ただいまは苺の甘さ

 とんとんとんとん!

 廊下に響く音を聞きつけて、愛姫は首を傾げた。

 聞こえているのは政宗の足音だ。いつもと違うのは、その足音がいつになく荒いことと、そこに重なるもうひとつの足音がしないこと。音が荒いのは、愛姫でもなければ気付かないだろう程にかすかな、わずかな違いだが、足音が一つきりなことは誰にでもわかる違いだ。

 一体何があったのだろう?

 喧嘩をしたとしても、小十郎が政宗に着き従わないことはあり得ない。だから、政宗が一人きりでいるということは、小十郎になにかあったからだろうと見当はつくけれど……。

 考えているうちに、政宗が部屋の前に来ていた。

「殿、ご機嫌麗しゅう」

 愛姫がさっと立ち上がり、上座と褥を譲ると、政宗は無言のまま部屋に入って腰を下ろした。愛姫は侍女にお茶の支度を言いつけると、五郎八姫の乳母にもしばらく戻ってこないよう使いを出した。

 手際よく人払いをする愛姫に構わず、政宗は物思いにふける顔で黙っている。愛姫は侍女が運んできたお茶を受け取って下がらせると、根気強く政宗の言葉を待った。

「愛は、俺が合戦に出ている時、いつもどうしている?」

「そうですわね……いつもどおりですわ。お庭を眺めたり、書を読んだり、お茶を点てたり。あとは、できるだけ城下に出かけるようにしていますわ」

 思い出すように言葉を探した愛姫は、すぐにすらすらと普段の行動を上げていく。だが、らしくもなく外出を増やすという言葉に、政宗は視線で、どういうことかと説明を促した。

「城下の商人が周辺国の状況をよく知っていますのは、殿もご存知でございましょ? ですから、噂を聞きに出かけるのですわ。黒脛巾組が掴んでいる情報とは、違う話が聞けますのよ」

 にっこりと微笑む愛姫は、伊達家の女主人の貫録充分だ。〝女主人〟としては、愛姫に一日の長があった。愛姫の余裕たっぷりな様子に、政宗は苦笑いを零す。

「さすがに慣れたもんだな」

「それはもちろんですわ。留守居は何度も致しておりますもの。……殿のご無事を祈りながら待つのは幾度経験しようと辛いことですけど、信じて待っていればかならず殿はお帰りになりますでしょ。耐えられないことではありませんわ」

「信じていれば帰ってくる、か……。そうだな」

 愛姫の祈りと信頼が籠った言葉は、当たり前のように語られた分、余計に強く政宗の心に響く。かみしめるようにうなずいた政宗の様子に、愛姫はふと気づいた。

「もしかして、片倉殿は合戦に……?」

 問いかけに、政宗は無言でうなずいた。

「殿はご出陣なさいませんの?」

 もう一度、政宗はうなずく。愛姫は胸騒ぎに近い違和感を覚えて、問いを重ねた。

「殿がご出陣なさらないのなら、大した戦ではないのではありませんの? 片倉殿も、すぐにお戻りになりますのでしょ?」

「……わからねえ」

 そうだと答えが返ってくるはずだと思っていたのに、政宗が口にしたのは違う答えだった。思わず表情を強張らせる愛姫に、政宗は険しい表情で畳を睨みながら続ける。

「本当なら、小十郎に大将なんざ背負わせるはずじゃなかった。けど、俺はまだ伊達の跡目を産んでねえ。もし、兆しがねえだけで身籠っているんだとしたら、合戦に出ていいわけがねえ。そう言われたら、小十郎に託すしかなかった……」

 政宗の許にその知らせが届いたのは、もう数日前のことだった。小規模とは言え、所領の境界を争う戦となれば、きちんと軍を出して治めなくてはならない。諍いが起きていることが報告されたその場で、政宗は出兵を決断した。

 そこで上奏されたのが、政宗は出陣を控えるようにという要望だった。日々睦まじく過ごしている小十郎と政宗の間に子ができている可能性は高く、身籠った兆しが遅れることはよくあること。ならば、兆しがないからと言っていま出陣していい理由にはならず、政宗は城に残るべし、というのが重臣たちの言い分だった。

 それでも、政宗は大将の責任を小十郎に肩代わりさせる気はなかった。そう言おうとした政宗を止めたのは、他でもない小十郎だった。それで政宗が万が一でも流産などということになれば、跡目も問題だが、何より政宗の身が心配だ……と、小十郎は視線で政宗を制し、出陣を承知したのだった。

「小十郎なら、俺の名代くらい、やってのけることはわかってる。けど……俺の名代背負わされて、小十郎が半端な真似をするはずがねえ。それでどうやって心配しねえで待ってろって言うんだ……」

