「屯所に置いてくよりも、俺の目の届くところにいる方が安心か」
口の中で低くひとりごちた土方は、意識を切り替えるようにまばたきをした。
「わかった。同行を許す。出動中は俺の指示に必ず従え」
「承知しました」
間髪入れずにうなずくと、土方は苦い表情でうなずいた。そのまま、くるりと踵を返すと、苛立たしげに自室へと歩いていく。
自分の我が儘を押し通したことに若干の罪悪感を覚えたものの、同行を許可してもらった以上は土方の顔に泥を塗るまいと、は気持ちを引き締めた。
「土方さん、やっぱり怒ったな」
バレてはまずい悪戯がバレた時のような顔で、藤堂が話しかけてくる。も仕方ないと微笑んだ。
「わかっていたことだから、驚かなかったけれど、ね」
「けど、土方さん、よく許したなぁ。俺、絶対、最後まで反対されると思ってたぜ」
「そうね。わたくしも、すこし拍子抜けしたわ。近藤殿にお口添えいただかなくてはならないだろうと思っていたから」
「な」
と藤堂がうなずき合っていた時だった。
「」
土方が、なにかを手にして戻ってきた。は土方に向き直り、指示を待つ。
「これを羽織れ」
差し出されたのは、浅葱の羽織―――隊服だった。
「え?」
「俺の予備だから、寸法は合わねえだろうが、そのくらいは我慢しろ」
面食らって目を瞬かせるに、押し付けるように土方は羽織を差し出す。
「土方殿……?」
困惑して土方を見上げるに、土方は苦い表情のまま説明した。
「討ち入りの最中はたいてい混乱が激しい。隊服を着てるかどうかが敵味方の区別になる」
「はい」
「それに、おまえには補佐として役目を言いつけることもあるだろう。その時に隊服も着てねえんじゃ、恰好がつかねえからな」
「はい」
「わかったら、着とけ」
「はい!」
思いがけず隊服を許されて、の声はつい大きくなる。めったに個人的な感情を表に出さないの素直な反応に、苦い表情が消えなかった土方も口元が緩んだ。
ばさりと隊服を広げて羽織る。隊服に袖を通すのは初めてだったが、緊張はしなかった。
幅も丈も裄も大きな羽織は、羽織ると、ふわりと土方の匂いがした。
連絡した刻限になっても、守護職からも所司代からも、応援部隊は一人も来なかった。
「トシ、どうする?」
「どうするもこうするも、これ以上役人どもを待ってたら、浪士どもを完全に取り逃がしちまう。俺たちだけで、討って出る」
「よし、わかった」
近藤が訊いたのは、どうしたらよいかという相談ではない。きっぱりした土方の言葉を聞いて満足した近藤は、立ち上がると、中庭に待機していた隊士たちに出動の声をかける。
「これより、御用改めに出動する。各自、存分に働いてくれ!!」
おお!! と頼もしい応えが返り、近藤は沖田、永倉、藤堂らを連れて屯所を出る。一緒に千鶴も出て行った。彼女は彼女で、近藤の要望で伝令役として同行するのだという。
お荷物の自分がついて行っていいのか……と迷いながら、それでもなにか役に立てるのならと、千鶴は覚悟を決めてついて行った。無事に帰ってきてほしいと祈りを込めてその背中を見送ったは、自分も土方隊に随行して屯所を出た。
「。おまえさん、ついてきて本当によかったのかい?」
四国屋を目指して歩きながら、心配そうに声をかけてくれたのは、井上だった。はにこりと微笑むと、うなずいて見せる。井上はそんなを気遣わしげに見つめた。
「でもなぁ。おまえさん、嫁入り前の娘さんじゃないか。トシさんもわたしもみんなも、おまえさんのことは守るつもりだが、万が一、顔に傷でもついたりしたら、親御さんに申し訳が立たないよ」
「ありがとう、井上殿。でも、わたくしの両親はもう他界しているから、わたくしの心配をする身内は一人もいないわ。それに、この歳まで嫁の貰い手もないような女よ。顔に傷の一つくらいついたとしたって、どうということもないわ」
