『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第3楽章 主題2 】

 凍え死ぬことのないよう囚人服の上にぼろ布をまとわされ、ルージュは馬の鞍に縛りつけられて北への道をたどっていた。姿勢を保つほどの体力は残っていない半身は力なく馬首に伏せられ、時に大きく傾いて地面にずり落ちそうになった。そのたび左右の兵士が乱暴に髪をつかんで、
『おら、馬に踏みつけられたくなきゃ、ちゃんと乗ってろってんだよ若僧が。』
 残忍に笑い頭を小突き、頬を叩いたり撫でまわしたりした。
 ルージュの呼吸は浅く不規則で、体は熱で火照っていた。小刻みに痙攣している眉に1人の兵士が気づき、
『おい、都に着くまでもつのかこいつ。処刑前に死なすのはもったいないぜ。』
『そうさな。でももう何も食えんだろう。気つけに酒でもやっておけ。』
『酒かよ…。』
 不服そうに顔をしかめた兵士は、荷駄の中から取り出した小瓶の蓋を渋々あけて、
『ほら、恵んでやるよ死にぞこない。』
 ルージュの口をこじあけてさし込み、ぐいと仰向けにさせた。ぐふっとむせ返りかけるのを、
『ちゃんと飲めってんだこの悪魔! 鼻から流しこまれてぇのか? ほらほらしっかり口あくんだよ。』
 鷲掴みに首を押さえつけられ、ルージュの食道と気管支は焼けつく液体に晒された。胃も肺もそれを拒絶し、瓶をはずされるや彼は、咳こんで胃液を吐いた。兵士たちはゲラゲラ笑った。
(ヒロ…。)
 自然と溢れる涙にまかせ、ルージュは心でつぶやいた。
(お前はまだ許してくれねぇのか、お前に嘘をついてた俺を…。どうせなら直接殺してくれよ、その剣で心臓を一突きにして。)
 立ち昇る面影はふわりと笑い、すぐに悲しげに目を伏せた。
(もっと苦しめ…お前はそう言うのか…。これが俺の罪業だと。敵とはいえ無数の人間を、この手で殺した俺の罪だと。)
 ふっ、とルージュが笑ったので兵士たちは顔色を変えた。
(なら、受けてやるよヒロ…。受け止めて嬲り殺されてやる…。地獄の底に叩き落とされて、そこからお前を守ってやるよ…。)
 兵士たちは顔を見合わせ、知らず馬足を緩めた。汚辱にまみれ、生きながら八つ裂きにされたとて、この敵将は貴種の輝きを失うことはないだろう。頼りなく揺れる青年の肩を、彼らは畏怖の念で眺めた。
 
 マンフレッド駐屯軍全滅の知らせは、都付近に潜んでいたエフゲイア軍にも届いた。彼らは驚き浮足立ち、よもや誤報ではあるまいかと一斉に情報収集に走った。
 その瞬間をヴォルフガングは待っていた。同盟国からの支援軍は今や、彼の指揮下で一糸の乱れもなく動くようになっていた。エフゲイアの諜報兵はそこかしこで捕らえられ、拷問されるまでもなく自軍の所在を吐いた。ヴォルフガングはただちに敵陣を叩き、都が襲撃される可能性は日に日に低くなっていった。
 治安の戻った都では、ヴェエルと父男爵が中心となっての復興作業が開始された。王宮よりも貴族の城よりも、優先されたのは民たちの住まいだった。
 ちょうど雪解けの季節でもあり、ジョーヌは農民を鼓舞して、ともに荒れた畑を耕した。新しい小麦の種子にまだ改良の余地はあったが、ジョーヌは畑の一画をその品種の専用に定め、父の面影に祈りつつ注意深く種を蒔いた。
 ロゼに遣わされたスガーリ配下の忍びには、正規の使者として伍長が同行した。伯爵家花押の威力は絶大で、ベルリア王家は彼を丁重に迎え入れた。謁見も無理なく許され、ロゼの姉メリーベルの前で、伍長は目をうるませながらルージュの一大事を語った。
 ベルリア海軍の技術を結集した最新型の快速船が港を発ったのは、明けの明星が空に輝く暗い時刻であった。
 
 強い風の吹きつける砂浜に立って、ヒロは水平線に目を凝らした。まだ冷たい海水は彼の瞳と同じ色に透き通り、高い鳴き声と長い翼の海鳥は、佇んで動かぬ彼の足元のすぐそばにまで舞いきたった。
「ヒロ。」
 その背に声をかけたのはロゼだった。
「またここにいたのか。寒いだろ。中に入ってればいいのに。」
 ヒロは応えなかった。彼らはこの港を統べる網元の家を宿に借りて船の到着を待っていたが、万が一の用心にと身分は極秘にしていた。当然2人はまだジプシーの衣装で、ロゼの胸元のリボンは浜風にちぎれそうになびいていた。
「信じろよ。船は必ず来る。この追い風なら船速も上がるだろうし、陸を進むより絶対早いから。」
「判ってる。」
 ヒロは波打ち際へ歩き、
「おいらさ。海見んのって初めてなんだ。絵では見たことあったけど、こんなに広いとは思わなかった。」
「そうか。君はマンフレッドで育ったんだもんね。」
「お前は?」
「え?」
「お前は見たことあったのか?」
「あるよ。子供の頃にね。父上に連れてきてもらったことがある。その時は俺もびっくりしたよ。この世界にこんな場所があったなんてね。」
「ふーん…。」
 2人の揃いの革ブーツを、白い波が包み、引いていった。
 ロゼはヒロの横顔を見た。金髪は風にかき上げられて、形よい額があらわだった。潮風に眉を寄せまぶしげに目を細め、しかしその表情は初めて会った時に比べると、格段に翳りを増していた。
 本当なら…とロゼは思った。本当ならヒロにはこの海を、もっと楽しい、はじけるような気持ちで見せてやりたかった。まだ見ぬ異国への憧れや、未来への希望を語れる場所、海。なのに今ヒロが感じているのは、黒く重たい不安の念に違いなかった。
 密かな溜息とともに目を伏せたロゼはその時、
「おい、あれ何だ。」
 緊迫したヒロの声に顔を上げた。彼が指さす水平線には、
「…船だ!」
 思わずロゼは叫んだ。ヒロは彼の袖を掴んで、
「船って、お前の姉ちゃんとこのか!?」
「判らない。そこまでは見えないけど…でも今この航路を通る船は少ないはずだ。」
 知らずに昂るロゼの声だったが、
「シュワルツーっ!」
 脱兎の如くヒロは走り出した。
「シュワルツ! おめ何やってんだ早く来い!」
 浜辺近い網元の家で海図を眺めていた彼は、ヒロに手を掴まれ外に引きずり出された。
「な、お前は目がいいだろ!? あれ見ろあれ! あの船はこっちに近づいて来てんのか!?」
「船だって!?」
 シュワルツはヒロを振り切って走り、バシャバシャと膝まで波に漬かって、
「小型の帆船だ…。あの帆柱だったら速度はかなり出んぞ。」
「帆の色は判るか?」
 ロゼも隣に駆け寄り、
「濃いオレンジの帆布に赤い太陽だったら、間違いなくベルリアの船だ。」
「いや逆光になって色までは…。」
 シュワルツは額に手のひらをかざし幾度も背伸びをした。やがて、
「間違いねぇ! 帆はオレンジだ!」
「マジ? やってくれたのかぁロゼの姉ちゃん!」
「ああ。見ろよどんどん近づいてくる。」
「おーい! ここだぞここぉー! おーい!」
 ヒロは両手を振った。
 3人は砂浜から桟橋へと走った。白い船体に鮮やかな帆をかけた快速船は湾内に合図の点鐘(てんしょう)を響かせつつするすると進入してきて、浅瀬にかかる直前に投錨し、2艘のボートを下ろした。
「連隊長!」
 接舷するや桟橋に飛び降り、伍長はシュワルツの手を取った。男2人は無言で固い握手を交わした。続いて伍長はヒロに礼をとろうとしたが、
「へっぽこぉ! ご苦労だったなぁ!」
 いきなりガバと抱きしめられ、パンパンと肩を叩かれた。
「いえ、あの、陛下…。謹んでご報告がございますのですが…。」
「報告ぅ? 何なに何!」
 伍長は膝まづこうとしたがヒロが手を放してくれないので、仕方なく立ったまま話し始めた。
「ベルリア王家は我が国を襲った不幸に心からの哀意を表され、これからも出来る限りの協力を惜しまないとお約束下さいました。第2王子の妃殿下のお口添えにより国王陛下へのお目通りがかない、その場で賜ったお言葉にございます。」
「そっかぁ…。国王に会えたのか。足運んだ甲斐があったよなぁ。でもそんな偉い人に会って、お前ドキドキしてたんじゃねぇのかぁ? へっぽこ!」
「は…。」
 自分も国王であることが判っていないかのヒロの言葉に、伍長は返答に困った。が、そこで、
「ご苦労だったね。姉上は何かおっしゃっていた?」
 脇からロゼは尋ねた。伍長は彼に向き直った。
「はい、伯爵へは妃殿下よりお手紙をお預かりしました。これは国書ではなく私信であることを申し上げて、お渡しするように申しつかってございます。…こちらを。」
「そう。ありがとう。」
 受け取った白い封筒には、ベルリアの太陽の紋ではなく『m』の封蝋が捺してあった。ロゼは蝋をはがした。見慣れた美しい文字が並んでいた。
『愛するルイーズへ
快速船と海軍兵、それに少しですが食料を送ります。
あなたに課せられた責務は重いでしょうが、伯爵家の名に恥じない働きを、どうか立派につとめて下さい。
ルージュ様のご無事を心から祈っています。
あなたの姉マリア・メリーベル』
「兵士までつけてくれたのか…!」
 ロゼは感激の声を出した。はい、と伍長はあいずちを打ち、
「漕ぎ手もかねた屈強の若者を20名、船とともにお貸し下さいました。風頼みでは凪ぐこともあろうかとのお心づかいにございましょう。」
「ありがてぇな…。」
 ヒロは声をうるませた。
「いくら感謝しても足りないな、ロゼ。お前の姉ちゃんだ。本当にありがとう。」
「そんな、改まって言わないでよ。」
 手紙を畳みつつロゼは言った。
「この戦さが終わったら、一度君の使者をかねて姉上にお礼を言いに伺うよ。全てはルージュを助けてからだね。」
「終わったら、か…。」
 ヒロはぼそりと繰り返し、
「そうだな。終わらせなきゃな。おいらの命に代えてでも。」
 きゅっ、と彼は顔を上げ、
「ようし、出発の準備だ! 急げ! 準備ができ次第ここを出発する!」
「御意!」
 浜はにわかに慌ただしくなった。
 少しでも速度を損なわないよう、積み込む荷物は最小限にして快速船は港を発った。この船は軍艦ではないため、ジョアンナたち女性も乗ることができたし、また物々しい出航の儀なども省略された。ただ航海の安全を海に祈る儀式だけは行わなくてはならない決まりである。急ぎ赤ワインが用意され、ヒロは船の舳先にそれを打ちつけて割り、剣を抜き空に掲げた。
「出航ー!」
 高らかにヒロは命じた。帆は張られ錨は巻き上げられ、船は大海に進み出た。
 沖合を流れる海流に乗るのには成功したが、貿易風は期待したほど強くはなかった。初め甲板にいたヒロは、船底の機関室でベルリア兵たちが懸命に漕ぎ手を勤めていると聞くや、上着を脱ぎ捨てて階段を駆け下りた。
 薄暗い船底には汗の匂いが籠っていたが、
「おいらも手伝う! どけ! いいからそこ空けろ!」
 半裸の男たちに割り込んで、彼は櫓舵を掴んだ。
「そ、そのようなこと…おやめ下さい陛下!」
 ベルリアの小隊長は慌てふためいたが、ヒロは聞く耳もたなかった。
 櫓舵はさすがに重かった。ヒロは手のひらに唾を吐きかけ、すりあわせてから櫓を握った。回りの男たちの動きに合わせ、ぐい、ぐいと彼は漕いだ。この一かきごとに波は割れ、船はエフゲイアに近づいていくのだ。たちまち吹き出した汗を甲でぬぐって、ヒロは漕ぎ続けた。
 
