軽い足音が夜の二条城に響く。
千鶴が伝令で走り回る足音だと気付いて、は頑張っているなぁと微笑みをこぼす。一方で、自分は土方の傍に控えたまま、仕事らしい仕事もしていない。なんのためについてきたのかと、気が咎める。
実際には、土方のところにきた守護職や所司代の使いに、名前と顔をかなり知られた。それこそが土方の狙いだから、自身は知らないだけで、立派に土方の期待に応えているのだが。
松明を並べ、守護職や所司代の兵に混じって、新選組も万全の態勢で警備を敷いている。普通に考えれば、これだけ警備していれば、襲撃は考えられなかった。だからといって、気の抜けた警備をしていいと言うわけではないけれど。
物思いに沈むは、ふと風が変わったように感じて顔を上げた。夜の風に、知った気配が混じっている。
風間!?
気配の主に気付いた瞬間、は走り出した。千鶴を探さなくては。
「!?」
「申し訳ありません。お咎めは後ほど」
驚く土方にそれだけ言い残し、は千鶴を探す。
状況証拠の積み重ねからの推測でしかないが、の知る限り、風間と千鶴の接触は一度きりだ。池田屋で、千鶴は沖田と一緒にいた。風間は池田屋で沖田を負傷させている。風間が千鶴に会う機会があったとすれば、そのとききりだ。千鶴は基本的に屯所の外に出ない。
その後、が風間と顔を合わせた時、風間は千鶴のことをなにも言っていなかった。だから、油断していたのかもしれない。風間は千鶴に気付いていない、と。
千鶴を風間に会わせてはいけない。
必死に探し回り、ようやく千鶴の姿を見つける。ほっとした瞬間、風間の姿が視界に映った。風間の後ろには、天霧と不知火。どちらも、顔と名前だけなら知っている。
間に合わなかった!
悔やまれたが、落胆している場合ではない。は狐火を召還して、千鶴へと走る。
「あなたたちは……!?」
千鶴の驚愕と恐怖が混じった声が響く。風間が何か答えたようだったが、距離があることと自身の足音でわからない。
駄目だ。千鶴を風間と会話させては駄目だ。風間の目的は想像がつく。そのために、風間は無遠慮に千鶴の素性を暴くだろう。そんなふうに自分の出自を知らされていいはずがない。
そう思うが、にはこれ以上速く走れそうもない。ここに来るまでに、千鶴を探して走りすぎた。
せめて、これだけでも……!
念を込めて、は狐火を飛ばす。青白い焔は夜空に飛び散った。
「風間。姫が」
「かまわん。たかが四尾の雌狐一匹、来たところで、どうせなにもできん」
の狐火に気付いた天霧が風間に耳打ちしたが、風間は鼻であしらった。風に乗って聞こえてきた声に、は歯噛みする。鬼族よりも神族の方が上位に位置するとはいえ、外出もままならない末席の稲荷一族の姫と、鍛練を積んだ純血の鬼族の頭領では、比べるまでもないということだ。否定できない嘲りに、はぎゅっと目つきを険しくした。
「さん…っ!」
「……言っておくが、おまえを連れていくのに、同意など必要としていない」
助けを求めるようにを見る千鶴に、風間の無慈悲な声がかかる。
「女鬼は貴重だ。共に来い―――」
風間の手が千鶴に向かって伸びる。もう打てる手はないのかと思った途端、の膝が崩れ、ざぁっと地面に転がった。
その横を、人影が走り抜けていく。そして、白刃の閃光が闇を切り裂いた。
「おいおい、こんな色気のない場所、逢引きにしちゃ趣味が悪いぜ……?」
「……またおまえたちか。田舎の犬は目端だけは利くと見える」
「……それはこちらの台詞だ」
一閃で風間を退けた原田と斎藤が、それぞれ槍と刀を構えて千鶴の前に立ちはだかった。ほっとして崩れ落ちそうになる千鶴の肩を引くのは、土方の手だ。
「……下がっていろ」
そのまま千鶴を自分の後ろに押しやり、土方も刀に手をかける。
「、よく知らせてくれた」
立ち上がることさえできないほど疲労したにねぎらいの言葉をかけて、土方は風間を見据える。
「ふん……将軍の首でも取りに来たかと思えば、こんなガキ一人に一体何の用だ?」
「将軍も貴様らも、今はどうでもいい。これは、我ら【鬼】の問題だ」
