「おっ、斎藤。なあ、見なかったか?」
原田が通りかかった斎藤を呼び止めると、斎藤はすっと視線を背後に向けた。
「なら、山南さんの部屋に入っていくのを見た。…なにかあったのか?」
「んー、まあ、ちょっとな」
山南が挙動不審での身が心配だとは、うかつに言えない。歯切れ悪く答える原田の横から、土方も斎藤に尋ねる。
「山南さんの部屋ってことは、山南さんと一緒ってことか」
「おそらく。俺は山南さんの姿は見ていませんが、が部屋の主に無断で中に入るとは考えられません」
淡々とした斎藤の回答は整然としていて、土方はそれもそうだとうなずく。
「副長、がどうか?」
斎藤が訊ねると、土方は思案顔で山南の部屋を振り返った。自然、原田と斎藤の視線もそこへ向く。
その時だった。
「きゃあっ!」
山南の部屋からの声が聞こえて、3人は一瞬顔を見合わせると、山南の部屋に駆けつけた。
「山南さん、開けるぜ」
「、どうした!?」
障子を開けて飛び込むと、そこには、を押し倒した姿勢の山南がいた。ぎくりとした表情で土方たちを振り返った山南に組み敷かれたは、泣くのを我慢している顔で土方を見上げる。
「!」
「山南さん、なにやってんだ!」
原田が山南を引き起こし、土方はを抱き寄せる。はすがるように土方にしがみついた。だが、それは一瞬のことで、は慌てて原田を振り返る。
「駄目、原田殿。山南殿を放して」
「?」
「山南殿は悪くないわ。山南殿を傷つけてしまったわたくしがいけないの。だから」
一生懸命山南を弁護するを、土方はぎゅっと抱きしめた。なにがあったかは知らないが、山南を庇えるくらいには無事だったということで、土方は深く安堵していた。そして、斎藤に向かってをそっと押しやる。
「斎藤。を連れていけ」
「御意」
「土方殿」
「部屋で待ってろ。あとで話を聞きに行く」
斎藤に背を押され、それでも心配そうに土方を見つめるに、土方は小さく微笑んだ。
「大丈夫だ。山南さんをどうこうするつもりはねえよ」
すると、はほっとしてうなずき、斎藤と一緒に部屋を出て行った。
「山南さん、あんたほどの人が、いったいどうしたってんだ」
力なく座り込んでいる山南を、土方と原田が見下ろす。山南は悔いる表情でうつむいていた。
「昼間、伊東さんがあんなこと言ってきたその日のうちにこんなことしてたら、ますますの立場が悪くなるじゃねえか」
原田の言葉を聞いた山南は、「ああ……」とため息を吐いた。
「そうですね。原田君の言うとおりです。わたしとしたことが……。すみませんでした」
力のない自嘲の声が、謝罪の言葉を発する。山南が自分のしたことをきちんと受け止めて悔いていることは、それだけで充分伝わってきた。
「君にも、伝えてもらえませんか。わたしが謝っていたと」
「そういうのは、自分で伝えた方がいいんじゃねえのか」
「そうだとは思いますが……しばらくは、わたしの顔も見たくないのでは、と思いますから」
山南の言うことももっともだと原田はうなずいて、伝言を預かった。
それまで、山南をまっすぐ見て静かに会話を聞いていた土方が、口を開く。
「ひとつだけ、訊いていいか。山南さん」
「なんでしょうか」
「山南さんは、のことをそういう対象として見ていたのか」
「いいえ」
迷うことなく返ってきた返事に、土方の表情がふと険しくなる。
「美しい人だと思いますし、彼女のおかげで気持ちが和らぐことも、ままありますが……君をそういう目で見たことは一度もありません。これからもないでしょう」
「そうか」
淡々とうなずく土方に、山南は懺悔するように続ける。
「好きでもない男に、道具として押し倒されて、とても怖い思いをしたと思います。それでもわたしを庇うほど、罪の意識を持たせてしまうことさえしました。わたしが言うことではないですが……土方君、君をよろしくお願いします」
「ああ」