 ルイダ隊は国境を越えると、皆、馬を変えた。ルージュの馬も変えられた。その馬の鞍は、椅子のような奇妙な形をしていた。ルージュは首から木札を下げられ、体を前倒しにできないよう、背もたれに当たる鞍の部分に後ろ手に縛りつけられた。首の木札にはエフゲイア語でこう記されていた。
『幾千幾万の同胞(はらから)を情け容赦なく殺した恐るべき悪魔。呪われよ。都にて罪を問い極刑を施す。』
 さらし者扱いであった。街道が集落にさしかかるたび住民は虫のように集まってきて、汚い罵りの言葉とともにルージュに石を投げつけた。
 
 ヒロは頭のスカーフをほどいた。手にできた豆がべろりと剥け、水とともに血が流れ出したためだった。彼は布を2つに引き裂いて、手のひらにそれぞれ巻きつけた。布の端をくわえて結んでいると、隣の兵士が無言で彼の手を取った。いったんほどいて丁寧に巻き直し、きゅっと締めてくれた彼に、
「ありがと。疲れたら無理しないで休めよ。」
 微笑みかけてヒロは言った。そうして指を何度か曲げ伸ばしし、ヒロは再び漕ぎだした。
(ルージュ…。)
 ズキンズキンと痛む手が、そのままルージュの痛みに思えた。
 船長室のテーブルでロゼは、ベルリアの技師と海図をはさんで航路の確認をしていた。技師は紙面を指さして言った。
「現在私どもはこの海流に乗って北上を続けております。この速度ですと明日の午後にはエフゲイアの領海に到着いたします。ですがエフゲイア海軍はこの時期、季節風を避けるため全艦こちらのケレンガル湾に錨泊しております。ですからその1つ手前、フェレスケイ湾に我々は進入いたします。」
 トン、とペン尻で叩かれた地名に、うん、とロゼはうなずいた。
「ですがこの湾は運河の入口にあたるため潮の流れがかなり早く、浅瀬と岩場が交互にあらわれる、いわば天然の防衛線となっております。そのため細心の注意を払いませんと、暗礁に乗り上げて艦をいためる可能性があります。」
「大丈夫なのか。」
「はい。むしろそれを逆手に取ってエフゲイアを油断させます。」
「どういうことだ?」
 ロゼは身を乗り出した。技師は声を潜めた。
「フェレスケイ湾が見えて参りましたら、艦は沖合に投錨して夜を待ちます。闇の帳(とばり)を味方につけたら、そこで小舟を降ろします。陛下や伯爵はその舟で湾に入り、警備隊に見つからないよう運河へ入り込んで下さい。この艦は夜明け前に錨を上げまして、そこでわざと座礁致します。」
「…わざと故障したふりをするのか!」
「さよう。軍艦ではございませぬ故、敵も修理中の停泊は認めざるを得ませんでしょう。長の航海で傷病人も出ていることにして、なるべく時間をかせぎ、ここで皆様のお戻りを待ちます。」
「なるほど…。さすがは世界に冠たるベルリア海軍、作戦にもぬかりはないね。」
「畏れ多うございます、伯爵。」
「運河を遡ればエフゲイアの都には1本で出られる。上陸したら我々は商人…いや旅芸人に変装しよう。さしもの北国も春が近づけば祭りの場も増えるはずだ。」
「さようでございますね。祭りの稼ぎを目論んだ芸人に扮すれば、まず怪しまれることはありますまい。」
 
