桜守 14

 人でないには、人を捨てることの重みはわからない。でも、自分が神族であることを捨てるのと同じことなのだとするなら、自分自身を、魂を、捨てることと同じだった。

 恐怖を、は全身で感じる。暗い闇の中に吸い込まれていくようだ。その恐怖さえ甘受するほどの決意を、山南が抱いていたと言うのなら、それはどれほど追い詰められてのものだったのだろうか。

 ぞわりと、鳥肌が立つ。想像もつかない山南の心情は、には恐怖であり、不安であった。

 必死の表情で尋ねるに、土方は仕方なさそうなため息を吐く。

「わかった。話してやるから、着替えてこい」

「はい」

 この機を逃すまいと、はうなずいて、急ぎ足に自室へ向かった。すでに眠気などさっぱりと消えていた。

 手際よく着替え、土方の部屋に行く。行燈を点けてを待っていた土方は、が質問するよりも先に、今夜の出来事を語ってくれた。

 山南が、秘密の薬を飲んでしまったこと。その薬は、幕府の密命で改良を進めていたものであること。だが、副作用がひどく、雪村綱道失踪後は誰にも飲ませていないこと。

 耳を疑うような話を、土方は淡々と話していく。膝の上にそろえたの手が、小刻みに震え始める。

「その薬は、そんなに恐ろしいものなのですか」

「ああ」

 うなずいた土方は、薬の作用を説明する。聞いて行くうち、は背筋が凍るような思いがした。

 その症状は、初めて千鶴に会った夜、土方たちと追いかけた隊士たちが見せていたものだ。あの彼らと同じになってしまうというのなら、それでは、本当に化け物になってしまうではないか!

「そんなものを、山南殿は」

「そうだ」

 土方は苦悩に満ちた声でうなずいた。

「それほど危険とわかっているなら、なぜ捨ててしまわなかったのですか? 幕府の命令があったから?」

「いや」

 ただ疑問を口にしただけのに、土方は締め付けられているような声であえぐように答える。

「あの人は、新選組ができる前から、俺の兄貴分みたいなもんだった。薬を捨てちまわなかったのも、山南さんの腕を治すためだった。俺たちには山南さんが必要なんだ。……あの人を失うわけにはいかねえんだよ」

 それはとても苦しみと悲しみに満ちた声だった。

 山南のためにとってあった薬。山南の腕と、その怪我によって傷ついた心を治すための薬。だが、改良がまだ完璧ではない薬。山南の正気を奪うかもしれない薬。

 山南が飲むのが速すぎたのか。改良が遅すぎたのか。それとも、いま飲まなくては時機を逸してしまうところだったのか。

 山南がそんな危険な薬に手を出したのは、もちろん、伊東の存在に自分の居場所を脅かされているからだ。だが、そこには関わっている。伊東が入隊したばかりの頃、山南は薬に手を出す前に、の力を借りようとした。それは、山南が薬の危険性を理解していたからに他ならない。

 しかし、は山南の腕を治せなかった。その事実もまた、山南に危険な薬を飲ませた要因の一つではないのか。

 が山南を治せなかったから山南が薬を飲んだなどと、土方はきっと言わない。山南も言わない。だが、は自分に言うだろう、「自分が治せていたら、こんなことにはならなかった」と。

