権現と凶王のあまり普通じゃないロマンス 第5章

 奥御殿の廊下を、ぎゅっと眉間にしわを寄せた家康が歩く。

 たったいま、女中から、三成が嘔吐したと報告があった。ちょうどよく政務に区切りがついた家康は、何かあれば呼べと近習に命じると、城表を飛び出してきたのだった。

「三成、入るぞ」

 声をかけ、部屋に入ると、脇息に凭れていた三成は煩わしそうに顔を上げ、家康を振り返った。

「また吐いたらしいな。胃の腑の調子が悪いのなら、やはり医者に診てもらおう。今に倒れてしまうぞ」

「要らぬ世話だ。その程度のことでいちいち医者に掛かっていられるか。貴様も、女中に見張らせて、私が吐く度に様子を見になど来るな」

 咎めるような家康に、三成は突き放した口調で応える。ここしばらく、そんなやり取りが続いていた。

 三成にとって、胃の調子が悪いことは、珍しいことではない。食の細い三成は、もともと、うっかり普段食べつけない物を食べたり、量を過ごしてしまうだけで、すぐに胃がおかしくなる。まして、いまは胃がおかしくて当然の状態だった。それを病とばかりに騒がれて、三成の機嫌はこのところすこぶる悪い。

「朝餉の後も吐いていただろう」

「すこし食べ過ぎただけだ」

 歯切れの良い即答は、「それ以外に理由はない」というつもりなのだろうが、「だからこれ以上詮索するな」とも聞こえる。家康はむっとしたが、三成は気付かずに脇息についた右手に顔を埋めた。

「毎食山のように食べても平気な貴様と私を一緒にするな。……頭痛がする、私に構うな」

「頭痛? なら休んだ方がいい、すぐに横になれ。……誰か!」

 家康が声をかけると、控えの間から三成付きの女中たちが飛び出してくる。彼女たちに床を延べるよう命じて、家康は三成を抱き上げた。一瞬嫌がるようなそぶりを見せた三成も、結局、家康の腕に身を委ねて、おとなしく運ばれた。

「ん? 少し熱があるか、三成?」

 抱き上げた体がやけに温かくて、家康が心配そうに尋ねる。三成は気怠くうなずくと、たまらずに大きく息を吐いた。三成が家康の前で自身の不調を隠さないなど、いままでにはありえなかったことだ。これはよほどのことだと、家康はみるみるうちに表情を険しくした。

「そんなに体調が悪いなら、なぜもっと早く言わない!?」

「耳元で怒鳴るな」

「誰か、医者を呼べ!」

「怒鳴るなと言っている」

 家康の大声に、女中たちがばたばたと動き回る足音がする。三成の声は、その音にかき消されて家康には届かなかった。普段の三成の声は、静かでもよく通る。三成の声が負けるなど、まず考えられないことだった。

「大丈夫か、三成。気付いてやれなくてすまなかった」

 延べられた床に丁寧に三成を寝かせると、家康は三成に掛布をかけて、その手を握る。三成はつい、くすりと笑みを漏らした。

「なんだ?」

「いや……貴様に知らせる必要はないと思っていたのだが……。近くにいると、こうも安心するものかと思ってな」

「そうか。なら、今日はこのままずっとついていよう。安心して休んでくれ」

 すると、三成は途端にきりっと眦を吊り上げた。

「貴様は表に戻って政務を行え。滞らせるなど私が許さない」

「三成。しかし……」

「私の安堵と、すべての民の安寧と、どちらが重要かなど秤にかけるまでもない。早く戻れ」

 しょんぼりと三成の手を握りしめる家康に、三成は弱々しいながらもぴしゃりと言い放つ。

「出ていかないなら、私が斬滅する」

「わかった。わかったから、三成。ちゃんと表に戻って、政務の続きをするから、頼むから寝ていてくれ」

 言うなり、起き上がろうとする三成の肩を慌てて押さえつけ、家康は降参する。本当か?という目で家康を見上げる三成に、嘘は言わないと家康はうなずく。

「具合がよくなるまで、無理せずに横になっているんだぞ」

 家康がそう言葉をかけて退出しようとすると、入れ違うように三成付きの女中が土瓶を持ってやってきた。家康に三成の嘔吐を報告したのとは別の、三成の許に常に侍っている女中だ。

