慌ててが頼むと、土方は足を緩めることもなく言い返した。
「駄目だ。いつ敗走する長州兵が通るかわからねえところに、置いてけるわけねえだろ。大人しく抱えられてろ」
「でも……っ」
「うるせえ。……それより、あの男と面識があるみてえだったな?」
の言葉を一言で遮って、土方が話を変える。やや強引ではあったが、土方はそれがいちばん気になることだろうと、はその話題に応える。
「風間のことですか?」
「風間って名前なのか」
「はい。風間千景という男です。お互いに顔と素性を知っている程度で、親しいわけではありません」
「そうか。……その風間のことも含めて、帰ったらいろいろ話してもらうぞ。いいな?」
「はい」
がうなずくと、土方はそれきり何も言わず、を抱えたまま、ひたすらに天王山を目指した。
天王山では、先についていた永倉たちが、長州兵が全員自決して果てていたことを確認し、務めを終えていた。
このころまでにはももう自分で歩けるほど回復していて、ようやく降ろしてもらえた。
御所へと戻る道すがら、土方と永倉は今後の動きについてずっと話し合っていたが、敗走する長州兵が放った火が御所の南に広がり、その消火対応と追討戦に追われることになって、話し合いは無駄になってしまった。そのまま、近藤が得てきた許可の下に、大阪から兵庫にかけてを警備する。
結局、新選組の屯所に落ち着きが戻ったのは、もうすぐ8月になろうかという頃だった。
「」
夕食を終え、広間の片付けをしていると、土方に呼ばれた。は食器をまとめていた手を止め、土方を振り返る。
「この後、時間はあるか?」
一瞬、土方の用事かと思ったが、声をかけたのは土方でも、その場にいる幹部全員がを見ていた。
来る時が来た。
は束の間目を閉じて、気持ちを落ち着けると、土方をまっすぐ見てうなずいた。
「はい。食器を下げたら、こちらに参ります」
の答えに、土方はうなずく。は手早く食器をまとめると、勝手場へと運んだ。そして、当番の平隊士に後を頼み、広間に戻る。
広間では、上座に近藤、その左右に土方と山南、そしてほかの試衛館派幹部は壁際に並んで座している。彼らに囲まれるように、は座った。
「こんな風に集まったら、緊張するだろうな、。でも、そう硬くならないでくれ。糾弾するつもりじゃない」
「お気遣い、ありがとうございます」
「じゃあ、トシ」
近藤はそう言って、土方を振り返り、場の主導権を譲った。土方はどこか思いつめた表情で、改めてに視線を向ける。
「。まずは、今までおまえが話していなかったおまえの素性について、話してもらおう。俺が聞いているのは江戸の出身の町人だという話だが、どうやらそれは違うらしいな?」
「はい」
これまで隠してきたことを話すのだから、それなりに勇気は必要だった。だが、風間に遭遇したあの日から、それを隠し通すことはもうできないと覚悟は決まっていた。だから、はためらいのない声でうなずいた。
「これまで素性を偽っていましたこと、本当に申し訳ない思いでいます。ですが、事情があって、お話しできずにいましたことを、ご理解いただきましたらありがたく思います。……わたくしは江戸の町人の娘ではありません。江戸に社を置く、東国稲荷の末の娘です」
何人もの驚く声がして、部屋の中がざわめく。表情を変えなかったのは、風間の言葉を聞いていた土方だけだった。
「稲荷の娘ですから、もちろん、人ではありません。この姿も、人の町で暮らすために、変化の術を用いております。という名は、本当です。でも、人の住む町では姓のない者は脅かされることがあると聞いていたので、母の出身から姓をつけました」
「変化の術とやらを解くことは、今できるか?」
「お望みでしたら」
言うなり、ふわんと青い陽炎がの身から放たれ、の外見は変わっていた。顔立ちはそのままだったが、耳は白狐の耳に変わり、同じく白狐の尾が4本生えていた。