 沈黙の中、自分を責めるに、土方はふと声をかけた。

「そうだ、。おまえ、神の力で、なんとかできねえか?」

「土方殿?」

「怪我を治すのができねえって話は、前に聞いた。だが、たとえば副作用を抑え込むとか、山南さんに副作用が出ねえようにするとか、できねえか?」

「あ……」

 なんと返事したらいいか迷って、は土方を見つめ返した。土方の目は、にすがっているわけではない。ただ、諦めていない。それだけだ。

 それだけだからこそ、土方の眼差しは、なによりも強いとは思った。

 尽くせる手段は、すべて尽くす。敵前逃亡は士道不覚悟。

 まだ自分にもできることはある。も覚悟を決め、きっぱりとうなずいた。

「わたくしには、できません。でも少彦名の一族なら、なにか手立てを知っていると思います」

「スク…なんだって?」

「少彦名様は、お薬の神様です。山南殿が飲んだ薬のことも、きっとなんとかできるはず。ご一族にお願いしてみます」

「そうか。頼む」

 土方がうなずくのを確認して、は一礼すると屯所を飛び出した。

 夜中の真っ暗な道を、提灯も持たずには走る。の目は、星明りで充分周囲を見渡せる。山南が手遅れになる前に、少彦名一族の社に行かなくては。

 一度もあったことがない一族に、突然不躾な頼みごとをするには、見返りの献上品が必要だ。だが、それをしている時間も金子も、にはない。あるのはただ、この身ひとつ。東国稲荷の姫という出自の自分なら、身ひとつだって充分なはずだった。

 は少彦名を祀る社を目指して、ひたすら走る。

 途中、山崎とすれ違ったことにさえ、気付かないほど夢中だった。




 翌朝、試衛館派幹部は重い顔つきで広間に集まる。全員、寝不足で疲れた様子だったが、それを顔に出していないところはさすが新選組幹部だった。

「……峠は越えたようだよ。今はまだ寝てる。……静かなもんだ」

 山南に付き添っていた井上が現れ、静かに伝えると、全体にほっとした空気が流れた。張り詰めていた糸が緩むようにほぐれていくそれは、優しく一同を包んだ。

「山南さん、狂っちまってるのかい?」

「……確かなことは起きるまでわからんな。見た目には、昨日までと変わらないんだが」

 永倉の問いにゆっくりと首を振る井上の答えは、まだ完全な安心を許してくれるものではない。それでも、まずは山南の命が助かったというだけでよかった。

「おはようございます、皆さん」

 場の空気にそぐわない朗らかさで、伊東が広間に現れる。室内をその眼が一周することに気付いて、土方は内心で舌打ちした。全員そろっていないことは、もうばれた。

 参謀という上級幹部の地位にあって、伊東が朝、幹部たちが自然と集まる広間に顔を出さないわけもないが、それでも、今日ばかりはこれほど来てほしくない存在もなかった。

 案の定、伊東は昨夜の騒ぎに気付いていた。なんとか誤魔化そうと、近藤以下、嘘の下手くそな者たちがあわあわと口ごもる。余計なことを口走られる前に沖田が全員を黙らせ、場の収拾を斎藤に丸投げした。

「事情はわかりましてよ。今晩のお呼ばれ、心待ちにしておりますわ」

 上手いこと夜まで時間を稼いだ斎藤の丁寧な対応に気をよくした伊東は、そう言ってうなずくと、いそいそと広間を出て行った。

 入れ違うように、広間に入ってきたのは、山南だった。

「山南さん! ……起きてていいのかい?」

 一晩中付き添っていた井上が気遣うと、山南は穏やかに微笑んだ。

「少し、気だるいようですね。これも薬の副作用でしょう。……あの薬を飲んでしまうと、日中の活動が困難になりますから」

 それはすなわち、山南に薬の効果が現れているということだった。その意味するところは……

「わたしは、もう、人間ではありません」

 微笑んだまま宣言した山南の佇まいには、晴れやかな本人の口調とは裏腹に、どこか悲しさも漂っていた。

 山南の悲願である左腕の回復は叶った。恐れていた副作用も現れていない。山南の日中の活動に支障が出ることは避けられなかったが、得られたもの、回避できたことに比べたら、取り立てるほどのことではないと本人は言った。文句なく…とは言えないが、賭けとしては上々の結果だ。

