穏やかな家康の居城の城表は、いつになく険呑な空気に満ちていた。
「……だからな、独眼竜。ワシは三成がなにを考えているのか、さっぱりわからないんだ」
何度目かわからないため息とともにそう言った家康に、政宗は苛立ちのあまりパリパリと放電しながら拳を握り、わなわなと震えた。
「ってぇと、なんだ。あんたは、石田の考えてることがわからねえってだけで、俺をここまで呼びつけやがったのか」
「それだけとはなんだ、独眼竜。三成の気持ちがわからないなんて、天下の一大事だぞ」
「それはあんたの私情の話だろうが!!」
家康の自己中心的な発言に、とうとう吼えた政宗を、傍らに控える小十郎がたしなめる。
「政宗様。あまり叫ばれますと、お子に障りが」
「うるせえ、小十郎。これがキレねえでいられる話かってんだ」
吼える政宗の胎には、現在、第二子になる子が宿っている。いくら安定期に入っているとは言え、身重の政宗をここまで来させるという無茶な家康の要請の理由が、たかだか私情だなどと、これが吼えずにいられようか。
だが、
「政宗様」
先ほどよりやや強い口調で重ねて言われ、政宗はちっと舌打ちをすると、渋々うなずいた。
「いや、その……独眼竜が身重なのは聞いて、知ってはいたんだが……」
政宗と小十郎のやり取りを聞いて、もしかしたら自分はとんでもないことを頼んでいたのかと困惑しながら、家康が釈明する。一度怒声を飲み込んだ政宗は、気持ちも治まったのか、打って変わっていつも通りの態度で返事をする。
「あんた、石田が孕んでる間、なにも気付かなかったのかよ。胎に子を宿したら、てめえの脚じゃそう遠くへは行けねえが、だからと言って馬には乗れねえ。孕む前にはてめえの思うままに好きなところに行けた身にはなかなか辛い話だぜ。俺も奥州からここまで、輿に乗ってきた」
「独眼竜が奥州から輿で…!?」
「Yes. 輿がいちばん揺れねえからな。それでも、腹が張ったらしばらく休憩だ。当然、日数は馬の比じゃねえ。あんたも一国の主なら、身重の俺をここまで担ぎ出すのに、奥州がどれだけの財を使ったか、ちったぁわかるだろ?」
あまり身体的な負担を強調したくない政宗は、あえて論点を消費した財にすりかえる。だが、家康も統治者だ。その財がなんのために消費されたのかは、聞くまでもなかった。
「無理をさせた」
きっぱりと家康は頭を下げる。短く刈り込まれたその頭を見て、政宗と小十郎は仕方がないと微苦笑する。
「ま、天下人の要請じゃ、仕方ねえ。で? 俺になにをどうしてほしいんだ?」
「三成の話し相手になって、三成が何を考えているのか、聞いてきてくれないか」
「はぁ!?」
予想してもみなかった依頼に、政宗はつい素っ頓狂な声を上げた。
「Are you OK?」
「桶?」
「気は確かか、あんた。俺は石田の友人でもなんでもねえぞ」
「三成は、ああ見えて、独眼竜に一目置いている」
自信たっぷりに言い切る家康に、政宗は「そうじゃない」と首を振った。
「たとえば、俺は真田幸村をてめえのrivalだと認めちゃいるが、てめえの悩み事を相談しようとは思わねえ。石田もきっと同じだ。世の中、あんたみたいに、誰彼構わずに懐を見せられる人間ばかりじゃねえ」
「独眼竜……」
よほど三成の様子が気になるのか、政宗は三成の助けになれないとわかった家康はがっくりとうなだれた。
その姿を見て、政宗は思わず小十郎を振り返る。小十郎も政宗に視線を向け、小さくうなずいた。
「I see. そんなに言うなら、様子くらいは見てきてやる。なんの成果もなくても恨むなよ」
「そうか……ありがとう!」
ぱっと弾かれたように政宗を見る家康に苦笑し、政宗は小十郎の手を借りながら、大きくなった腹を抱えて立ち上がる。
「しかし、妊婦扱いの荒い天下人だな?」
「すまん」
揶揄する政宗に、頭をかきながら詫びるしかない家康である。
奥御殿に足を踏み入れると、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「邪魔するぜ、石田」
そう声をかけて入室すると、乳母の腕の中で泣く赤ん坊を見つめていた三成が顔を上げた。
「伊達政宗?」
「Yes. Long time no see.」
三成は数か月前に子を産んだ。男の子だったので、家康が狂喜乱舞したという噂は奥州にも届いている。乳母が抱いている赤ん坊がその子だろう。静かな中に慈しみがあふれる眼差しで、三成は赤ん坊を見つめていた。
