『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第3楽章 主題1 】

 濃紺の大旗翻る敵陣営を、2千の兵を従えてシュワルツは見はるかした。傾き始めた太陽にきらめく鎗先は、毒蛇の体を彩る銀色の鱗に思えた。シュワルツはスラリと剣を抜き、顔の前にまっすぐに立てた。刀身の鏡に己の顔が、少し歪んで映っていた。
(あばよ、チュチュ。もっといい男見つけて幸せになってくれ。)
 最後の迷いを彼は打ち捨て、頭上に剣をかざした。
「目標、前方エフゲイア軍! 全軍、進めーっ!」
 沸き起こる閧の声をルージュは、陣幕も張らずただ長鎗を立てただけの本陣で聞いた。続いて弩の歩兵隊3千、さらに騎馬兵2千が波状に追い打ちをかけたがその時、マンフレッドで聞き慣れた大砲の音がズズンと腹に響いた。
「巨大砲か!?」
 ルージュたちは慄然としたが、轟音は1発ではなかった。ドゥン、ドゥンと続けざまに5発。そのたび大地が激しく揺れた。
「まずい…!」
 血煙を上げて倒れる味方軍がありありと脳裏に浮かび、騎馬隊に一時撤退を命じようとしたルージュのもとへ伝令が、
「申し上げますっ! 後方に…後方に敵軍が迫っております!」
「何だと!?」
 なぜそんな方角からと思うと同時に、ルージュはそれがロゼの言っていたネズミ、長く間者として潜み王宮を襲撃し、前国王を殺した奴らであると気づいた。
「こんな時に出てきやがったか…!」
 ルージュのこめかみに筋が立った。奴らだけは叩きつぶしてやりたいと思う気持ちに、指揮官としての判断がかろうじて勝った。
「このままでははさみうちにされる。スガーリ! 全軍ただちに一時退却…」
 その語尾に押しかぶせて、
「元帥閣下ーっ! 別の一隊が側面から参ります! 我々は既に射程距離内に―――」
 駆けつけた兵士は、ぎゃっと叫んで倒れた。後ろ首に矢が刺さっていた。
「こんな近くに!?」
 さすがの司令官たちも顔色を変えた。ルージュは耳を澄ませた。聞こえる、嵐の海のうねりのように押し寄せる、これは間違いなく敵の蹄の音…。
「もう、退却してる暇はねぇみたいだな。」
 ルージュは剣を取った。
「今ここにいる全軍全兵士で、後方の敵兵を迎え撃つ。隊形を整えてもいらんねぇだろう、出会った敵は斬り捨てろ! 目印は俺だ。この緋色を目印について来い!」
 バサッとマントを翻してルージュは陣を後にした。司令官、伝令、警備兵、全てが彼に従った。各々、剣や弓や鎗を持ち馬に乗って前方を睨み据えた。顔の見分けがつくほどに、敵兵は目前に迫っていた。
 射かけられる雨の矢を剣で薙ぎ払い、ルージュはまっしぐらに敵軍に斬りこんだ。群がる敵兵をたちまち数人斬って、彼は馬首をふりむけた。ネズミの親玉、総司令官はどこにいる。自分たちの隊は長くはもたない。司令官を倒すしか活路はない。血走った目でルージュは敵将を探した。
 駆けて斬り、倒してはまた駆けてルージュはついに見つけた。濃紺の大旗を腹当てにした馬の背で、刺すような視線を自分の眉間に注いでいる男。ルイダという名をもちろんルージュは知らなかったが、その男が敵軍の総指令であることは一目で判った。
 手綱を絞り馬に足掻かせ、ルージュは視線で敵将を煽った。誘いこみ斬りかからせて一騎打ちに持ち込もうとした。けれども男は表情を変えなかった。傍らに控える副官らしき男は、ルージュのマントを見るや蒼白になったが、敵将は眉一つ動かさなかった。
 しかし睨み合いは一瞬で断ち切られた。本陣の危機を知った味方騎馬兵の一部が、こちらの戦いに加勢してきたためだった。状況を知って敵将と副官は、あたかも物見場から立ち去るが如く平然とージュに背を向けた。追おうと馬腹を蹴ったルージュの前を、沢蟹のような動きで敵の小隊が遮った。駆けつけた味方兵が左右からそれに斬りかかり、やむなくルージュは馬を引いた。けれど今の敵将の昏い目は、晴れることなく彼の脳裏に焼きついた。

 戦いは2日に及んだ。少しずつ場所を変えながら幾度も衝突し、そのたびにルージュは見なければならなかった。垣根の柵が引き倒されるように、チェスの駒を奪われるように、力を失っていく自らの軍隊。敵に囲まれ標的にされ、毛を逆立てた針ネズミさながら全身に矢と剣を突き立てられる兵士。首を落とされ甲冑を剥がれ物体となって泥の中に打ち捨てられた屍。鮮血にまみれ激痛にあえぎつつ、元帥閣下万歳と叫んで自決する司令官―――。
 心を鎧い悲しみを封じ、悪魔の名をその身に帯びてルージュは地獄を駆け続けた。落ち合うごとに兵は減り、夜明け前、追いつめられた林の中でルージュの回りにいたのは、スガーリ、シュワルツを初めとする司令官が5名、小隊長・中隊長が7名、騎馬兵31と、歩兵4名の合わせて50人足らずであった。
 右に、左にひとだまのように揺れながら、篝火は輪の中心に向かってじりじりと彼らを締めつけていった。幹の影から様子を窺い、シュワルツはチッと舌打ちした。
「しつっこい奴らだぜ。この感じじゃ千人はいやがるな…。」
「夜が明けたら逃げられない。この闇が我らの最後の味方だ。」
「ですがこの林の裏は川です。雪解けの濁流が渦を巻いております。闇夜にあれを渡れるのはカロンくらいなものでございましょう。」
「馬鹿、例えが悪い!」
 シュワルツは小隊長を殴った。気の立っている彼をなだめるべくスガーリが口を開こうとした寸前、
「…よせ。」
 低い、ルージュの声がした。
 木の根に浅くもたれた彼のもとに、スガーリはにじり寄った。
「傷の具合は、いかがでございますか閣下。痛むようでしたら薬草をお取り替えしますが。」
「いや大丈夫だ、痛みはねぇから。」
 その答えが嘘であることをスガーリはすぐに悟ったが、何も言わずに下がった。全員がどこかしらに怪我をしていたが、左膝のすぐ上を鎗で抉られたルージュの傷は深かった。スガーリは自ら薬草を摘み、煎じる水も道具もないまま歯で噛んで唾液と練り合わせ、傷に塗り包帯を巻いてやったのだった。
「もう、その方法しかないだろうな。」
 車座に戻ったスガーリは、シュワルツの結論を耳にした。
「俺たちは最後まで戦った。お前らは最高の戦士だ。誇りを持って、かばねを前に向けて死のう。」
「待て、どういうことだ。」
 スガーリはシュワルツの腕を掴んだ。互いの表情は暗くて見えなかったが、シュワルツの声は落ち着いていた。
「俺たちが囮になって奴らを引きつける。その隙にあんたは元帥を守って逃げるんだ。」
 スガーリは言葉を失ったが、今やそれが残された最善の策だということは彼にもすぐ判った。シュワルツや他の兵士たちを見殺しにするのは断腸の思いであったが、深手を負ったルージュを独りにする訳にはいかず、彼を守って都へ連れ帰るのは自分が適役であることも明らかだった。
「司令官…。」
 スガーリはシュワルツの肩に手を置いた。闇が涙を隠してくれた。回りの兵士たちもすすり泣いた。しかし、
「そんなもん誰が許した。」
 恫喝の響きでルージュは言った。全員がギクリと彼の方を見た。
「俺を守って死ぬつもりかお前ら。ふざけんな。男の自己陶酔なんざどっかの伯爵の専売特許でいいんだよ。武人の勲章は戦死じゃねぇ。生きて国に帰ることだ。ッたく何を勘違いしてんだっつの。お前ら馬鹿ばっかだな。」
「閣下…。」
 ルージュは腰の脇に両手を突いて体を起こし、背中を伸ばした。反射的にスガーリたちも姿勢を正した。
「戦場において、元帥命令は絶対だ。いかなる理由があろうとも背くことは許されない。判ってんな。」
「御意、閣下。」
「お前も判ってんなシュワルツ。」
「さぁな。」
「元帥命令だ。心して聞け。俺が奴らを引きつけてるうちに、お前ら全員、都へ発て。」
「…何ですと!?」
 余りのことにスガーリの声は上ずった。構わずにルージュは続けた。
「お前らが囮になったところで、かせげる時間はたかが知れてる。今さらお前らを生かしとく敵じゃねぇ。奴らが探してんのは俺。悪魔アレスフォルボアだ。戦さの間に俺の顔は知られ尽くしてる。身代わりなんざ誰にも勤まんねぇよ。」
「…それはなりません閣下っ!」
 スガーリは地面に両の拳を突いた。
「閣下のお身とお命を敵の手に渡して、それでも生きよとおっしゃるのですか! 我らは武人でございます。武人にとって最大の恥は、主君を見捨てて逃げることにございます…!」
「だから、お前も判んねぇ奴だな。誰も俺を捨てて逃げろなんつってねぇだろ。」
 笑いを含んだルージュの声は、凛とした気迫に満ちていながらもどこか透明で明るかった。それは死を覚悟した人間に特有の、悲壮な輝きであった。
「だけどここでお前らが囮になったんじゃあ、俺が都へ帰れるほどの時間はかせげねぇ。でもな。俺が囮ならかせげる。奴らは俺をすぐには殺さねぇだろう。奴らの国に連れて帰って、大公フェルナンドの前で処刑するはずだ。その間に、ひょっとしたらチャンスがあるかも知れない。俺は死ににいく訳じゃねぇ。俺が囮になんのが、作戦として一番成功率が高いんだ。お前らは俺の作戦命令に従い、目的を達成させるために都に発つ。それのどこが不服なんだ。言ってみろスガーリ。」