 午後の陽が傾き始める頃、艦はフェレスケイ湾の沖合に停泊した。体力ではなく精神力で漕ぎ続けていたヒロは、小隊長の、
「ようしご苦労! この地点で投錨する! 全員上がれ!」
 その声を聞いても立ち上がることさえできず、櫓舵にすがってぐったりしているのを、
「ああああほら、だから言わんこっちゃない!」
 彼同様上半身裸のシュワルツが抱き起こして、船室に運んでいった。とりあえずワインを飲ませてベッドに押し込むと、ヒロは死んだように眠りに落ちた。
 6時間ほどぐっすり眠って、ヒロは自然に目覚めた。腕の筋肉は痛んだが疲れは嘘のように消えていた。同時に耐え難い空腹を覚え、彼はベッドを下りた。ドアをあけるとそこにはスガーリが控えていて、
「お目覚めですか陛下。ご気分はいかがです。」
 心配そうな顔で尋ねた。
「何ともねぇよ。それより腹減った。ロゼはどこだ。今何時だ。」
 立て続けに幾つもの用件を言われ、
「はい、ただ今全てを。」
 スガーリは走っていった。
 ほどなく、料理の皿を持ったジョアンナを連れてロゼがやってきた。ヒロは右手にスプーン、左手にパンを持ち、
「ねぇ、そんなに急ぐと気持ちが悪くなるよ?」
 思わずロゼが言ったほど、豪快に食事を始めた。
「んな人のこと構ってんじゃねぇよ。それよりこれからどうすんだ。」
 頬ばった口で彼は言った。ロゼは海図を広げて見せ、ベルリアの技師と相談した作戦を簡潔に説明した。
「なるほどな、小舟で運河に入んのか。」
「ああ。陸路は曲がりくねってるし幾つも集落を通るから人目につきやすい。旅芸人に変装して舟で行けば、早いし安全だと思うよ。」
「旅芸人か…。」
 そう言ってずずっとスープを飲み干したヒロに、ジョアンナは、
「任しておおきよ。あたしたちの得意分野さ。この季節、世界中の旅芸人は各国の祭りを目当てに動き始めるからね。」
 ポンと自分の胸を叩いておいて、彼女はロゼに向き直った。
「それでねぇ総参謀長さん。変装のことなんだけど。」
「うん。」
「このプチはねぇ。どうも人目を引くらしいんだよ。マンフレッドに入る時も兵士が興味しんしんで、誤魔化すのに苦労したんだ。まぁ無理もないけどね。これだけ綺麗な顔した男は、女より少ないから。」
「まあね、そうかも知れないね。」
 クスッとロゼは笑ったが、ヒロは知らん顔だった。
「だからねぇ。どうだろう、ここはひとつプチには女の格好させた方がいいと思うんだけど。」
「おんなぁ?」
 聞き返したのはヒロだったが、
「そうだよ。女でいた方が多分あんたは目立たない。ここまできて変に目をつけられたんじゃ、それこそ元も子もないよ。」
「そうだね。」
 即座にロゼは賛成した。
「マンフレッドとは違ってここはれっきとした敵国だ。敵国に国王が乗り込むからには、用心に用心を重ねないと。」
「…とか言ってロゼ。お前なんか面白がってないか?」
「面白がってなんかいないよ。心外だなそんな風に思われるのは。」
「…。」
 ヒロはまだ納得のいかない面持ちだったが、あと1歩でエフゲイアの都に着くという大事な時に、少々の不条理はやむをえないと思い直した。
「それとね、総参謀長さん。あんた何か特技はあるの。」
「特技? 俺に?」
「そう。だってあたしらは旅芸人なんだからね。芸なしじゃ話にならないじゃないか。何が出来る? 歌でも踊りでも楽器でも、何でもいいよ。」
「楽器…なら何とか。チェロに、それからハープシコードとか…」
「ちょっとちょっと待ちなさいよ。どうしてそんな大きいのばかりなの。」
「あとはバイオリン。バイオリンも弾けるよ。」
「そうなの! それはいいわ、バイオリンね。じゃあこれで決まり。総参謀長さんはバイオリン弾きで、プチは踊り子ってことで通すわよ。」
 ジョアンナは手早く衣装を用意し、ヒロに着替えろと言った。渋々ではあったが従った彼は、声を出しさえしなければどこから見ても絶世の美女だという、オーロラ姫さながらの姿に変じた。
 暁前、闇の最も深い時刻に、彼らはボートに分乗しフェレスケイ湾に進入した。物見用の小屋もあるにはあったが、どうやら無人らしかった。こういう油断は国をも滅ぼす。ヒロたちの舟は誰に見咎められることもなく、運河を遡上していった。
 海岸の近くは潮風の影響で作物が採れないのだろう、舟から見えるのは人家の全くない寒々とした風景であったが、漕ぐ手を休めず丸1日もたつと、徐々に集落が現れ始めた。旅芸人の一座らしく旗と造花で飾り立てた彼らの舟を、珍しがって見にくる子供たちもいた。
『こんにちは!』
 愛想よくジョアンナは声をかけた。子供たちが怯えたふうもなく手を振るのは、この運河を通る舟を見慣れているせいだろう。ジョアンナは岸に舟を寄せさせ、一番賢しそうな子供に尋ねた。
『ねぇ、都まではあとどのくらいかなぁ。そこではお祭りをやってる?』
『やってる。去年見に行ったよ。』
 子供は淀みなく応えた。
『すごく賑やかでね、面白かった。いろんなお菓子をただで配ってて、ばあちゃんの分ももらって帰ってきたんだ。』
『へぇ、そりゃいいねぇ。坊やは何に乗って行ったの? 舟?』
『ううん、街道の乗り合い馬車で行った。』
『そう。何日かかった?』
『えっとね、えっと…3日!』
『そう。どうもありがとうね。』
 ジョアンナは子供の頭を撫でてやり、船室に入ったとたん笑顔を消してロゼに報告した。
「ここから都へは馬車で3日かかるそうだよ。この舟なら2日ってとこだね。」
「2日か…。」
 ロゼは地図を引き寄せて、
「でも都には今の季節、こんなふうな旅芸人がたくさん集まってくるんだろう。だとしたら運河も混むはずだ。それにほら、ここでもう1本水路が合流してくる。東の地方からやってくる一行もいるだろうし、このあたりで舟の速度はガクンと落ちると考えなきゃならないよ。」
「そうか、前の舟乗り越えて行く訳にはいかないね。」
 ジョアンナは舌打ちした。ロゼは腕を組んで、
「陸に上がっても同じことだろう。都に近づけば近づくほど進むのに時間がかかる。問題はルージュが、もう都に着いてるかどうかだな…。」
 ルージュ、の名を聞いてヒロはビクリと顔を上げた。ロゼは沈んだ口調で続けた。
「敵軍の総大将を生け捕りに連れ帰ったんだ。ほぼ凱旋に近い騒ぎになっているだろう。それなり人の噂に昇ると思うんだけど。」
 その言葉にヒロは無意識のうち、自分の肘のあたりをさすっていた。敵軍総大将…何という禍々しい響きであろうか。
「ここいらじゃまだ無理だよ。」
 だがジョアンナは言った。
「こんな田舎町に噂が届くのはせいぜい月を越してからさ。この先集落にかかるごとに、あたしらがうまく聞き出してやるよ。」
「そうしてもらえるかな。」
「ああ判った。ここまでかかわった以上はもう、あんたらと一蓮托生だよ。法律なんぞには従わないけど、人の情には従うのがジプシーの掟だからね。」
「…ありがとな、ジョアンナ。」
 ヒロは誠実な声で言い、彼女に頭を下げた。
 
 馬の背から引きずりおろされたルージュに、体を支える力はなかった。ぼろ雑巾のように打ち伏せた彼の頭から、氷水をかけろとルイダは命じた。ナイフに似た刺激がルージュの神経を目覚めさせ、同時に無数の傷口の激痛をも蘇らせた。
「さぁご覧になれますか侯爵殿。ここが我らの都、我らが大公の宮殿にございます。」
 前髪を掴んで顔を持ち上げられ、かろうじて目をあいたルージュの視界に映じたのは、荘厳華麗な金色の建物であった。
「本来であれば罪ある者の上がれる場所ではありませんが、戦犯とはいえあなた様はご身分高き御方。特別に大公へのお目通りがかないます。しかしそのお姿では我らが大公に対してあまりに無礼。ここでまた装束を替えて頂きます。」
 ルージュは目を閉じた。もう何をされても大した屈辱には思えなくなっていた。むしろまだ命のある我が身を、嘲笑う気持ちが強くなっていた。
 道中の泥と埃と、投げつけられた汚物で固くなった囚人服が剥がれ、裸身にざぁざぁと水をかけられて、彼が着せられたのは死装束を思わせる白い衣だった。丁寧にもルイダはルージュの髪を整え、顔の髭まで兵士に剃らせた。げっそり削げ落ちた頬と、両目の下の黒い隈。それでも疑いようのないその美貌は、刃さながらの凄惨さであった。
 白装束に新たな縄を打たれて、ルージュは大公フェルナンドの前に引き出された。そこは豪華な調度の中広間で、回りにはずらりと重臣が控えていた。中央にひざまづかされたルージュの耳に、
『それが余の兵士たちを大量に虐殺したという悪魔か。苦しゅうない、面(おもて)を上げさせぃ。』
『はっ。』
 彼の左右に立っていたルイダと副将は、ルージュの顎の下で剣の鞘を十字に交え、ぐいっと上向かせた。ほぅ…と大公は嘆息した。
『なるほど。悪魔の名にふさわしい美青年である。そなたの罪咎がせめてもう少し軽ければ、余の後宮にて奉仕奴隷の身分を授けてやるのだが、戦犯とあればそうもいくまい。その高貴な身分に相応しく、余が手ずから罪を詮議してやろう。その後、都大路を引き回し、祭りの広場の中央にて処刑を行うものとする。』
 大公の目が暗く残忍に輝くのをルイダは見た。王者は残虐でなければならない。それがこの国の流儀であった。大公は命じた。
『ただちにその悪魔を、地下牢へ引ったてよ!』
 
