「」
土方の部屋で書類仕事を手伝っていると、ふと筆を止めた土方に声をかけられた。は補充用の墨を磨っていた手を止めて、土方に向き直る。
「はい」
「最近、長州の動きがきな臭ぇのは知ってるな?」
「はい」
近藤も土方も、その件で会津藩邸に呼び出されることが増えている。がうなずくと、土方は迷いを含んだ苦い表情を浮かべた。
「まだ決まった話じゃねえが……新選組にも、出動要請がかかる可能性が出てきた」
「まあ……! おめでとうございます!」
池田屋の時のような単独での出動ではなく、要請を受けての出動だ。新選組の存在を認められたということになる。はぱっと表情を明るくした。
「ああ。池田屋に続いて勲功を挙げる機会だ。しっかり務め上げて、新選組の評価を揺るぎねえもんにしてえ。……現実にその出動が決まったとして、そうしたらおまえはついてきてえか?」
「え……?」
会津藩に求められるという話は目出度いことのはずなのに、土方の声は苦いままだった。その声に問われて、は一瞬、首を傾げる。
「池田屋の時は討ち入りだった。戦闘になっても、建物の中に踏み込まなきゃ巻き込まれることはねえ。だから、同行してえっていうおまえを連れて行くのに、難しい判断はいらなかった。けど、今度はそうじゃねえ。長州と事を構えるってことは、戦になるってことだ。討ち入りと戦じゃ、状況はまるで変わる。出動しちまえば、安全な保障のある場所なんかどこにもねえ。それでもついてきてえって言うか?」
「はい。行きます。連れて行ってください」
土方の問いに、はためらうことなく答える。土方が目を眇めて、きり……と拳を握った。
「危険であることは、今伺いましたから、わかっています。なにができるとお約束できるわけではありませんが、先日のように、なにかお役に立てることがあるかもしれません。もちろん、足手まといになったときには、どうぞ捨てて行ってください」
「死ぬかもしれなくても、か?」
「では、隊士の皆さんは、命の危険があるからと、出動を拒否なさいますか?」
「………………………………」
が問い返すと土方は言葉を続けずに、ただを見据えた。
「わたくしも、女だてらに恐縮ですが、皆様と同じ覚悟を持っていたいと決めております。ですから、わたくしがすこしでもお役に立つことがありそうなら、どうぞお連れくださいませ」
「…………そうか。わかった」
土方はまっすぐにを見ると、それ以上反対せずに、うなずいてくれた。
そして、その日は来た。
「会津藩から正式な要請が下った。只今より、我ら新選組は総員出陣の準備を開始する!」
近藤が高らかに号令をかけ、広間は歓喜に沸きあがる。も、一緒に幹部たちのお茶を用意して配っていた千鶴も、顔を見合わせて喜んだ。
だが、土方はそうではなかった。
「はしゃいでる暇はねえんだ。てめえらも、とっとと準備しやがれ」
鬼の副長に苦い声で怒鳴りつけられて、出陣する者たちはばたばたと支度を始める。
「ごめんなさい、千鶴ちゃん。わたくしも行くの。ここのお茶道具、頼んでいい?」
負傷療養中の沖田と藤堂の世話役として、今回は留守居する千鶴に声をかけると、千鶴は勢いよくうなずいた。
「さんは行くと思ってました。どうぞ、お気をつけて」
「ありがとう。千鶴ちゃんも、留守をよろしくね」
「はい!」
自分のことは棚に上げて、この少女が戦場に出なくてよかったと思いつつ、は自分の部屋に飛び込んだ。胸に晒を巻くのは、意外と時間がかかる。急がないと、置いて行かれてしまうかもしれない。
手早く晒を巻き、単衣と袴を着ける。打刀を佩いて短刀を懐に持つと、は小走りに土方の部屋へ向かった。
「土方殿」
障子の前で声をかけると、すらりと戸が開いて、完璧に身支度を済ませた土方が出てくる。
「準備はできたのか?」