 問いかけられて、彼はぶるぶると首を振った。
「嫌でこざいます。私は閣下がお生まれになった時より今日の日まで、守り役としてお側近くお仕えして参りました。前(さきの)侯爵閣下にも若君を頼むと固く命じられております。その閣下を独りお残しして生き永らえるなどと、地獄に落ちた方がましでございます…!」
「まだそんなこと言ってんのか。そんなにここで死にてぇのか。お前ならここで殺される。俺ならここじゃあ殺されねぇ。少しでも、1日でも長く生きられる方にチャンスが―――」
「いいえ死にとうございます! 私はここで死にとうございます!」
「馬鹿なのかお前。」
「馬鹿でございます。しかし閣下をそのようなおいたわしい目にお合わせしてまで生きていたくはございません! それくらいなら私は―――」
「黙れスガーリ。」
「黙りませぬ! 私は、ここで我が命を絶ってでも―――」
「馬鹿野郎!」
 ルージュはスガーリの頬に拳を打ち込んだ。倒れ伏した彼と、目の前の男たちにルージュは息声で怒鳴った。
「もう、誰も死ぬな…!!」
 男たちは、音のない雷光に射抜かれたが如く絶句した。背後の木の幹にすがりながら立ち上がるルージュに、誰1人手を貸さなかった…いや、貸すことができなかった。近づくことさえできない気凛(きひん)が―――すでに人の域を超えた威厳が、ルージュの全身から漂っていた。
 彼は数歩の距離を片足で進み、シェーラザードではない別の馬、バルドーたちが残していったエフゲイア軍の1頭の手綱を取って、その背にはい上がった。ブルル…と不審げに鼻を鳴らす愛馬に、
「お前はいい。もう十分だ。都に帰ってあの黒い奴のとこに嫁に行け。女好きの舅だ。気をつけろよ。」
 鼻面を軽く撫でて行こうとした背中に、
「閣下…!!」
 まさに内臓を抉る声でスガーリは呼びかけた。その肩はシュワルツが押さえていた。
「ロゼに伝えろ。」
 振り向かずにルージュは言った。
「この俺を交換条件にして、うまいこと外交しろ。俺を引き渡したことを最大限に利用するんだ。できる限り時間はかせいでやる。神が許してくれる限りはな。」
「閣下…!」
「俺はここから飛び出す。敵は一斉に追ってくるはずだ。逃げ回って駆け回って混乱さすから、その間にお前らは川を渡れ。無駄死にしたらただじゃおかねぇぞ。」
「ああ、まかしとけってんだこの馬鹿野郎! 必ず都に着いて、見事戦さを終わらしてやらぁ!」
 泣きながら言い返すシュワルツにルージュはクスッと笑った。それからマントの留金を確かめ、ふぅ、と短く息を吐き、
「また会おう!」
 そう言い残すと、はぁっ!とよく通るかけ声をかけて馬の腹を蹴った。
「さぁ、俺たちも行くぞ!」
 涙をふりきりシュワルツは立ち上がった。座り込んでしまったスガーリを引きずり上げ、叱責しつつ走り始めた時、わぁあっ!と敵軍が声を上げるのが聞こえた。ルージュを見つけたに違いない。どっ、と蹄の音が続き、弓づるは風を切って鳴った。
「立ち止まるな! 急げ! 急げーっ!」
 シュワルツは奥歯を噛み拳を握りしめて、生きるため濁流に身を躍らせた。
 
「そっちだ! 回り込め! はさみうちにしろ!」
 突如目の前に現れた敵将を、エフゲイア兵たちは千載一遇の好機とばかりに追った。今や全軍の憎悪の的となっている緋色のマント。あの悪魔を捕らえれば名実ともに英雄になれる。しかし敵将が乗っているのは天馬なのか翼竜なのか、追いつめたと思えば闇に消え、見失ったかと思えばわざとのように、篝火の中に身を晒す。自分たちを嘲笑い翻弄するかの動きに、兵士たちは苛立った。
「くそぅ、なんで矢が届かない! たったの1騎をこれほど追い回しているのに!」
「油断はならねぇ。あれは人間の姿をした悪魔だからな。」
「悪魔にしても生身の悪魔、そうそう体力が続く訳はない。追うんだ。追って追って追いまくれ! 休みなく矢を射かけろ!」
 ルージュの息はとうに上がっていた。幾本かの矢が肩を腕をかすめていたが、
(馬鹿どもが…。毒でも塗っときゃ早ぇのによ。)
 彼は平然と走り続けた。しかし左膝は先ほどから疼痛に襲われていた。馬上の体を支えるのは爪先と膝であるから、自然、速度が落ちた。馬自体の体力ももう限界にきていた。
 東の地平が白み始めた頃、ルージュは前方に敵軍を見た。背後に1隊、左にも1隊。やむをえず馬首を右に向けた先は、ごろごろした岩や石が散乱する荒れ地であった。
 しまった、と思った時には遅く、弱りきった馬は簡単に足をとられ、まともに前にのめった。勢いをくらってルージュは放り出された。地面に叩きつけられて、一瞬動けなくなった彼の背中に、
『生け捕ったぞーっ!』
 甲冑をつけた敵兵が奇声を上げてのしかかった。
 たちまち十数人がルージュを囲んだ。うつ伏せに押さえつけられ両手を獲物のようにひねり上げられ、馬乗りになった兵の1人に髪を掴まれのけぞらされた。その首をかすめんばかりに、左右から鎗が2本、ザクッ、ザクッと地に突き立てられた。喉のすぐ下で刃が十字を成した。ルージュは目を閉じた。故郷の光景が鮮やかに浮かんだ。
 ザッ、と誰かが馬を下りる音がした。真正面だったのでルージュは目を開いた。ブーツを履いた足が見えた。男はルージュの前で立ち止まり、屈んだ。濃紺のマントがひだを描いた。もしやこいつはと思った時、ルージュの顎は男の手ですくい上げられた。
「ようやく我が軍に陥ちられましたね。アレスフォルボア侯爵、レオンハルト・メルベイエ殿。」
 くっくっと低く笑う男は、やはりあの時副官を従えて平然とこちらを見ていた敵の総指令であった。
「申し送れました、私はルイダと申します。大公フェルナンドT世より将軍位を賜っております。短い間とは思いますがお見知りおきを。」
 口元は笑っていたが、目の奥には冷たい底光りがあった。それはこの男の持つ冷酷さと残虐性をあますところなく伝えていた。ルイダは指の背でパチンとルージュの頬を叩き、
『立たせろ。後ろ手に縛り上げて馬に乗せるんだ。』
 氷のような声で兵士に命じた。
 膝立ちでルージュが縄を打たれている時、
「おや、おみ足をどうかされましたか。」
 慇懃無礼にルイダは尋ねた。ルージュはフンと鼻を鳴らし、
「わざわざ言葉変えなくていいんだよ。おめぇらが何て言ってっかくらい、聞き取れずに戦さが出来るかっつの。」
「これはこれはご丁寧なお気づかいを。しかし綺麗なお顔とご身分に似合わず、乱暴な物言いをなさいますな。我が国では考えられないことです。」
 じろり、とルージュはルイダを見上げ、
「うるせぇよ。」
 憎しみをこめて言い放った。ルイダは肩をすくめたと見るや、ルージュの左足の傷の真上に利き足の踵を蹴り込んだ。悲鳴を殺すのが精一杯だった。横倒しでうめくルージュを、2人の兵士が馬の背に無慈悲に担ぎ上げた。
 
 ずるり、とヒロの肘は椅子の腕をすべり落ちた。そのまま床にまで崩れそうだった彼を、ロゼは慌てて支えた。都の錬兵場の建物、今やすっかり本陣となったそこで、ルージュが自ら敵の手に陥ちた様子をシュワルツたちが語り終えた時だった。
「それで、元帥は今…。」
 ヒロの肩に手を添えたままロゼは尋ねた。スガーリはしたたる涙をぬぐいもせず、
「しかと見確かめた訳ではございませんが、おそらく敵軍とともにマンフレッドにおられるかと…。そしてやがては、奴らの本国へ…。」
 ヒロの体が震え出すのをロゼは指先に感じた。取り乱すな、とヒロに思念を送りつつ、
「元帥の意思通り、よく戻ってくれた。つらかっただろう。感謝する。」
「滅相もございません…!」
 スガーリは床に額をつけた。
「君たちのおかげで、同盟国からの援軍は予想以上に集まった。その数は現在7万5千。ヴォルフガングの指揮のもとに役割も決まって、幾つか実行に移せる作戦もできた。戻ってすぐで済まないが、早速軍議を開く。皆、出席してくれるね。」
「御意、総参謀長。」
 ロゼはヒロの顔を覗き込み、
「それでよろしいですね陛下。」
 念を押すように言ったが、見開かれたサファイアの瞳は何も映してはいなかった。
 目の前で会議が行われていても、ヒロは壊れた人形さながらに、背もたれに乗せた首を仰向け、虚空を見つめて何も言わなかった。閉会後ロゼのもとには何人もの使者が来て、それへの答えの中にはヒロの判断が必要なものもあったが、ロゼは気を働かせ全てを自分の裁量で処した。
 深夜になってようやくロゼは責務から開放された。彼は傍らの椅子を振り返った。ヒロは目を閉じていた。眠っているようだった。起こそうかと肩に置きかけた手を止め、ロゼは上着を脱いだ。起こしたら彼はまた、そのまま寝つけなくなるだろう。上着をそっとヒロに掛けてやって、ロゼは足音をひそめ部屋を出た。
 夜の祈りを終え、寝酒のワインを1杯だけ飲んで、ベッドに体を横たえたか横たえないかのうちに、ロゼはドアをノックするひそやかな音を聞いた。はい、と応えると、入ってきたのはヒロであった。
「陛下…。」
 起き上がったロゼに、
「わりぃな、こんな時間に。それとこれ、ありがと。」