 政宗が合戦の留守居をするのは、これが初めてだった。無事を祈って待つだけの身の辛さを、政宗は初めて味わっているのだ。幾度も経験している愛姫でさえいまだに平気になどなれないのに、初めて愛しい男を戦に送り出した政宗が平然と耐えるだなんて、難しいことだった。

 それでも、政宗は少なくとも家臣たちの前ではそんな様子を微塵も見せず、恐怖を耐え抜いたのだ。この人はやはり竜だ、と愛姫は思う。

 苛立ちをこらえるようにぐしゃりと髪をつかむ政宗の手にそっと手を重ねて、愛姫はにこりと微笑む。

「愛?」

「大丈夫ですわ。わたくしの知っている片倉殿は、殿が城で待っていることを知りながら無事に帰還しないような、そんな中途半端な方ではありませんもの」

「愛……。……Well. That's right.」

 愛姫の笑顔につられるように、政宗の表情も緩む。政宗だって、小十郎が無事に帰ってくることは信じている。それでも、万が一を考えてしまうのは止められなかった。戦では〝万が一〟が当たり前のように起きる。愛姫の言うことは、合戦に出たことがない第三者だから言える楽観視だ。だが、他の誰かならともかく、愛姫が言うから素直にうなずけた。それは、愛姫自身がいつもそう信じて政宗の帰りを待ってきたから。そして、政宗にとっての小十郎の存在の重さを愛姫は知っているからだ。

 政宗の表情に余裕が戻ったことを確認した愛姫は、いたずらっぽく付け加える。

「それに、殿がこんなに片倉殿の無事を案じていると知ったら、きっととても喜びますわ」

「……What?」

「殿が留守居をなさるのは、今回が初めてですものね。いつもはお二人一緒に出陣なさいますから、お独りで留守居する殿がどんなに片倉殿を案じるか、片倉殿はご存じありませんでしょ? 教えて差し上げなくては」

 そんなことをしたら、小十郎は『家臣に合戦を命じる主君としての心構え』を延々と説教することだろう。それはご免被りたい。

 思わず絶句した政宗に、愛姫は内心で「あらまあ」とつぶやいた。愛姫は、それを知った小十郎はきっと幸せそうに微笑んで政宗を抱きしめるだろうと、思ったのだけれど。




 数日後、小十郎は無事に合戦に勝ち、諍いを治めて帰ってきた。

 城表で帰還の挨拶を済ませた小十郎は、戦の疲れをゆっくり癒せという勧めに従って自室に戻る。

 差料を刀掛台に置いた小十郎は、気疲れするからと小姓を下がらせ、自分で戦支度を解いて着物に着替える。

 ちょうどその頃を見計らったかのように、すらりと障子が開いた。

「……政宗様」

 合戦の後片付けで多忙なはずの政宗がそこにいて、小十郎は困惑する。傅役としては務めを放り出してきたことを咎めなければならなかったが、夫としては妻が会いに来たことが嬉しかった。

 どちらを先に言おうかと小十郎が迷った隙のことだった。

 政宗が飛びかかるように抱きついてきて、勢いに押された小十郎は政宗もろとも後ろに倒れる。

 とっさに政宗の身体を抱き込んでかばったが、倒れた衝撃は多少あっただろう。小十郎は政宗を抱えたまま身を起こして、顔を覗き込む。

「政宗様、なんという無茶を」

「お前、戻ってきて最初に言うのがそれかよ」

 恨めしげに小十郎を見上げる政宗の答えを聞いて、小十郎は面食らう。

「先ほど、帰還の挨拶をいたしましたが」

「あれは軍大将の挨拶だろ? 俺のdarlingからはまだなにも言われてねえぞ」

 それは確かにそうだった。小十郎は政宗が『どちら』を求めてここまで来たのかをようやく知る。

「それは、ご無礼を……。後程あらためて、愛姫様や五郎八と一緒に場を設けるのかと思いましたもので」

 言いながら、小十郎が政宗をぐっと引き寄せて膝に乗せ、包み込むようにすると、政宗は嬉しそうにその胸に身を預けた。

「愛や五郎八と一緒だと、こういうことができねえじゃねえか」

 小十郎にすっぽりと包まれている政宗は、小十郎の心音を確かめてひどく安心する。小十郎が合戦に出ると決まった日からずっと、この温もりとこの音がたまらなく恋しかった。自分の許に右目が帰ってきたのだと、心から実感する。

 愛しい隻眼の姫竜が腕の中でこの上なく機嫌よく微笑む姿を見て、小十郎もようやく帰ってきた実感を覚えた。離れていることでこんなに空虚な感覚を味わったのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。

 小十郎と政宗は、いつまでも奥御殿に夕食を摂りに来ない二人を心配した愛姫が探しに来るまで、その部屋でそうしていた。


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