「御方様。薬湯をお持ちしました」

「薬湯!?」

 三成が返事するよりも早く、家康が立ち上がり、女中が持つ盆から土瓶を取った。蓋を開け、匂いを嗅ぐと、勢い良く三成を振り返る。

「三成、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!?」

「言えば、貴様がそうやって騒ぐに決まっているだろう。私は騒がしいことは好まない。それに、医者にはまだ不安定な時期だと言われた。万が一流れれば、貴様をぬか喜びさせることになる」

 家康がなぜ気づいたのかを訊ねることもなく、三成は淡々と応える。

 薬湯は、つわりに効く処方のもの。調薬を趣味にしている家康は、匂いでそれに気付いた。つまり三成は妊娠している。このところの三成の不調は、それが理由だったのだ。

 流産の可能性があると言いながら、三成は産むことを前提に話をしている。家康はそれが嬉しい。少し前に自分を抱けと三成が言ったその時から、三成の心持が変わっていることには気づいていた。それでも、家康の子を産む決意をするには、よほどの覚悟が要ったことだろう。口調は平淡だが、その裏にある覚悟の大きさが垣間見えて、家康は三成への愛しさがこみ上げるのを止められなかった。

「三成…!」

 感極まった家康が、三成に歩み寄ると、跪いて三成を抱きしめる。三成は瞬間驚いたが、噛み締めるようにそっと家康の背に腕を回し、頭をその肩に乗せた。

「身籠ったくらいで、大げさにするな。喜ぶなら、男が産まれた時にしろ」

 三成はそう言って突き放したが、身籠るだけでも目出度いのだから、言われたところで止められるはずもなかった。




 珍しくつわりの症状が軽いある日、庭を散歩していた三成は、ぽそぽそとした会話を耳にして足を止めた。

「朝日姫様がご懐妊されたそうだ」

「なんと! では、ご嫡出か」

「そうなるな。朝日姫様は一時御実家にお戻りになっていたとはいえ、ご正室に変わりはない」

「では、於義丸様はどうなるのだ? いまは殿の総領でいらっしゃるが、朝日姫様のお子が男ならば、総領の座を追われるのか?」

「それも致し方あるまいよ。ご側室のお子とご正室のお子では、立場が違う。ご側室にしかお子がいないならばご誕生の順に跡を継がれるのだろうが、ご正室にご嫡男が産まれるとなれば」

 物陰で交わされる家臣たちの密談に、三成は例えようのない衝撃を受けた。

 大名家の当主となれば、側室を持つのは常識だ。赤子の生存率が低い時勢、跡目を安泰にするには、子を多く儲けるよりほかにない。

 わかっている。わかってはいる。豊臣の世が続かなかったのは、秀吉に継嗣がいなかったからにほかならない。

 だが、家康が自分以外の女と褥を共にしていたなんて。

 家康に愛されたのは、自分だけではなかったなんて。

 三成は目の前がすぅっと真っ暗になるのを遠いところで感じた。ふっと脚から力が抜け、その場に倒れ込む。

「御方様!!」

 三成につき従っていた女中が、悲鳴を上げて三成を抱きとめようとする。もちろん女手で崩れ落ちる体を支えきれるはずもなく、尻餅をつくように女中は倒れた。それでも、彼女は三成を案じて声を上げる。

「誰か! 御方様がお倒れに!! 誰か!!」




 目を覚ますと、ひどく心配している家康の顔が視界を埋めていた。

「貴様か……」

 寝起きの擦れた声でささやくと、三成は起き上がろうとする。その肩を、家康の強い腕が押さえつけた。

「まだ横になっていろ。流産するかもしれないところだったんだ」

「流産……。そうか。では、胎の子はもう……」

「いや、大丈夫だ。三成の胎にちゃんといる。母思いの良い子だ」

 家康の言葉に、三成はほっとして肩の力を抜いた。その瞬間、ぽろぽろと三成の瞳から涙が零れ落ちる。後から後からそれは零れ、三成の理性ではもはや止められなかった。

「三成?」

 流産しなかったことは目出度いことのはずなのに泣く三成の様子に、家康はうろたえる。だが、涙の理由がわからないのでは、慰める術もない。なにもできずに、家康はただ、静かに泣く三成の手を握る。