山南の認識がに害を及ぼすものでないなら、頭を冷やした山南がになにかすることはないだろう。
本心では、言いたいことも訊きたいこともある。だが、それを思うままに口にすることがいいとは、土方には思えない。山南の認識を聞けただけで、充分だった。を脅かしたことへの怒りを、土方はぐっと飲み込む。
「山南さん。このことはどこに対しても伏せておく。あんたにもいろいろあるんだろうが、何もなかったようにふるまってほしい。頼めるな?」
「ええ。それがわたしのするべき償いでもあるでしょうから」
山南は穏やかに承諾する。山南の返事を聞いた土方と原田は、静かに山南の部屋を出た。
「いったいなにがあったんだろうな」
山南が冷酷な面を持っていることは知っているが、それにしても、春を売っているのでもない女を道具として抱こうとしたというのは、普通ではない。
原田の疑問に、土方はさらりと答える。
「それはに訊けばわかる話だ。俺たちがあれこれ考えてもわかるわけがねえ」
土方の態度はずっと、凪いだ海のようで淡々としている。だがそれは、個人的な感情を表に出したがらない土方の精一杯の努力であることに原田は気付いていた。おそらく、内心では、怒るに怒れない相手への憤怒が渦を巻いているのに違いない。
向かったの部屋は、無人だった。斎藤が土方の命令に従わないことなどあるのかと二人は訝しんだが、ふと思いついて土方の部屋に向かう。案の定、斎藤に付き添われたがそこにいた。
「こっちにいたのか」
原田のつぶやきに、斎藤がうなずく。
「の部屋は、誰が来るかわからなかったのでな。が落ち着くには、こちらの方がいいと判断した」
「あの…、山南殿は?」
心配そうに土方を見るに、すぐには答えず、土方はの向かいに腰を下ろす。斎藤と原田が、廊下を警戒するように障子際に座った。
「山南さんには、なにもしてねえ。約束しただろ」
土方が答えると、はほっとした笑顔を見せた。自分を手籠めにしようとした男の無事を喜ぶ様子に、土方は複雑な気分になる。
「なにがあったのか、説明できるか?」
「できます」
の心理状態を気遣った問いに、はためらいなく答える。
「山南殿は、左腕を治す方法を模索していました」
は山南に部屋に呼ばれて、交わした会話を説明する。山南がそこまで腕のことを思いつめていたと知って、土方も原田も斎藤も、重いため息を吐いた。なんとかしたくても、どうにもできない。現実は無情だ。
「山南殿に、謝るくらいなら、左腕が治る方法を教えてほしいと言われて……わたくしは、神族になればあるいは、と答えました」
「神族に? なれるもんなのか、人間が」
「ええ、なれます。神族と婚姻を結べば」
の答えを聞いた3人は、それぞれに舌打ちしたり、ため息を吐いたりした。
神族と婚姻を結ぶ。言葉で言えば簡単だが、実際にはあり得ない話だ。婚姻を結ぶ相手である神族に、いったいどうやって出会えばいいのか。20数年生きてきて、出会った神族はいまのところ一人だ。実行不可能な方法を示された山南が逆上したのは、容易に想像がついた。
「わたくしがうかつでした。山南殿に、なんとか腕を治す方法を教えたいと思うあまりに、その方法が実現できるかどうかも考えずに口にしてしまいました。……ですから、今日のことは、浅はかなわたくしがいけないのです」
「……」
「ごめんなさい。わたくしが謝って済むことではないですけれど……。山南殿にも、どうかお伝えください。わたくしはしばらく、山南殿に会わないようにしますから」
頭を下げて詫びるに、原田が声をかける。
「。その山南さんから伝言だ。すまないことをした、しばらくは顔を見せないようにする、ってよ」
「ああ……」
山南を傷つけてしまったと、は嘆息する。そんなつもりはなかったのに……。でも、それは言えない。
「」
ずっと話を聞いていた土方が口を開く。が顔を上げて土方を見ると、土方は微笑を浮かべていた。