 ヒロはロゼの上着を椅子の背にかけ、
「寝ようとしてたとこ悪いけど、ちょっと話があんだ。すぐ済むからそのままで聞いてくれ。」
「いや駄目だよ、国王の前でこんな格好は。」
「いいから。」
 ヒロはじろりとロゼを見た。自分には滅多に向けられない鋭い視線に、ロゼはベッドにとどまった。ヒロはベッドのそばに椅子を引き寄せて座り、ふぅ、と1つ息を吐いた。
「何。」
 ロゼは促した。自分の膝に頬杖をついて顔半分を両手で覆っていたヒロは、もう1度深呼吸してから言った。
「最初に言っとく。反対しても無駄だぞ。おいらは決めた。これは相談じゃないかんな。」
「だから何。」
「おいら、ルージュを助けに行く。」
「…。」
 ロゼが息を飲む気配があったが、ヒロの位置からはテーブルに立てられた燭台の蝋燭が逆光になって、彼の表情は見えなかった。
「さっき報告を聞いてから、ずっと考えてた。てゆーかあいつがここを出ていった時からかも知れない。おいらはあいつを見殺しにすんのは嫌だ。誰が何と言おうと嫌だ。あいつはおいらの母上のことで、ずっとおいらに引け目を感じてた。それを黙って戦場に行った…。おいら、あいつが許せないんだ。」
 ジジッ、と蝋燭の炎が揺れた。ロゼとヒロの影も揺らめいた。
「これであいつに死なれたら、今度はおいらが負い目を感じる。あいつのことも自分のことも、一生許せなくなる。そんな人間を、天も神も守ってくれる訳がない。そんな奴は国王やってる資格がないんだ。だから俺はルージュを助けにいく。たとえ1人でも、助けに行ってやる。」
 ヒロはうつむいているロゼを見やり、返事がないのを知って立ち上がろうとしたが、
「…いいんじゃないの。」
 ロゼの口から出たのは思いもかけぬ言葉だった。
「ええっ!?」
 ヒロはロゼのベッドに手をおき、
「いいのか? マジ? ほんとにいいの?」
 揺さぶられるスプリングの上で、ロゼはおいおいと苦笑した。
「変な人だね君も。自分から言い出して何を驚いてるんだよ。」
「だって…お前がいいって言うなんておいらこれっぽっちも思ってなかったから…。」
「まあね。いつもの俺なら断固反対しただろうからね。」
「そうだべー? 反対すんべ普通、お前…。」
「でも、今は君に賭けてみようかって気になってる。」
「おいら、に…?」
 首をかしげるヒロに、
「ああ。君に賭けるよ。」
 ロゼは力強くうなずいた。
「何せ君には天運が憑いてるんだ。例の印璽の件で、俺はつくづくそう思ったよ。君が持っていてくれたあの紙のおかげで、正式な国書が作れた。だからこそ同盟国も軍隊を送ってくれた。援軍が来なかったらこの国はおしまいだった。今頃はエフゲイアの領土にされて、貴族は略奪され民は奴隷にされ、俺はさしずめ第一級の戦犯として絞首刑になってるよ。そうじゃないのは君のおかげなんだ。」
「そうか? おいらって、そう?」
 ヒロはポリポリと頭を掻いたが、ロゼはそこで急に真顔になって、
「で…策はあるの。まさか何も考えてないなんて言うんじゃないだろうね。闇雲に助けに行ってもどうにもならないよ。冒険小説じゃないんだからさ。」
「大丈夫だ。」
 ヒロはさらに椅子を引き寄せ、
「マンフレッドには、多分町の奴らがひそんでる。エフゲイアにも誰にも気づかれない隠れ場所が、あの町には山ほどあんだよ。おいらはそこでそいつらと合流して、ルージュを助け出す。軍隊なんかいんねぇ。かえって目について危険だ。おいらはあの町で育った。あの町での戦い方は、おいらが一番詳しいはずだ。ルージュがマンフレッドにいてくれる間なら、チャンスはある、ぜってー。」
 
 闇の中での極秘会議は終わり、その夜のうちに国王からの密使はシュワルツとスガーリとシュテインバッハ公爵、それにジョーヌとヴェエルの元に届いた。
 夜明けとともに彼らは本陣に集まり、国王リーベンスヴェルトの決意を聞かされた。ヒロと同行するのは2人の武人、ロゼは同盟軍の組織が完成するのを待って、一足遅れて都を発つ。国王不在の間の国務代行は実父公爵―――だがジョーヌとヴェエルは強く同行を希望し、そんな彼らを懇々と諭したのは、ロゼではなくヒロであった。
「お前らはここに残れ。ルージュは必ず助けてみせると、お前らに約束したかったんだ。ジョーヌには食料の確保、ヴェエルには建物の修復という重大な任務があるだろう。民が安心できる暮らしを、1日も取り戻してやる。それにはお前たちの力が必要なんだ。」
「判ったよ。」
 2人はうなずき、ジョーヌは言った。
「父上のやり残した研究が、もう少しで完成しそうなんだ。ヴェエルの作ってくれた温室がよくできてて、この季節でも交配ができる。だから早ければ次の春に、新しい品種を試せるかも知れないよ。」
「なー? いいだろあの温室! 感謝しろよな俺にぃ!」
 ヴェエルはジョーヌの後ろ首を掴んで揺さぶり、
「俺だって忙しいんだから。エフゲ野郎があっちもこっちも好きなようにブッ壊してくれてさ、それ全部直すのってうちの仕事じゃん? もぉ能力限界で取り組んでるから、ヒロたちが…じゃなくて陛下たちがルージュと一緒に帰ってくる頃には、都じゅうに高層ビルがずんずん建ってるかも知んないよぉ。」
「高層ビルは困るな…。」
 ロゼのつぶやきに皆は笑い、最後に公爵は言った。
「ここまで来たらあとはもう、陛下の思うようになすったらいい。当たり前の手段で勝利するのは難しい相手です。ずるずると力を削がれて属国になり下がるのを待つよりも、能う限りの努力をしてみる。正しいお考えだと思いますよ。ご立派です陛下。」
「父上…。」
「あとのことはお任せ下さい。お留守はこの父が守りましょう。どうかご存分にご活躍下さい。」
「ありがとうございます…!」
 父の手を、ヒロは握りしめた。必要なものは昨夜のうちに揃えられていた。昼前に彼らは都を出た。
 
 午後いっぱいを小休止のみで駆け続けて、3騎の前に夜の帳がおりた。いくら急ぐ旅でも馬をつぶす訳にはいかず、ヒロたちは野宿の場所を探し始めた。
 ちょうどいい疎林を見つけて入っていった3人は、幹の重なりを照らす焚き火の明かりと人声に気づいた。しっ、とスガーリは指を立て、シュワルツはヒロの前に盾のように立ちはだかった。スガーリは見を低くし首をのばして様子を窺っていたが、
「何だ、ジプシーか…。先客がいたということか。」
「ジプシー?」
 シュワルツも薄闇に目をこらした。人声は笑いと陽気な歌だった。馬車も数台停まっていて、人数は老若男女合わせておよそ30くらい、焚き火を囲み酒を回し飲みながら食事をしているらしかった。
「どうする。河岸(かし)を変えるか?」
 スガーリはシュワルツに聞いた。
「そうさな…。」
 シュワルツは少し考え、
「得体の知れねぇ奴らだからな。こっちは大事なタマを抱えてる。用心した方がいいんじゃねぇか。」
「そうだな。」
 戻ろうとした2人はしかし、その“大事なタマ”…国王が、ぴたりとその場に足を止め、幹に手を置きしきりに目を細めて、集団を見定めようとしているのに気づいた。
「おい、何やってんだよ陛下。ただのジプシーだ、流れもんだよ。ここが都なら踊りの一つも躍らせるとこだけど、今はそんな悠長な場合じゃあ…」
「ジョアンナ?」
 ヒロはつぶやいた。何?とシュワルツたちがとまどううちに、ヒロはずんずんと下草を踏んでジプシーたちに近づいていった。
「おいっ! 陛下! 陛下っ!」
 バタバタと手招くシュワルツを無視し、
「ジョアンナ! お前、ジョアンナだろ?」
 ヒロは大声で呼んだ。ジプシーたちの歌がやんだ。まずい、と走り出たシュワルツとスガーリの視界の中で、
「プチキャット!?」
 焚き火のそばで踊っていた女(木の実ナナさん)がヒロを見て目を丸くしていた。
「久しぶりだなジョアンナぁ! 元気だったかよぉ!」
 駆け寄るヒロに彼女も両腕を広げ、
「ああ元気だったよ! 久しぶりだねぇプチ!」
 2人はひしと抱擁しあい互いの背中を叩きあった。
「相変わらず細っこいねぇ。まぁまぁ何てカッコしてんの。旅芸人の仲間にでも入ったのかい?」
「ちげーよ馬鹿。ちょっと話せば長いんだけど、おいら今、国王やってんだよ。」
「国王ー!?」
 復唱したジョアンナは大きな口をあいてケラケラ笑い、
「そりゃ驚いた。どこのだい、おもちゃの国? それともお菓子の国の?」
 くしゃくしゃとヒロの髪を撫でるジョアンナの腕を、
「ぶ、無礼者!」
 血相をかえたスガーリが押さえた。
「痛い痛い痛い! ちょっと何だよこのおっさん!」
「何だではない! 陛下のおぐしに何たる無礼な! 斬り捨てられたいのかジプシーふぜいが!」
「何だってぇ?」
 ジョアンナが睨むと焚き火の回りの仲間たちが一斉に立ち上がった。ヒロは慌てて間に入り、
「まままま、ちょっと待てちょっと待て。その手を放せスガーリ。いいんだよこいつはおいらの昔馴染みなんだから。」
「陛下…。」
 緩められた指を振り払い、ジョアンナはおお痛いと繰り返した。
「ごめんな。大丈夫か? こいつはどうも頭固くってな。」
「全く、ふざけんじゃないよ。何なんだいいきなりさぁ。芝居小屋の棟梁かい?」