「異国の言葉はわからない」
「久しぶりだな。息災そうじゃねえか」
「当然だ」
三成の顔つきからはすっかり険が消え、涼やかな無表情だ。これが本来の三成の普通の状態だということは、まだ三成の胎に赤ん坊が宿っていた頃に奥州にふたりが遊びに来た時、家康が言っていた。
「貴様は身重か。何人目だ?」
「二人目だ。…と言っても、手元で育てるのはこいつが初めてになるがな」
「そうだったな」
淡々とうなずいた三成は、乳母に退出と茶の支度を命じると、政宗と小十郎に褥を勧めた。赤ん坊を抱いた乳母が退出すると、三成は平淡な視線を政宗に向けた。
「家康に難題を言われたか」
「まあ、難題と言えば難題だな。この躰で奥州から呼び出されちゃ」
「私のことでだろう。手間をかけた」
「そう思うなら、徳川に心配かけるんじゃねえよ」
「私にその意図はない。家康が勝手に騒いでいるだけだ」
すこしも動じない三成の口調に、どうも家康と三成に温度差があるようだと、政宗と小十郎は顔を見合わせる。
「あんた、なにをやったんだ?」
「家康に側室を持たせ、奥御殿の法度を作った」
「側室……」
それは家康にとっては一大事だったことだろう。あの関ヶ原での大戦の最中でさえ、自分さえ顧みずひたすらにその無事を案じ、身を挺して庇ったほどの存在に、自分以外の女にも情けをかけろと言われたら、それは、身重の政宗を奥州から呼びつけるくらい動転して当然だ。
政宗は納得と呆れが混じったため息を吐いた。
「あんたの子だけじゃ足りねえか」
「ああ。息子も娘も、いればいただけ家督が安定する。まだ首も座らぬ私の子一人では、心もとない」
「ま、道理だな。いつ病に罹るか、いつ不慮の事故に遭うか。戦国は終わっても、子が無事に元服する保証はどこにもねえ。かといって、てめえ一人じゃ産める人数にも限りがある」
三成の言葉にあっさりと同意する政宗を見て、斜め後ろに座る小十郎は、思わず心穏やかでなくなったりする。
「けど、あんたはそれでいいのか? 惚れた男が、自分以外の女と子を設けるんだぜ?」
政宗の問いを聞いた三成は、ぴくりと肩を震わせると、自分の茶碗をぐっと握った。その手の中で、陶器がみしりと音を立てる。
「これは私の感情の問題ではない。徳川の世を、その治世がもたらす安寧を、一刻でも長らえさせるために必要な措置だ」
「なるほどな。嫉妬を理性で抑え込む、か。……あんたらしくねえんじゃねえか?」
「知った口を利くな、伊達政宗。政は私情で行うものではないことくらい、心得ている。だいたい、恋う相手を独占できる貴様に私の気持ちなどわからない」
三成の手の中の茶碗に、びしっと音を立ててひびが入る。愛刀を振るう機会が減ってもなお、日々保たれている身体能力が、陶器を容赦なく責めているのだ。それが、凪いだ海のように静かな居住まいと裏腹な三成の荒れる心を如実に物語っていた。
そんな三成を、政宗は凛とした眼で見つめる。
「あんた、俺が小十郎を独占するために、どんな覚悟をしたか、知ってるか? ……あんたの覚悟を馬鹿にする気はねえが、あんたに俺の覚悟を笑わせる気もねえぜ」
「……………」
低く唸るような政宗の言葉を、三成はまっすぐに聞くと、やがて物思いに沈むように湯飲みに視線を落とした。
「なぜ貴様にはわかるのだろうな……。……家康にはすこしも伝わらない」
「あんたの覚悟が、か」
確認する政宗の問いに、三成はこくりとうなずく。
「秀吉様の志を継げる者がいないがゆえに、豊臣は崩壊した。私は同じことを繰り返したくない。そのためには、家康の子が必要なのだ。奥御殿を任された以上、病が流行ろうと、事故が続こうと、家督を継ぐ子が絶えないようにすることこそ、なにより果たすべき私の務めだ。だから私は、側室を選び、奴の閨に送り込み、家康が私ではない女を抱くことに耐えているというのに、奴はほかの女を抱けと私に言われたと、大騒ぎをする」
三成が吐露する心情を聞いた政宗は、まじまじと三成を見つめてつぶやいた。
「あんた、意外と仕事人間だったんだな」
「果たすべき務めを確実に行っているだけだ。特別なことはしていない」
「いま俺に話したこと、家康にも話したか?」
「跡目が必要なことは家康も認識していることだ。いちいち説明する必要がどこにある」
