月明かりの中、近藤の部屋に土方と沖田の姿がある。近藤は湯飲みを置くと、土方に問いかけた。
「トシは、を助けた時のこと、覚えているのか?」
「うん?」
「ほら、さっきが言ってただろう? 多摩で、猟師の罠にかかったところを助けられたって」
「……ああ」
近藤に言われて、土方はようやくなんのことを訊かれていたのか認識する。そして、微苦笑を浮かべた。
「確かに、狐を助けたことはあったぜ。に言われるまで、そんなことしたのも忘れてたけどよ」
「土方さんが動物助けるなんて、どういう風の吹き回しだったんですか?」
にやにやしながら沖田が突っ込む。そこだけを聞くと、らしくないことをした自覚は、土方にもあった。だが、別に善行のつもりでしたわけではない。
「その何日か前に、隣村の連中と喧嘩したの覚えてるか? 罠は連中の仕掛けたもんだったんだよ。それで、嫌がらせついでに罠を外したんだ」
「だからって、薬まで塗るってのは、やっぱり他に理由があったんじゃないんですか?」
「別に。たまたま行商の帰りで、薬背負ってただけだ」
「狐に石田散薬を飲ませたのか!?」
石田散薬は土方が行商をしていた薬だが、酒の熱燗で服用することになっているものだ。近藤が驚くのも無理はない。土方は「違う」と笑って首を振る。
「さすがに、狐に酒はねえだろ。使ったのは、ついでに持ってた軟膏の方だ。やけに毛並みがいい狐だったから、もしかしたら金持ちの家の愛玩用なんじゃねえかと思ったんだよ」
まさか、お稲荷さんの姫さんだとは思いもしなかったぜ。と土方はつぶやく。近藤は何度もうなずいていたが、ふと思いついた表情で土方を振り返った。
「ところで、トシ。結局あれはどういうことだったんだ?」
今晩の、帰らなくてはならないはずのを留まらせた論法について、近藤はまだよくわかっていなかった。
「どうして、は帰らなくてもいいことになったのか、よくわからないんだが」
そのは、再び術で耳と尻尾を隠し、もう自室に引き取っている。さすがに疲れたのか、いつになく素直だった。
土方は「ああ」と言って近藤に向き直る。近藤の隣の沖田も土方を見ているので、沖田もそれなりに興味を持ってはいるらしい。土方はふたりに説明を始める。
「『神は約束を違えない』なら、が俺の役に立ちたいと言っていた言葉を約束にしちまえば、は江戸に帰れなくなる。それだけだ」
「でも、それだったら、さんはさっさと土方さんの問いに『そうだ』って言っちゃえば良かっただけじゃないですか。迷って返事しなかったってことは、それだけじゃなかったってことですよね?」
沖田の問いに、土方はうなずく。
「まあ、そうだな。が父親と交わしたのは約束だったが、俺の役に立ちたいと言ってたのは約束じゃなくての願いだった。だから、はまず父親との約束を優先しねえといけねえと思い込んでたんだろう」
「…ああ、そうか。だから、トシはの願いを約束ということにしてしまえと言ったんだな?」
「そういうことだ、近藤さん。がそれにすぐに気付かなかったときは、どうしたもんかと思ったぜ。俺がうかつに説明して、確信犯は無効なんてことになったら、打つ手がなくなっちまうからな。幸い、山南さんがすぐに気付いて、助け舟を出してくれたってわけだ」
「で、それに気付いたさんが、その方法に乗った、と」
沖田の確認に、そのとおりと土方はうなずく。
「が帰ると言い出したときは、どうなるもんかと思ったが、糸口さえつかめれば、大した話でもなかった。……あとはと実家の問題だ」
土方はなんでもなかったように言うと、月を見上げて湯飲みを手に取る。
そのなんでもなかったような態度に、実はあの瞬間ものすごく動揺していた事実をかえって感じて、近藤と沖田は顔を見合わせて忍び笑った。
ことりと、は筆を置く。目の前には、書き上げたばかりの書状があった。土方に自分の素性がばれたが、交わした約束のために社には戻れないと兄に宛てて書いた手紙だ。
すぅっと神力で墨を乾かすと、呼び出した使いの狐に書を託す。狐は書を咥えてふっと姿を消した。
狐が消えた虚空を、微動もせずにそのまま見つめる。
兄は、どう返事してくるだろうか。父の出した条件を変更してくるだろうことは、間違いない。内容はおそらく、二度と社に戻るなとか、今後は一族として扱わないとか、そんなところか。
自分のことをとても愚かだと、は思う。兄の出す条件がどうであれ、これでもう社には二度と戻れない。それ自体はいい。だがもし、土方の傍にもいられなくなったら……。
神族と言えばたいそうな存在に聞こえるかもしれないが、ただ人間にはない力を持っているだけにすぎない。神力が使えると言っても万能ではない。そして、人間と同じように、食事をしなければ飢えるし、凍えれば死ぬ。
そんな自分が新選組に居られなくなれば、あとは一人で行き場もなく彷徨うくらいしかない。活計を得る気力があれば別だが、なければ、どこぞで行き倒れるのだろう。
それでも、土方に促されるままに、は戻れない道を選んだ。たったいまこのとき、土方が伸ばしてくれた手を取りたいがためだけに。
「……………仕方ないわ」
ぽろりとつぶやきが零れ落ちる。誰にも聞かれることがない声は、静かな部屋に溶けて消える。
「だって、好きなんだもの」
土方には言えない感情。口にしても、誰も応えてくれない。まして、土方が受け止めてくれるはずもない。わかっているけれど。
「好きなんだもの……」