 ジョアンナは情報収集のため、ジプシー仲間3人とともにさらに小型の舟に乗り替えてロゼたちの先を急いだ。棹1本であやつる小舟には屋根もなかったが、そのぶん小回りがきく。岸辺で洗濯している女たちや水浴びしている町びとを見つけるたび、ジョアンナは舟を近づけて話しかけた。するとついに1人の女がこんなことを教えてくれた。
『今年の祭りは賑やかだそうだよ。昨日来た物売りが言ってたけどね、何でも祭りの最終日に、精霊へのお供物として悪魔を火炙りにするんだそうだ。敵国の偉い将軍らしいけど、まだ若い、えらく綺麗な男なんだとさ。悪魔の灰を持ってると魔除けになるからね。見物に行く奴は多いだろうよ。』
 何だって、とジョアンナは思ったが、表情を変えていぶかしがられてはいけないと、必死でつくり笑いを続けながら、
『そりゃあ珍しいことだね。そのお祭りってのはいつまでなんだい?』
『闇月(やみづき)の晩までだよ。』
『闇月…。』
 思わず復唱したジョアンナは、女に礼を言うと急いで舟を戻させた。漕ぐ手を休めるうち程なく、ロゼたちの舟が追いついてきた。
「判ったよ総参謀長さん!」
 身軽に舟を乗り移り、ジョアンナは今聞いたことをロゼに告げた。
「闇月の日に火炙りだって…?」
 ロゼは顔色を変えた。昨夜の月は忘れもしない、やせ細って今にも消えそうな銀の弓だった。
「もう明日じゃないか…! 都へは今夜着くとしても、たった1日でどうやって作戦を練るんだ。ルージュが捕らえられているのはどこなのか、都の警備はどうなっているのか、たった1日じゃいくら何でも…!」
 悲痛な呻きを上げるロゼに、ヒロは落ち着いた声で言った。
「いや、おいらに考えがある。…ジョアンナ。ジプシーたちと一緒に力貸してくれ。」
「そりゃもちろんだけど、考えがあるってプチ、どんな…。」
「何もかんもたった1日で調べるのは無理だ。だったら何でも知ってる相手に直接聞いちまうのが手っとり早ぇだろ。」
「何でも知ってる相手って、まさかルイダ将軍…」
「ちげーちげー、もっと上。この国の一番偉い奴。」
「一番って、大公フェルナンドに!?」
「ああ。王宮に行きゃ王様に会えんだろ。」
「まさかヒロ、直接談じ込む気か!? そんなことしたらあっという間に、城門で全員ハリネズミだぞ!?」
「だからちげーよ。何のためにおいらがこんなカッコしてんだって話よ。」
 ヒロはジョアンナに向き直った。
「おいらたちは一稼ぎしようと祭りに来た旅芸人だろ。王宮の前に着いたら、ジプシーたちに言ってなるべくたくさんの見物人を集めてくんねぇか。みんなで楽器を弾いてジョアンナは歌ってくれ。そこでおいらが踊る。踊って、拍手喝采させて、観衆が熱狂してんのを見れば王宮の奴らも出てくんだろ。」
「そうか!」
 ジョアンナはハタと手を打った。
「そうやって大公の前で踊らせてもらうんだね!? あたしの歌とあんたの踊りで城門を開かせるのかい!」
「そうだ。剣では不可能でも、誘惑なら簡単にいくかも知んねぇ。もちろん、これはイチかバチかの賭けだ。でもここまできて作戦だの調査だのってウロウロしてる場合じゃねぇ。ルージュの命と国の運命、両方がかかってんだかんな。」
「判った。やってみよう。」
 ロゼも決断した。
「俺は国を出る時、君に全てを賭けた。リーベンスヴェルトという名前に込められた力が、奇跡を起こすと信じるよ。」
「奇跡なんか起こんねぇよ。」
 ヒロは虚空を睨んだ。
「死ぬまでおいらは諦めない。確かなのはただそれだけだ。」
 
 ギィ…と錆びた鉄の軋む音が、ルージュの意識をかすかに覚まさせた。両腕と両足に枷をはめられ、天井からだらりと吊り下げられた体に、痛覚はもう遠かった。今がいつでどのくらいの時間こうしているのかも、彼には判らなくなっていた。ただ、今近づいてくるのが大公フェルナンドであることを、衣に焚きしめたきつすぎる香料によってルージュはぼんやり感じていた。
「まだ息はあるのかな、誇り高き侯爵殿。」
 拷問というよりは凌辱に近い狂気で、しとどに蹂躙した肌を大公は手のひらで撫でた。どれほど責めたててもついに一言の命乞いもしなかったルージュを、大公は悪魔の処刑法…火炙りに処すと決めていた。生きながらにして紅蓮の炎に飲み込まれるこの青年を、見たいというのが本当の理由だった。
「余の軍に捕らえられて以降、さぞや苦しかったであろう。しかしその苦しみもあと1日の辛抱。明日になれば旅立つことができよう。ただ…それもおそらく地獄への旅立ちであろうが。」
 くっくっと大公は笑い、
「アレスフォルボア侯爵は我が国において、骨すらも残りなく灰と化したと、後世に語り伝えられることであろうのぅ。そなたの廟は大公家の墓地の入口、門前の下僕の位置に建ててしんぜよう。死してなお、そなたは余に仕えるのだ。」
 赤紫に腫れたルージュの頬を大公はしばらく撫で回していたが、苦悶の表情を見られないのは物足りないとでもいうかのように、突如彼の口の中に右手の指を押しこんだ。びくんとルージュの背が跳ねた。
 ぎりぎりと指を動かし、その反応を存分に楽しんでから大公は出ていった。兵士も去った暗黒の牢の中ルージュは、はぁっ、はぁっと短いあえぎを繰り返した。
(明日になれば、楽になれる…。)
 目をあける力も失せて、彼は胸の内につぶやいた。
 ルージュには幻影が見え始めていた。戒めを解かれた彼は柔らかで暖かい衣をまとい、ゆったりとソファーにもたれていた。
 どこからか美しい楽の音と、笑い声とが聞こえてきた。ヒロがいてロゼがいて、ジョーヌもヴェエルも彼に笑いかけていた。みんなあの聖ローマ祭の時の衣装で、グラスを手にくつろいでいた。また向こうの日だまりには、死んだはずの父侯爵がいた。かたわらで微笑むのは母ビクトリア。それに、スガーリもシュワルツも伍長もヴォルフガングも、ルージュと親しい全ての人間が、暖かな空気で彼を包んでいた。
(疲れたよ、俺…。)
 ルージュは泣きそうな顔になり、
(いいだろ、もう…。もう許してくれんだろ…。そっち行っていいか、親父。侯爵なんて、元帥なんて、俺には重すぎんだよ。もう休みたい。全部放り出して自由になりてぇよ…。)
 父は黙って笑っていた。ふと気づくとルージュの肩は、誰かにふわりと抱かれていた。
(お帰りなさいませ、ルージュ様。お疲れになったでしょうお可哀相に。さ、いつものようにおぐしをお梳きしましょうね。)
 果てしなく優しいその手の持ち主の名を、ルージュは唇に昇らせた。
(サヨリーヌ…。)
 本当の涙が、ルージュの頬を流れた。くり返し、くり返し髪をすべる慈しみの指が、何を意味していたのか彼には判った。
(ごめんな、サヨリーヌ…。とうとう何も報いてやれなかった…。骨も髪も届かねぇだろうけど、明日になったらお前のとこへ帰るからな…。)
 幻の指に、彼は手のひらを重ねた。聖母の笑みの彼女に抱かれて、ルージュは眠りに落ちた。
 
