「どうした、」
「あ、いえ……。……申し訳ありません」
「それはなにに対する謝罪だ?」
「……それは…………」
うつむいて、言葉を続けられないを、土方が射殺すような眼差しで見つめる。しばらくそうして、土方はが釈明するのを待っていた。だが、はまだ言えない。
やがて、の腕をつかんでいた土方の手がふっと緩む。これで放免かと安心した瞬間、肩を背後の壁に押し付けられる。そして頤をぐっと掴まれて、は無理やり顔を上げさせられた。
息がかかるほど近くに、土方の顔がある。その眼にが映っていた。は自分が映っている土方の眼を、まっすぐに見つめ返す。
「…………間者じゃねえと、誓えるか?」
土方の声には、苦渋が混じっていた。これまで、間者の可能性がある者は、確証のあるなしに関係なく、粛清してきた。前例に倣うなら、は生かしていてはいけない。だが、土方は無意識のうちに、を手に掛ける決断をしないで済む方策を探していた。は隊士ではないから、隊士と同じに扱わなくてはいけないとは決まっていない。それなら、が間者でない可能性があればいい、と。
例外を作りたくないという気持ち、を例外としたい気持ち、その狭間での懊悩が、土方の声を苦くする。
その土方の懊悩を晴らすように、曇りのない声で、は答えた。
「はい」
短い回答は軽くも聞こえたが、余計な言葉がない分、の迷いのなさが籠っていた。
そのまま、土方とはただ見つめ合った。土方の探る視線が、の誓う眼を試すように何度も深いところまでもぐりこんでくる。は静かにその視線を受け止めていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
「次はねえ。もし、また同じことをして、納得のいく説明がねえ場合は俺が斬る」
「はい」
吐き捨てるように言って、土方はから離れた。はうなずいたが、また今日のようなことがあったら同じことをするだろうとわかっていたし、時期が来ていなければ説明もできないとわかっていた。たとえそれで斬り殺されるとしても、土方の役に立って、土方に殺されるのなら、それもいい。
ただ、自分がそれで命を捧げたとして。先ほど見かけたあの人影が、の思った通りの人物のものなのだとしたら……、その先はいったいどうなってしまうだろうか。
ふと背筋が震えて、は空を見上げた。
夜が明けて、新選組が屯所に帰還する。
誰が見ても非の打ちどころのない勲功だったが、そのために払った犠牲は小さくなかった。
沖田と藤堂が重傷を負い、当面の療養を余儀なくされた。沖田は胸部に一撃を受けて吐血していた。おそらく、ろっ骨を折っているだろう。藤堂は額を斬られていた。縫わなくてはならない深手だ。平隊士はもっとひどい状態で、死者が一名。救命は不可能と思われる重傷者が二名出た。
「千鶴ちゃん。無事でよかったわ」
屯所に到着し、緊張の糸が解けて、は千鶴に駆け寄った。千鶴の着物は血塗れだったが、千鶴自身に怪我はないようだった。
「さん……」
の顔を見るなり、千鶴は抱きついてきて、ぎゅうっとすがる。いったいどうしたのかと思ったが、まずは落ち着くまで好きにさせてあげたほうがいいだろうと、そのまま千鶴の背をさすった。
「すっかり血塗れね。頑張ったわね」
そう言いながら、千鶴の髪のほつれをそっと直していると、千鶴は顔を上げて首を振った。
「沖田さんが、守ってくれました。血を吐くような怪我をしていたのに……」
「そう」
「邪魔になったら殺すって言ってたのに、斬り合いの役になんて立たないわたしを、守ってくれて……」
「そう」
はただ、相槌を打って千鶴の言葉を受け止める。いくら千鶴が勇気があって胆が据わっているのだとしても、やはり少女なのだ。動揺していて当然だった。