「手を離せ」

 どこか遠くに聞こえる自分の静まり返った声を、三成は不思議に思いながら発していた。

「どの女にもかける言葉は不要だ。私は私が子を望むから産む。それだけだ。貴様の意向など関係ない」

 流れ落ちる涙を拭いもせず、三成は平淡に言葉を続ける。自分の感情がわからなかった。悲しいのか、嬉しいのか。わからないけれど、子を産む決意だけは揺るがなかった。

「貴様の寵愛を受けるのは自分だけではないと……いまは受け止めきれなくとも、かならず受け止めてみせる。だから、貴様はなにも気にするな」

「三成」

「私を特別扱いする必要はない」

「三成!」

 たまらずに、家康は三成を掻き抱いた。三成がなぜ倒れたのか、いまの言葉でわかった。倒れるほどの衝撃を受けたのに、自身の気持ちを押し殺して事態を受け入れようとする三成が哀れで仕方ない。泣きわめき、家康を詰ってくれた方が、どんなによかったことか。三成が戻ってくる前のこととはいえ、側室を設けた自分を家康は悔いた。

「三成、すまない。すまない、三成。こんなつもりはなかったんだ。三成を傷つけるつもりはなかったんだ。ただ、ワシは当主として、家を絶やすことはできないと、その義務を果たすつもりで」

「わかっている。気にするな。私の覚悟が甘かった。それだけのことだ」

「三成……そんな悲しいことを言うなよ。ワシが義務も忘れて子を望んだのは、三成、おまえだけだ」

「そうか……。ならば貴様は、自分の立場を今一度振り返るのだな」

 自嘲気味に三成は微笑む。これだけ言っても、本気で三成だけを愛しているのだと伝わっていないと感じた家康は、絶句した。言える言葉が見つからなかった。

「三成」

「すまないが、独りにしてくれ。すこし休みたい」

 言われて、家康ははっと我に返ってうなずいた。

「あ……ああ、そうか。そうだな、疲れているのにすまなかった。ゆっくり休んでくれ」

 いまの家康に、他に言える言葉があっただろうか。ただ休んだ程度で三成の傷が癒されることはないと承知で、家康はなんとかそれだけを口にして、丁寧に三成の身を横たえる。

 三成はまっすぐ天井を見上げたまま、部屋を出る家康を振り返ることはなかった。




 そのまま寝込むかと思われた三成だったが、翌朝、いつもと同じ時間に起床し、寝込むこともなく、気落ちした様子もなく、それまでとなにも変わらずに1日を始めた。

 様子を見て、心配なさそうであれば一緒に朝餉を……とやってきた家康も、驚いたり安心したりしながら、朝餉の膳を挟んで三成に向い合う。

 三成の食が細いのも、いつもと同じ。会話の応答が素っ気ないのも、いつもと同じ。

 安心した家康は、三成の表情がとても張り詰めていることに、気付けなかった。

 家康が三成の異変を知ったのは、それから数日後。見かねた三成の侍女が直訴しに来たからだった。

「なんだと!? 三成が…?」

 思わず声を大きくした家康に、入り口で平伏する侍女は震える声で先を続ける。

「はい。毎日、上様とお食事された後、上様がご退出されると嘔吐なさっています。横になってお休みになるようおすすめしても、時間を無駄にするなど言語道断と申されて、決してお休みになりません。このままでは、御方様もお腹のお子様も、大変危険だと侍医が申しております」

「危険だという話、三成には?」

「申し上げました」

「なんと言っていた?」

「『そうか』とだけ……」

 言いながら、とうとう侍女は涙を零した。やつれる一方の三成を、何日もただ見ているだけしかできないことに、これ以上耐えられなかったのだろう。

 さめざめと泣き崩れる侍女の平伏した背中を見下ろしながら、家康は拳を握った。鍛えられ、厚くなった皮膚がぎゅっと音を立てる。

 侍女は、三成が家康に知られたがらなかったことを報告している後ろめたさも加わって、泣きながら震え、家康の言葉を待っている。彼女にそこまでの心労を覚悟させたほど、三成の状態は危機的状況にあるということだ。束の間思案に沈んだ家康は、腹を決めたようにうなずくと、侍女に向き直る。

「今日から、三成のことは御台所と呼べ。ワシの正室として、奥御殿の一切を取り仕切るという印だ。ワシは今日から、三成の許しなく側室を迎えることはしないと城内に触れを出す。三成にも同じように伝える」

