奥歯を噛んで

 定例の評定を終えた政宗は、午前の執務を開始する前に一度自室に戻ろうと、廊下を歩いていた。形式張った評定では裃まで着けているが、量をこなさなければならない書類仕事はこんな窮屈な格好では話にならない。さっさと着替えてしまうに限る。

 半歩後ろには、小十郎がついてくる。いつもの位置、いつもの距離。その気配に、ふと政宗は絶対的な安心感を得て、目元を緩めた。

 この安心感に身をゆだねられる幸せに、何も考えずに溺れてしまえたら、どれだけ幸せだろう? 決してできないことだけれど、そう想像することくらいは許してほしい。政宗は頭の片隅で、小十郎の気配に溺れる。

「あ…」

「あ」

 ふと小さな声が聞こえて、政宗の意識が呼び戻される。声のほうに視線を向けると、主君が通るのに気付いた女中たちが、廊下を譲り、端に平伏するところだった。

 きちんと教育された御殿女中が、無作法をすることはあり得ない。作法通りに頭を下げる彼女たちは完璧だ。だが、政宗はそれが気に入らなかった。心で何を考えているかわからない奴らの上辺が完璧なんて、得体が知れない。

 表情一つ変えず、彼女たちの前を通り過ぎる。女中たちなど、相手にするほどの価値もない。その毅然とした態度を崩すほどの力など、彼女たちは持ちはしない。その事実を、表情にも態度にも表していなくとも、周囲に悟らせるには充分すぎるほどの威厳を纏って。

 政宗に続いて、小十郎も彼女たちの前を通り過ぎる。悠然としたその歩調に、彼女たちの気分が高揚しているのを、政宗は気配で察していた。

 Shit!

 政宗は、彼女たちが何を考えているのか、わかっていた。小十郎に憧れているのだ。あの逞しい腕に焦がれているのだ。

 そうわかるのは、政宗自身も小十郎に密やかに恋しているからに他ならなかった。だから、小十郎がすぐ目の前を通り過ぎていくことに彼女たちが胸を高鳴らせていると、知っている。

 いまだって、面を上げた彼女たちが小十郎の背を目で追っていることくらい、確かめるまでもない。その確信が、余計に政宗の逆鱗を刺激する。完璧な作法を身に着けた彼女たちが、主君に悟られるくらい小十郎に視線を向けるとは、いったいどれだけ小十郎に興味を持っているのか。

 政宗が8歳の時から傅役として傍にいる小十郎は、ただ誰よりも信頼できる存在だった。それは、右目を失う前、政宗がまだ藤姫と呼ばれていたころのこと。疱瘡を患って右目を失い、姫としての人生を捨てても、小十郎は変わらずに仕えてくれた。藤姫から政宗と名を改め、女の身で伊達家当主を継ぎ、奥州筆頭として名を上げていくときも、小十郎が誰より近くで支えてくれた。そして、いつしか政宗は小十郎に恋をしていた。

 女中たちは当然、政宗のそんな感情など知らない。だから単純に、小十郎に憧れているだけだ。頭ではそう思う。けれど、自分の容姿に劣等感を抱いている政宗には、彼女たちの小十郎への思慕は、侮辱でしかなかった。

 右目のない醜女。女の命である髪も肩先でざんばらに斬り捨てている。あまつさえ、女だてらに馬に乗り、刀を振るい、戦を指揮する。女にあるまじき女。

 たとえ男であっても容易くできることではない奥州筆頭としての功績を見ることもなく、外見が一般的な基準を満たしているか否かだけで下される評価。

 女性としての嗜みをすべて備えた彼女たちが、常に政宗の傍らにある小十郎に憧れるということは、つまり、政宗をそのように侮蔑しているのだとしか、考えられなかった。政宗は、ぎり、と奥歯を噛み締める。

 自分の右目が潰れていなくて、姫君らしく髪を伸ばして結って、おとなしく城の奥に収まっていたなら、彼女たちが主君に遠慮もせずに小十郎に憧れることなど、なかったのだろう。そう思うと、腸が煮えくり返るほど悔しい。だが同時に、伊達家の姫でありながら奥州筆頭として戦場に立っているからこそ、小十郎が自分以外に目を向けないのだということも、わかっていた。

 ならば、奥州筆頭としての己を貫くと、決めたのではなかったか。

 決めたと言いながら、女中たちのささやき一つ、視線一つに心を乱されるなど、まだ覚悟が甘いとしか言いようがない。そんな自分の弱い心もまた悔しい。

 噛み締めた奥歯が、ぎぎっと音を立てる。その瞬間、武骨な手がふわりと政宗の頬に触れた。

「政宗様。それ以上されては、歯が割れます」

「……小十郎」

 はっとして、政宗は背後を振り向く。歯が軋む音を聞きつけた小十郎が、半歩離れた距離を詰め、政宗の頬に手を当てて、気遣わし気に政宗を覗き込んでいた。

「お考え事でしたら、お独りで思い悩まれず、この小十郎にお話しください。歯が割れるほど噛み締めては、顎までおかしくなってしまいます」

「…Sorry. 気を付ける」

 そっと小十郎の手を外させて、政宗は苦笑する。いや、苦笑してみせる。この状況でほかの表情など見せれば、小十郎に不審がられる。

 いつのまにか、目的地である自室の近くまで戻ってきていた。先ほど小十郎の姿を見て色めき立っていた女中たちの姿ももうない。我に返り、冷静になった政宗は隻眼をひとつ瞬いて、いつも通りの仮面を被り直す。

「さっさと着替えて、午前の政務に取り掛かるとするか。小十郎、なにかでかい案件は入ってるか?」

「いまのところは、取り立てて大きなものはありません。いくつか陳情が上がっていますが、それはまた執務室でご説明します」

「I see. そんじゃ、着替えてくるぜ」

 侍女が部屋の障子を開けるのも待たず、政宗は自分ですらりと戸を開けると、中に足を進める。

 さすがに、着替えには小十郎は入れない。小十郎は廊下に膝をつくと、部屋に入る主君に頭を下げた。

 たん、と軽い音がして、障子戸が閉まる。自分の気配が戸に遮られているのを確認して、小十郎はきり、と奥歯を噛んだ。

 本当は、大きいと言えば大きな陳情が、政宗の執務室に届けられているはずだった。それは、小十郎の本心では、政宗に見せたくない案件だ。だが、一家臣の身で、できる抵抗と言えば、その存在を政宗に知らせる時をほんのすこしだけ遅らせることくらい。

 自身の無力さに、小十郎はきりきりと奥歯を噛み締めて耐えた。


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