綺麗な嘘はいやだけど、優しい嘘ならいやじゃない 02

 その日、小十郎はたまたまいつもより早い時間に帰宅していた。

 自室にカバンを置き、私服に着替えて、まだ政宗は大学だろうと予想しながらリビングに入ると、案の定留守のダイニングテーブルの上に、リングケースが置いてあった。

 なぜこんなところにリングケースがあるのだろう? 疑問のままにケースを手に取り、開けてみる。中には、小十郎が政宗に贈ったサファイアとエメラルドのリングが収められていた。

 政宗は外出するときには必ずこのリングをつけていた。置いていくということは、なにか理由があってのことだろう。

 メンテナンスに出すつもりなのだろうか? 手に取ってみるが、リングには歪みも目立つ傷もなく、石留めも緩んではいない。大切に扱われていることが一目でわかる状態だった。メンテナンスが必要とは思えない。

 いったいどうしたのだろう? 疑問は消えないが、このまま首をひねるばかりでもいられない。小十郎は夕食の支度に取り掛かった。

「ただいま」

 政宗が帰ってきたのは、小十郎がゴボウとひき肉のカレーを仕上げた頃だった。

 まっすぐにキッチンに向かってきた政宗は、ソムリエタイプのエプロンをつけた小十郎にぺたりとくっついて、その肩越しに鍋を覗き込む。

「今日は帰りが早かったんだな。美味そう」

「外出先での会議が予定より早く終わったんです。小十郎が夕食を用意して政宗様をお待ちするのも、いいものですね」

 言いながら、小十郎は小皿にすこしカレーをすくって、味見を差し出す。政宗は小十郎にくっついたまま、差し出す手ごと小皿を持って、口に運んだ。

「うん、美味い。すぐカバン置いてくる」

「はい。ちょうど米も炊けました」

 急いで自室に飛び込む政宗の後姿を見送って、小十郎は考え込むように視線を落とした。

 政宗の指には、リングが一つもなかった。そしてそれを、政宗から話題にしなかった。

 理由なく小十郎のリングを外しているとは思わない。だが、その理由がなんなのか、小十郎には見当がつかなかった。それが小十郎の心にうすい靄としてわだかまった。

 靄の答が分かったのは、数日後のことだ。

「やっほー、片倉の旦那」

 奥州ホールディングスが入っているオフィスビルのロビーで、小十郎は軽妙な声に呼び止められた。振り返ると、ビジネスショルダーを肩にかけた佐助が手をひらひらと振っている。

 さすがに周囲の耳があるところでは佐助も『右目の旦那』とは呼べない。同様に小十郎も『忍』とは呼べない。

「猿飛」

「旦那、いまから外出? 俺もちょうど商談終わったとこなんだけど、コーヒーでもどう?」

 政宗たちと違って、小十郎と佐助は友人同士ではない。偶然行き合わせたからと言って、どこかにしゃべりに行くようなことは、したことがなかった。その佐助が誘ってきたのだから、なにか意味があるのだろうと察して、小十郎はうなずく。

「食事しながらでも構わねえならな」

「なんだ、いまから昼休憩だったんだ。オッケー」

 佐助は先に立ってフロアの一角にあるダイニングカフェに入り、コーヒーを手に席に着く。遅れて小十郎が向かいに座ると、佐助はさっそく口火を切った。

「悪かったね、休憩行くはずだったのに時間もらっちゃって」

「問題ない。なにか食えればそれでいい」

 言われて見ると、コーヒーの他にややボリューミィなサブマリン・サンドウィッチがトレイに乗っていた。これが昼食かと、時刻的にも量的にも、他人事ながら佐助は気が遠くなりそうになる。

「それが昼飯? それだけでよく持つね」

「あまり食いすぎると、考えが回らなくなるからな。悪いが食うぞ、話ならかまわず始めてくれ」

 時間に余裕はない小十郎は、佐助にかまわずにサンドウィッチに噛みつく。佐助は「どうぞ」と手振りで示すと、自分もコーヒーに口をつけた。

「別に、そんな大げさな話でもないんだけど、聞いちゃった後に片倉の旦那に会ったら、なにも挨拶しないわけにもいかないかな~って話でね」

 サンドウィッチを咀嚼する小十郎は、目顔で話の先をうながす。佐助はさらりとした口調で先を続けた。

「いやぁ、真田の旦那から、独眼竜と付き合うことになったって聞いたもんだから……」

 ごふっ!