「は……はい!」

「それと、今日は少し早めに三成を訪う。用意して待っているよう、言ってくれ」

「承知いたしました」

 深々とお辞儀した侍女は、急いで部屋を退出していく。その姿を見送って、家康は本多正信を探しに立ち上がった。




 日が傾く前の、まだ明るい午後。

 奥御殿の三成の部屋を訪ねた家康は、なるほどと表情を険しくした。朝の淡い光の中や、昼の慌ただしい中では見落とすかもしれない。しかし、午後の力強い光の中で、しかも不調を知っている上で三成を見ると、見間違いようもなかった。

 三成の顔色は紙のように白くくすみ、平淡な表情は限界まで張った糸のように張り詰めていた。すっかり肉がこけ落ちた頬、孕んでいるにはすっきりしすぎている身体。想像していた以上に、状態は悪いのではないだろうか。

 だが、家康はすぐに顔つきから険しさを消し、三成と差し向かいに腰を下ろした。

「だいぶ痩せたな、三成。大丈夫か」

「毎日顔を合わせているのに、ずいぶんと今更な問いだな。特に問題はない」

「そうか。頼むから、無理だけはしてくれるなよ」

「くどい。……それより貴様、まだ日が明るい時間から奥御殿に来るなど、何を考えている。政を疎かにするなど、私が許さない」

「疎かになんてしないさ。三成に話があって来たんだが、それだって立派な政だ」

「私と話すことが、政だと!?」

 三成はきりきりと眉を吊り上げ、家康を睨む。家康は微笑んでうなずくと、

「ワシは天下人になった。天下人の世継ぎに関わる話は、世の中の安定に関わる話でもある。充分、政と言えると思うが」

「私の子が生まれるまで、まだ半年以上ある。男かどうかはもちろん、無事に産まれてくるかどうかさえわからない。いま話すことなど、なにもない」

「あるさ。ワシの子は、その子一人じゃないからな」

「っ!!」

 なんとかしてやり過ごそうとしていた、三成にとっては〝まだやわらかいカサブタ〟のようなその話題をずばりと切り出されて、三成は息を飲んだ。

 まだ、気持ちが荒れている。気を抜いたら、嘆きのままに剣を抜いてしまいそうだ。けれど、腹の子がまだ落ち着いていないこの時期に、気が済むまで剣を振るうことなどしていいはずがない。だから、息を詰めて、声を殺して、自分で自分の手を抑えつけて、なんとかここまで来たというのに。

 家康は三成が表情を強張らせたことに気付いたが、かまわずに先を続ける。

「知っての通り、ワシにはすでに子が一人いる。於義丸という息子で、お万という奥女中に産ませた。三成が……朝日姫が実家に戻り、妻も子もいないワシの跡継ぎを心配した家臣を安心させるためだった」

 三成は気持ちを静めるためか、視線を畳に落とし、なにも言わない。だが、三成はちゃんと聞いてくれていると確信して、家康は話し続ける。

「お万に情があったわけではない。だから、於義丸が生まれたときも、ただ『ワシになにかあっても、家が絶えることはなくなった』と思っただけだった。実は、いままで一度も於義丸の顔を見たことはない。それでいいと思っていた」

「………………」

「だが、それではだめだったと、最近では思い始めた。それで、今日、正信に手配を命じた。於義丸は養子に出す」

 家康の言葉を聞いた瞬間、三成は弾かれたように顔を上げた。それは、思わぬ歓喜にか、それとも止めようとしたのか。家康にはわからないが、わかっても決意は変わらない。

「お万も里に帰す。もともと、正室が認めない側室を持つなど、奥の秩序を乱す行いだった。今後は、奥の一切を三成に任せる。三成が認めない側室は持たない」

「家康……。いいのか」

 驚きが消えない三成が、つぶやくように確かめる。家康は大きくうなずいた。

「ああ。これはワシのけじめだ。誰に反対されても、そうしたい」

「そうか……」

 きっぱりした家康の態度に、三成は静かにうなずく。

 結局、三成は家康に側室がいることも、側室に子がいることも、受け止めきれないままだった。自分ではどうにもできないでいるところを、家康が助けてくれた。事態の解決は、自分の力によるものではなかった。

 それでも、三成はそれでいいと思った。家康が自分のためにしてくれたことを、素直に受け入れたいと思った。

 張り詰めていた三成の表情は、数日ぶりに安らいでいた。


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