 身軽に岸に飛び移ったジプシーの青年に、シュワルツはともづなを投げた。桟橋に繋がれた小舟から、ヒロとロゼはエフゲイアの都に降り立った。
 深夜を回った時刻だというのに、町は昼間の如く賑わっていた。祭りの夜の人々は眠ることも忘れるのだろう、灯はあかあかと灯されて、人通りは絶える気配もなかった。
 船着き場の近くには貸し馬・貸し馬車の店が軒を連ねていたが、それらも戸口を閉ざしてはおらず、ジョアンナは早速3台の馬車を借りて、舟から荷物を積み替えた。
 町の中央に広場があった。敷きつめられた石畳の上に篝火が焚かれ、あちこちに人だかりができているのは旅芸人の客寄せであった。楽器を奏でる者、犬に芸をさせる者、逆立ちやとんぼ返りをする者に果ては火を吹く者までいて、集まった観衆の喝采を浴びていた。それらの間を縫って歩くのは頭に籠を乗せた物売りたちで、酒も肴も飛ぶように売れ、溢れる熱気は夜空をも焦がさんばかりだった。
「すげぇな…。何人いるんだよこれ…。」
 広場の入口で停まった馬車の幌をまくって、シュワルツはつぶやいた。ヒロは彼の後ろから首を伸ばし、
「警備兵はいるか。」
「警備兵?」
「そうだよ。素人相手に仕掛けてる場合じゃねぇ。なるべく大公の近くにいる奴からタラさねぇと。」
 シュワルツの脇をすり抜けて、ヒロは馬車を降りた。フードのついた黒いマントをすっぽりと被っているので、その姿は闇に溶けていた。広場の隅々をヒロは素早く見回した。喧騒を取りまく篝火の輪の外に、彼は警備兵の詰め所を見つけた。
「ジョアンナ!」
 ヒロは馬車の中に呼びかけた。
「あそこ。あの兵士たちのそばにショバ取ってくれ。思いっきりハデな曲で注目さして…小手調べだ、2〜3曲踊ってやっか。」
「判った。15分で準備するよ。…ジェファー! プチの化粧、直しておやり!」
 ジョアンナは仲間の少女に言い、男たちを指揮して楽器の用意を始めた。ヒロは大人しく顔を任せながら、ふぅ…と呼吸を整えた。
 いつでもいいよ、とジョアンナが馬車に声をかけに来たときには、虹色の薄物をまとった舞姫がひとり誕生していた。一瞬目を見張ったジョアンナは、
「これならいける。どんな男もコロッといくだろうよ。」
 そう言ってニヤリと笑った。
 フードつきの黒いマントをかぶり、ヒロはジョアンナに手をとられて広場に進み出た。ジプシーたちの演奏や曲芸で、すでに観衆は大勢集まっていた。すぐそばには警備兵の詰め所があったが、兵士たちは芸人など見飽きたという顔で、さしたる警戒はしなかった。
「さぁさぁ皆さん、ご注目ご注目!」
 ジプシーの若者が声を張り上げた。
「今からお目にかけるのは、我らが一座の一枚看板。これまでに何人もの王様に望まれながらも、決して許さなかった誇り高き美女の踊りを、この祭りの佳き日にあたって特別に皆様にご覧に入れましょう! 歌いますのは我らが歌姫、ジョアンナ!」
 芝居っ気たっぷりに彼女が礼をとると、群衆はわぁっと沸き立った。青年は革の太鼓を打ち鳴らし、ジョアンナは大きく深呼吸したあと朗々とした声で歌い始めた。
『オリンポスの夜に囁いた愛を
思い出に変えて歌おう
街角に響く楽の音が
私の肌を燃やすまま…』
 シャララーン…と鈴の音がして、観客はハッとそちらを見た。黒いマントの踊り子が、輪の中央にひざまづいていた。ジャン!と弦の音が高まった時、踊り子はまるで鳥が舞い立つように身を浮かせ、くるりと回りながらマントを脱いだ。広場に虹がかかった。
 群衆はどよめきすら奪われて踊り子を見つめた。薄物に透ける白い四肢が宙をそよぐたびに、虹は妖しく揺れまどい、瞳から心へと触手を伸ばして、逃れ得ぬ深みへと誘い込んでいった。
『あの恋の一夜に
赤い火が狂おしく
燃え上がり飛び散っていった
かえらぬ夢
まどわしの恋の夢よ』
 ひときわ目を引くのは踊り子の瞳であった。さながら宝石を思わせる青い瞳はシャドウに強調されて一層大きく見えたが、しかしその視線はどこにもとどまることなく、自らに焦がれる者たちの上を、冷たく無機質に横切っていくのである。
 だが一瞬、本当に気まぐれに一瞬、踊り子のまなざしは熱を帯び、凍った湖の底にゆらりと誘惑の炎をのぞかせるのだ。その炎を見てしまったが最後、全ての抵抗が奪い去られる。目の前で踊るこの美しいものに、まぎれもない血肉が通っていることを知らされ、体の奥に立ち上がる熱いうずきに気づかされたとたん、誰もが踊り子の虜に陥ちた。目には見えない屍の前で、美しいからだが舞い続けた。
 十分に意識した一瞥を、ヒロは火矢の如く兵士たちに放った。1人また1人と眉間を射抜かれ、崩れていくのが彼には見えた。警備隊長とおぼしき男は腑抜けの顔で立ちすくみ、若い兵士は手にした盾を足元に取り落とした。
 曲調が変わるとジプシーの青年が、打ち合わせ通り上半身裸で舞い始め、踊り子を抱き捕らえるために追ってきた。するり、するりと腕を逃れる身のこなしの艶やかさに、群衆は無数の溜息を漏らした。
『この夜に抱かれて
地の果てへと旅をする
どうか私を狂わせて
あなたの唇で夢を見せて
波間に沈む星になりたい
あなたの中へ旅に立つ…』
 仰向けに高々とリフトされ、ヒロは踊り終えた。すぐには拍手もできずにいる観客の前から、彼は風のように立ち去った。
 馬車の中に戻るなりヒロは、その場に膝をついてハァハァと息をはずませた。薄絹は肌にはりつき、額もこめかみも汗でびっしょり濡れていた。
「大丈夫?」
 化粧をしてくれた少女ジェファーが心配そうにのぞきこむのに、彼はうなずきだけで応え、ずるりとカツラを取った。ただの踊りではない、正体を隠してしかも誘惑という意図を秘めながら舞ったのである。ヒロが擦り減らした気力と体力はかなりなものであった。
「おい大丈夫か陛下!」
 ジプシー装束のシュワルツとスガーリ、それにロゼも次々戻ってきた。ヒロは衣装のままごろりと横になった。
「どうだったロゼ、おいら。」
 寝入りそうな声でヒロは尋ねた。
「ああ、見事だったよ。誰が見たって傾国の美女だ。男でしかも敵国の王だなんて、思った奴はいないだろう。」
「あたぼぅよ。マンフレッドでおいらは、祭りのスターだったんだからな。千人や2千人、どうってことねぇよ。」
「それにしてもイケてたぜ陛下。警備兵の野郎、あんぐり口あいて見てやがった。ありゃあ言いふらすだろうな、旅芸人の中にすげぇのがいるって。」
 ニヤ、とヒロは目を閉じたまま笑い、
「その調子その調子。口コミが一番の宣伝だ。これであとは明日の昼にでも、王宮の近くでデモンストレーションして…それで何とか宮殿に入り込んだら、あとは…」
 そこでヒロは黙った。眠ったのかと思いロゼは顔を近づけたが、ヒロはすっと瞼を上げた。恐ろしいほどの決意の表情であった。
「あとはもう、おいらの運は神様に任せる。何が起きてもおいらは逃げない。エフゲイアの大公がどんな奴でも、いざとなりゃ人間、1対1だ。国も軍隊もこうなりゃ関係ねぇ。おいらはフェルナンドにナシつけに行く。」
 ふぅ、と息を吐いて目を閉じ、
「だから、待ってろよルージュ…。おいらが行く前にくたばってたら、ぜってー、ただじゃおかねぇかんな…。」
 最後は消え入る声になり、ヒロは寝息をたて始めた。
「おい、ヒロ。寝ちゃったのか? おい ?」
 肩を突いても反応はなく、ロゼは苦笑した。背後からスガーリものぞきこんで、
「お疲れになったのでしょう。少しお休み頂いた方が。」
「そうだね。でもこのままじゃ風邪ひくな。…ジェファー、毛布を持ってきてくれる?」
 頼まれた少女は頬を赤らめ、何も言わずにその通りにしてから馬車を降りていってしまった。どうやら彼女にとってロゼは憧れの人であるらしい。シュワルツたちは顔を見合わせたが、ロゼはヒロの体を毛布で包み枕をあてがい、
「本当は化粧を落とさないと肌が荒れるんだけどな。でもしょうがないね、今は寝かせてあげるよ。」
 女に語るように言い、そっとそばを離れた。
 座に戻った自分をじっと見ているシュワルツとスガーリに、ロゼは、
「何?」
 首をかしげて聞いた。2人はさっと視線をはずした。ロゼは彼らの前にあぐらをかいて、
「それで明日のことなんだけどね、今さらああこう考えたって始まらないのは確かだけど、手順を少し決めておこうと思うんだ。」
 あっさりした口調だったが、それはきわめて重要なことがらであった。2人は表情を引き締めた。
「王宮にはジプシーたちと、俺とそれにシュワルツがついていく。スガーリは門外で待機していてくれ。宮殿の周囲には忍びを配置して、即座に状況を掴めるようにしておくんだ。何かあったらすぐに動けるように。最善の対処ができるように。」
「御意。」
 短くスガーリは応えたが、ロゼの真意は痛いほど伝わった。“何かあったら”とは例えば、城内で一行が怪しまれた時だ。ヒロが女でないとばれた時。マンフレッドにいたジプシーたちだと気づかれた時。敵国の王だと悟られて、ヒロに危険が迫った時…。
「彼に何かあったら、その時こそ国の最期だ。俺たちのことは見捨てていい、何にかえてもヒロだけは助け出してくれ。いいなスガーリ。」
「はっ。その旨しかと、総参謀長。」
 深く頭を下げながら、スガーリは思った。ロゼは言葉にはしていないが、この計画の失敗の危険も十分に考慮しているのだと。もし敵の手に捕らえられたら、ヒロに処される刑罰の重さはルージュの比ではない。彼は国王、国家の元首なのだ。最初から公正ではない屈辱的な裁判にかけられ、エフゲイアの勝利の証として無残な姿を晒すことを強制される。罵倒も呪いも責めも嬲りも、ルージュの上をいくであろう。
「あと1つ、気になるのは都の状況だ。」
 ロゼは言葉を続けた。
「忍びから何か情報は入っていないか。マンフレッドの敵軍は全滅させたものの、我らが都に潜むネズミたちがどんな動きを見せるかは判らない。同盟軍の間にいさかいはないか、何か問題は起きていないか…」
「いや、そっちはまず心配いらねぇだろう。」
 遮ったのはシュワルツであった。
「ほら、よく言うじゃねぇか便りのないのは無事な知らせだって。同盟軍のことはヴォルフガングがビシッとシメてるよ。いま奴が都で一番心配してんのは、多分俺らのことだと思うぜ。」
「そうだね。」
 ロゼは浅い溜息をついた。
「それより俺が思うのは、明日ちゃんと王宮に入れるかってことよ。」
 シュワルツは膝を乗り出し、
「確かにあの踊りはすごかった。正体知らなかったら俺もふらっとしたかも知れねぇ。1週間もすりゃ都じゅうがあの踊り子の噂でもちきりになんだろうけど、いかんせん勝負は明日1日だ。何かこう、確実に敵地に乗り込める決定打みてぇなもんがなぁ。いっそこっちから売り込みにいっちゃどうだ。王様の前で踊らせて下さいって。」
「いやしかしあまり強引に出ては、向こうを警戒させるだけだろう。許可する代わりに全員の身体検査でもされたら、陛下が男であると1発でバレるぞ。」
 スガーリの反論は確かで、ロゼも腕を組んだ。
 しかしこの危惧は要らぬ心配であった。翌朝、朝食の支度をしていたジプシーのもとに王宮からの使者が来て、たいそう美しいという踊り子の噂に大公が興味を持たれ、午餐の席にお召しである。謹んで参上するようにとの命令が告げられたからである。
 