「ちげんだって。おいらが国王なのはマジなんだって。」
「まだそんなことを…」
 笑おうとしたジョアンナは、だが3人を見回して表情を改めた。ヒロの、いやプチの左右にいるのは、腰に剣を下げ階級章を付けた、眼光鋭い本物の武人だと判ったからだ。続いて彼女は思い出した。プチそっくりな女の肖像画を持って「この方のご子息を探している」と言っていた貴族の従者に、彼のことを教えたのは他ならぬ自分であったことを。
「まさか、プチ、あんた本当に…。」
 目を見張るジョアンナにヒロは、
「そ。おいら、ガラでもねぇのに国王やってんの。んで、今は戦争中で、敵の捕虜になった元帥を今から助けに行くとこ。」
「へぇぇぇぇー…。けろっとした顔でまぁ、すごいこと言うねぇ…。」
「ま、それはまた追い追いな。それよりすっげいい匂いすんじゃんかぁ。腹減ってんだよなぁおいらぁ。なー、ジョアンナぁ、何か食わして。お願い!」
 ヒロは顔の前で両手をすり合わせた。国王の物乞いにスガーリは天を仰いだが、
「ああいいよ。たんとお食べ。野兎が獲れたんでみんなで喜んでたとこさ。」
「マジぃ? ちょーラッキーじゃんか! ありがとなー。…あ、そいでコイツらにも、いい?」
「いいけど肉はやらないよ。汁だけで我慢しな!」
 ポンと言い捨てたジョアンナだったが、もちろんそれは冗談であった。焚き火を囲んで暖をとりながら、彼らはたっぷりと腹を満たした。
 幸運は食事だけではなかった。ヒロに事の次第を聞いたジョアンナは、そりゃ大変だねぇといたわしげな表情になり、
「ねぇプチ。あたしらでよければ協力してやろうか?」
 ヒロの肩に手を置いて言った。えっ、と顔を上げる彼に、
「知ってんだろ、あたしらの情報網の強さはさ。国境なんてないも同然だし、どこへだってもぐりこめるよ。あんたたちが3人で行動するより、あたしらの仲間を装った方が安全だろう?」
「…いいのか?」
「ああ。女に二言はないよ。他ならぬあんたが困ってるんだ、見捨てて通り過ぎられるかい。」
 ニヤリとジョアンナは笑った。彼女はこの群れの首領の女房であり、実質は全てを仕切っている立場なのだった。ヒロは瞳をうるませて、
「マジかよぉ。ありがとなジョアンナぁ。」
「なぁに、構わないよ。さっ、そうと決まれば明日は早いよ。今夜はここでぐっすり休みな!」
 
 ヒロには天運が憑いていると言ったロゼの言葉は、あるいは本当かも知れないとスガーリは思った。翌朝彼らは衣装をすっかりジプシーのものに変え、馬車に揺られてマンフレッドに向かった。
「よ、似合うぜ守り役。」
 シュワルツはスガーリの背中を叩いた。スガーリは苦笑し、
「お前こそどう見てもジプシーだぞ。軍服よりはるかに合ってる。」
「よせやい。…でもまぁ一番似合ってるのはやっぱり…。」
 2人はそっとヒロをかえりみた。白いブラウスに獣の革をなめして縫い合わせた長めのベスト、黒タイツに革ブーツに、頭にはスカーフを巻き結び目は左サイドといういでたちが、ヒロには実によく似合っていた。これなら誰も国王だとは思うまい。マンフレッドへの潜入は思いのほか楽に行きそうだった。
 すっかり幌をまくった馬車の、板敷きの床に後ろ向きにあぐらをかいて、ヒロは流れ去る風景を眺めていた。大地はまだ雪に覆われていたが、白一色のところどころに褐色の地面が覗き、芽吹きにはまだ遠い枝々にも、何か命のうごめきのような微かな気配が感じられた。
(春だな…。)
 彼は目をとじ風を吸い込んだ。凍った岩から水がしみ出る時の、あの柔らかな匂いがした。
(人間の世界がこんなでも、季節はちゃんと巡ってくるんだな…。)
 淡い水色の空をヒロは見上げた。鉱山の回りにも草原はあって、雪解けを待ちかねた花たちが一斉に開くと、そこはさながら地上の楽園と化した。とりどりの花を摘んで籠に入れたものを、ヒロはよくカイにやった。うわぁ何て綺麗なの!と彼女はとても喜んでくれた。
(昔のことだ。)
 苦笑してヒロは首を振った。すでにカイは誰か他の男のものだった。祝福してやらなければとヒロは思った。エルンストの避難所暮らしには不自由も多いだろうが、愛する人と子供が側にいてくれるなら、それだけでカイは自分を幸せだと思うだろう。彼女がそういう女であることを、ヒロは誰よりもよく知っていた。
 忘れよう、と改めて誓った時、ヒロは未だその首に下げている十字架を思い出した。彼は布ごとそれを握りしめた。
(これは捨てない。これはおいらの御守りなんだ…。)
 マンフレッドの街はもう、彼らの目前に迫っていた。
 ヒロたちの馬車は街の入口でエフゲイアの小隊にとどめられた。敵警備兵の当然の任務であった。ヒロはターバンに似た帽子を目深にかぶり、スガーリとシュワルツはカツラと付け髭で変装した。
 ジョアンナは馬車から下りて兵士たちの前に立った。
「あんたたち、戦さしてんのかい?」
 細い腰に手を取り、形のいい胸をこれ見よがしに突き出した彼女には、いわば“場慣れ”した貫禄があった。若い兵士の視線は彼女の谷間に釘付けになった。
「でも見たところ、ここでの戦闘はやってなさそうじゃないか。だったら商売させとくれよ。歌と躍りで楽しませてやるから。それに色んな国の噂話。あたしらはみんな知ってるよ?」
 ふふん、とジョアンナは笑った。兵士たちは鳩首協議して、
「判った、通れ。だが一応馬車の中は調べさせて貰うぞ。」
 ジョアンナが答える間もなく、兵士たちは馬車の幌をまくり上げた。それぞれに乗っていた者たちは皆おろされ、横一列に並ばされた。兵士数人が積荷を調べ、2人がジプシーたちの顔の列を左右からゆっくりたどり始めた。
「…ほぉう。」
 目の前で立ち止まられてヒロはドキリとした。
「女かと思ったらお前、男か。幾つだ。ずいぶん綺麗な顔してるな。なぁおいちょっと来てみろよ。」
「どれどれどいつだ。…へぇぇ、これで男か。驚いたな。」
 じろじろとヒロをねめまわす兵士に、スガーリとシュワルツは懐の短剣を確かめた。
 しかし助け舟はジョアンナが出した。彼女は2人の兵士たちを小気味よく押しのけ、
「ほらほらうちの商売道具をタダでそんなに見るんじゃないよ。この子は踊りの名手でね。それ以上どうにかしたかったら宝石でも持っといで! とある国の王様がどうしても傍に置きたいって言ったのを、すっぱり断ってきたくらいなもんだ。逆立ちしたってあんたらの手には入らないよ!」
「けっ、そういうことかよ。」
 忌々しげに顔を歪め、兵士はヒロから離れた。
 一同は無事マンフレッドの街に入ることができた。そこに居ついたエフゲイア兵たちは、ヒロの予想よりかなり多かった。
 中心部を少しはずれたところにある小さな林の中に彼らはテントを張った。
「偵察してきてやるよ。あんたらはプチを守ってここで待っといで。」
 日暮れを待ってジョアンナたちは出かけていった。エフゲイア兵は避難していった町びとたちの家財をすっかり自分のものにして、酒屋の蔵をあけ粉屋の粉を運び出し、毎晩酒盛りをしているようだった。
 その晩も兵士たちの多くは、元は町一番の酒場だった店に集まっていた。ジョアンナたちは楽器という名の武器を持ってそこに乗り込み、たちまち喝采を博した。
「なかなか景気がいいみたいだねぇ。」
 手際よく酌をしつつジョアンナは言った。
「でもあんたたちはみんな一兵卒だろう? ねぇ、もっと偉い人たちはどこにいんのよ。」
「へっ、どうせ俺たち貧乏人にゃ大した用はねぇってか。」
「ごめんねぇ。悪く思わないどくれよ。でもこっちも商売なんだからさ。判るだろぅ? 苦労人同士。」
「まぁな。地獄の沙汰も何とやらだからな。司令官たちはこの奥の、鉱山の方に行っちまってるよ。」
「鉱山?」
 ジョアンナの目がきらりと光った。
「そんなとこで何してるんだい。街なかの方が過ごしやすいだろうに。」
「よく判んねぇけどな。将軍ってのが変わった奴で、俺たちにも気を許しちゃいねぇっつぅか、秘密主義なんだよ。」
「へーぇ。偉い人ってのはそうなのかねぇ。」
 相槌を打ったところへ別の兵士が割り込んできて、
「だけどよだけどよ、あの将軍の趣味は異常な虐待癖っていうか、要は変態の入った好きモンだろ? 綺麗な捕虜が手に入ったんで大喜びしてんじゃねぇか?」
「綺麗な捕虜って、何だいそれ。」
 目は笑わずにジョアンナは尋ねた。兵士はグラスをあおり淫媚に笑った。
「何でも敵軍の総大将っていうのが、これが綺麗な男でねぇ。怪我さしただけで捕まえたのを、将軍は鉱山のどっかに閉じ込めて可愛がってるって話だ。どうせ本国に連れ帰って殺すんだから、今のうちにせいぜい楽しんでおこうって魂胆じゃねぇか?」
「あやかりたいもんだよな俺らも。長い戦場暮らしでとても女にゃありつけねぇ。このさい男だろうと山羊だろうと、やれりゃあいいってもんだよな。」
「なぁなぁジプシー姐ちゃんよ、お前は幾らでやらすんだよぉ。」
「え? あたしかい? あたしとやりたいならその前に、あそこにいる亭主に話つけてくれないとねぇ。」
 指差された方を見て、兵士たちはそそくさと別の席に戻った。腕も胸もふさふさとした体毛に覆われた巨漢に、じろりと眉間を貫かれたためだった。