千鶴の言葉を聞きながら、は、自分も土方に助けられたのだと思い至る。間者でない証明ができない自分を、土方は不問にしてくれた。それは、『土方歳三』である前に『新選組副長』であろうとする土方にとって、苦しい行為だったに違いないのに。
土方の行為の理由を考えても仕方がないことはわかっていた。自分にできることは、土方を裏切らないだけ。土方の役に立とうと心がけて行動するだけ。今日は、途中までは、それはうまく行っていた。だが、その結果、土方に苦しい思いをさせてしまった。
この上は、さらに役に立って埋め合わせるしかない。はきゅっと表情を引き締めた。
池田屋事件から数日も経つと、かつてない大捕り物に興奮を隠せなかった平隊士たちも落ち着きを取り戻していて、屯所にはいつもどおりの日々が戻ってきていた。
いつもと違うのは、沖田と藤堂が療養優先で過ごしているということと、あとひとつ、道場の活気だった。
「始め!」
永倉の合図で、二人一組になった平隊士たちが竹刀を打ち合う。パン! パン! と竹刀がぶつかり合う音と、激しい足音が混ざって、道場は騒々しい。池田屋の討ち入りで勲功を収めたことで、新選組の名は良くも悪くも京の町に一気に広まっていた。またあのような活躍の場があるかもしれないと意気込んだ隊士たちが、張り切って稽古しているのだ。
その片隅で、は端座していた。道場の見学に来るのは久しぶりだ。普段から、時間ができたら来るように心がけてはいるものの、実際にまとまった時間が取れることは多くない。だが、いつまた新選組挙げての出動が起きるかわからない。そのときに土方の足手まといにならないためには、戦力になれないまでも、足を引っ張らない程度には動ける必要がある。
が稽古の様子を観察していると、すっと隣に人が座る気配がした。
「熱心だな」
「斎藤殿。……ええ、見ているだけでも勉強になるわ」
剣術を習ったことがないは、『見取り稽古』というものの存在は知らなかったが、剣を打ち合うときの動きを知っておくことは役に立つと思っていた。そんなを見ていた斎藤は、思い出したように尋ねる。
「あんたは、道場に通ったことはあるのか?」
「いいえ。護身のためにと父に短刀術を仕込まれたけれど、父も師範についていたわけではなかったから、完全に我流なの」
「池田屋の時は、打刀を佩いていただろう?」
「あれも、実際に人を相手にして振るったことは一度もないのよ。刀を持つことに抵抗感はないから、いざ斬り合いということになったとしても、たぶん、臆してしまうことはないと思うけれど」
「……ふむ」
の答えを聞いた斎藤は、少し考えると、立ち上がって永倉に寄って行った。二言三言、言葉を交わすと、竹刀を二振り手にして戻ってくる。
「新八に場所を借りた。俺を相手に打ち込んでみろ」
そう言って、に立つよう促し、竹刀を差し出す。は思わず竹刀を受け取り、斎藤を見つめ返した。
「わたくし、きちんと刀を振ることなんて、できないわ」
「だからだ。あんたは度々『護身はできる』と言っていただろう。その時の口ぶりと今とでは、だいぶ違うことを言っている自覚はあるか? 腕前を確かめさせてもらうぞ」
「あ……」
自分が以前、斎藤に「護身は身に着けている」と言ったことを思い出して、は気まずく視線を逸らした。べつに、剣の腕前のことを言ったつもりはなかったが、護身ができると言ったら、普通は、剣が使えるという意味に受け取るのだろう。
「どこからでもいいし、型など気にすることはない。自分のやり方で打ち込んでみろ」
そう言いながらと距離を取った斎藤は、竹刀を青眼に構え、の打ち込みを待つ。は知らなかったが、居合を得意とする斎藤にしては珍しいことだった。つまりそれだけ真剣にの腕を見極めようとしているということだ。
は竹刀を青眼に構え、深呼吸を一つすると、「やぁっ!」と気合を入れて打ち込んだ。斎藤の竹刀が、なんなくそれを受け止める。はその勢いを使って、さらに二撃目を打ち込んだ。