『おい、くたばるにはまだ早ぇぞ悪魔。』
 爪先で頭をこづかれて、ルージュはおぼろな意識を取り戻した。石牢の床に彼は引き下ろされていた。手枷と足枷がはずされたが、長いこと吊り下げられていた腕に、感覚はもう完全に失せていた。
 泥人形のようにルージュは着替えさせられた。今度は黒一色の衣で、首には四角い木の板を―――くり抜いた穴から首と手首だけ出せるようになった戒めの板をはめられた。兵士は笑いながら言った。
『その格好で日没まで広場で晒し者になってな。祭りの最後を飾る催しがお前の火炙りだ。最高の見せ物って訳だな。』
 兵士はルージュをかつぎ上げ、裏門の前に停めてあった、牛の引く荷車に乗せられた。ゴトリ、と車輪が回る振動を、ルージュは何か遠いもののように感じた。
 
 荷車が宮殿を出たちょうどその時、ヒロたちの馬車が正門に到着した。警備兵がバラバラと駆けよってきたが、今朝もたらされた使者の文書を見せると、通れ、と道を開けられた。
「何だ、ノーチェックかよ。敵も祭りボケしてやがんな。」
 懐の短剣に手をかけていたシュワルツは、それでもホッとした様子で言った。ロゼは髪に巻いたターバンをきゅっと結び、
「いよいよ勝負だな。準備はいい? ヒロ。」
「ああ。いつでも来やがれ。」
 答えた彼の装束は、夕べよりもさらに妖艶さを増したアラビアの踊り子であった。サーモンオレンジの薄物に金色の飾り帯、長いベールを留める冠にはゆらゆら揺れる真珠の額飾りが付いていて、そのベールは耳の横に垂れて顔の前に掛かり、念入りに化粧(けそう)じられた両の瞳以外を、淡い翳りの下に隠していた。
「こいつがちっと重てぇけどな。まぁ本物の剣(つるぎ)だから仕方ねぇけど。」
 ヒロは両手に持った三日月型の宝刀を、顔の前で2〜3度打ち鳴らした。それには偽物に見えるようわざと安っぽい金色の粉が塗りつけられていた。シャララ、と響くのは彼の手首に巻かれた鈴の輪であった。足首にも同じものが付けられ、ヒロが身動きするたびに澄んだ音をたてた。
 門を抜けた馬車は宮殿の建物の前で停まり、降り口の幌がまくられた。
「行くぞ。」
「おう。」
 ヒロは白いマントをまとい、ロゼに左手を預けた。
 甲冑をつけた警備兵に先導され、一同は――ヒロ、ロゼ、シュワルツ、それにジョアンナとジプシーの男たち5人、彼らはみなすぐれた武術の使い手たちである――は、宮殿の廊下を歩いていった。
 絢爛豪華な調度装飾のほとんど全てに宝石が嵌めこまれており、王侯貴族の生活を支えるためこの国の民が払っているだろう犠牲の大きさを、ロゼはひしひしと感じた。いずれ何かが爆発し流血の革命が起きる。それがエフゲイアの運命であろう…と、この場所に似つかわしくない考えを巡らせたロゼは、手の上に置かれたヒロの指にぎゅっと力が籠るのを感じた。
 ロゼは横目でヒロを見た。ふちどりを濃くした瞼は軽く伏せられ、感情の高まりは見えなかったが、おそらく心臓は破裂しそうに跳びはね、呼吸も苦しいに違いなかった。
(大丈夫だよ。)
 握り返すことでロゼは伝えた。
(君だけは決して死なせない。たとえ俺は串刺しにされても、君は生きてここを出るんだ。必ず。)
 警備兵が立ち止まった。ハッとしてロゼは彼らを見上げた。鋭い目で兵士は見返し、言った。
『いいな、大公の御前だ。決して失礼のないように。何か無礼なふるまいがあったら、即刻この矢が放たれるぞ。』
『心得ました。』
 ロゼは頭を下げた。ギィ…と扉が開かれた。
 白と金と薔薇色の光に満ちた豪華な広間に彼らが足を踏み入れた瞬間から、群臣たちの視線は吸い寄せられるようにヒロに集まった。中央に敷かれた深紅の絨毯の上を、ロゼに手をとられたままヒロはゆっくり進んだ。正面には小舞台めいて数段高くなった玉座があり、左右に1人ずつ従者を従え、ぶ厚い毛皮のマントをつけた男が、杯を手にして座っていた。
(こいつがエフゲイア大公フェルナンド…。)
 ヒロはその顔を見据えた。
 玉座の段の真下で足を止め、ロゼはそこにひざまずいた。ヒロたちも倣った。ロゼは流暢なエフゲイア語で口上を述べた。
『大公様にはご機嫌麗しく。お召しを賜りました旅芸人の一座でございます。御国のご繁栄を象徴するこの豊かな祭りに惹かれ、やって参りました我ら卑しき者たちを、かくも素晴らしきお城にお招き下さった大公様の、み心の広さに身の震える思いでございます。』
『然様か。』
 満足そうに笑い、フェルナンドは従者につがせた酒をぐびりと飲んだ。
『知っての通りこの祭りには各国から芸人どもが馳せ参じ、思い思いの歌や舞いを披露してゆく。だが偶然そちたちの芸を見た者が、その素晴らしさを余に知らせて参った。はてさてどのようなものか興味を持って呼んだのだが…。』
 そこで彼の視線はぴたりとヒロの上に止まった。
『その踊り子は、確かに美しいのぅ…。苦しゅうない、面(おもて)を上げよ。名は何と申す。舞いが得意なのか?』
 ロゼの目くばせを受けてヒロは顔を上げ、微笑んで小首をかしげた。大公ばかりか従者までもが溜息をついた。
『恐れながら、大公様。』
 言ったのはロゼだった。低くハスキーなヒロの声は間違いなく男のもの、聞かせる訳にはいかなかった。
『この者の名はフレイアと申します。ご覧の通りの容色でございますが、御国の言葉が判りません。流れの芸人の哀れさとおぼしめして、何卒ご容赦下さいませ。』
『そうか。』
 フェルナンドはすぐに納得した。いや、目の前の踊り子の美しさに、肝魂(きもだましい)を奪われていたのかも知れない。
『フレイアとは炎のことだな。気に入った。話はあとだ、とにかく舞って見せよ。出来によっては今宵、その踊り子に余の伽を許す。』
『光栄に存じます、大公様。』
 ロゼは深々と頭を下げ、
『それでは今日の佳き日のために、珍しき異国の舞いを。剣の舞いをお目にかけましょう。』
 広間の中央にヒロを残し、ロゼとジプシーたちはゆるい円を描いて後ろに下がった。ジョアンナは大公に礼をとり、歌い手の位置に立った。
(いいね。)
 ロゼは一同を見回してうなずき、彼らもそれに応えた。ヒロは剣を手に深く半身を伏せ、ロゼはバイオリンの弓を弦に当てた。
 熱い調べがほとばしり、張りのあるジョアンナの声が重なった。ヒロは両手の剣を頭上に上げ、チャン!と打ち鳴らすと同時に立ち上がった。あでやかにベールがなびいた。緩やかにそして段々と激しく、炎は広間を覆い尽くしていった。床を蹴り空中で形づくるアラベスク、まさに燃え上がらんばかりの回転…。足首の鈴のリズムは呪術に近く、見る者の目が踊り子から離れることを許さなかった。それはヒロが命懸けで仕掛けてくる誘惑の魔法、決して拒めるものではなかった。
 
 広場の中央に穿たれた杭に、ルージュは胴体を縛りつけられていた。立つ力など残ってもいないのに、フェルナンドは最後まで、彼にうずくまることも横たわることも許さないつもりらしかった。杭の周囲には半径5メートルほどの位置に鉄条網が巡らされていて、見物人はそれ以上近づけないのだが、注意する兵士が立っていないので、みな笑いながら石を投げつけた。
 顔に肩に大小のつぶてを受けながら、ルージュの唇は何かをぶつぶつつぶやいていた。誰も聞き取れはしなかったが、古くから故郷に伝わる恋の歌を彼は口ずさんでいた。
『愛する人よ君はいまどこへ
さすらいの名は私の心を
あてどなく風に彷徨わせるだけ…』
 ヒロの舞いは激しさを増し、ひとときたりと同じ場所にとどまらずに、回転と跳躍を繰り返した。あまりに美しく、あまりに妖しいので、大公以下警備兵に至るまで、ヒロが玉座への段のすぐ下に近づいてきていることに気づかなかった。
 