 酒瓶を手にしたままジョアンナはつぶやいた。
「綺麗な捕虜…。敵軍の総大将…。間違いない、プチが探してる人だ…。」
 彼女は仲間の女に耳打ちすると、身を翻して外に走り出、スカートを膝までまくりあげてつないであった馬にまたがった。
 
 ガチャリ、と鉄の鎖が鳴った。石の床に深く穿たれた杭の先には、太い鎖が繋げられていた。鎖の長さは50センチ足らずで、端には鉄の枷が留められており、その輪の中にはぶるぶると震える血まみれの手首…ルージュの右手首があった。
 ああ、と息を吐いてルージュは力を抜いた。満身の力を込めて引き抜こうとしても、その戒めは彼を許さなかった。わずか50センチの長さでは立ち上がることもできず、ルージュは床に身を投げ出した。
 コツコツと靴音が近づいてきて、ルージュは顔を上げた。ガチャリと鉄格子の扉がひらき、残虐な期待を秘めた暗い笑顔でルイダが入ってきた。背後には彼の副将と、何か皿のようなものを持った兵士が従っていた。
「ご気分はいかがですか?」
 ルイダはルージュのそばに屈み、彼の右手首を見て低く笑った。
「まさか、この鎖を引き抜くおつもりなんですか? 無駄ですよ。それより早くあの一言をおっしゃい。そうすれば鎖を外して、この…」
 ルイダは兵士の皿から、白い湯気を立てている鶏肉をつまみ上げた。
「おいしいお食事をさしあげますよ。いくらあなたが悪魔でも、ろくに水も飲まず、何も食わずじゃあそろそろ限界でしょう。」
 ルイダはルージュの鼻先に、ハーブの焦げたかぐわしい匂いをさせている鶏肉を突き出し、
「美味しそうですよほら。お味見なさいますか? ん?」
 ぐいと唇に押し当てた。しかし彼は左腕を大きく振り上げ、ルイダの手を払いのけた。鶏肉はころころと床に転がった。ルイダは声を上げて笑った。
「素晴らしい。それでこそ由緒正しき大貴族のお血筋。ますます…」
 彼は勢いよく立ち上がり、
「いじめて差し上げたくなりますねぇ!」
 いきなりルージュの腹を蹴った。
 身を丸める彼の背を腰を思うさま足蹴にし、はぁはぁと息をきらせてルイダは再び床に屈んだ。激しく咳込むルージュの顎を掴み、
「まだ言う気になりませんか。『私はあなたに屈服します』と、それだけでこの鎖を外してあげると言ってるんですよ。強情もいい加減にしないと、いたずらに痛い思いをするだけですよ。ああ唇も切ってしまって、お可哀相に。」
 口元の傷を撫でようとしたルイダの親指に、ルージュは嫌というほど噛みついた。鮮血が飛び、ルイダは悲鳴を上げた。
 自分の血とルイダの血をともに唇から滴らせながら、
「なめんじゃねぇ。てめぇに屈服するくらいならな、飢え死にした方がましなんだよ!」
 ルージュは彼を睨み据えた。ルイダは傷口を舌で舐めさらに残虐に笑い、
「面白い。しかし飢え死には苦しいですよ。最後には幻覚が見えてきて、そのへんの泥をすするようになる。これほど綺麗なあなたの、そんなみじめな姿は見たくない。いっそ私が嬲り殺して差し上げましょうか。」
 破れた衿を掴んで引き上げられ、ルージュはフンと鼻を鳴らした。
「ああ、できるもんならやってみろ。お前には俺を殺せねぇんだろ? そんな権限、お前にはない。…そうだよな。」
 ふとルイダの顔色が変わった。ルージュはさらに挑発的に、
「お前の職務は、この俺を大公の元に連れて帰ることだ。偉そうにしたところで所詮…」
 憎しみの視線をルージュはルイダの眉間に放ち、
「てめぇは雇われ将軍だろが!」
 ぶるっ、とルイダの全身が震えた。ルージュの言葉が貫いたのはルイダにとって最大の屈辱だった。彼はルージュを床に叩きつけ、傍らに立てかけてあった鉄の棒でところ嫌わず打った。のたうつ体は、右手に嵌められた手枷によって逃げようもなく繋ぎとめられていた。
「将軍! 将軍、どうかそのへんで!」
 見かねて副将が止めたのはもちろんルージュのためではなかった。吊り上がってギラギラ光るルイダの目に、狂気に似たものを感じたからであった。彼は必死でルイダを鎮めた。
「いつも冷静なあなた様が、こんな負け犬の抵抗にお怒りになることもございますまい。こやつは本国に連れ帰り、見せしめに都じゅうを引き回したあと、功労章と引き換えにあなた様の手により、大公のおん前で処刑すべき戦犯でございます。こんなところで無駄に死なせては、惜しいというものではありませんか。」
 肩を大きく上下させて、ルイダは血のついた棒を床に投げ捨て唾を吐いた。副将はさらに言った。
「罰をお与えになるのは結構でございますが、水もろくに飲ませないのではじきに死にます。死体を処刑しても大公はお喜びになりますまい? 生きた戦犯の首から勢いよくほとばしる血を浴びてこその、功労章ではございませんか。」
「水か…。」
 ルイダはつぶやき、何か考えついたらしくニヤリと唇を歪めた。彼は背後に顎をしゃくり、
「こいつを連れてこい。早くしろ。」
「はっ。」
 控えていた兵士と牢の外にいた警備兵3人が、額に血を流して呻いているルージュの手枷を外し、手足を押さえて逆さにかつぎあげた。
 ルイダがルージュを連れていったのは、牢の外、通路の突き当たりにぽっかりと広がっている地下洞で、そこには直径7〜8メートルはあろうかという巨大な穴があいていた。どうやら古い貯蔵庫らしいそこには、どこからかしみ出した地下水が溜っていた。
「放り込め。」
 命じられた兵士たちは手を放した。抵抗する間などある訳もない、水面まではおよそ3メートル、氷に近い泥水にルージュは頭から叩き込まれた。
「そこなら背はたつでしょう。たっぷり水をお飲みなさい。生きたまま我が国に連れ帰るにしても、もう少しおとなしくしてくれないと困る。ま、少なくとも口がきけなくなるくらいには衰弱して頂きませんとね。誇り高い高貴なご身分を、そこでせいぜい呪うといい。」
「…待て。おい! 待ててめぇ!」
 叫び声は穴に籠って反響したが、ルイダたちの足音は遠ざかり、すぐに聞こえなくなった。
 
「地下壕だ…!」
 言下にヒロは言った。偵察結果を知らせにきたジョアンナが、話を半分も終えないうちのことだった。
「地下壕?」
 彼とともにテントの中にいた、スガーリとシュワルツは聞き返した。
「そうだ。町に近い鉱山の入口んとこに行き止まりの地下道があって、以前はそこを一時的な倉庫に使ってたんだけど、水が出るようになって使わなくなったんだ。その代わりに…」
 ヒロは泣きそうな顔になって、
「そこは一種の牢獄になってる。鉱山の決まりを破った奴とか、町の集会で有罪になった奴とかを閉じ込めておく場所なんだ。でもそれは鉱山開きが済んでから…初夏から秋までの間だけなんだよ。今の季節にあんなとこ閉じ込められたら、誰だって肺炎になっちまう…!」
 ぶるっ、と自分を抱きしめたのはヒロだけではなかった。
「まさか元帥はそんなとこに…。」
「閣下は脚に怪我をしておいでだ。手当てをしなかったら治る傷じゃない…!」
「ルージュ…。あの大馬鹿野郎…!」
 歯噛みする3人の男たちに、
「とにかくさ、助け出す方法を考えようよ。鉱山にいんのは偉い奴らばっかりで兵隊はみんな街にいる。その牢屋ってのも大した警備じゃないんじゃないかな。あたしたちが引きつけてる間に―――」
「無理だよ。」
 苦しげにヒロは言った。
「あそこは入口が1個所しかないんだ。しかも通路は人1人がやっと通れるくらい狭い。警備が大したことなくたって、おいそれと入りこめる場所じゃねぇんだ。」
「じゃあどうすんのさ。そんなひどいとこにいつまでも怪我人置いといたらあんた…。」
「閣下…!」
 スガーリは両手を震わせたが、ヒロはすっくと立ち上がった。見上げる3人に、
「…スガーリ、シュワルツ。ついてこい。おいらに考えがある。ジョアンナはここで待っててくれ。明日の朝には戻れっと思うから。」
 
 深夜の町に敵兵の姿はなかった。明かりなどいらないほどの月光は、都合がよくもあり悪くもあった。街角の崩れかけた小屋の前でヒロは馬を止めた。シュワルツたちもそれに倣った。
「ここに馬を隠そう。足がつくとまずいからな。」
 手綱を柱に繋ぎ破れ扉を筵で覆い、3人はさらに道を急いだ。15分ほどで着いたのは市長の家であった。無人のはずなのに明かりが見えるのは、エフゲイア兵たちが真っ先にここを宿舎代わりにしたからだろう。ヒロは舌打ちし窓を睨んだが、すぐに、
「こっちだ。はぐれんじゃねぇぞ。」
 向かったのはいつかルージュを連れて行った秘密の通路の入口、石組みの焼却炉であった。
「明かり、持ってんだろ。」
 ヒロはシュワルツに囁いた。ああ、とシュワルツは急いで懐から火打ち石を取り出し、手持ち式の極小型のランプを灯した。あの時と全く同じように石をはずして、ヒロは中に入っていった。シュワルツとスガーリは一瞬驚いたものの、たちまちヒロの意図を悟り無言であとに続いた。
「こんなとこがあんのか…。」
 豆粒のような光を頼りに進みながら、シュワルツはつぶやいた。
「壁には触んなよ。毒蜘蛛がいんぞ。」