そのまま数合、斎藤と竹刀を合わせる。袴を着けていないために脚を開けない分、どうしても力のある打撃はできなかったが、手数を多くすることで補い、竹刀を振るった。
やがて、ぴたりと斎藤の竹刀がの喉元に突き付けられ、そこで打ち合いは終わる。
「ありがとうございました」
息を切らせながらが礼をすると、竹刀を収めた斎藤は涼しい佇まいのまま、うなずいた。
「我流と言うだけあって、あんたの剣は変な癖があるな。だが、動きは早い方だし、狙いも悪くない。癖のせいで太刀筋が読みにくい分、道場剣術に慣れた者には相手をしづらいだろう。実戦で使いものになるかはともかく、その場を切り抜ける護身には充分だ」
「よかった」
寸評を聞いて、は安堵の微笑みをこぼす。斎藤は不思議なものを見る目でを見た。
「あんたの身ごなしは、踊っているようだな。くるくる動くから、次が読みにくい。そんな動きで、よくあれだけ打ち込めるものだ」
そう言う斎藤も、の打ち込みはことごとく受け止めていて、一撃も喰らっていない。斎藤は達人級なのだから当然だし、自分が太刀打ちできる腕前とも思っていなかったが、やはり自分の腕前は話になる以前のものなのだと悟るのに充分だった。
「見せてもらったぜ。なかなか悪くねえ動きだった」
横から永倉が声をかけてくる。ふと気づいて周囲を見ると、稽古をしていた隊士たちはみんな壁際に寄って、と斎藤の打ち合いを見ていたのだった。
「我流の剣で、お見苦しいものをお目に掛けました」
思いがけず注目されて、は慌てる。だが、永倉は「いいって」と笑いながら続けた。
「我流で斎藤相手にあれだけ打てたら、大したもんだ。いざってときは、よろしく頼むぜ」
もちろん、そんな事態が来るとは、永倉も思っていないことは目つきでわかる。だが、おだてられて悪い気はしなかった。はくすりと笑ってうなずく。
「永倉組長。巡察の時間です」
道場の入り口から声をかけられ、永倉が「もうそんな時間か」と言いながら道場を後にする。その場の指南役を斎藤が引き継ぎ、稽古が再開されると、もなんとなく身の置き場がなくなって、道場を出た。
「ああ、。ちょうどよかった、手伝ってもらえないか」
道場を出たところで声をかけてきたのは、井上だった。はうなずきながら近寄る。連れ立って勝手場を目指しながら、井上が口を開いた。
「総司と平助が療養中だろう? 食事当番の手が足りなくてね。……だが、いいのかい? トシさんの手伝いがあるんじゃないのかい?」
「今日は、土方殿は近藤殿と一緒に、会津藩邸に行っているから大丈夫よ。手伝えるわ」
「それならよかった。あんまりを横取りしていると、トシさんの機嫌が悪くなるからなぁ」
ははっと笑う井上の言葉に、は嬉しくなる。傍で手伝っていないと土方が困るくらいなのなら、すこしは役に立てているのだと思ってもいいだろうか。
は浮ついた気持ちを表に出してはいけないと思っていたが、その意思に反して、それは夕飯の献立に現れた。
「今日の夕飯作ったの、だろ」
夕飯が出来上がり、幹部たちが広間に集まる。用意された膳を見るなり、原田が言った。井上が申し訳なさそうにうなずく。
「すまないね。とても楽しそうに作るから、止められなかったんだよ」
はぁ。落胆のため息が、座に着いた全員の口から零れた。
膳の上に並ぶのは、汁物とご飯、そしておかずが二品。新選組の食事としては、品数は多い方だった。
が。
問題は献立だった。油揚げと豆腐の味噌汁。油揚げと青菜の煮びたし。焼き油揚げ。そして、油揚げと大根の炊き込みご飯。
「」
斎藤の淡々とした声がを呼ぶ。末席に着いたは、いったいなんだろうと斎藤を振り返った。
「なぁに、斎藤殿?」
「今度から、揚げを使った料理は一度に一品までだ」
その言葉に、全員が大きくうなずく。
会津藩邸から戻ってきた近藤と土方が見たものは、綺麗に平らげられた夕食の片づけをするしょんぼりしたの姿だった。