「【鬼】だと?」
うっとおしそうな風間の言い草に、土方の目が細められる。風間の不遜な態度に、というよりは、聞き慣れない鬼という単語を聞き咎めたのだろう。その眼光はひどく鋭い。
原田も斎藤も、それぞれ因縁のある相手を目の前にして、闘志むき出しに対峙している。ようやく立ち上がれる程度に力が戻ったは、ふらつきながらも立ち上がり、狐火を呼び出す。
震えながらも小太刀に手をかけた千鶴に、黒い人影が寄った。山崎だ。なにやら会話した後、山崎は千鶴を連れて立ち去る。
山崎が連れて行ってくれたなら、もう千鶴の心配はいらない。は土方の援護に回ると決め、狐火を投げつける。だが、それは風間があっさりと払った。
「馬鹿が……! おまえの手に負える相手か!」
土方がの前に移動し、を背に庇う。風間に斬りかかられても、今のは防ぐことさえできない。それを察しての土方の行動だった。風間は不快気に目を眇める。
「武士気取りの田舎者が。……よくよく我々を邪魔するのが好きと見える」
「こちらの台詞だ、と言ったはずだ。……そういえば、おまえには禁門の変の時、隊士を斬り殺してくれた借りがあったな……」
「ふん……ならば俺を斬って、死者の墓前にでも報告してみるか?」
「馬鹿言ってんじゃねえ。そういう話は本人とやってくれ。……今から奴のいる所に送ってやるからよ」
言った瞬間、ぎぃん! と刃音が響く。土方の渾身の打ち込みを、風間は涼しい顔で受け止めていた。
「てめえらは、なんだってあんなガキに用がある……!」
「千鶴はおまえたちには過ぎたもの。だから我らが連れ帰る……それだけだ」
「どういう……意味だ!?」
は知っている千鶴の素性も、土方には未知のものでしかない。風間のもったいぶった物言いに、土方は困惑といら立ちを隠せない。
苛立ちのままに斬撃を繰り出す土方と、それを迎え撃つ風間。一合、二合、打合いは続き、決着はつかない。
やがて、土方の刀が風間の髪を一房払った。
「……ほう」
感嘆の声を漏らして、風間が刀を下げる。
「……何のつもりだ?」
訝る土方に構わず、風間に続いて天霧と不知火も構えを解いた。それぞれの戦闘を切り上げ、間合いを取る。
「……これ以上の戦いは無意味ですな。長引いて興が乗っても困るでしょう」
「……オレ様のこと言ってんのか? オイオイ、引き際は心得てるつもりだぜ?」
天霧の冷静な声音に、意識が冷めたのは不知火だけではなかった。
「確かに……確認は叶った以上、長居をする必要もあるまい。今日は挨拶をしに来ただけだからな」
「……むざむざ逃がすと思うか?」
落ち着いた態度で退こうとする風間に、斎藤が追いすがる。だが、風間は余裕のある物言いを改めもしなかった。
「下らん虚勢はやめておけ。貴様らはまだしも、騒ぎを聞きつけて集まった雑魚共は、何人死ぬか知れたものではないぞ」
風間の言葉は、はったりでもなんでもない。疑う余地もない事実だ。それがわかるからこそ、誰もそれ以上、風間が去っていくのを止めることはできなかった。
「女鬼はいずれ近いうちにまた迎えに来る。東国稲荷の姫、我が身が可愛いなら、余計な手出しはしないことだ」
不遜な捨て台詞を残し、風間たちは立ち去って行った。
立っているのがやっとだったは、再び脚の力が抜けてへたり込む。
「っと、大丈夫か? 」
原田が手を差し伸べてくれて、はその手にすがって立ち上がろうとする。だが、一度笑った膝は、容易に立ち直ってはくれなかった。
「無理するな」
そう言って近づいてきた土方が、あっと思う間もなく、を抱き上げる。
「。あいつらの目的、なにか知ってるのか」
知っている。そう答えようとして、は迷った。事は千鶴の素性に関わる。千鶴自身さえ知らないことを、が軽々と口外してもいいのか。
わからなくなったは、頭を振ってぎゅっと目を閉じた。
警護の任を解かれ、屯所に帰還した日のこと。
千鶴とは広間に呼び出された。居並ぶのは、試衛館派の幹部たち。あの日の事情を聴取されるのだと、なにも訊かなくてもわかった。
「どうして呼ばれたのかは、わかっているな?」