「自分のことをそんな風に言うもんじゃない。それならなおのこと、ご両親も草葉の陰で心配されてるだろうに。壬生狼なんかの世話をして、顔でなかったとしても痕が消えないような傷まで作ったら、ますます心配かけるだろう」
「そうかしら。きっと、自分のしたいようにしているわたくしのこと、呆れながら笑っていると思うわ」
「……」
「わたくし、今が嬉しいの。土方殿のお役に立って、喜んでもらえるなら、なんだってしたいの。だからどうぞ、わたくしのために心配したりなんて、しないで」
そう言って微笑んだの顔は、それは幸せそうで、井上はすっかり見惚れて微笑んだ。そして、すべてを受け入れたように、それ以上なにも言わなかった。
四国屋に到着すると、土方の合図で、は島田と二人で周辺の様子見に出た。辺りを一通り見て回るが、浪士たちの姿はない。
報告をすると、土方はきりきりと表情を険しくした。
「副長。やはり池田屋が本命だったのでしょうか」
斎藤が問いかけるが、土方は苦々しく首を振る。
「わからねえ。会合の刻限が変わった可能性もある」
「けどよ。もし本命が池田屋なら、近藤さんたちの応援に行ってやらねえと」
それでなくても、近藤隊は人数が少ないのだ。
原田が言い終えるかどうかのときだった。息を切らした黒装束の山崎が、音もなく現れる。
「副長。総長よりの伝令です。本命は池田屋」
聞くなり、は走り出した。
「あっ、おい!」
「俺が行きます」
土方の声にかぶさるように斎藤の声がし、後を追ってくる足音が聞こえる。だが、構わずには走った。先ほど、島田と周辺を歩いた時に、稲荷社を見つけていた。そこを目指す。
稲荷社に着いたは、視線の焦点を切り替える。そのとき、斎藤が追いついてきた。
「、なにをしている! 今、あんたの稲荷詣でに付き合っている余裕はない」
詰問されても、説明している暇はない。は急いで情報を集めると、斎藤を振り返った。
「わかっているわ、斎藤殿。すぐに土方殿に報告に行くわ」
「報告……? なにをだ?」
わけがわからないと顔をしかめる斎藤を置いて、は土方の許へ走る。斎藤には礼を失した態度を取っていると思ったが、同じことを二度話している時間の余裕はなかった。
「、てめえ、なにを勝手に……」
「申し訳ありません、土方殿。ご報告です。守護職、所司代、どちらも役人を出動させました。目的地は池田屋です。現着まで、四半刻ほど」
厳しい声で咎める土方の言葉を遮り、は仕入れてきた情報を報告する。土方は目を見張ると、「てめえ、その情報をどこから……」とつぶやいた。だが、すぐに気を取り直し、隊を振り返る。
「斎藤と原田は隊を率いて池田屋に向かえ。俺は、余所で別件を処理しておく」
「御意」
指示を受けると、斎藤と原田は隊士たちを連れ、池田屋を目指して走り出した。山崎はそれを見送ると、土方の指示を促すように口を開いた。
「自分は会津藩と所司代へも通達を行うよう、山南総長よりうながされておりましたが―――」
「だろうな。……次の指示は追って出す。山崎君はひとまず俺に同行してくれ。腰の重てえ役人どもには、新選組の副長が直々にあいさつしておく」
土方はにもついてくるよう合図すると、裏通りを縫うように移動した。そして、池田屋のある通りから一本向こうの大通りまで出ると、足を止めた。
「」
「はい」
「いい機会だから、役人どもにおまえの顔を売っておくぞ」
「はい」
まさか、守護職や所司代の配下に、女の自分が新選組副長補佐として接することがあるとは思っていなかった。さすがに、返事する声が強張る。土方はそんなの様子に気付くと、肩に手を置いてにやりと笑った。
「心配いらねえよ。あいつらの関心事は俺たち個々人が何者かなんてことじゃねえ。おまえが女かどうかなんざ、誰も気にしやしねえよ。それに、おまえを甘く見てかかると痛い目に遭うってことは、すぐに思い知ることになる」
「土方殿」
土方の言葉は思いがけなくて、はきょとんとして土方を見上げる。土方は自分の言葉をに染み込ませるように、一つうなずいた。