 佐助が言い終わらないうちに、小十郎はむせた。根性で口の中のものを吹き出さず、喉に引っかかったパンを水で流し込む。

「なんだその話は!?」

「うそぉ、旦那、知らなかったの!? うわーごめん俺様、余計な話した?」

「いまさら遅い! いいから全部話せ。政宗様と真田がなんだって?」

 思わず声を荒げた小十郎を、ダイニングカフェの他の客たちが振り返る。声が大きいとジェスチャーしながら、佐助は声を潜めて説明した。

「いや、だからさ、真田の旦那が独眼竜と付き合い始めたって。旦那が挙動不審で問い詰めたら、そういうことになったって言うからさー。片倉の旦那と独眼竜が別れるとか、想像つかな過ぎて、真田の旦那の言ってることがいまいち腹に落ちなかったけど、まぁた旦那の無茶を聞いてもらったんだとしたら、俺様としても挨拶しとかないわけにいかないでしょ? ……でも、その分じゃ、片倉の旦那も知らない話だったんだ?」

「当たり前ぇだ。政宗様が真田と付き合うと聞いて、どんな事情だろうと俺がそれを許すと思うか!?」

「ちょっとぉ、俺に極殺るのやめてくれる? だいたい、そうは言っても、独眼竜はもう真田の旦那のわがまま聞いてくれちゃったわけだし」

「……っ!」

 苦々しげに舌打ちして、小十郎は黙る。気まずい立場の佐助は、自分から話を続けることも、かと言って立ち去ることもできずに、おとなしくコーヒーを飲んだ。

 小十郎がサンドウィッチを食べ終え、コーヒーを飲んで一息ついた頃だった。

「俺が言うのもおかしいかもしれないけど、最初に真田の旦那から独眼竜と付き合うことになったって聞いたとき、これでも一応、心配したんだぜ? 奥州の双竜が、そう簡単に別れるとは思ってない。それが別れたんだとしたら、尋常じゃない事態にでもなったのかと思ってさ。結局、真田の旦那が迷惑かけてるらしいってのは申し訳ないけど、片倉の旦那と独眼竜になにかあったんじゃなかったのはよかった。安心したよ」

 真面目な声で佐助に言われて、小十郎も幸村に対するいら立ちがすこし和らぐ。自分が知らなかったのは、幸村のせいではない。政宗が言わなかったからだ。そして、政宗が自分にこの話をしなかったのにも理由があるのだろう。

 空になったコーヒーのカップをトレイに戻して、小十郎は顔を上げる。

「気を遣わせて、すまなかった。礼を言う」

「大丈夫、旦那?」

「なにに対しての『大丈夫?』か知らねえが、心配には及ばねえ。上った血も下りた」

 こうなった小十郎は大抵のことには動じない。戦国の頃から変わらないクールダウンの速さは、いつ見ても背筋が震える。佐助がつい口にした心配の言葉も場違いなほど、小十郎はすでに落ち着ききっていた。

「役に立てたんなら、よかったよ」

 クールダウンの速さが小十郎の身上なら、引き際の良さが佐助の身上だ。にやりと微笑んだ佐助は、空になったカップを乗せたトレイを持って立ち上がった。

「それじゃ、俺様はこれで」

「ああ。情報に感謝する」

 佐助を見送った小十郎は、腕時計を見ると自分も席を立った。




 帰宅した政宗は、自室に入ってカバンを置くと、いちばんに小十郎からもらったリングを左手の薬指に嵌めた。

 リングをせずに大学に行くようになって、そろそろ1週間になる。最初の頃こそ、リングの重みがない左手がフワフワして気持ちが悪く、ふとした拍子にリングが指にないことに慌てて、なんとも落ち着かなかったが、ようやくリングをしていない左手にも慣れ始めていた。

