桜守 12

 8月に隊士募集のために江戸に下っていた近藤と藤堂が、伊東甲子太郎という人物を隊士として獲得したのは、秋になりかける頃のことだった。

 しかも、伊東のために参謀という役職を設け、参謀は組長より上の立場になるという。近藤が江戸から送ってきた手紙を井上が読んでくれたとき、は口には出さなかったが、なんの摩擦もなく伊東が迎え入れられることはない予感がした。それは、井上が読む内容を聞く土方や永倉、山南の表情を見ていると、あながち間違いでもないように思えた。

 その予感が外れなかったと悟ったのは、屯所に伊東が着いた10月のある日のことだった。

 広間で近藤から幹部たちに引き合わされた伊東は、隅に座っているに目を向けた。

「ところで、あの女性はどういう方なのかしら。ご紹介いただけません、近藤局長?」

「あ、ああ……。彼女は君と言って、土方君の補佐をしてくれています。大変気が利く優秀な女性ですよ」

「そうですか。隊士に女性がいるとは思いませんでしたわ」

 意外そうに近藤を振り返る伊東に、近藤は慌てて首を振る。

「いや、君は隊士ではありません。職務も土方君の補佐に限定したものです」

「え?」

「まあ、あとは、この通りの男所帯ですから、炊事当番の手伝いや、幹部会議の記録取りなんかの雑用もやってくれています。いつも快く引き受けてくれるので、本当に助かっているんですよ」

「近藤局長。失礼ですけど、そのお考えは改められた方がいいと思いますわ」

 満面の笑顔でを紹介する近藤に、伊東はぴしゃりと言い放った。途端に、広間に凍りつくような沈黙が下りる。その雰囲気を物ともせず、伊東は言葉を続けた。

「隊士ではないということは、つまり部外者ですよね? 部外者の、しかも女性が隊の中枢に関わるなんて、おかしくありません?」

「伊東さん。は俺の権限で補佐に置いてる。言いてえことがあるなら、俺が聞こう」

 表情を険しくした土方が、割って入る。ぎりっと土方に睨まれて、しかし伊東はけろりとして繰り返した。

「それなら、土方副長。幹部どころか隊士でもない女性を補佐にするのは、お控えになってはいかが? あまりよろしいこととは言えませんことよ。ほかの隊士の目もありますし」

「それはどういう意味だ。奥歯に物が挟まった言い方してんじゃねえ」

「なら、直截に申し上げますけど、いくら副長だからと言って、妾を堂々と屯所で侍らすのは、いかがなものですかしら。ほかの隊士たちだって、家族を置いて屯所で生活していたり、必要なときには島原まで行ったりしているのに、ご自分だけ妾をお手元に置いて、示しがつかないとは思われません?」

 伊東の言葉を聞きながら、土方の怒りが順調に増していることを、長い付き合いの者たちは気配で感じ取る。

 鬼の副長を本気で怒らせたらどうなるか。それを知らない伊東は、さながら剣の山を裸足で登っているようなものだ。

「思わねえな」

 土方の口から、わかっている者は思わずすくんでしまうほど低い声が発せられる。

「まず、勘違いしてるみてえなんで言っておくが、伊東さん、は俺の妾じゃねえ。あんたの常識は知らねえが、少なくとも俺の常識は、職場で妾を侍らすなんざ武士にあるまじき行いだ」

 剣呑な光を放つ土方の目が、伊東を射すくめる。思ってもみなかった土方の反応に、伊東は面食らっていた。

「それから、を補佐にしてるのも、私情じゃねえ。俺の邪魔にならずに俺の横で仕事ができる人材として評価してるから、補佐として置いてる。俺は身近な人間ほど厳しく評価する性質なんでな」

「あ…あら、そうでしたの」

「隊士にしてねえのは、女だからだ。剣も使えねえ女が隊士として副長補佐をしてたら、剣の腕を売り込んで隊士になった連中の立場はどうなる? それこそ、気に入りの女を贔屓してるようにしか見えねえだろうが」