「なんで素性を偽った?」
「まずは、稲荷の娘などといきなり言っても、信じてもらえないだろうという予想がありました。それから……父に、神は人と交流を持つべきではない、神であることは隠せと言われたためです」
「父親ってのは、東国稲荷か」
「はい。……もっとも、その父も今は亡くなって、東国稲荷の座は、いちばん上の兄が継ぎました」
「なるほど。あんたの稲荷詣では、同族との繋ぎだったんだな」
斎藤が、以前聞いたの習慣について、納得がいったとつぶやく。は斎藤に向かってうなずくと、
「父の領国は東国ですが、同じ稲荷一族に名を連ねる者として、多少であれば伏見様もお力添えくださいます。池田屋の時は、伏見様のご配下に守護職の動きを教えていただきました」
「護身はできると言っていたのは、剣の腕のことではなく、神通力が使えるという意味だったのだな」
「ええ。自分の身を守るための神力なら、多少は許されていますので」
の説明を聞いていた土方が、一つ質問する。
「その『東国稲荷』ってのが、いまいちわからねえんだが。稲荷神社の『稲荷』だよな?」
「はい。稲荷神は伏見大社におわす御方、わたくしどもは伏見様とお呼びしていますが、その御方が本神。その御方の下、東国を鎮守しているのが『東国稲荷』です」
「と言うと、関八州を治めてるのか……すげえ神様だな」
「あ、いえ、関八州ではありません。東国三十三国です」
永倉のつぶやきを、が訂正する。東国三十三国と言えば、陸奥までを含む日本の東半分すべてだ。一気に大きくなった規模に、居合わせる全員が驚愕する。
「その姫が、なのか」
「はい。……とは言っても、母は後添いで、わたくしは末娘です。兄も姉も何人もおります中では、物の数にさえ入らない存在です」
「おや? 、おまえさん、身内はいないって言ってなかったかい?」
以前聞いたことがある話では、身内はいないはずだった。首を傾げた井上に振り向いて、はさびしげな顔で微笑む。
「母は、わたくしが幼い頃に亡くなりました。父も、わたくしが京に来た直後に亡くなっています。……母の子はわたくしだけです。兄たちは、わたくしのことなど、取り合うほどの存在とも思っていませんし、わたくしも兄たちを頼るつもりはありませんから」
「なぜ土方君を追って京まで?」
山南の質問に、はちらりと土方を見てから答えた。
「土方殿は、覚えていないと思うのですけど……わたくし、狐に変化して多摩の方へ遊びに出た折、猟師の罠にかかってしまったことがあります。その罠から救ってくださったのが、土方殿でした」
「なるほど」
「罠を外して、足に薬を塗ってくださいました。そして、猟師に見つかる心配のないところまで連れて行ってくれました。……わたくし、ご恩返しに、この方のお役に立ちたいと思いました。必死に父に願い出て、条件付きですがようやく許された時、新選組の噂を聞きました。それで、京まで上ってきたのです」
「そういうことだったのか……」
近藤が大きくうなずく。会話の切れ目を掴んで、原田が質問した。
「条件付きってのは、どういうことだ? 条件って?」
「二つあります。ひとつは、わたくしが神族であることを隠すこと。もうひとつは、この秘密が露見したときは社に戻ること」
「えっ!? じゃあ、、この話を俺たちにしちゃ駄目なんじゃん!」
藤堂が驚いて叫ぶ。は「そうね」とうなずいた。
「でも、仕方がありません。わたくしは土方殿に説明するとお約束したし、父ともそういう約束をしたのですから。神族の約束は、決して違えることはできません」
「父親は亡くなって、兄に代替わりしたのだったな。それでも、条件は効力を持つのか?」
斎藤の質問に、は首を振る。