 それでも、帰宅したらすぐにリングを指に通さないと、気持ちが休まらない。食事の支度をするときには石によくないので外さなくてはならないが、それはそれでこれはこれだ。

 ぴったりと指に納まったリングを一瞬だけきゅっと抱きしめると、政宗は夕食の買い物をするためにマンションを出た。

 買い物を終えて帰宅すると、小十郎が帰ってきていた。政宗が戻ってきた気配を察して、私服姿の小十郎が自室から出てくる。

「おかえりなさいませ、政宗様」

「おかえり、小十郎。早かったな」

「今日は定時で上がりました。政宗様。お話があるのですが、よろしいですか?」

「話? 夕食の支度しながらでもいいか?」

「できれば、落ち着いて話したく。夕食は後でいいですから」

「ふぅん? わかった。とりあえず、すぐに冷蔵庫に入れた方がいいものだけ、しまってくるから、ちょっとだけ待ってくれ」

「承知しました」

 買い物用のエコバッグを持った政宗は足早にキッチンに入っていく。要冷蔵の生鮮品だけ冷蔵庫にしまうと、キッチンから自室に向かって、コートを脱いでからリビングに戻る。そして、ソファに座っていた小十郎の隣に座った。

「どうした、小十郎?」

「真田の忍に会いました」

「そうか」

 小十郎が全部知ったのだと悟るには、その一言で充分だった。

「事情は聞きますまい。然るべき事情があって、そうされたのでしょう。小十郎にお話にならなかったのも、政宗様が小十郎を気遣ってのことと見当はついています」

 穏やかな小十郎の声が確かな信頼にあふれていて、政宗は安堵の微笑みを浮かべる。小十郎が許してくれたこと。小十郎が信じてくれていたこと。どちらもが、とても嬉しくて、とても心地いい。

 ほっとした政宗の手を、小十郎の手が優しく握る。

「ですが、お話しくださってよかったのですよ」

「小十郎?」

「真田を恋人と偽るなど……お辛かったでしょうに」

 それは、嘘を吐かねばならなかったことに対してではなく。小十郎以外を恋人と言わなくてはならなかったことに対してでもなく。

 無二の親友との関係を偽らなくてはならなかったことに対しての言葉だった。

 一国を統べる国主であれば、一軍を率いる将であれば、嘘もまた戦術の一つと割り切り、用いるに長けていて当然。とは言え、政宗が幸村を尊重し、幸村との友情を誇りに思っていればこそ、幸村を恋人だと言うことは、楽な嘘であるはずがなかった。

 不意打ちのような、でも心のどこかで期待していた通りのような、政宗の心を澱みから掬い上げてくれた言葉に、政宗の中のなにかが緩む。

 それを隠すように政宗が小十郎の肩口に顔を埋めると、小十郎は労わるように政宗の頭を撫でてくれた。

「私情を殺してのご決断、ご立派でした」

 楽ではない嘘を吐くと決めた政宗を褒める声と共に、優しく髪を梳き撫でる感触が心地よくて安心で、政宗は小十郎の肩に顔を埋めたまま、うなずく。

「真田にすこしでも同じ思いをさせずに済むよう、指輪を置いて行かれたのでしょう? お着けになっていれば、小十郎が傍でお支えできましたものを」

 もちろん、物理的に小十郎がすぐ傍にいるわけではないけれど、リングの存在感は政宗の気持ちに寄り添い、嘘に苛まれる心を励ましたに違いなかった。そのリングを外した理由まで、小十郎はあっさりと見通す。

「お独りで耐えていらしたことに気付くのが遅くなり、申し訳ありませんでした」

 小十郎のせいではない。そう言わなければとわかっている。けれどいまはただこの世界でいちばん安らげる優しい腕の中で、もうすこし安心していたかった。




 政宗が日替わり定食のトレイを持ってカフェテリアの定位置に着いたとき、そこにはもう慶次と幸村が座っていた。

 消耗した風情の幸村の背を、慶次が優しく叩いている。クラスメイトと話を済ませたのだと、その様子だけで察せられた。

「よお。お疲れさん」

「政宗」

「政宗殿」

 一声かけて座ると、慶次と幸村が顔を上げる。

 政宗はトレイの上のコーヒーゼリーを幸村の前に置いた。全部察した政宗の気遣いだと幸村が気付くには、それで充分だった。

「心より御礼申す」

「次やったら、絶交だからな」

「それがしの槍にかけて」

 そうして、政宗の左手にサファイアとエメラルドのリングが戻ってきた。


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