 彼らに注意しておいて、ヒロはずんずん歩いていった。知りつくした迷路だった。
 やがてヒロは歩調を落とした。後ろの2人はおやっと思ったが、ヒロはそこで手元の明かりを消した。当然辺りは漆黒の闇に包まれるはずが、前方の岩がかすかなオレンジ色に照らされていた。ヒロはニヤリと笑い、
「思った通りだ、みんなここに集まってたのか。」
 彼は再び歩を早め、
「石の中の風! 天翔ける星!」
 シュワルツたちには意味不明の単語を、明かりの方角に呼びかけた。
 ざわっ、と気配が揺れるのがシュワルツにもスガーリにも判った。直後、
「誰だ!」
 石の壁の向こうに武器を構えた男の顔が覗いた。がその男はすぐに、
「プチキャット?」
 呼びかけるなり破顔一笑した。
「ヘルマン!」
 ヒロも彼に駆け寄って、
「何だよぉ、お前もここにいたのかぁ。」
「おお、兵隊になった奴らだけじゃない、エルンストからもみんな戻ってきてるぜ。」
 そう言い終わらぬうち男たちは何人も、
「プチじゃねぇか!」
「よく来たなプチキャット!」
 口々に言ってはこちらへ立ってきた。
「ハゼックさん…それにマイヤー班長! すげぇや、みんないんじゃんかよぉ!」
 感激でヒロは涙ぐんだ。皆はその頭を撫でたりこづいたりしつつ、
「あたぼうよ。俺たちの鉱山は俺たちで守る。この町がとんでもないことになってんのに、いつまでも避難場所でビクビクちぢこまってられるかって。」
「ああそうさ。だから俺たちは今、敵からこの町と鉱山を奪い返す計画を立ててんだ。」
「計画?」
 ヒロの表情が変わった。
「来いよ説明してやっから。」
 男たちはヒロを、空洞の中央にある岩のテーブルに導いた。ついていこうとしたシュワルツたちは、ヘルマンにとどめられ名前を聞かれた。ああ、とヒロは気づき、
「だいじょぶだよ。そいつらはおいらの仲間だから。今はそんなカッコしてっけどれっきとした軍人。そっちの、歳くってる方がスガーリで、そっちのぬぼっとしたでけぇのがシュワルツ。よろしくな。」
「歳くってる…。」
「ぬ、ぬぼ?」
 2人は顔を見合わせたが、ヒロに手招かれて彼の後ろに座った。ハゼックは、広げてあった地図の1点を指さし、話し始めた。
「ここがこの空洞部屋。これが南の入口でこっちが市長の家だ。こっからずっと下ると町なかへ出る。敵の隊が陣地張ってんのは、この、町の南側一帯なんだ。」
「南側…。」
 ヒロは復唱した。ハゼックたちの考えていることがおぼろげながら判る気がした。ここマンフレッドは、鉱山ばかりか町じゅうの至るところに地下道があって、地層の関係で地盤が脆く崩れやすい南側には、住民は家を建てなかった。これはヒロ自身が、あの時ルージュに説明したことなのである。しかし地盤がどうなっているかなど知る由もないエフゲイア兵は、広場と畑と草原ばかりの北側を、軍の駐屯地に定めたに違いなかった。
「まさか、ハゼックさん…。計画っていうのは、その…?」
 顔を覗きこんでくるヒロに、
「ほぉ、相変わらずカンがいいなプチキャット。その通りだ。町の北側にある地下道の全てに、ありったけの爆薬を仕掛けて一気に爆発させる。そうすれば敵が何万人いようと、一瞬にして瓦礫の下さ。」
「でも…。」
 ヒロは一瞬口籠り、
「でも、北側でそれだけの大爆発を起こせば、南側…町の中心も無事って訳には…。」
「判ってるよそんなことは。でもな、こうでもしなけりゃ敵を追い出すことは出来ねぇんだ。ここは俺たちの町。俺たちの鉱山だ。守るのも壊すのも、俺たちの手でやる。」
 無言でヒロは唇を噛みしめた。敵を追い出すことはできても、同時に町は壊滅状態になる。マイヤーはヒロの肩を撫でるように叩き、
「大丈夫だ。俺たちは穴掘りのプロさ。一旦全部がぶっ壊れても、また掘り返して作り直す。家も町も、みんなで作り直しゃいいんだ。最初っから。また1からな。」
「…判った。」
 ヒロは覚悟の声で言い、うなずいた。
「おいらも手伝う。ジプシーたちにも話して手伝ってもらう。助けたい奴がいるんだ。なるべく早く、その計画を実行しよう。」
 夜明けまでかかって、ヒロたちは地下道爆破計画を練り上げた。
 新しい坑道を掘り進むために爆薬を使う手法は他ならぬマイヤーの編み出したもので、彼は酸化鉄を利用して作った大量の火薬を、この空洞のさらに奥に厳重に保管してあった。だから火薬の扱いについては彼に一手にまかせることができたが、問題は仕掛けるための人手だった。ここにいる男たち全員にジプシーを合わせてもわずか27人。その人数で全ての地下道に火薬を仕掛け終えるには、
「…どう急いでも3日はかかるな。」
 腕組みして言うマイヤーに、
「そんなにぃ!?」
 ヒロは悲痛な声を上げた。
「かかるよ。いや本当は1週間と言いたいところだ。そんな、桶に10杯20杯の火薬じゃないんだぞ。扱い方を間違えればその場でドカンだ、神経も使う。夜も昼も休みなく動いたとして、どう見ても3日がいいところだ。」
「…。」
 ぎりっ、とヒロは指の関節を噛んだ。彼の脳裏をよぎったのはルージュの姿―――打ち据えられた血まみれの体を氷の牢獄に横たえて、合わない歯の根をガチガチ鳴らしているルージュの姿であった。
「2日!」
 ぶるっと首を振ってヒロは言った。
「3日は待てない。何とか2日でできませんか班長。おいら、死ぬ気で手伝う。こいつらにも命懸けで手伝わせるから! そうだよなシュワルツ、スガーリ!」
「ああ当然だよ。元帥助けるために、俺はとっくに命捨ててらぁ!」
 シュワルツは即答した。ヒロはマイヤーに向き直り、
「お願いします。1分でも、1秒でも早く、おいらは元帥を助けたいんだ。こうしている間にもあいつは多分、ルイダって野郎にひどい目に会わされてる。代われるもんなら代わってやりてぇのに、おいらは、ここで無事にこうやって…。」
 声をつまらせたヒロに、マイヤーとハゼックは顔を見合わせた。ふぅと1つ短い息を吐き、マイヤーはヒロに言った。
「判ったよ。お前にその顔されちゃあ聞かない訳にいかねぇ。全くお前は名前の通り、いつまでたってもプチキャットだな。」
「えっ、ほんとに!? やってくれるんだ!」
 ヒロの表情は輝いた。うなずくマイヤーの手を取って、
「ありがとう班長。おいら、何でも手伝う。何でもすっから! ありがとう。ほんっとありがとう!」
「ああああ判った判った。じゃあまずはその、ジプシーの男たちっつうのを連れてこい。ガキだろうとじじいだろうと、この際少々患ってても構やしねぇ。それと女たちは炊き出しだ。腹が減ってたんじゃロクな仕事も出来ねぇからな。ほれ何をぐずぐずしてる。1分1秒を争うんだろ? そんなら早くしな。」
「よっしゃあ! 行くぞシュワルツ、スガーリ!」
 3人は馬を疾走させ林の中のテントに戻った。事の次第を聞いたジョアンナはたちまち、
「判った。じゃあうちの男たちに手伝わせりゃいいんだね? そういう仕事なら任しときな。力自慢が揃ってるよ。」
「頼む。それと、あと悪いんだけどみんなのメシ…」
「ああそれも心配いらないよ。兵隊どもが酔っぱらってる隙に、倉庫からたんまり頂戴してきたから。」
 ジョアンナの示す先には麻布の袋が幾つも積まれていて、見ると中身は小麦だのジャガイモだのの食料であった。ふん、とジョアンナは肩をゆすった。
「これはもともとこの町の人のもんだろ? あんな奴らに食わせることないよ。美味いもん山ほど作ってやるから、早く元帥を助けてやんな。」
 ジョアンナたちの協力を得て、爆破計画は実行に移された。マイヤーの指揮のもと男たちは、特にヒロたち3人は休む間も惜しんで作業した。
 火薬の扱いは慎重を極めた。ざらりとした黒い粉を油紙で細く長く紐のように巻き、地下道内にそれを途切れないよう繋げていく作業は、危険を最小限に押さえるため明かりの火を遠ざけねばならず、薄ぼんやりとした暗闇の中でヒロは、極限まで神経をすりへらすその作業に耐えた。
(ルージュ…。待ってろよルージュ…。)
 腰の痛みも背中の痺れも、ルージュを思えば忘れられた。しかし、
「おいプチ。お前いい加減に休め。」
 見かねてマイヤーは言った。
「急ぐのは十分判るがな。疲れれば効率も落ちるし集中力が下がって危険なんだ。お前にもそれくらいは判るだろう。穴の中で、班長命令は絶対だ。上に上がって仮眠してこい。…おい、そこのでかいの。こいつ連れてお前も休め。4時間たったら戻ってこいよ。」
「判った。ほら行くぞ陛下。班長の言う通りだ。あんた今に倒れるぜ。」
 シュワルツに促され、ヒロは渋々手を止めた。
 地下道の出入口の1つ、森の中の崩れた小屋からヒロとシュワルツは外に出た。ジプシーの子供が見張りを勤めていた。
「お帰りプチ!」
 笑いかける彼女に、
「よぉ。ご苦労さん。何か変わったことはあったか。」
 ポンポンと頭を撫でてヒロは聞いた。すると、
「都からプチにお客さんが来たんだって。テントで待ってるってジョアンナが言ってた。黒いマント着た、細っこい男の人だってさ。」
「…ロゼだ! やっと来たのか、おせーんだよあの野郎!」
 2人はテントに急いだ。
「ロゼ!」