三成が本心でそう言っているとわかり、これは重症だと政宗はため息を吐く。ここまで徹底的に私情を排して自分の務めを優先する……ばかりか、相手にも同様のことができて当然と思っているのでは、家康の感情的な拒絶反応は理解できないだろう。
「あんた、すげえな」
流石の政宗も、これほど誇り高く自分を律する人間を見たことはなかった。心からの感嘆が、ぽろりと零れ落ちる。
三成の狭視野的なところは、統率者には向いていない。だが、官吏としてなら、これほどの人材はめったに出会えるものではなかった。
「馬鹿にしているのか」
「いや。すげえって言ってるんだぜ」
なにかにつけて攻撃的なところが珠に瑕か。だが、おおらかすぎて危なっかしい家康には、似合いの存在だった。
さて、この犬も食わないこれをどうしたものか。
腹をさすりながら、政宗は天井を仰いで嘆息した。
長旅で疲れた政宗が歓迎の宴を断ったため、家康はいつも通りの夜を三成と過ごすことにして奥御殿へ向かった。
いつも通りと言いながら、三成の部屋を訪うのは、実は数日ぶりだ。最近は、三成が用意した側室のところに何日か通った後でないと、部屋に入れてもらえない。三成が側室を用意したばかりの頃、それでも三成以外の女を抱けるものかとかまわずに三成の閨に行ったら、障子の向こうにいたのは愛刀を構えた三成だった。それ以来、家康は大人しく、一晩三成の閨で過ごしたら、あとの数晩は側室の閨に行くことにしている。
本当は、三成がなにを考えているのか、わかっている。自分の責務を鑑みれば、三成が正しいこともわかっている。それでも、どうしても、感情のところで納得ができないこともあるのだと、三成にわかってもらうにはどうしたらいいのだろう。家康が困っているのは、その部分だ。
政宗が身重だと知っていても呼び寄せたのは、近い立場の彼女なら、三成の頑なな態度を和らげる突破口を見つけてくれるのではないかと期待したからだ。だが、三成の様子を訊ねた家康に、政宗はこう言った。
「あれだけの覚悟で正論並べられたら、口先でなんとかするのはちょっと無理だな」
あっさりと言われてしまっては、家康も食い下がりようがない。
正論は三成にある。感情論は通じない。八方ふさがりか……。
それでも、三成に会えないわけではない。三成を抱けないわけでもない。ただ、三成以外の女も抱かなくてはならないだけで。
秀吉が世を去った後の、寝食を忘れて復讐に走る三成を、止めることもできなかった頃よりは、いいか。
つい出かかったため息を振り払い、家康は三成の閨の前に立った。
「三成、入るぞ」
声をかけて障子を開けると、三成は待ちきれなかったかのようにぱっと顔を上げて家康を迎えた。この様子だけで、家康が来ることを、三成も望んで待っていてくれているのだとわかる。
「久しぶりに、三成とゆっくり過ごせるな」
褥の上に三成と差し向かいで座ると、腕を伸ばして三成の手を握る。ぴくりと肩を震わせた三成は、取り繕うように口を開いた。
「来るのがずいぶん早かったな。伊達政宗はどうした? まさか、自分から呼びつけた客を放り出して来たのか?」
「それこそまさかだ、三成。独眼竜は旅の疲れで早めに休んだ。身重の体に無理をさせたから、仕方ない。放り出してきたわけじゃない」
「そうか。ならいい」
会話しながら、家康は久しぶりに見る三成の顔をじっくり眺める。口調に特別な抑揚もなく、うつむき加減で、視線を家康から逸らしているけれど、三成の目元はほんのりと赤く染まっている。
本当に、三成は感情が豊かなのに口に出さない……。
口に出さないからと言って、表に出てこないと言うわけではない。さっきやいまのように、仕草、目つき、顔色、視線の動き、ちょっとした声音の変化に、それらは鮮やかににじみ出てくる。家康にはそれは手に取るようにわかることで、だから、あからさまに言葉にしない三成が余計に可愛く思える。
愛しい。三成がいい。三成だから抱きたい。湧き上がってくる気持ちのままに、三成の手を握る力がぐっと増す。
「家康、痛い。いったいどうした?」
痛いと言いながら、手を引っ込めることもせず、三成は訊ねる。そんな、家康のすることを受け入れているところも、家康にはただ愛しくて仕方がない。
「三成。ワシは、どうしても、側室を持たなくてはならないか?」
「またその話か。愚問だ」