 誰かの投げた尖った石がルージュの額を打った。ぐらりと首が傾き、髪が顔を覆った。流れ出た血は筋を描いて唇の端に届いた。
 ヒロの額を汗がつたい落ちた。背を反らせ宙を抱き、彼は切なげに眉を寄せた。
『あなたのため
ただあなたのためにだけ
私は歌い踊るだろう
たとえこの星が光を忘れ
常世(とこよ)の闇に沈んだとしても
あなたの瞳が輝くかぎり
あなたの魂がここにある限り…』
 フェルナンドは頬肉がこぼれそうな顔をして美貌の踊り子を見つめていたが、やはり舞いに気を取られたか左側の従者が、彼の杯に少々酒をつぎすぎた。指を濡らす感触に気づくやフェルナンドは不快感をあらわにし、ぎろりと従者を睨みつけた。待ち焦がれた瞬間であった。ヒロとロゼの視線が交わった。バイオリンの弓が落ちるより早くロゼのダガーが空を切り、ヒロは身を躍らせて玉座への段を駆け上がった。

「動くなぁっ!」
 背後からフェルナンドの首を抱え、まぎれもない男の声でヒロは怒鳴った。左右の従者はダガーに肩を貫かれて段を転がり落ちた。わぁぁっと群臣はどよめき、兵士たちは慌てて矢をつがえたが、大公の喉には鉤爪にも似た太刀がぴたりと押しあてられていた。
『貴様、何奴か!』
 フェルナンドは叫んだ。
「うるせぇ! がたがたぬかすんじゃねぇ!」
 ヒロは渾身の力をこめて左肘を引き絞った。ぐぅっと大公は息を詰まらせた。どっと兵士が前に出たが、
『近づくな! それ以上近づいたら大公の命はねぇぞ!』
 玉座への段に立ちはだかってシュワルツは短剣を構えた。ジプシーたちも楽器の中からそれぞれの武器を取り出した。

「まさか、貴様はかの国の者か…!」
 ヒロの腕をはずそうともがき、フェルナンドは呻いた。
「何者だ。間者か…! 芸人を装うとは命知らずな…ええい離せ無礼者が!」
「間者だぁ?」
 切れ長の目尻をすごませてヒロは大公を見、絞めつけた肘はそのままにかつらとベールを脱いだ。若獅子さながらの燃える瞳に大公は息を飲んだ。
「間者じゃねぇ。旅芸人でもねぇよ。おいらはな、お前が戦さを仕掛けてきた国の国王、ヒロ・リーベンスヴェルトだよ!」

「こっ、国王だと!?」
 顔色を変えるフェルナンドの首にぎらりと刃を直角に立てて、
「ルージュはどこだ…。」
 怒りに震えかすれる声でヒロは言った。
「お前がさらって痛めつけた元帥だ。あいつは今どこにいる。おいらはあいつを助けに来たんだ…。」
 首の皮膚に食い込む刃に、フェルナンドの体がこわばった。
「ルージュを返せ。おいらの親友を返せ…! あいつの身に何かあったなら、おいらはここでお前をぶっ殺してやる…!」
 ぷつっ、と血が流れ出し、
「ま、待て! 待ってくれ!」
 フェルナンドは悲鳴を上げた。

「助けて欲しけりゃ言え。ルージュはどこだ。どこにいんだよっ!」
「こ、ここではない。ここにはおらぬ!」
 もはや怯えきったフェルナンドは蒼白の顔を振った。
「じゃあどこだ! 言え! てめぇこの首っ玉かっ斬られてぇか!」
「ひ、広場、広場!」
「広場ぁ?」
「み、み、都の中央にある司祭広場だ。さらし者にしたあとで火炙りに――」
「くそったれがぁっ!!」
 ヒロは剣を持った右手を振り上げた。まずい!と腕を伸ばしたロゼは、打ち下ろす寸前ヒロが手首を返し、刃の向きを変えるのを見た。太い峰で胸板を殴られ、フェルナンドの口から唾液が飛んだ。
「急ごうヒロ! 司祭広場だ!」
 ロゼは彼の肩を掴んだ。うん!とうなずきヒロはフェルナンドの、自分よりはるかに大柄な体を椅子から引きずり上げた。
「来い。お前に案内してもらう。手出しはするなと命令するんだ。変な真似をしたら…判ってんだろうな。」
 ヒロの目の激しさが、フェルナンドにはさながら般若に見えた。さしも老練な大公も策を練る余裕を奪われ、ヒロの言葉に彼は無条件に従うしかなかった。
『どけ! 道をあけろ!』
 シュワルツとジプシーたちが前を行き、警備兵はじりじりと下がった。ヒロの背後ではロゼがダガーを構えていたが、その時彼は柱の影に身を潜め弓矢を引き絞っている敵兵を見つけ、狙い定めてダガーを投げた。ぎゃっ!と叫んだ足元に武器と小指が落ちた。
 大公を人質にヒロたちは廊下に出、ついに宮殿の外に出た。術もなく攻めあぐねている兵士たちにロゼは、
『小型馬車と馬を用意しろ! 早くするんだ、大公の命が惜しくないのか!』
 警備兵は唇を噛んで大公を見たが、フェルナンドは兵を指さして、
『め、命令通りにするんだ! 急げ!』
 馬車と馬は即座にそろえられた。
 敵兵が遠巻きにする中で、ジプシーの青年とジョアンナが御者台に乗った。シュワルツは油断なく短剣を構えたまま、バリリと馬車の扉を蹴破り、向こう側も同様にして車内を筒抜けにした。こうすれば周囲がよく見えて、狙われる危険が減るからである。
「さっ、早く乗れ陛下!」
 彼はヒロを促した。ヒロはフェルナンドを先に押し込み、すぐに剣を突きつけた。馬車にはもう1人ロゼが乗り、残りのジプシーたちは全員馬に股がった。シュワルツは馬車の後部に立ち、
「ようし、全速力でやれ! かなり揺れっけど振り落とされんじゃねぇぞ!」
 ビシリ、とムチが鳴り馬車は走り出した。
 
 鎗を持った5人の兵士が、ザクザクとルージュに近づいていった。処刑の時刻が近いのを知って、集まっていた者たちは皆残忍な笑いを浮かべた。ルージュの首と両手首を戒めていた板が外され、胴と杭を結んでいた縄が切られた。ぐらりと傾く体を2人の兵士が左右から押さえ、あとの3人は持ってきた棒で十字架を組み始めた。
 地上から60センチほどの高さに足幅分の板がくくり付けられ、その下には丸太と枯れ草が積み上げられた。からからに乾いたそれらに油を注ぎ火をつければ、炎はたちまち悪魔の体を包み生きたまま滅ぼすに違いないと、群衆は期待に胸ふくらませた。太い鎖が取り出され、ルージュの痩せ細った手首に巻きつけられた。
 