 呼びながら入口の幌をめくると、
「やあ。」
 正面で彼は手を振った。あいも変わらぬ黒絹の衣装で、彼はジプシー女に混じり、油紙をつくる作業を手伝っていた。
「すごい格好だね。」
 手も顔も煤と泥で汚したヒロを見上げ、ロゼは笑った。ヒロは口を尖らせ、
「お前こそ何だよその目立つ格好はよ。場所が場所なんだからもうちょっと、何つうか小汚くよ…」
 そこへジョアンナが、
「ほらほら文句はあとあと。はいっ食事だよ!」
 食器の乗った木の盆をズイと差し出した。スープが湯気を立てていた。ヒロは手のひらをごしごしと尻で拭いて、ありがと、と受け取った。手を休めずにロゼは言った。
「だいたいのことはジョアンナさんから聞いた。今夜じゅうに全ての火薬を仕掛けて、明日の昼間、爆破させるんだってね。すごいな。この町の人たちの勇気と決断に心からの敬意を表するよ。」
「んなもん表さねぇでいいっつの。んで都はどんなだ。同盟軍はちゃんと仕事してっか。」
「ああ。総数5万。ここまでよく集まってくれたよ。ヴォルフガングと、補佐役の伍長が全部仕切ってくれてる。都の警備は十分だ。安心していいよ。」
「そっか…。」
 ヒロはパンを噛みきった。
「で、ルージュはどこに閉じ込められてるって?」
 ロゼは聞いた。ヒロは一瞬噛むのをやめて、
「…鉱山だ。鉱山の中に、そういう場所がある。」
「そう…。」
 目を伏せたロゼにではなく、
「助け出す。必ず。明日の昼には助け出してやる。今夜だけの辛抱だ。もう少し我慢しててくれよ…。」
 ルージュの面影にヒロは言った。おそらくルージュはまともな食事など与えられていないだろうと思うと、自分1人が飲んでいるこの暖かいスープは罪にさえ思えたが、彼を助けるには体力がいるのだと、ヒロはおのれに言い聞かせて食物を胃に流し込んだ。
 短い仮眠をとったあと、彼はまた地下に潜っていった。ロゼはジョアンナの揃えたジプシー衣装に着替え、導火薬づくりを手伝い続けた。
 地下での作業は、ある一定の区間に仕掛けをし終えたところでマイヤーのチェックを受け、OKを貰ったら次に進むという念の入ったやりかたで行われていた。ゆえにわずかながら生まれる待ち時間があり、ヒロとヘルマンは岩のくぼみに座れる場所を見つけて、やれやれと背中を凭れさせた。
「そういやアンナは元気?」
 ヒロは尋ねた。ヘルマンとアンナは幼なじみ同士で結婚した夫婦であり、アンナはカイの親友だった。
「ああ、元気にしてる。」
「そっか。何よりだな。今はエルンストの避難所に?」
「ああ。親父とおふくろときょうだい、家族全員揃ってるからそんなに不安じゃないだろう。」
「そうだな…。」
 2人は少し黙った。靴の爪先にこびりついた泥を、手持ち無沙太そうにこすり落としているヒロの横顔を、ヘルマンは何か改まった様子で見た。
「なぁプチ。こんな時に聞くのもあれだと思ってずっと言わなかったんだけどな。お前、カイのことはどうするつもりなんだ。」
 えっ?とヒロは顔を上げた。ヘルマンは責めるような諭すような目で言った。
「町がこんなことになるちょっと前だけどな、あいつにいい縁談があったんだよ。親も回りも乗り気になったのに、カイの奴とうとう断っちまった。理由は言わなかったけど、そんなもん言われなくたって判るさ。あいつはお前のこと、まだ忘れてないんだ。」
「…そ、」
 目を剥いて口をぱくぱくさせたヒロに、
「いや判ってるって。こんな風にタメ口きいてるけど、お前は国王なんだもんな。いずれどっかの王女様をお城に迎える身の上のお前に、カイと一緒になれなんて言わないよ。ただなぁ。そのことをさ。お前からカイにちゃんと言った方がいいんじゃないか。かなわない希望を、これっぽっちでも抱かせたんじゃ可哀相だろ。」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。」
 ようやくヒロは言葉を発した。
「あいつはとっくに結婚してんじゃねぇのか? おいら、こないだここ帰って来た時あいつに会った。そん時にあいつは赤ん坊を抱いてて、これはあたしの子だ、っておいらに言ったんだぞ…。」
 ヘルマンは大きく肩をすくめ、いたわしげな顔で言った。
「お前なぁプチ。落ち着いてよく勘定してみろよ。お前がこの町を出てってから、まだ1年もたってないんだぞ。今あいつが子度抱いてるとしたら、それはお前がこの町にいる時のことだろが。そん時にあいつとつきあってたのは誰だよ。」
「…。」
 ヒロは目を白黒させ、
「いや、やってないやってない。おいらなんもやってない。あいつとはそんな、進んだことはなんもやってないって。」
「だろ? …カイの奴、ちゃんと知ってるんだな。自分がもうお前とは釣り合わないってことを。」
「釣り合わない、って…。」
「多分近所の子か何かだろうよ。咄嗟に嘘ついたんだ。お前の気を楽にするために。」
「気を楽にって、そんな…。おいらはあん時、半分はただあいつに会いたくて、ここに…。」
「ガキだなお前は。まぁそんなお前だからこそ、カイもここまで惚れたんだろうけどな。」
「…。」
 ヒロは黙ってしまったが、そこへ他箇所のチェックを終えたマイヤーがやってきた。当然2人の話は中断され、ヒロは胸に渦巻きかけた想いを一旦心の奥に封じた。
 
 兵士に命じて水牢から引きずり上げさせたルージュの体を、ルイダは靴先でごろりと仰向けにした。ずぶ濡れの顔は死体を思わせる蝋白色に変わっていて、半開きの唇からのぞく白い歯は、カチカチと小刻みに鳴っていた。
「ご気分はいかがですかな、誇り高きアレスフォルボア侯爵殿。」
 笑いながらルイダは言った。ルージュは瞼を震わせた。
「いよいよあなたを我が国にご案内する時が参りました。ちと不自由な行程になるとは思いますが、十分にお楽しみ下さい。」
 右手を軽く上げ、ルイダは兵士に合図した。彼らは駆け寄ってきた。
「まずはその濡れたお衣装をお取り替え下さい。そんなお召し物は最高級の戦犯にはふさわしくありません。うんと誇り高く惨めに、装わせて差し上げましょう。」
 3人の兵士たちはルージュの身を包んでいる黒羅紗の元帥服を脱がせ始めた。抵抗する体力は彼には残っていなかった。スガーリの巻いた包帯は水の中でほどけてしまったらしく、蒼白の体に左足の傷口だけが赤みを帯びて爛れていた。代わってルージュが着せられたのは、小麦を入れる粗袋と大差ない、ちくちくと肌を刺す囚人服であった。くっくっと喉を鳴らして笑い、ルイダは兵士にルージュを担がせて通路を歩き始めた。
 
 ヒロたちが全ての火薬を仕掛け終えたのは昼前だった。湿気を防ぐための油紙の中で火薬は1本の長い縄と化し、要所要所には木桶の中で固めた固形の火薬が置かれた。
 点火を前に、彼らはもう1度手順を確認した。
「いいか、ここが俺たちのいる場所。で、ここが敵陣の中心だ。ここで点火した火が火薬を伝って次々爆発を起こす。地下の岩盤に亀裂が入って崩れおちればよし、万一途中で止まったらこの計画は失敗だ。」
「大丈夫だ、きっとうまくいく。」
 マイヤーの説明に、ヒロは祈るようにうなずいた。
「俺もそう信じたいよ。…さぁ、あとはこのレバーを押すだけだ。」
「そうだな。」
 男たちは互いの表情を確かめるが如くに見回しあった。この町を敵から取り返すために必死で進めた計画ではあったが、彼らの胸には一瞬、計画の壮大さと残酷さに対する罪の意識のようなものが去来した。成功すれば敵は全滅…すなわち何万という人間が死ぬ。戦さという名の殺人を、今から自分たちは犯そうとしているのだと。
 マイヤーが1歩進み出た。ヒロはハッと顔を上げた。続いてハゼックが、ヘルマンが、次々歩み出てはレバーに手をかけた。
「俺たちの町だ。俺たち全員の手でやろう。」
「そうだな。結果の全ては俺たちで負おう。」
 その言葉にヒロは唇を噛みしめた。彼らの決意は悲愴で、かつ誇らかであった。たくさんの手が重なった上に、最後にヒロは自分の手を置いた。
「いいか、行くぞ…。」
「ああ。」
 男たちは呼吸を合わせ、息を止めてレバーを押し下げた。
 ズ……と最初の地響きが聞こえたのは、彼らが地下道を出た時だった。巨大な怪物の唸り声に似て、地鳴りが響きまた響いた。
 誰一人言葉を発さずに彼らは高台へ走った。何かから逃げるようにいや追うように。天へ翔け上がるが如く、また地の底へ落ちるが如く。
「見ろ…!」
 叫んだのはマイヤーだった。家々の向こう、昨日まで平原だったはずのそこは、天の火に焼き滅ぼされたというゴモラの町さながら縦横の地割れに飲まれひしがれ、茶色い土煙に包まれて断末魔の痙攣に身をさらしていた。
(愚かなる者よ…。愚かな、愚かなる我が身、人間たちよ…。)
 心にこだまする声を、ヒロは神のものとして聞いた。ふらりとよろめいた彼の背中を抱えたのはマイヤーだった。
「さぁ、ぐずぐずしちゃいられないぞ。残りのエフゲイア兵が混乱しているうちに、お前は元帥を助けるんだろう。さ、早く。」
 ヒロの瞳は力を取り戻した。
「そうだ、今のうちに早くルージュを…!」