 まさかここまで理詰めで反論されるとは思っていなかった伊東は、ぐぅっと押し黙る。

「どんな高名な剣術家だか論客だか知らねえが、あんただけが正しいなんて思ってんじゃねえぞ。新選組の隊規は絶対だが、隊規とあんたの狭ぇ料簡を混同するんじゃねえ」

 土方の迫力に圧された伊東は、まるでそこに踏み止まろうとするかのように、土方の視線を受け止める。

「そ…それでも。隊士ではない女を重用する理由なんて、誰だって気になるでしょうし、女だってことが気になるような連中なら、誰だって勘ぐるものじゃありません? わたしはただ、一般論としてどうなのか、って言っただけですわよ」

「あんたの考えを一般論にすり替えて正当化してるんじゃねえよ。俺にこき使われるのは、隊士でもねえ女だ、隊士の自分たちじゃねえ。そう思ってるからこそ、隊士たちは本来の隊務に安心して専念できるし、俺が特別扱いしてるように見える存在がいても納得できる。そこを理解できねえようじゃ、話にならねえな」

 土方にあっさりと論破されて、伊東はわなわなと震えながら黙り込んだ。試衛館派の幹部たちは全員、内心で「よっしゃぁ!」と快哉を叫んだが、おくびにも出さずにやり過ごす。その場の気まずい雰囲気を感じ取ったのは、近藤だった。

「あ、あー…、……そうだ、伊東さん。ほかの隊士たちにも紹介したいので、道場に行きませんか。北辰一刀流の使い手である伊東さんが指南してくれるとなれば、隊士たちの士気も上がると思うのですが」

「あら、それは素敵なお誘いですわね。喜んでご一緒しますわ」

 助かったとばかりに、伊東は近藤の誘いに乗ると、広間を出ていく。あとに残った幹部たちは、声を出さずに「よしっ!」と拳を握った。

「土方殿。わたくしのせいで申し訳ありませんでした」

 伊東を連れた近藤が十分に広間から離れてから、は深々と頭を下げた。

 自分が押し掛け補佐になんてなっていなければ、土方が伊東にこんな嫌味を言われることもなかったのに。そう思うと、悔しくて仕方がない。は湧き上がる怒りを、ぎゅっと袂を掴んで静かに耐える。

 そのを、痛ましそうに幹部たちが見つめた。

「おまえのせいじゃねえ。謝るな」

 土方はそう言いながら立ち上がると、の前に膝をついた。

「掌を傷つけるな。このあと書き物を手伝ってもらわなきゃいけねえんだ」

 の手を取り、袂を握りしめる手を開かせる。爪が食い込んだ掌は、赤く痕がついていた。

「いいか。最初がどうであれ、俺がおまえを補佐にした。帰ると言ったおまえを引き留めたのも俺だ。おまえが俺の補佐なのは俺の意志だ。俺が決めたことは俺が責任を持つ。おまえが余計な責めを背負う必要はねえ」

 言い聞かせる土方の声が、優しくの中に染み込んでいく。はこくんとうなずいた。




 夕方、が廊下を歩いていると山南に呼び止められた。

「すみません、君。いま、すこし時間をもらうことはできますか」

「ええ、大丈夫です。どんなご用でしょうか」

「すみません、ここではできない話なのです。わたしの部屋まで、来てもらえますか」

「わかりました」

 はうなずいて、先に立つ山南の後について行く。夕闇のせいか、山南の思いつめた面持ちには、すこしも気づいていなかった。




 伊東と入れ違うように、珍しく土方が道場に顔を出した。その姿を見つけた原田は、驚いて近づく。

「土方さん。珍しいな」

 土方が自分の稽古以外の目的で道場に来ることは、確かにとても珍しいことだった。自分の稽古には、土方は早朝の時間を使う。こんな時間に道場に来ることは、めったにない。

「時間が空いたんでな。たまには隊士の稽古を見るのもいいかと思ってよ」

 苦笑する土方の答えを聞いた原田は、うなずいたあと、きょろりと周囲を見回した。

は? 一緒じゃねえのか?」

? ちょっと前から、自由にしてていいって言ってあるぜ。その辺でのんびりしてるか、勝手場にいるんじゃねえか」

 すると、原田はちょっと顔をしかめて、土方との距離を詰めた。いったいなにかと身構える土方に、声を低めて尋ねる。

「山南さんの居場所は把握してるか?」

「いや? 山南さんがどうした?」

 土方に訊き返されて、原田はしゃべったものかどうかと数瞬悩む。だが、やはり話した方がいいと思い切って、土方に耳打ちした。

「このところ、山南さんがずっとを見てる。その目つきがやけに思いつめてて、引っかかるんだ。土方さん、気付いてたか?」

「いや」

 短く答えた土方の眉間には、くっきりとしわが刻まれている。山南の様子は気にしていたが、それは左腕の怪我とそれが原因の精神的負荷を心配してのことであって、に対する不審な視線にはまったく気づいていなかった。

