいた。
 シュワルツは中空を睨んで立っていた。すると、湿原の左右に迫る林の中から、ヒュルルルルと高く空気を鳴らして大鏑矢が3本打ち上げられた。
「ようし合図だ!」
 シュワルツは怒鳴った。
「石を崩せ! 崩せーっ!」
 兵士たちは土嚢のように積み上げた石を次々崖下へ蹴落とした。人間の頭ほどの石だった。降る如くそれらに襲いかかられた敵陣は、たちまち大混乱になった。
「さぁっ間をあけるなよ! つづいて火矢用意! 人間じゃねぇ、あの陣幕を狙って打て!」
 ヒュンヒュンと弓づるが空を切った。たっぷりと吸った油に火をともされ、炎の滴をしたたらせながら、無数の燃える矢が敵の頭上を覆った。悲鳴と怒声が渦を巻き、敵兵は火だるまになって逃げ惑った。そこへ、正面の湿原ではなく左右の林の中から、突風のように駆け出てきた騎馬兵が斬り込んだ。大軍団を率いて疾走してくるのは緋色のマントをつけた悪魔。その姿を見ただけでエフゲイア兵は浮足立ち、防御壁になるはずだった中隊は全く機能しなかった。
 ルージュたちはなだれをうって敵陣深くに突入し、同時に反対側の崖上からはシュワルツが、
「命の惜しくない奴は俺について来いっ!」
 気合も高らかに崖を滑りくだり、残りの兵士たちも全員あとに続いた。
 燃えさかる炎の、まさに地獄絵図の中を、ルージュは右手に剣、左手に鎗を持って馬を操り走り回った。いったい何人の敵を斬ったのか、痺れた腕には骨に食い込む太刀の手応えすら感じなくなっていた。紅蓮の炎を背景に、敵も味方もくるくると影絵のように回りながら殺し合っていたが、やがてルージュの視界から、生きた敵兵は姿を消した。
 ルージュはシュワルツに後をまかせ、湿原を迂回して対岸へ行き、そこで物見をさせていた兵士たちに逃亡者はいたかと聞いた。彼らによればおよそ500騎ばかりの敵が街道を逃走していったそうなのだが、中にはどう見ても将軍クラスと思われる衣装をつけた者がいたと聞いて、ルージュは騎馬兵100を連れ追跡を始めた。ぬかるんだ道に残る蹄の跡がそれを容易にした。
 半時も走ったところでルージュは、旗のようにこちらにマントを振っている敵兵を正面に見、手綱を緩めた。敵兵は道に土下座した。道の脇の疎林からはぞろぞろと、両手を降伏の形にした敵兵が200人ばかり現れた。
 ルージュたちは馬を止めた。2人の兵士がルージュの左右に立ち、いつでも突けるよう長鎗を構えた。土下座していた兵士は顔を上げた。小隊長かあるいは中隊長か、末端の司令官らしい姿であった。
「元帥、アレスフォルボア様でいらっしゃいますか。」
 兵士はルージュに尋ねた。そうだと彼が答えると、
「私はバルドーと申します。将軍護衛隊の小隊長を勤めておりました。このたびの元帥様の戦いぶりに、心から感服いたしました。私どもの隊はその名の通り将軍を護衛するのが任、御国の兵士様には一切弓を引いておりませぬ。ですからどうか、私どもの命ばかりはお助け下さい。これからの元帥様への忠誠の証に、先ほどまで我らの将であった男の首を、この通り元帥様に差し上げます。」
 バルドーは背後の兵士にうなずいた。兵士は持っていた包みをルージュの馬の足元に置き、開いた。まだ血も止まっていない生首―――ルガシュ将軍の首が、うつろな目でルージュの後ろの空を見ていた。バルドーは言った。
「これが我が前衛軍の最高指揮官でございます。我々はただ今より元帥様の御許に下り、忠義を尽くしたく存じます。どうかお聞き届け下さいませ、アレスフォルボア様…!」
 バルドーが額を地にこすりつけると、200人が一斉に土下座した。ルージュは彼らを見回した。左右で鎗を構えていた兵士が、どうしますかという顔でルージュを見上げた。