「はい。いつでも出られます」
「よし。行くぞ」
うなずいた土方は、を連れて屯所の前へ向かう。
もうすぐ玄関というところまで来たとき、土方は突然足を止めてを振り返った。
「言い忘れてたことがある」
「はい」
「今回は、おまえに隊服は貸せねえ」
「……はい」
部屋から出てきた土方の手に隊服がないと気付いた時から、薄々予感はしていた。池田屋の討ち入りで貸してくれたように、今回も貸してくれるのではないか。心の隅でそう期待していた図々しさをたしなめられたような気がして、は居た堪れなくなりながらうなずく。すると、土方はに向き直り、言葉を続けた。
「今回は会津藩の要請で出陣する。無意味な難癖をつけられるわけにはいかねえ。おまえに隊服は着せられねえ」
「はい」
「それと、万が一のときは、おまえが援軍要請の伝令に出ろ。そのためには、隊服を着てねえ方が、その場を離脱しやすいはずだ」
「それは」
「承服できねえなら、置いていく」
土方がに隊服を許さない本当の理由がわかって、は首を振った。だが、土方は鋭い眼でを見据えて、了承以外の返事を許してくれなかった。
「…………承知しました」
深呼吸をひとつして、うなずくと、土方はそれでいいというようにうなずき返してくれた。
また、土方に守られた。役に立ちたくても、役に立つ前に土方に守られてしまう。自分は土方のお荷物になってしまっている。
悔しくて、ぎゅっと拳を握りしめる。だが、だからといって大人しく屯所で待つことはしない。ついて行かなくては、役に立つ機会に巡り合えない。悔しくても、お荷物でも、許されるならついていく。
玄関で草鞋を履く土方を追いかけて、も三和土に降りた。
普段、新選組の面倒を見てくれているのは、京都守護職。つまり会津藩。出陣先に指定された伏見奉行所には、所司代―――つまり桑名藩の役人たちが詰めていた。所司代は守護職の下の役職だが、藩が違えば連携を期待することは難しい。
案の定、近藤が奉行所の門を守る役人に責任者への取り次ぎを依頼すると、連絡を受けていないので取り次げないの一点張りだった。
「なんてことなの……」
思わずはつぶやいてしまう。仮にも武士が、戦になるかもしれない状況で取る態度とは、とても思えない。
「内輪の情報伝達もままならんとは、戦況に余程の混迷を呈したと見える」
「混迷するほどの戦況なの、まだ直接戦闘も始まっていないのに?」
ため息混じりの斎藤のささやきに、もひそひそと応える。二人が呆れている間も、近藤と役人の押し問答は続く。新選組は基本的に軽んじられていることは、そのやり取りからでも容易に察せられた。
結局、ここで押し問答しても始まらないということになり、新選組は会津藩兵と合流するために移動を始めた。
伏見から会津藩邸まで歩き、そこで九条河原へ向かうよう指示されて、九条まで下る。移動距離だけでなかなかの行軍だ。だが、誰も愚痴ひとつ言わずに、黙々と行軍した。
九条河原に布陣していた会津藩兵と合流し―――まあ、ここでもひと悶着あったのだが―――、新選組はようやく陣を構えることができた。この後の展開に備えて、待機する組、周辺の警戒に当たる組などに分かれる。その間に、近藤と土方は井上を供に連れて、陣営責任者との打ち合わせに出かけた。
日が暮れ、が夜営の篝火を焚いていると、近くに座って待機している原田が声をかけた。
「、今日は歩き通しで疲れただろ。休むなら、俺に寄りかかっていいぜ」
「ありがとう。でも大丈夫」
今はまだ、火を熾したばかりで火勢が落ち着かない。火が落ち着いたら、すこしだけ休息を取りたいとは思っていたが、陣中で休む姿を曝すわけにもいかない。それに、原田たちは、おそらく、このまま夜通し臨戦態勢で待機するのだろう。ひとりが休憩したいと言えるはずもなかった。