「さて、おいでなすったな。……新選組を奴らの良いようにはさせねえ」
道の向こうに百を超える役人たちの行列が姿を現す。悠々としたその様子は、確かに威圧感を漂わせていて、不逞浪士たちを圧倒する雰囲気を持っていた。
だが、現実に今浪士たちと戦っているのは、彼らの醸し出す雰囲気ではない。白刃を手に、命を懸けている近藤たち新選組だ。彼らの勲功を、あとから来て命を懸けるどころか刀を抜くことさえしない彼らに、譲るわけにはいかない。
役人たちの行く手を遮るように、土方が一歩踏み出した。はその右後ろに、山崎が左後ろに控える。たったそれだけで、役人たちが漂わせていた威圧感が圧し負けてしまうほどの迫力があった。
「局長以下我ら新選組一同、池田屋にて御用改めの最中である! 一切の手出しは無用。―――池田屋には立ち入らないでもらおうか」
役人たちにざわめきが走る。壬生狼と軽んじていた武士でもない者たちの集団に、まさか、自分たちの行動が拒絶されるなど、考えもしなかったのだろう。
「し、しかし我々にも務めが―――」
「小せえ旅館に何十人も入るわけねえだろ? 池田屋を取り囲むくらいが関の山じゃねえか。それとも、乱戦に巻き込まれて死にてえのか? 我が身が可愛いなら大人しくしとけ」
「ぐっ……」
先頭の役人の反論を、土方は容赦なく言い込めた。その鋭い語調は、ぬるま湯に慣れた大藩の役人が太刀打ちできるような、生易しいものではなかった。
「貴様は……」
悔し紛れに、素性を暴こうと御用提灯が突き出される。その明りに照らされ、土方も山崎もも、全身を彼らの前に曝される。土方はそれを堂々と胸を張って受け止めると、凛とした声で名乗った。
「新選組副長、土方歳三」
土方の名は、会津藩ではよく知られていた。新たなざわめきとともに、改めてその存在が彼らの中に広まっていく。
そして、土方は池田屋での戦闘の終結が報告されるまで、役人たちをそこから先へ一歩も進ませなかった。
池田屋での斬り合いが止んで、初めて土方は道を開けた。残党の捕縛のために、守護職と所司代の役人たちが一斉に動き出す。その波に紛れて、山崎も場を離れる。おそらくは情報収集に出たのだろう。
「、よくやった。あの時点で役人の動きの情報を手に入れたおかげで、完全に先手を打てた」
「お役に立てて、なによりです」
走り抜けていく役人たちに道を譲り、土方はを振り返る。はにこりと微笑んで応えた。
所司代はもちろん、後見をしてくれている守護職でさえ、新選組に好意的ではないことくらい、土方の仕事を手伝っていれば、容易に察せられることだ。好意的でない相手が、勲功を挙げるまたとない機会を掴んだ自分たちに対して、どういう行動に出るか。に政治的な駆け引きはわからないが、そのくらいは想像できた。事態が想像できれば、必要な情報も見当がつくし、情報さえ手に入れば土方がきっとなんとかすると信じていた。
「それにしても、あの情報、どうやって手に入れた?」
「え?」
唐突な問いにが面食らっていると、土方はの腕をつかんで、路地に引きずり込んだ。ほかに人影がない夜更けの路地で、表通りの雑踏が響く中、ひそめた声がはっきりと聞き取れるくらいに近くで、土方がに詰め寄る。
「山崎は屯所からまっすぐに伝令に来た。ほかの監察方も、報告はまず俺のところに来る。おまえは江戸の出身だって言ってたよな、京に情報網を持ってるとは思えねえ。おまえはどこから情報を手に入れた?」
「あの、え……と……」
「だいたい、おまえは女だってのに、そこらへんの男よりよほど頭がいい。普通なら、あそこは会津や桑名の動きを調べる局面だって気付きもしねえもんだ。そんな有能な女が、ただの町女だなんて、信じられるか?」
「それは……」
まだ、言えない。そう答えるわけにもいかず、言葉に詰まったの視界を、人影が横切る。
「あれは……!」