「ところで、君の姿が見えませんね?」

 ふと山南がつぶやき、井上も「そういえば」と土方に視線を向けた。

「トシさん、はどうしたんだい? 具合でも悪くしたのかい?」

「いや」

 心配する井上に、土方は首を振って心配ないと合図する。

「ちょっと出かけてるだけだ。そのうち戻ってくるだろうぜ」

「けど、昨夜はいたじゃないか。出かけたってことは、夜更けのうちか、夜明け前に出たんだろう? 女性が出歩く時間じゃないよ」

 昨夜の騒動の時にの顔を見ている井上は、すぐにの外出が尋常なものではないと気付く。井上に言われて、近藤や原田など、人の心配をする性質の者が、初めてざわめいた。

「トシ、はどこに行ったんだ?」

 近藤に尋ねられて、土方は眉間にしわを寄せる。

「スク…なんとかってのの神社に行かせた。薬の神だって言うから、山南さんの助けになるんじゃねえかと思ってよ」

 土方の答えを聞いて、険しい表情になったのは、他でもない山南だった。

「わたしのためを思ってくれたのは嬉しいですが、それはちょっと、軽率だったかもしれませんよ、土方君。通常、神に願い事をするときは、供物を捧げるのが通例です。人の生き死にに関わることならなおさら、むしろ最上級の供物を求められても不思議はありません。君は大丈夫でしょうか」

「大丈夫って……。当のが、そもそも神なんだぜ? 神同士で供物とか、関係あるのか?」

 思ってもみない山南の懸念に、土方が当惑する。山南は重々しく首を振った。

「スクで始まる薬の神なら、少彦名のことでしょう。少彦名は古事記や日本書紀に記されている国造りの神です。稲荷神とは別の系譜の神ですから、もし君が頼みごとをしに行ったのなら、願いの内容に見合った供物を求められているでしょう」

 国学にも通じている山南は、易々と状況を分析する。山南の解説を聞いて、土方は顔色を変えた。

は山南さんの無事を願いに行ったんだ。見合う供物って言ったら、自身になるんじゃねえのか!?」

「おそらくはそうでしょう。君自身を、どのように求められるのかはわかりませんが」

「どのようにって!?」

 思わず声を裏返らせる永倉に、山南は氷のような視線を向ける。

「どういう想像をしたんですか、永倉君。……まあでも、その可能性も否定はできません。神に供物として捧げられる場合、嫁になるか、贄になるか、奴婢になるか……いずれにしても、君の身柄は少彦名の管理支配下に置かれると思って間違いありません」

 山南の言葉が終わらないうちに、土方は立ち上がって広間を出て行った。

「トシ!? を迎えに行かないのか?」

 近藤が慌てて声をかけると、にやにやした沖田が「心配いりませんよ」と近藤を止めた。

「総司?」

「ほら」

 沖田が指差した先を、刀を佩いた土方が大股に歩いていく。その背中を見送りながら、斎藤がポツリとつぶやいた。

「ところで、副長はがいまどこにいるのか、把握しているのか?」

 斎藤の指摘通り、土方は屯所の入り口で京の神社をいくつか思い浮かべ、行先に迷った。北野天満宮、八坂神社、下鴨神社、上賀茂神社、地主神社、晴明神社、豊國神社……。少彦名が祭神の神社は思い当たらない。

 ちっと舌打ちした土方に、物陰から合図する者がいた。山崎だと気付いて、土方は駆け寄る。

「昨晩、屯所から外出するさんを見かけたので、後をつけました。そのご報告です」

「いいところに来た、山崎。その場所まで案内しろ」

「はい」

 うなずいた山崎は、鴨川方面へと歩き出す。途中何度か曲がり、四半刻もせずにとある神社の前に出た。

「この中です」

「案内ご苦労。このままここで待機していろ」

「はい」

 山崎を鳥居の手前に待たせ、土方は神社の境内に踏み出した。




「おや、お客はん」

 少彦名の社で、の向かいに座っていた一族の男性が、境内の人の気配に顔を上げた。

「あ……では、わたくしは奥に」

 祭神の務めを果たすのに邪魔になってはいけないと、は腰を浮かせる。社の中は神域になっていて、覗き込まれても中にいるたちの姿が見えるわけではないが、やはり気分というものがある。

だが、社の主である少彦名の一族の男性は、手でを制すると、ゆるりと首を振った。

「ああ、ちょいちゃうようや。人探しやろか」

「人探し、ですか?」

「まあ、そのうち行くやろ。それじゃ、あんたもそろそろ……」

 ばん!

 社の主が言い終わらないうちに、社の扉が乱暴に開いた。何事かと驚いて振り向くと、そこには鬼気迫る表情の土方がいた。


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