「あれだ! あれが司祭広場だね!」
 御者台でジョアンナは叫んだ。高台にかかった馬車の行く手正面に、中央に石塔の立った広場が見えてきた。
「もうすぐだよプチ! この坂を下れば目の前さ!」
 身を乗り出して彼女は車内に怒鳴った。
「よし、もっと飛ばせ! 一気に駆け降りて突っ込んでくれ!」
「駄目だよ馬鹿だね! そんなことしたら車輪がはずれちまうだろ! 速度を落とすよ、いいねっ!」
 ジョアンナに指示された青年は巧みに手綱を操って、危険のない速さまで馬の足を緩めさせたがその時、ジョアンナとの会話でヒロの目がほんの一瞬離れた隙に、フェルナンドは彼を突き飛ばし自ら馬車の外へ転がり落ちた。
「しまったっ!」
 ロゼは悲鳴を上げたが、その時ヒロの体はもう車内になかった。彼は水にでも飛び込むが如く、逃げるフェルナンドの背中を追って床を蹴っていた。
「停めろーっ! 停めろジョアンナ! ヒロがぁっ!!」
 枠だけの戸口に腕を突いて身を支え、ロゼは声をふり絞った。馬たちのいななきが聞こえ馬車は停まった。ロゼとシュワルツは飛び降りた。
「ヒローっ!」
 どこにも姿がないと見えたのは一瞬で、ヒロとフェルナンドは土手状になったその道の脇の、草むらの中を滑り落ちていった。
「てめぇっ、この期に及んで逃げられると思うかぁ!」
 ヒロは両手両足で大公の体にかじりついた。たちまちヒロの薄物は裂け、裸足の足を草が切った。フェルナンドも死に物狂いだ。足が手がところ構わずヒロの体を打った。
「陛下っ!」
 シュワルツは草の海に身を踊らせたが、ロゼは背後の道を見て慄然とした。敵騎馬兵が追ってきている、しかも一斉に火矢を構えて。大公を人質に取っていたからこそ奴らは攻撃できなかった、盾を失ったが最後あの矢がヒロに襲いかかる、こちらはほぼ丸腰に近く防ぐ手だては何もない―――
(これが最後か!?)
 氷に似た戦慄がロゼの脊髄を貫いたが、
「伯爵っ! あれ! あれ見とくれよ!!」
 御者台から絵も言えぬ叫びが聞こえ、彼はジョアンナの指さす方を見た。
 深紅の大旗が、夕日に翻っていた。掲げる騎馬兵はあきらかにエフゲイア人ではなかった。大軍のたてる土埃と地響き。みるまに輪郭を濃くしたその姿は、
「――ヴォルフガング!?」
 ロゼは馬車の前に駆け出た。わぁぁ、と閧の声が聞こえた。
「シュワルツ! 味方の軍だ! ヴォルフガングだ!!」
 ロゼは歓喜の声を上げた。
 馬車を追ってきたエフゲイア兵たちも、当然その来襲に気づいた。先頭を駆けていた男・ルイダ将軍は、馬車まであと50メートルという距離で全兵の足を止めさせた。彼の視界の中でヒロは、草で石で傷だらけになった体をぜいぜいと荒くはずませ、気絶しかけている大公を後ろ手に押さえつけて、道に這い上がってきたところだった。ぎらぎらと燃えたぎる目でヒロはルイダを睨んだ。その腕をロゼは掴んだ。さしもの彼も頬を紅潮させ、
「ヒロ、ヴォルフガングだ! 見ろよあの大軍を!」
 荒い息のまま、ヒロは振り返ってそれを見定めると、切れた唇から口中に流れ込む血をべっ!と地面に吐き出した。
「よし…。じゃあここはシュワルツにまかす。こいつはお前が預かっとけ。」
 ふらふらの大公を押しつけられて思わずロゼがよろめくうちに、ヒロは傍らの馬の背にひらりと股がった。
「おいっヒロ!」
 ロゼの呼ぶ声を後ろに蹴り、馬はいななき走り出した。坂を駆けのぼってきた味方軍の横を疾風のようにすりぬけながら、
「元帥を助けに行く! 来たい奴はついてこい!」
 声を聞き取った兵士たちは即座に馬首を反転させ、たちまちに100騎ばかりがヒロのあとに続いた。
「ルージューっ!!」
 ビシッと馬に鞭を入れヒロは彼方に叫んだ。ぼろぼろに破れた薄物は夕日を透かして火炎と化した。きりきりと風にとけ火の粉をこぼち、やがて大きな燃える翼がヒロの背で羽ばたき始めた。彼の馬は闇を裂く彗星、あやつるのは黄金の髪の…――見よ、いま彼は天翔ける不死鳥。風を従え光を靡かせ、翔ける、彼は翔ける、信じる1人の友のもとへと。
 下り坂が尽きると広場が見えた。半裸の青年を先頭に駆け込んできた大軍に怯え、群衆は悲鳴を上げて散った。ヒロの目が十字架のシルエットを捉えた。縛られているのは間違いない、ルージュその人であった。
「やめろーっ! 下ろせ! その十字架おろせーっ!」
 ヒロは怒鳴り、広場の中央に馬を突進させた。十字架を囲んでいたエフゲイア兵たちは群衆の悲鳴に驚いて振り向いたが、目の前に駆け込んできた青年の異様な風体に呆然とした。しかし何者か、と思ったのは瞬時のことで、はっとした時には彼らの体は地面に叩きつけられていた。人波をまっぷたつに駆け込んできた騎馬軍団が、彼らの鎗をはじき飛ばし馬ごと体当たりしてきたからであった。
「ルージュっ!」
 ころげ落ちんばかりにヒロは馬を下り、十字架にすがりついた。両手両足を黒い鎖で繋ぎとめられているルージュは、首を深く前に垂れてぴくりとも反応しなかった。
「誰かぁっ! これ外せこれ! ルージュが、ルージュが死んじまうよぉ!」
 彼の足首を戒める鎖に手をかけ、ヒロは味方兵に命令というよりは懇願した。
「元帥閣下!」
「閣下っ!」
 数人が群がり手を伸ばし、まず足の鎖を外した。十字架の丈は高く腕の部分には背が届かないので、1人が四つん這いで台になり、もう1人がそれに登って鎖をほどいた。
 抱えおろされたルージュの体を、ヒロは泣きながら揺さぶった。
「ルージュ! 返事しろルージュ! 助けに来たんだ、お前を助けに来たんだよぉ! 頼むから何とか言ってくれルージュ! 目ぇあけてくれよぉ! ルージュぅぅっ!」
 がくがくと首を揺らされ、亜麻色の髪が跳ねた。かすかに眉が動いた気がしてヒロは目を凝らした。う…と短いうめき声が聞こえた。
「ルージュっ!? 判るか? おいらだよルージュ! ルージュ!」
 十字架に掛けられた時からルージュは、魂が体の中でふわふわしだすのを感じていた。痛みも寒さももはやなく、石つぶては羽毛のさざめきとなり、罵声は妙なる音楽に聞こえた。死ぬというのはこういうことか、案外楽なんだなと彼は思った。
 漂う音楽はやがて歌声になり、うららかな笑い声に変わった。見るとぼんやりした光の中で、白い手がしきりに自分を招いていた。そうかあそこへ行けばいいんだ、この川を飛び越えて向こう側へ。ルージュは目測であたりをつけ、此岸(しがん)を蹴るべく身を屈めた。
 ふと、彼の耳が何かを捉えた。春風にたわむれる小鳥のような笑い声の中に、奇妙に調子の違うものがあった。
(ルージュ! そっち行くなルージュ!)
 彼を呼ぶ声は他にもあったが、その1つは低くざらついていて、白い沈黙に覆われようとしている湖を、必死でかき回す櫂に似ていた。
(うるせぇな…。)
 ルージュは背を伸ばし振り返った。そちらには何も見えなかったが、闇の中でぴしゃぴしゃとばたばたと、まつわりついてくるものがあった。何だろう、と彼はいぶかしんだ。このしつこくうっとおしい、だが暖かい手は誰のものだ。そう思うと無性に気になりだして、確かめようと開いた目に映じたのは、
(…ヒロ?)
 なんでこいつがここにいるんだと思ったとたん、全身を切り刻まれるような激痛に襲われ、ルージュは顔をしかめた。
「聞こえるか!? ルージュ! ルージュってばよぉぉ! 返事してくれよ頼むからぁ!」
「…」
 ルージュはさらに眉根を寄せた。じっとしていても痛い体をこうもがくがく揺らされたのでは、
「…っつの…」
「えっ! なにっ! 何つったルージュ! えっ!?」
 ヒロは耳を近づけた。ルージュの声が言った。
「痛ぇ、つの…。何だお前のそのかっこ…。」
「ルージュ…!」
 ヒロの目からぼろぼろと涙が溢れ出した。
 ようやく確かめ得た血潮のぬくもりを抱きしめて、ヒロは声を殺して泣いた。王者と貴人の抱擁を、厳粛なものとして護衛していた兵士たちの背後に、その時1台の馬車が停まった。前後左右をぐるりと武装兵に取りまかれた中、降り立ったのはフェルナンドとロゼだった。フェルナンドは観念の表情であった。
「ヒロ。」
 道をあけた兵士たちの間を通り、ロゼは呼びかけた。彼にとってもルージュは親友、ヒロとともに泣きたいのは山々だったが、彼には総参謀長としての務めがあった。涙でくしゃくしゃの顔でヒロは振り返った。ロゼはうなずいた。為すべきことに気づいてヒロは、手の甲で涙を拭き立ち上がった。
 向かい合う君主2人の間に、ロゼは1枚の書類を手に歩み入った。習わし通りの誓紙に2か国語で記された文字は、
『降伏ならびに停戦の宣言書です。エフゲイア公国は我が国に、一切の条件なくして降伏する。その旨受諾するならば、ここにサインをして下さい。…あなたの血でね。』
 ロゼは兵士に合図をし、台となる石盤を捧げ持たせた。フェルナンドは書面を見、ロゼの差し出す手に右人差し指を預けた。鞘から抜きとった短剣で、ロゼはその先端を撫でた。
「サインを。…君もだ、ヒロ。」
 えっ、という顔をしたヒロはすぐに表情を改めて、ロゼの短剣に自ら指を近づけ、にじみ出る血ではっきりとLiebensweltの名を記した。
『エフゲイアの民に告ぐ!』
 頭上高々と誓紙を掲げ、ロゼは広場を遠巻きにしている群衆に向かって言った。
『大公フェルナンドは我が国王、リーベンスヴェルトに全ての権利を委ねた。これよりこの国は我々の支配下に入る。―――ただし!』
 どよめく群衆を片手で制して、ロゼは話を続けた。
『我々は君たち民衆に、決して手出しはしないと誓う。君たちの暮らしは脅かされない。戦さになる前の平和な日々を約束しよう。だから無意味な抵抗をせず、これからは我々に従ってほしい。詳細は追って触れを出す。安心して、それぞれの家に帰るように!』
 ざわついていた群衆は、とにかく自分たちに危害は及ばないと悟って、ぞろぞろと帰宅を始めた。無抵抗のフェルナンドにロゼは言った。
『では、王宮に戻りましょう。これからのことをご相談したい。』
 促されるままフェルナンドは馬車に乗った。ロゼはヒロに、あとで来いよと表情で告げ、車内に姿を消した。ヒロは空を仰いでから、ルージュを振り向いた。彼は静かに気を失っていた。
 

第3楽章 主題3に続く
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