「それは、正直なところ、わかりません。わたくしが父と交わした約束は、兄に引き継がれていますが、兄はその内容を変えることができます。兄なら厄介払いついでに、条件を取り消すくらいしそうではありますが……」
「社に帰ったら、もうここには戻れねえのか」
「ここに……というか、外出できなくなります」
永倉の問いに、は苦笑した。
「もともと、わたくしは気軽な外出が許される立場ではありません。今ここでわたくしが社に戻ったら、二度と外に出してはもらえないでしょう。ですから……」
意を決して、は改めてまっすぐに顔を上げ、土方を見た。
「これでお別れです。今までお傍に置いていただき、ありがとうございました」
が深々と頭を下げる。広間には沈黙が広がった。一様に、なんと言っていいのかわからない面持ちでを見つめている。一人だけ、土方だけが険しい表情をしていた。
「」
表情と同じように厳しい声音で、名を呼ばれる。はしっかりと背筋を伸ばして、土方を見た。
「神は約束を破らねえんだよな」
「はい」
「なら、俺の役に立つと言ったおまえの言葉も、守らなくちゃいけねえんじゃねえのか」
「え……?」
「どうなんだ?」
「あの、それは……」
思いがけない質問を受けて、はうろたえて言いよどむ。そうだと言えばそうだし、そうではないと言えないこともない。どちらで答えても嘘にならないから、どちらで答えたらいいのかわからなかった。
「……ああ、そういうことですか」
突然の土方の発言の意味を考えていた山南が、思わず声を上げて土方を見た。そして、心得顔でうなずくと、に目を向けて質問をした。
「君。相反する約束を複数してしまった場合、神族の方はどう対処されるのですか?」
「その場合は、条件調整をします。約束が大まかであればあっただけ、調整はしやすいですが、細かい内容を約束していても、どこかしらで調整できるものです」
「そうですか。条件調整というのは、難しいのですか?」
「それほど難しいことではありません。相手が同意すれば、大抵のことは変更できますから。……ふふっ、神族の約束なんて、たいそうなことのようですけど、結局大事なのは『約束を違えなかった』という事実だけなんですよ。……昔はもっと厳密で、神聖だったそうですけど」
「それはよいことを聞きました。なら、君は江戸に戻る必要はありませんね」
訊かれるままに答えたの言葉を聞いて、山南がにっこりと微笑む。
「え?」
「まだ気づきませんか?」
にこにこと笑う山南の顔をきょとんと見つめたは、少しの後に山南の言いたいことを理解して、「あ!」と声を上げた。
「わたしの説明は合っていますよね、土方君?」
「山南さんには敵わねえな」
山南の確認に、土方が苦笑いしてうなずく。それは、山南の考えが自分と同じであることを認めていた。
「なんだよ、俺にも説明してくれよ!」
「やめとけば、平助。土方さんと山南さんがたどりついた答なんて、きっととんでもなく腹黒いに決まってるし」
わけがわからずに藤堂が叫ぶのを、とても失礼な物言いで沖田がなだめる。永倉や原田がなにも質問をしないのも、言わないだけで、沖田と同じように考えているからだろう。
「で、どうするんだ、?」
をまっすぐに見たまま、土方が問いかける。
「おまえがどうしても帰らなきゃならねえ、帰るって言うなら、俺はこれ以上止めねえ。あとはおまえが決めろ」
それだけ言うと、土方はの答えを待つ。
土方の視線をまっすぐに受け止め、はきゅっと息をつめて威儀を正す。答はもう、決まっていた。
許されるのなら。
いや、許されなかったとしても。
「わたくしは、土方殿の力になると誓いました。この誓いを果たさないうちに、お傍を離れることはできません」
瞳に強い光を宿して言葉を発するを見つめ、土方の口元に知らず淡い微笑みが上る。
「必ずや、この誓い、果たします」
きっぱりと言い切ったの声が、広間に響き渡る。誰も一言も発しない中、土方が一つうなずいた。