「が山南さんによかれと思って言ったことは、みんなわかってる。それで怖い思いをしたのは、山南さんじゃねえ、自身だろ。あまり自分を責めるな」
「土方殿」
「事情はわかった。山南さんを咎めることはしねえ。だからももう気に病むな。……怖かったな」
土方の労わりの言葉を聞いたの目から、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。男に組み敷かれた恐怖が、いまになって甦ってきていた。
土方が立ち上がり、のすぐ隣に座り直す。そして、の肩に手を伸ばすと、自分の胸に抱き寄せた。
「いいぜ、落ち着くまで泣いちまえ。まだ怖いなら、しばらくここに寝起きすりゃいい。無理することはねえ」
ぽんぽんとあやすように背を叩かれて、安心したは土方の着物を掴み、その胸にぐいぐいと顔を押し付けて泣いた。素直に甘えるを、土方はただ黙って受け止めていてくれた。
いつのまにか、原田と斎藤が席を外していた。はそれにも気付かないほど、ひたすら泣いて土方に甘えた。
結局、は土方の部屋に厄介になることはなく、それまでと同じ日常がなにもなかったように繰り返されることになった。
いや、正確には、伊東が遠まわしに試衛館派に嫌味を言う―――という新たな日常が加わった。
山南はなにもしていないように振る舞い、もなにもされていないように振る舞う。ただ、二人っきりになることだけが、なかった。
年が明け、月が移っても藤堂が江戸出張から帰ってこないまま、屯所移転の話が持ち上がる。事件が起きたのは、その日の夜更けだった。
しのびやかだが慌ただしい足音がいくつもして、は目を覚ました。
ただごとではない。
そう直感して、布団を抜け出したは、寝間着の上に羽織を羽織って部屋を出る。二月の京の夜の冷気が、刺すように襲ってきた。
人の気配がする広間に向かって、足音を忍ばせながら急ぐ。着いた先には、試衛館派の幹部たちが顔をそろえていた。彼らが取り囲んでいるのは、気絶している白髪の山南だ。
「山南殿…!」
思わず叫んだを、その場の全員がばっと振り返る。その視線は、敵を警戒するものだった。
「」
そこにいるのがだとわかり、に向けられた視線から殺気が消える。土方が輪を抜け出てくると、気遣わしげにの肩を掴んだ。
「どうした、こんな夜中に」
「なにか、よくないことが起きた気配がして、気になったものですから。……土方殿、山南殿になにがあったのですか?」
「ちょっと、もめ事があっただけだ。が心配するようなことはなにもねえ。いいから、おまえは休んでろ。こんな形じゃ、風邪をひく」
言いながら、土方はの羽織をきつくかき合わせる。そしてぽんぽんとなだめるようにの肩をたたいて押しやり、土方は集まった面々に指示を出した。井上に山南の付添を、永倉には前川邸の、原田に八木邸玄関の、斎藤に伊東派の見張りを命じて、沖田に千鶴を部屋まで連れて行くよう指示する。
「平助がいりゃ、山南さんの付添に出来たのにな」
動き始めた仲間たちの背を見送って、土方が忌々しげにつぶやく。
井上の剣の腕前では、山南が暴走したときに止めることはできない。いや、腕があったとしても、優しい井上は山南に斬りつけることなどできないのだろうけれど。
土方は大したことではないと言ったが、そのつぶやきで、場合によっては腕ずくで山南を制止しなければならない事態なのだと知れた。寒気とは違う悪寒が、の背筋を走る。
「土方殿、山南殿はどうしたのですか? あの白髪は? 教えてください、なにがあったのですか!?」
山南は踏み出してはいけない領域に踏み入れてしまった。そんな予感がして仕方ない。
人が、踏み出してはいけない領域。それは、神とか、人外とか、化け物とか呼ばれる領域に他ならない。だとすれば、山南は人であることを捨てたのだ。