それがを動かすすべてだった。
それから半月ほど経って、の許に1通の手紙が届いた。
差出人を見たは、さっと表情を硬くする。そして、封を切ろうとしてためらう、ということを数度繰り返した。困ったは、少し迷って、思い切ったように土方の部屋へと向かった。
「土方殿。すこし、よろしいでしょうか」
「いいぞ」
土方の返事がして、は中に入った。土方は勘定方から提出された帳簿を見ているところだった。
「どうした?」
帳簿を閉じてに向き直った土方が、の手の中の書状に気付く。はうなずいた。
「江戸の兄から、返事がきました。これから読むのですが……土方殿、一緒に読んではくださいませんか」
「いいぜ」
土方がうなずき、はほっとして書状を土方に差し出した。土方は一瞬驚いた表情を見せたが、が自分で開ける勇気がないのだとすぐに察して、書状を受け取ると、封を切って広げ、に渡した。
内容は、の京都滞在を認めるものだった。条件は、親しい者を除いた人間に神族と露見しないこと、兄の許しがあるまでは社に戻らないこと、の二つ。一族から除名されるかと思っていたは、思っていたよりも優しい条件に安心する。
土方もの肩越しに書状を読み終えると、つと離れて座り直した。
「実家から戻ってくるなと言われたってのに、この言い方も、おかしいかもしれねえが……よかったな、」
「はい。これも、土方殿のお知恵のおかげです。ありがとうございました」
書状を畳んだは、深々と土方に頭を下げる。土方はすこし気恥ずかしそうにうなずいた。
「お忙しいのに、お時間いただいて、すみませんでした。わたくし一人では、手紙を読む勇気が出なくて……」
「別にいいぜ。このくらい、大したことじゃねえ」
そう言いながらも、土方の手はもう帳簿を広げている。はふたたび帳簿を読み始めた土方に声をかけた。
「土方殿。わたくしがお手伝いすることはなにかありますか?」
「いや、いまは特にねえな。自由にしてていいぞ」
帳簿から目を上げないまま、土方が答える。は「はい」とうなずいた。
「ご用ができましたら、ご遠慮なくお呼びください」
「ああ」
書状を懐にしまい、は一礼して土方の部屋を出る。心のつかえがひとつとれて、の表情はふんわりと明るくなっていた。
夕方、風呂を済ませたは、浴衣を着て縁側に出ていた。
今日は髪を洗った。長い髪はすぐには乾かない。何度も手拭いで水気を取り、風に晒しながら、は髪が乾くのを待つ。
江戸では洗い髪のまま街を歩くことは粋だったが、京ではどうやら、それは無作法のようだ。もっとも、は屯所の外に出ること自体多くないし、湯を使った後に外出する用事もない。
「ずいぶん色っぽい恰好だな、」
声をかけられて振り向くと、そこには原田が立っていた。は自分の隣を勧めると、ふふっと笑う。
「そんなこと言ってくれるの、原田殿くらいよ」
「そうか? 新八も言うと思うぜ?」
「でも、そのお二人だけよね」
「剣のことしか頭にねえ野郎共と、隊のことしか頭にねえ副長しかいねえからな、新選組には」
言外に自分に色気などないと言うに、原田は肩をすくめた。の魅力を、言わないだけで感じている者は、少なくないはずだからだ。
「いいんじゃねえか。たった一輪の屯所の華だろ」
「千鶴ちゃんもいるわよ」
「千鶴はあの格好だからなぁ。可愛いが、色気とか華とかって話になると、まだまだだな」
男所帯だからといって、女であるが無理に委縮する必要はない。原田の気遣いに、は苦笑した。
「ちょっと、風が冷たくなったか?」
ふと、原田が空を仰いでつぶやく。そう言われたらそんな気もすると、も空を見た。
「湯上りで風に当たったら、冷えちまうんじゃねえか」
「そうかもしれないけど、寒くはないわ。涼しくて気持ちいいくらいよ」
「そうか? けど、濡れ髪が冷えたら、まずいんじゃねえのか」
言いながら、原田はの髪を一房すくった。まだ幾分か水気を帯びている髪は、乾いている時と比べて、やや重い。そして、ちょっと驚くくらいには、冷たかった。
「もう中に入った方がいい。近藤さんたちが江戸に発てば、土方さんがその分忙しくなるんだろ。も体調しっかりしとかねえとな」
「そうね……」
確かに原田の言うとおりだと、がうなずいたときだった。
「と原田か? なにしてんだ、こんなところで」
土方が廊下の角でこちらを見ていた。通りかかりに、やたらと近い距離で語らう二人を見かけたのだろう。眉間には、きつく皺ができている。
土方は二人のすぐ隣まで来ると、ふと視線を落とした。その先に、の髪を絡めている原田の手がある。原田はすまなさそうに苦笑して、手を離した。
「じゃ、俺はもう行くわ。、あんまり体冷やすなよ」
「ありがとう、原田殿」
原田が立ちあがり、土方と一瞬目を合わせる。そして、立ち去りざまにからかうようにつぶやいた。
「妬くぐらいなら目ぇ離すなよな」
「原田!?」
土方が振り返ったときには、原田はもう廊下の角を曲がって行ったところだった。
「土方殿?」
原田の声が聞こえていなかったは、土方の様子を心配そうに見上げる。浴衣の肩に生乾きの髪が散っていて、はっとするような色気がある姿だった。
「なんでもねえ。おまえももう部屋に入れ」
動揺する気持ちを隠すように、ぶっきらぼうになった土方の言葉に、は「はい」と微笑む。土方が気遣ってくれたことが、には嬉しかった。
そのの裏のない笑顔を見て、土方はちりりと罪悪感を覚えた。