「お前らを軍に入れるつもりはない。」
 少し考えてルージュは言った。バルドーは引きつった顔で彼を見た。ルージュは目をそらし、続けたり。
「だが戦意のない者を殺しても仕方ない。小隊長には一緒に来てもらうが、それ以外の者は―――」
 ルージュは左側の兵士に、あることを視線で命じた。兵士はすぐに理解して、やはり言葉なく部下たちに指示した。右側の兵士はバルドーの腕を掴んで立たせ、麻縄で後ろ手に縛った。ルージュは疎林の中を見た。敵軍の馬たちが繋がれていた。
「あれは全部こちらに貰うぞ。」
「どうぞご随意に。」
 腰縄を打たれながらバルドーは頭を下げた。
 馬たちとバルドーと半数の自軍兵を連れ、ルージュは陣に戻っていった。残った兵士たちはルージュの命令を実行した。敵兵たちは土下座したまま利き腕を前に伸ばせと命じられ、肘より先を斬り落とされてから、どこへでも行けと開放された。
 バルドーの運命も同じだった。ただ彼はその前にエフゲイア軍の機密を、知っている限り吐かされた。聞かれるまま素直に語ったバルドーは、拷問はされずに済んだ。
 
 奇襲作戦は大成功であったが、ルージュは軍を北上させ続けた。都を出る時は8千だった人数はおよそ5千に減っていたが、この人数で2万の敵を討ち取ったのは驚異的な戦果だった。であればこそ兵士や指揮官たちの顔には、あきらかな疲労の色が見え始めていた。ろくに寝ていないルージュの頬もげっそりと削げ、目の下には隈ができていた。
 マンフレッドへあと半日の距離まできた時、ここでスガーリが追いついた。彼の顔を見たルージュは、一瞬だけ表情を和らげた。しかしそれも長くは続かなかった。先行の物見兵が禍々しい報告を持って駆け戻ってきたからであった。この先にエフゲイアの大軍が陣を張って待ち構えている、その数およそ2万5千、と。
「ンだよ人数が増えてんじゃねぇか。さてはマンフレッドの留守部隊もかき集めやがったな。」
 無精髭だらけになったシュワルツは、疲労と号令でガラガラの声で言った。
 ルージュは司令官全員を集め、短い軍議を開いた。
「間違いなく次が勝負だ。」
 淡々とルージュは言った。
「エフゲイアもそのつもりでいんだろ。ここで勝てばひょっとして、マンフレッドを取り返せっかも知んねぇ。ただもう奇襲は無理だ。正面衝突になる。錐をねじ込むつもりで真ん中に穴あけて、それをどこまで広げられっかだな。」
「答えは天のみぞ知る、だろ。ここまで来てあれこれ考えたってしょうがねぇ。」
 すぐにシュワルツは応じ、
「次の先鋒は俺に仕切らせてもらうぜ元帥。あんたが先頭で斬り込むのはこないだが最後だ。あのバルドーが言ってたろ。今や敵はみんな、国でも国王でもなくあんた1人を憎んでる。あんたを捕らえることが勝利だと奴らは思ってるんだ。そのあんたに先頭切られちゃこっちはたまったもんじゃねぇ。落ち着いてチャンバラもやってられねぇだろが。」
「判った。」
 苦笑してルージュは聞き入れた。
「俺は後ろに下がる。頼むぞシュワルツ。」
「おお。これに勝ってマンフレッドを取り返して、胸張って都に凱旋してやろうぜ。」
「そうだな。」
 皆うなずきはしたが、そんな幸運は決して来ないだろうと全員が知っていた。次の戦場がおそらくは死に場所。彼らはそう思っていた。
 ルージュは静かに告げた。
「行くぞ。共に栄え来し、我らが佳き国のために。」
 

【 第3楽章に続く 】
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