緊張したと千鶴の面持ちから、二人とも状況を察していると知れたのだろう。局長の横に座る土方が、単刀直入に切り出す。
「二条城で千鶴を狙ってきた三人組について、心当たりはねえか? 特に、千鶴。奴らなりに明確な理由があって、おまえに絡んできていたな。知っていることがあるなら、どんなことでも言え」
だが、千鶴は困惑しきった顔で小さく首を振った。が見つけるまで、千鶴は風間たちとなにか話しているようだった。だから、なにも知らないと言うような千鶴の反応に、は違和感を覚える。千鶴が自分から言わないのなら、があえて踏み込むことではないだろうと、からそこに触れることはしないけれど。
「は、どうだ? あの風間ってのと、知り合いなんだろ?」
千鶴からはなにも聞き出せそうにないと判断したのか、土方の質問がに向く。は小さく首を傾げると、言える範囲で話そうと口を開いた。
「風間は以前から、自分にふさわしい嫁を探していました。どうして千鶴ちゃんにすると決めたのか、それはわたくしにはわかりませんが、おそらくは……」
「千鶴を嫁にしよう、ってことか」
「ええ」
原田の確認に、はうなずく。緊張していた広間に、途端に呆れた空気が漂った。
「それだけのために、普通、あの警護の二条城に来るか!?」
「いや、確かに千鶴は可愛いけどさあ!」
「だいたい、求婚の仕方がそもそもなってねえだろ!」
脱力する幹部たちは、口々に駄目出しを叫ぶ。風間の意味深な【同胞】発言を知っている千鶴は、どう反応したものかと困った顔をしていたが、は「これでいい」と目配せをした。がわかっていて矛先を変えたのだと気付いた千鶴は、ほっとした顔をする。
「ん? ということは、も風間に求婚されたことがあるのか?」
「あ、そうか。あちらの事情を知ってるってことは、そういうことですよね」
近藤の気付きに、沖田が続く。隠しても仕方がないと、はうなずいた。
「西の鬼の頭領にふさわしい嫁を、ということで、縁談を持ちかけられたことがあります」
「今こうしてここにいるということは、断ったんだろう?」
井上のもったいなさそうな問いに、は苦笑いした。
「ええ。当時はまだ父が存命だったけれど、後を継ぐと決まっていたいちばん上の兄が反対したわ。鬼なんかに稲荷の姫をやれるか、と」
「うっわー、それもすげえ理由だな」
思わずこぼれた藤堂の素直な感想に、も笑いながらうなずく。
「そうよねえ。稲荷の姫なんて言っても、末席も末席、尻尾だって4本しかない、いてもいなくても同じような末娘よ。そんなに大した存在でもないのにね」
「へえ。尻尾の数って、そういう立場とかに関係あるのか」
「あるわよ。尾の数は神力の強さに比例しているの。だから、尾が多い方が神としての位が上なのよ。いちばん格が高いのが九尾ね。それで、自分のお社をもらったら、耳も尻尾もなくなるの。だから、耳と尻尾がある稲荷は、当主の従者というわけ」
「で、は尻尾が4本なのか」
「ええ。つまり、わたくしは下から数えた方が早い存在、ということね」
思わぬところで稲荷一族の格付け基準を知って、皆の目が本来尻尾があるべき場所へ向けられる。今はが変化の術で隠しているので見えないが、確かに尻尾が4本生えているのを見たことがあった。
「っつーか、おまえの兄貴、すげえな。いてもいなくても同じ妹を、相手が格下だからってだけで嫁に出さねえのか」
呆れかえる永倉に、は屈託なくうなずく。
「ねえ、すごいでしょ。おかげで、この歳でいまだに嫁の貰い手もないわ。とは言っても、いてもいなくても同じなら、あちらにしてもわざわざ頭を下げて嫁にもらう価値なんてないのだから、当然だけれど」
はころころと笑うが、言っている内容の壮絶さに気付いた永倉や井上、土方は、痛々しげに顔を歪めた。つまり、『稲荷の姫』の価値が下がるからこちらから嫁にやる気はないが、自身に『稲荷の姫』としての価値はないということだ。それは、が一生嫁に出されずに飼い殺される運命だったということにほかならない。
「じゃあ、そんな兄貴のところ、追い出てきて正解だったな」