「ワシは三成しかいらない」
「いるいらないの問題ではない。持て。そして孕ませろ」
「側室に子を産ませても、ただ頭数がいるだけになるぞ。ワシが愛しているのは三成だけだ。だから、ワシが可愛がる子も三成が産んだ子だけだ」
「かまわない」
「……なんだって?」
家康としては切り札のつもりで口にした言葉だった。そう言われたところで三成にはなんの不都合もないのだが。ここまで言っても三成に通じないということは、まさかないだろうと思っていた家康は、三成がさらりとうなずいたことに驚いて、思わず訊き返す。三成は、訊かれて、つられるように説明した。
「貴様が愛さなかろうと、ほかの女が産んだ子であろうと、貴様の後を継ぐかもしれない、貴様の血を引く子だ。たとえこの腹から出た子でなくても……世継ぎがいないことに比べれば、なにほどのことでもない」
思いつめるように語る三成をじっと見つめていた家康は、ふと気づいて、問いを口にした。
「もしかして、三成。秀吉殿と半兵衛殿のことを言っているのか?」
心の奥底に仕舞った名前を久しぶりに聞いて、きゅっと唇を噛みながら、三成はうなずいた。
秀吉は、妻ねねを手にかけた後、独身を通した。その秀吉に寄り添ったのは、他でもない半兵衛だった。だが、秀吉がどんなに半兵衛を側に置こうと、半兵衛に秀吉の子を産むことはできない。それでも秀吉は半兵衛以外を側近くに置こうとはせず、ついに子がないまま世を去ったのだ。
半兵衛は、自身が子を産めない償いをするかのように、見どころのある子供たちを集めて、豊臣の次代を担う存在として養育していた。三成もその一人だ。だが、養い子の寄せ集めに結束力はなく、互いに対する競争心だけが植えつけられ、秀吉の後継となれるほどの存在感を放つ子はいなかった。飛び抜けて評価されていた三成でさえ、自身の威光だけで一軍を率いるには、まだ足りなかった。
そうして崩壊し、消滅した豊臣軍のことを思えば、側室が産んだ子を育てるくらい、耐えなくてどうするのか。
三成がどうしてここまで頑なに家康に側室を持たせようとしたのか、その根本に気付いた家康は、思わず三成を抱き寄せた。
三成は、正しいと信じることを成し遂げるために必要なことなら、どんな犠牲を払うこともいとわない。それが、自分自身を限界まで……いや、限界を超えてまで傷つけることでも。
それは、痛々しいまでに健気で、純粋で、三成だけが放つ透き通った美しさだった。
家康は、三成の行動のすべてを理解し、許すのと同時に、三成らしい透明な意志の強さを忘れていた自分に腹が立った。そんな家康の背をするりと三成の手が撫で、抱きしめる。そして次の瞬間、ぎゅっとつねられた。
「痛っ!」
「貴様、なにを考えていた?」
「なにって……」
「私のことを守ろうとしたな?」
正確には少し違うが、三成の心の傷を悲しんだのには違いない。肯定するかのように黙り、切ない眼で三成を見つめた家康に、三成は毅然と言い放つ。
「私を守ろうなど、思い上がるな、家康。貴様は私を守るよりも先に、守らねばならないものがあるだろう」
「三成」
「私は秀吉様と半兵衛様のご教示を受けた。貴様に守られなければならないほど脆弱ではない。私を気にかける余裕があるなら、その分、世の安寧を案じろ。それが貴様の務めだ」
「三成」
「己の務めすら果たせぬ男に、用はない」
「三成……。……そうだったな」
ふっと微笑を零した家康は、三成を腕に抱いたまま、褥に横たわる。
「ワシの御台は手厳しいことを忘れていた。務めを果たさなければ、御台の愛を受けられないこともな」
「思い出したのなら、それでいい。私の閨で休みたければ、せいぜい働け」
「ああ、明日からまた、政務に励むとしよう。だが……」
首を伸ばし、三成に口づけた家康は、体を起こして三成に覆いかぶさる。
「いまは、政務のことは考えなくてもいいだろう?」
「ふん」
三成は家康の首に腕を回すと、薄く微笑んだ。
「許可する。天下人を癒すのは、私だけの務めだ」
「三成……」
安堵した家康は、艶を帯びた手つきで三成の髪をなでると、燭台の火を吹き消した。
「愛している」
暗闇の中、衣擦れの音に混じってささやいた言葉は、家康がいつも三成に告げる言葉だ。それに応答があったことはなかった。だが、
「……私もだ」
消え入りそうなかすかな声は、だが、間違いなく家康の耳に届いた。