「礼を言う、原田。すぐに山南さんとの居所を確かめる」

「手伝うぜ」

 大して広いわけでもない屯所内を探すのに、人手は二人もいらない。土方はそう思ったが、独りでいいと断る気が起きず、そのまま二人で道場を出た。




 は山南に促されるままに彼の私室に入る。向かい合って座ると、山南がにこりと微笑んだ。

「そんなに緊張しないでください。頼みごとがあるだけなのです」

「頼みごと、ですか? わたくしに?」

「ええ。君なら、できるのではないかと思ったものですから」

 穏やかににこにこと微笑む山南を見て、は得体の知れない不安を感じる。山南はいったいなにを頼みたいと言うのだろう。

「わたくしでお役に立てることなら、いいのですけれど」

 不安を押し殺しつつ微笑むと、山南は真剣な表情で尋ねた。

「回りくどい前置きは意味がありませんから、単刀直入に伺います。君は、神力で怪我を治したりすることは、できますか?」

「あ…っ」

 思いがけない問いに、はつい叫んでしまった。

 そうだ。山南がなりふり構わずに願うことと言ったら、左腕の治癒しかない。土方個人の使用人であるに、わざわざ自室に呼び出してまで頼むことなのだ。予想して当然の内容だったのに、はそれを言われるとは、露ほども考えていなかった。

「できるのですか、できないのですか?」

 叫んだきり、黙り込んでしまったに、山南がじれったそうに問いを重ねる。は困ったように首を傾げた。

「できると言えば、できます。でも、山南殿の腕を治すことはできません」

「どういう意味です?」

「わたくしの力は、自然治癒力の促進です。神族はどんな傷でも痕も残らずに治ります。ですが、自分以外の怪我を治すとなると、傷がふさがっていないうちでないと、治せません。それに、それ以上回復しない損傷を回復することもできません。ですから……いまの山南殿の腕は、わたくしには治せません」

「そんな……」

 ようやく見つけた回復の希望を絶たれ、山南は絶句した。山南にそんな顔をさせるしかできないことが悔しくて、悲しくて、は眉をきつく寄せてうつむく。

「山南殿が怪我をしたばかりの時なら、きっと治せました。完全には無理でも、動かすことくらいはできるようにできたと思います。でも、傷はふさがって、自然治癒は完了してしまいました。もうわたくしにはなにもできません……」

「なら、どうして、わたしが怪我をした時になにも言ってくれなかったのですか!? あのとき、君は屯所にいたでしょう!?」

 すでに手遅れなのだと聞かされて、山南はつい声を張り上げた。いまは手遅れだと言うなら、なぜ手遅れでないときに言ってくれなかったのか。冷静なら言うはずがない問いだ。なぜなら、そのときのは……

「そのときのわたくしは、まだ、自分が神族であることを明かしていませんでした。明かせる状況にありませんでした。申し訳ありません」

 は深々と頭を下げる。いくら事情があったとは言え、山南を見捨てたに等しい行為であったことに違いはない。

 畳に額を擦りつけるように頭を下げるの姿は、心から詫びているとしか見えない。だが、それはかえって山南の感情を逆撫でた。

「詫びてくれなくて結構です。あなたが詫びたら、時が戻って、わたしの腕を治せるのですか? 違うのでしょう? なら、謝罪は無意味です」

 刺々しい言葉で責められ、は深くうなだれたまま、顔を上げることはできなかった。

「本当にすまないと思うなら、わたしのこの左腕が治る方法を教えてください。神族は自然治癒力が強いのでしたね。わたしがその治癒力を授かる方法はありませんか」

 山南の問いに、少し考えたは、ためらいながらうなずいた。


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