 彼は走り出した。テントに駆け戻ったヒロに、待ちうけていたロゼが手綱を渡した。スガーリとシュワルツもすでに馬上にいた。4騎はもつれるように道を進み、鉱山の牢へと向かった。
 駆けながらもヒロたちは、馬の足を取られそうな振動を何度も感じた。地下の岩盤の落下が断続的に続いている証拠で、それは爆薬の効果が多大だった証であり、つまりは作戦の成功を告げるものであった。4騎は1人の敵兵に会うこともなく鉱山への坂道を駆け上がり、この先はもう歩くしかない地点で揃って馬を下りた。
「静かだな。見張りの1人もいないなんて…。」
 スガーリは辺りを見回した。ロゼも同様にして、
「あの爆発を聞けば誰だって慌てて本陣へ駆け戻るだろう。ここには少数の兵士が残っているだけだろうけど…それにしても確かに静かすぎるね。」
 彼らは注意深く前に進んだ。
「おい、陛下。まさかあの地響きでこの鉱山の中まで崩れちまったなんてこたぁないんだろうな。」
 不安気にシュワルツは言ったが、
「大丈夫だ。この鉱山の手前には金剛脈って呼ばれてる硬い地層がある。あの火薬を全部使ったって、モグラの穴もあかねぇから安心しろ。」
「ならいいけどよ…。ここまで誰もいねぇと、かえって不気味じゃねぇか。」
 しかしスガーリは言った。
「いや油断するな。案外とっくに気づいていて、どこかで隙をうかがっているのかも知れん。…陛下と伯爵は後ろへお下がり下さい。我々が先に参ります。」
 スガーリとシュワルツはうなずきあい、ともに腰の剣を抜いた。ロゼはヒロの後ろに立ち、四方の気配に耳を澄ませた。
「ここか…。」
 たどりついたのは、小さな鉄柵のついたほら穴の入口だった。
「誰もいねぇぜ。鍵もかかってない。」
 シュワルツは火打ち石で明かりをつけ、腕をいっぱいに伸ばして前方をすかし見た。
 シュワルツを先頭に、続いてスガーリも身を屈めて横穴に足を踏み入れた。足元にも届かないわずかな光を頼りに進んでいくと、通路はゆるやかに左へ左へカーブし、20メートルほど過ぎたあたりでシュワルツは、前方がぼんやりと薄明るいのに気づいた。フッと明かりを吹き消してさらに歩を進めた時、
『誰だ?』
 気配とともに正面で声がした。エフゲイア語だ、とロゼが気づいた時にはシュワルツは敵に飛びかかっていた。手のひらで口を押さえ仰向けに倒して、馬乗りになったシュワルツの脇にだっと踏み出したスガーリは、通路を抜けたその空洞に他の兵士の姿はないと見定めた。
『元帥は! 元帥はどこにいるんだ!』
 スガーリはシュワルツを押しのけんばかりに、彼の下で気絶しかけている敵兵を揺さぶった。がヒロは2人の横を駆け抜け、
「ルージュ! 返事してくれルージュ!」
 空洞のさらに奥へ走っていった。
「待てヒロ! そんなに急いだら危険だ!」
 止めようとしたロゼの声などヒロの耳には入らなかった。この内部がどうなっているのか、ヒロは知り尽くしていたから。
「どこだルージュ!」
 鉄格子の石牢にヒロはとりすがった。中には誰もいなかったが、小さな明かり取りの窓から差し込む光が黒々と照らしていたのは、
「血だ…。あれは血の痕だ…。やっぱルージュはここに…。」
 ずるりと膝を折った背中を、
「陛下っ!」
 スガーリは悲鳴で呼んだ。振り向いたヒロは見た。スガーリが握りしめている黒羅紗の軍服。
「ルージュ! それ、ルージュの…!」
 横飛びにヒロは駆け寄った。ぼろぼろに破れぐっしょりと濡れたそれに、ぞっと身の毛がよだった。
「まさかあの穴の中にルージュを…。」
 視線の先の暗がりには天然の水牢があった。覗かなくてもヒロには判った。しみだした地下水によってできた池が、いかに冷たく深いものか。
『てめぇ…!』
 シュワルツは激昂した。
『てめえ、元帥をどこへやった! 言え! 言わねぇなら今ここで、このアタマぶち砕いてくれるぜ!』
 般若の形相に、一兵卒らしき兵士は怯えきった顔で言った。
『け、け、け、今朝早くに、ルイダ将軍がここから連れ出して…』
『連れ出して? 連れ出してどこに連れてったんだ!』
『都です! 我が大公の都へ…』
『エフゲイアか!?』
 わなわなと全身を震わせたシュワルツは、
「遅かった、ってのかよ…!」
 目を閉じ天を仰いだ。
「閣下…!」
 スガーリもその場に座り込んだ。わずか、わずか数時間前までルージュは確かにここにいた。だが今や彼は敵将に引き出され、死出の旅路に発ったというのか。
「…ちきしょうっ!」
 シュワルツは兵士の体を地面に叩きつけた。気を失ったのか動かなくなったその敵を、かたきに刺し殺す気持ちすら絶望に押し消されたその時、
「追いかけてやる…。」
 低いうめきはヒロの声であった。
「おいらはあきらめねぇぞ…。エフゲイアだろうと地の果てだろうと、ルージュを助けるまではぜってーあきらめねぇ。追いかけっかんな。まだまだ追ってやるからな。」
 ぎゅっ、とヒロは軍服を抱きしめた。燃え上がる炎を宿すその瞳を、シュワルツとスガーリは半ば呆然として見つめた。
「なら、いい方法がある。」
 最初に応じたのはロゼだった。まさかという表情でシュワルツとスガーリは、またヒロも顔を上げ彼を見た。視線の中央でロゼは言った。
「エフゲイア国内まで追うとなると、いくらジプシーのふりをしても危険だろう。道中の警備は桁違いに厳しいはずだ。普通の道を辿っては行けない。」
「じゃあ、どうやって…。」
 身を乗り出すシュワルツたちに、
「船だ。」
「船?」
「そう。陸路は使わず、海から回る。海流に乗ってしまえばその方が速いし、エフゲイアの警備も海岸線は手薄だろうしね。」
「船って…だけど海軍は…」
 半信半疑のシュワルツの脇で、
「ベルリア海軍でございますか!」
 スガーリはロゼの考えを悟った。
「そうだ。」
 ロゼは力強くうなずいた。
「姉上にお願いして、ベルリア海軍の高速船をお借りする。その船でエフゲイアの港に入り、小舟で運河を遡るんだ。そうすれば陸路よりも安全に都へ潜入できる。」
「ほんとに…?」
 ヒロは聞いたがその目には、迷いのかけらもなかった。ロゼは短剣を取り出しながら、
「スガーリ。お前の配下の忍びはすぐに動かせるか。」
「はい総参謀長。一声かければただちに。」
「そうか。じゃあまずこれを――」
 ロゼは短剣をサイドの髪に当て、サクリと一房切り落とした。軽くカールしたブルネットの髪をふわりとハンカチに包み、
「これをヒナツェリアに渡して、伯爵家の花押の指輪を預かってくれ。この髪を見れば彼女は一目で、これが俺の命懸けの命令だと判る。すぐに花押印を出してくれるだろう。次にそれを持ってベルリア国へ赴き、第2王子の妃に謁見を申し出るんだ。」
「姉君マリア・メリーベル様でいらっしゃいますね。」
「そうだ。伯爵家花押は両国両家の同盟の証。それさえあればベルリアの王門は通過できる。」
「しかし、恐れながら姉君様のお口添えだけで、あの強大なるベルリア海軍が動いてくれますでしょうか…。」
 スガーリの懐疑は尤もだったが、
「大丈夫だ。姉君のご夫君第2王子は海軍の名誉提督だし、それに…」
 ロゼはくすっと笑い、
「今のご夫君と出会うまでは、姉上はルージュのことが好きだったからね。俺がさらわれたんじゃ駄目かも知れないけど、彼のためなら力を尽くしてくれるよ。」
「…ヤな弟だなお前。」
 場に似合わぬ冗談をヒロは口にしたが、
「よし。じゃあその方法でエフゲイアへ向かおう。スガーリはすぐに忍びの手配を。」
「御意。」
「俺たちはテントに戻ってジョアンナにこの話をして、そんで海へ向かえばいいんだなロゼ。」
「ああ。ベルリア船と落ち合うのは、国境の南のセルシュ港がいいだろう。スガーリの手配を待って、俺たちは全員セルシュへ発つ。」
 ヒロとロゼの決断に従い、スガーリは配下随一の早駆けの忍びを選んで、この重要な任務を託した。またヒロに話を聞いたジョアンナは、
「乗りかかった船だよ。あたしらも最後まで協力するさ。やってほしいことがあったら何でも言いな!」
 今さらながら腹の太いところを見せ、ヒロを感激させた。
 壊滅状態になった町の復興は、地盤が落ち着いたあとただちにマイヤーたちが行うことになった。はやる彼らをロゼは、
「でも活動は慎重にね。都のそばにもエフゲイア兵はまだ若干潜んでいるはずだから。少数であっても正規軍には違いない。くれぐれも不意打ちに注意して。」
 冷静な口調でそう諭した。
 3台の大型馬車は、西へ、海へと走り出した。行く手はるかな雲の褥(しとね)に沈みかけている夕陽を、ヒロは目を細めて見やった。血の色だ、と彼は思った。味方の血、敵兵の血。傷ついたルージュの体から流れ出るおびただしい鮮血の色…。
(生きててくれ、ルージュ…。)
 ヒロは胸の十字架を握りしめた。
(どこの神様でも構わない。もしこの祈りが届いたらどうか、おいらの命と引き換えでいい、あいつの命を守って下さい…。)
 ゴトゴトと轍を刻みつつ、馬車は長い影を引きずって西の地平をめざした。
 

第3楽章主題2に続く
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