そこへ、近藤、土方、井上が戻ってきた。三人とも、ひどく疲れた顔をしている。
「」
土方は近藤と目配せし合って別れると、を呼んだ。焚き火の面倒をどうしようかと迷うと、近寄ってきた井上が目配せで引き受けてくれる。は井上に小さく頭を下げて、土方に駆け寄った。
「こっちだ」
土方はを連れて、陣の片隅に向かう。弾薬や糧食が置いてある物資置き場で、土方は手近な箱に座れと手振りで命じた。だが、いったい何の用なのかわからないは、立ったまま首を傾げる。
「土方殿?」
「打ち合わせは終わった。命令があるまで、俺たちは待機だ。半刻だけ時間を作る、おまえは休め」
「大丈夫です」
まさか、土方がそのためにここまで来たのだと思ってもみなかったは、驚いて首を振る。隊士ではないのに頼んでついてきたのは自分だ。特別扱いされるわけにいかない。だが、土方はきゅっと表情を険しくしてさらに言葉を続けた。
「押し問答をしてる時間はねえ。俺がついててやれるのは半刻だけなんだ。早くしろ」
言うが早いか、土方は隊服を脱いでの頭にかぶせると、を小脇に抱えるようにして傍らの箱に腰を下ろした。
「きゃ……っ」
勢いで土方の上に倒れ込んだをそのまま抑え込むようにして、土方は自分も目を閉じる。
「俺が気付いてねえと思ったのか? 九条河原に着く少し前から、歩くのがやっとだっただろ。……おまえに俺たちと同じ体力がねえことくらい、最初からわかってる」
隊服に包まれ、篝火の明かりも届かない闇の中で、耳のすぐ近くで土方の声がして、土方の体温と匂いがを包み込む。ここが陣中だということも忘れて、は体から力が抜けていくように感じた。そして残るのは、重たい疲労と心地よい眠気。
「出撃命令が出たとき動けねえんじゃ、話にならねえ。今のうちにすこしでも目つぶって休め」
土方が言い終える前に、はすぅっと眠っていた。
結局、土方は一刻も時間を作ってくれたらしい。が目覚めた時は、もう夜半を回っていて、土方はが眠る前と同じ体勢のまま起きていた。
「起きたか」
「あ……すみません。すっかり眠ってしまって」
「いや、いい」
自分の体勢を思い出したがぱっと赤くなってうつむくと、土方はそっと腕を解いて隊服を取った。は急いで立ち上がる。
「もう大丈夫そうか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
「いいさ。時間が作れるうちに休むのは、間違ったことじゃねえ」
頭を下げるに笑いかけて、土方も立ち上がる。ふたりは近藤たちが集まっている場所に向かって歩き出した。
明け方、砲声が轟いた。
待機していた新選組は、一人残らず臨戦態勢に入り、砲声の響いた方角へ向かって駆け出そうとする。それを会津の役人が見咎めた。
「待たんか、新選組! 我々は待機を命じられているのだぞ!?」
「てめえらは待機するために待機してんのか? 御所を守るために待機してたんじゃねえのか! 長州の野郎どもが攻め込んできたら、援軍に行くための待機だろうが!」
昨日から我慢に我慢を重ねてきた土方が、ついに腹に据えかねて吼えた。覚悟も経験もまるで違う役人は、土方の迫力に完全に飲まれる。
「し、しかし出動命令は、まだ……」
「自分の仕事に一欠片でも誇りがあるなら、てめえらも待機だ云々言わずに動きやがれ!」
土方は凛然と言い放つと、それ以上会話を続けようとすることなく、足早に歩き出した。新選組は全員、土方に続いて出動する。
「。出陣のときに俺が言ったこと、覚えてるな?」
「援軍要請の伝令ですね。心得ています」
「着いた先は激しい戦闘になってるだろう。伝令が必要だと思ったら、俺の指示は待たなくていい。自分で判断して動け」
「わかりました」
自分で判断していいなら、決して土方の傍から離れない。そう決めて、はうなずいた。